学位論文要旨



No 217514
著者(漢字) 杉村,房彦
著者(英字)
著者(カナ) スギムラ,フサヒコ
標題(和) 日本のPTA 前史と発足過程の研究 : 親の教育参加とPTAの原理
標題(洋)
報告番号 217514
報告番号 乙17514
学位授与日 2011.05.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第17514号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 牧野,篤
 東京大学 教授 根本,彰
 東京大学 教授 影浦,峡
 東京大学 教授 大桃,敏工
 東京大学 准教授 勝野,正章
内容要旨 要旨を表示する

はじめに ― 研究の概要

近年の親たちのPTA離れを見ると、その底流に公立学校離れがある。親としての思いがわが子が在籍する学校の教育改革にではなく、わが子を私的に抱え込むことにシフトすれば、PTAに思いが及ばないのは不思議ではない。しかし、それでよいのか? 親の情愛の発現は、親の社会認識・理解の直接の函数であり、したがって時には発現が大きく歪みもする。しかし、六十有余年前、我が国でPTAがスタートしたとき、親と教師の集団化によって親たちが「私的な抱え込み」に相対し訣別していく止揚の過程が進行することを、PTAの第一の機能として予定(期待)されていたのではなかったか。

序章 ― 1960年代後半以後のPTA論

具体的な活動をイメージさせる程度にコンセンサスが練りあげられないままにPTAはスタートした。1960年代の地方財政法の改正以後、PTA財政の正常化は全国的に加速されたが、その結果、成人教育一般へのシフトが顕著になった。そのような成り行きを生涯教育論が加速した。PTAが子どもたちのための活動に回帰したのは「非行」の激増に直面してであったが、それはPTAを学校向きから地域向きへと大きく転換させることでもあった。公教育の主体は「親を中心として国民である」(判決主旨)とした1970年の「杉本判決」は、PTA以外の多様な地域教育運動を叢生させ、「親の教育権」の学的研究を制度論にシフトさせた。<親の教育権とPTA>という構えはほとんど見られない。

第1章 ― PTA前史(親の参加の歴史:明治ゼロ年代から[8・15]まで)

PTAをPsとTsのA(連帯)であると理解し、親たちが教師たちを介してわが子の教育になんらかのかかわりを持つこととするなら、PTAの前史は遠く「学制」期にまでさかのぼることができる。近代学校制度の成立(1872年)以前、寺子屋に通わせるか否かも親が決めていたから、世界人権宣言(第26条3)で謳われた<わが子の教育の種類を選択する権利>がわが国では近代以前にも、親の自然権として、もちろんそれとして自覚されずに行使されていたことになる。

訓育も陶冶も子育ての仕事がすべて"お上の学校"(公教育制度)に囲い込まれて後も、親たちはそれを肯じなかった。多くの親が自然権としての教育権を<お上の学校を選択しない権利>として行使した。それが「学制」期に激発した学校焼き打ち事件であり、その後に続いたわが子の就学拒否であった。その後、日清・日ロ戦役と産業革命の進展が、公教育にたいする親(民衆)のスタンスを積極的受容へと変化させた。選択権の affirmativeな行使である。選択権がふたたびnegativeに行使されたのは、大正期「新教育」運動と系譜を異にして大正末期に生まれかかった「木崎農民小学校」(新潟県)においてであった。木崎村の親たちは"お上の学校"を拒否し、彼ら農民が納得できる学校を設立しようとしたが、それは親の教育権の行使を、選択権としてのそれから教育創造権としてのそれへと高めたことにおいて画期的であった。

親はただ天皇に帰一する教育にわが子を委ねるだけの「昭和ファシズム」期に、「どっこい親ごころは生きていた」。「わが子は天皇からおあずかりしている」という子ども観を親は強制されたが、依然としてたとえば「私の子の成績が・・・」と、天皇を他所に、親としての情愛をわが子に振り向けていた。強権的な教育行政でさえ「わが子が第一」を打ち壊すことができなかった事実は、PTA論と実践をどこから構築し始めるかを教えている。

第2章 ― 戦後-「参加」の模索と一つの収斂:公選制教育委員会

敗戦直後の教育行政の混沌はとは別に、公教育へのボトムアップの参加(=関与)をめぐって二つの流れが生まれていた。一つは、ことを国政レベルに持ち込む国民教育運動 → 政策・行財政転換に要求が絞られる運動の系列である。 しかしそこには素朴な親の思いは見えないし、「親」の参加も不分明である。もう一つの流れが敗戦直後の子どもたちの生活と教育の破綻を目の当たりにして、「とにかく子どもたちをなんとかしなければ」という、親と教師の自然発生的な現場からの取り組みである(後援会的活動は「背に腹かえられない」との親心の発現であった。だから教育的価値のある後援活動も生み出されている)。文部省も親・国民の教育参加を大胆に措置した。この第二の流れを直近の前史として、PTA設立の勧奨行政が「教育の民主化」を標榜して始まる。

GHQ、地方軍政府、文部省三者の指導の齟齬を抱えたままに、旧親組織の解体→PTAの新設が急ピッチで進められ、反動派が「教育の民主化」を阻止すべく行動する余地を残した。反動派はその後、アメリカの極東政策の変化による教育の「逆コース」への切り換えとそれに直接連動したPTA行政によって、各地で始まったPTAらしいPTAをつくる努力(第4章1節の「PTA遺産」の数々)を潰えさせていった。

第3章 ― 発足当時のPTAに期待された二つの役割

GHQと文部省には、親の参加と教師の専門性とのかかわりについての確たる見地がなかった。GHQ/CIEの指導を受けて作成→配布された文部省『父母と先生の会 -教育民主化の手引』の内容は退嬰的であり、学校教育への親およびPTAの参加については制限的・否定的だった。加えて各地方軍政府の担当官の恣意的な指導が行なわれたから、地方自治体のPTA勧奨行政は混乱し、単位PTAは方向にとまどった。親およびPTAの学校教育(内的事項)への関係の如何が問われることになったが、親のかかわりとPTAのそれが混線したまま論じられたし、親の教育権の行使と教師の専門的な判断との合理的な調整をはかる仕組みとしてPTAを機能させる具体的な工夫も、課題として残った。

ところでまもなくアメリカの極東戦略の変化に連動して面従腹背組みが復権し、文部省の教育政策を180度転換させ、PTAの体制団体化が急ピッチで進められた。しかし他方、昭和二十年代後半から三十年代前半にかけての社会運動・平和運動の未曾有の高まりに連動して、母親運動の大きな盛り上がりと教育運動の新たな動きが生まれ、このような条件がPTAに愛想を尽かした親が→地域の教育運動に参加し→そこでPTAの必要性を改めて知り→PTAに回帰するという流れが生まれている。

第4章 ― PTA遺産 発足当時の「PTAらしい」活動と言説

産みの苦しみのなかから貴重なPTA遺産が多彩に生まれている。外向きの取り組みに注目すべき事例が少なくない。米軍基地問題への取り組み、「特飲街」設置反対運動、学校給食継続要求運動など、わが子への思いから子どもたちみんなの問題へと親たちの理解と覚悟は発展し、やがて他のPTAにも連帯の輪が広がり、その力で対行政・対業者の要求運動を展開する。「その地域における社会教育の振興をたすける」(文部省『参考規約』第2条)事例は少なくないが、地域の旧い支配体制を崩していったケースこそ、連合国がPTAに期待した日本社会の構造改革としての「民主化」の眼目であろう。

「わが子の学校の管理・運営への参加」について、弓削小学校(京都)の「親の前での職員会議」の事例がある。類似した島村小学校(群馬県)の取り組みは、親の思いを教師(学校)に「非強制的に受容」させるだけでなく、話し合いの過程で親たちの認識や理解を是正し客観化していくという効果を上げている。しかし、ようやく出版点数が激増するPTA論では、PTAと親の学校参加についての見解は対立的に分かれている。

終章 PTA改革への遺産と課題

「学制」以来の公教育史にわが子への親の思いを照射すると、それは教育をめぐる<私事性>と<公共性>の二つの原理のせめぎ合いの歴史であった。戦前・戦中においては親が私事性で公教育に相対することは、とりわけ「昭和ファシズム」期に入ってからのそれは、客観的には「正」の価値の標榜となった。しかし、「8・15」→憲法・教育基本法体制の成立によって、「公共性」の概念が、私事性を包み・超えるものとして認識されるようになって以後、新しい公共性の概念を顧慮せずにわが子を私的に抱え込むことは、もはや客観的には「正」を標榜できなくなった。

親には自然権としてわが子の教育についての権利(right to education)がある。しかし、その権利に優先性を法定すれば、わが子やその他の子どもたちの教育を受ける権利を毀損する濫用になりかねない。公教育制度において親の権利の優先性を前提しながら、それが濫用とならずに行使されるにはどうすればよいか。親の要求(教育権の行使)に内在する正と負のジレンマ=私事性と公共性のからみを解決するために、PTAを活用できないか -5節で「親を公教育の共同主体にするPTAならではの方法」を叙述する。

補論I 「親の教育権」研究の現状と課題

画期的とされる「杉本判決」(家永三郎・第二次教科書訴訟第一審判決・1970=昭和45年7月17日)は、教育権研究に大きな課題を提起したことでも注目される。公教育の主体を「親を中心として国民全体である」とする判旨は多義的な理解にならざるを得ない。「教育する責務(教育権あるいは権限)」を担っている「国民全体」の各部分が、公教育への「権能」を「親を中心として」どのように分担・行使するのかの究明は、司法の場から学問研究の場へ今後の研究課題として移されたからである。

「権能」の分担・行使の 第一の難題は親と教師の間にある。親はわが子のために十全な学校教育を期待するが、実際にわが子を教えている教師の権能が時として負(と親は思う)に働くこともある(「負」の因が政策・行政にある場合でも個々の教師を通して顕現する)。そのとき親は自らの教育義務を「親の教育権」としてとらえなおして教師に相対する。しかし、ここで教育にシロウトの親は学校の教育方針や教師の授業等への、いわんやまして教員人事についての口出しはタブーという通念が立ちはだかる。

他方、教師サイドからの実際的難問題として、教師は親の教育要求(felt needs)に専門的知見をどこまで対置できるか、端的にいえば、教師は子どもの教育を受ける権利を理由に、その親の間違った要求を拒否できるのかという問題がある。兼子仁はILO・ユネスコの「教員の地位」に関する勧告67項を裏付けに教師の専門性の優先性を説き、もし「教師に教育専門的判断を求める(親の)権利」の行使が入口でシャット・アウトされた場合、「やむをえない最後的手段として…訴訟を提起することもありえよう」と親にも目配りするが、<PTAと親の教育権>というSchemaは訴訟に踏み切る前の段階でことを解決する手順を意味しているのである。親の要求がわが子の十全な教育をうける権利を毀損していないか、他の子どもたちの教育をうける権利とその親たちの教育権を侵犯していないか、について教師と親たちとの議論を経て束ねる(=集団化)ことが不可欠の前提である。

補論II 学校教育の原理 と 親および住民の参加

概して教師は親の参加に不熱心である。しかし、教育は<形成>の統御である。子どもたちが家庭や地域(社会)で日々重ねている<形成>の過程を第一次的に担っている親と住民との連携が教師(学校)の前提的な課題となってくる。

実際、子どもの<形成>の過程を現に支配している生活文化・親の教育意識の階層性を抜きにして、子どもの学力と人格の発達を促すことはできない。そのような親たちに教師はどのように相対するのか - 戸塚廉のいう「親たちは教えて教わる、教師は教わって教える」関係を、親と教師の双方から相たずさえて創ること、そのもっともprimitiveな仕組みが、たとえば「総合的な学習の時間」など学級の教育実践への親たちの参加・協力であり、あるいは日常的な参加・協力のしくみとして学級PTAが有効である。それらの実践はコミュニティ・スクール創建への指向を内在させている。全国を俯瞰すれば、カオスといってよい「コミュニティ・スクール」ブームの中に「本格始動か」といってよいすぐれた実践も生まれている。それらにヒントを得て日本の教育の改革提言として"新しいコミュニティ・スクール"構想を述べる。それは学校教育のパラダイムの転換を促し、親および住民の「教育主体」としての意味を教育権論を超え教育の原理論から問うものである。

審査要旨 要旨を表示する

教育の私事性が過度に強調され、公立学校離れが加速している。PTAが本来持つべき、親の教育へ私的要求が、親と教師の集団によって公共性へと実現されていく機能の衰弱にもそれは現れている。本論文は、PTAの前史と発展過程を、著者の50年以上にわたるPTAを巡る実践と研究を基礎に問い返し、PTA復権の論理を導こうとする試みである。本論文の構成と内容は以下の通りである。

序章「1960年代後半以後のPTA論」では、従来PTAは社会教育の領域に置かれ、参加論・運動論的な視点から考察されてきたが、「親の教育権とPTA」という視点が欠けており、権利論以前にある親の子どもへの思いは等閑視されていたと指摘される。

第1章「PTA前史」では、戦前期の学校と親との関係が前史に置かれ、「学制」期の学校焼き討ち事件や大正期の木崎農民学校の運動など、親の子どもへの思いから発する教育選択と創造の動きが、PTA論と実践を構築する起点に据えられる。

第2章「戦後ー「参加」の模索と一つの収斂」では、戦後改革期には、教育の政策・財政的な要求運動である国民教育運動と、子どもの生活の現状と教育の破綻を前にした親と教師の現場での取り組みの2つの参加論があり、第二の動きを直近の前史としてPTA設立の行政的動きが生まれるが、戦後改革の変質により官製PTAへと回収されたという。

第3章「発足当時のPTAに期待された二つの役割」では、PTA設立の過程では、GHQも文部省も親の参加と教師の専門性との関係について確たる考えを持たず、教師の専門性が親の私的要求を公共性へと組み換えるPTAの機能を曖昧にしてしまったと指摘される。

第4章「PTA遺産 発足当時の「PTAらしい」活動と言説」では、社会運動の中で親の我が子への思いが子どもたちへの思いへと発展することで、PTAを基盤とした親の連帯が生まれ、民主的な社会の創造への動きが作られたこと、この過程で多彩なPTA実践・言説の遺産が残されたことが示される。

終章「PTA改革への遺産と課題」では、「学制」以来の公教育の展開過程は私事性と公共性のせめぎ合いだが、本来善であるはずの親の私的要求が公共性と齟齬を生じ、結果的に子どもの教育を受ける権利を毀損してしまう現実に対して、PTAが持つべき両者の止揚の論理が提示される。

補論I「「親の教育権」研究の現状と課題」では、親の教育権を構成する私事性を他の親の私事性との間で認め合う場としてのPTAが考察され、補論II「学校教育の原理 と 親および住民の参加」では、学校が親の生活文化や意識の階層性を無視して、子どもを教育することは不可能との視点から、PTAを舞台にした親と教師との共同、地域住民との連携を見据えた「教育主体」の形成が検討される。

本論文は、著者の長きにわたる実践と経験に基づき、日本におけるPTAの歴史を著者の同時代史として辿りながら、親の教育権(私事性)と教師の専門性が相互に媒介することで私事性を公共性へと組み換える契機をPTAに見出そうとする独創的なものであり、公立学校のあり方を問い返す実践的・理論的な意義の高いものである。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するにふさわしい水準にあるものと判断された。

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