学位論文要旨



No 217417
著者(漢字) 長尾,健児
著者(英字)
著者(カナ) ナガオ,ケンジ
標題(和) ラットにおける必須アミノ酸恒常性維持機構に関する研究
標題(洋) A Study on Homeostatic Regulation of Essential Amino Acids in Rats
報告番号 217417
報告番号 乙17417
学位授与日 2010.10.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第17417号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 特任教授 加藤,久典
 東京大学 准教授 高橋,伸一郎
 東京大学 准教授 山内,啓太郎
内容要旨 要旨を表示する

「生物が食物を摂取し栄養にする」という行動には、エネルギー源の獲得、及び体を構成する材料の獲得という二つの目的があると言える。例えば、タンパク質は体を構成する基本的な材料であり、タンパク質を構成するアミノ酸は外部から獲得するか生合成することにより安定供給されなければならない。多くの微生物や植物は、然るべき窒素源の存在下で全てのタンパク質構成アミノ酸を生合成することが可能であり、必要に応じて自身でアミノ酸を供給する能力を持つ。一方動物は、進化の過程で約半数のタンパク質構成アミノ酸を生合成する能力を放棄し、代わりに動き探索し、いわゆる必須アミノ酸として食物から摂取する道を選択した。肉食動物であれば、自身と食物中タンパク質の平均的アミノ酸組成がほぼ一致するので、理論上、食物さえ得られれば必要なアミノ酸を安定供給することが可能である。また、牛などの反芻草食動物はルーメン内の細菌が合成する必須アミノ酸を細菌ごと取り込むことで必要なアミノ酸を安定供給できる。しかし、非反芻草食動物やヒトを含む雑食動物では、植物の種子(穀物)など必ずしも動物のタンパク質の平均的アミノ酸組成と一致していない食物を大量に摂取することがあるため、単純にエネルギーが満たされたという「満腹」のような情報のみで摂食量が決められていると、必要なアミノ酸が十分に補えない可能性が生じる。したがって、必須アミノ酸の供給を食物に仰いだ時点から、必要なアミノ酸の安定供給を担保するアミノ酸組成恒常性維持に関する何等かの機構が成立しているはずである。

本論文は、食物中アミノ酸の不足、欠乏がもたらす代謝的適応、摂食行動に関する適応を明らかにした上で、それらが動物の特徴的行動である「動く」ことによりどのように影響されるのかを探り、それらを通じてアミノ酸恒常性維持機構の実態に迫ることを目的とした。本論文は三つの章から成り、第一章で必須アミノ酸欠乏時に特有の代謝状態を明らかにし、第二章でエネルギー要求とアミノ酸の恒常性維持に対する要求が背反した場合の摂食行動に関する適応を明らかにした。第三章では個体の運動強度の違いに由来する代謝速度の違いがアミノ酸利用効率にどう影響し、代謝的適応、摂食行動に関する適応がどのように変化するのかを探った。

まず第一章では、必須アミノ酸欠乏飼料を継続的に摂取することにより生じる欠乏症状を明らかにした。げっ歯類は、食物中の必須アミノ酸が1つでも欠乏していると脳の前梨状皮質によってそれを感知し、摂食行動を止め、アミノ酸バランスのより良い食物を探索する行動に移ることが報告されている。これは食物のアミノ酸組成が満たされない場合の行動的対応を論じたものであるが、これ以外にも恒常性を維持する方法としては、生体内のアミノ酸、あるいはタンパク質代謝を変化させることによる適応があることが十分に考えられる。しかしながら、このような観点からの追究は従来必ずしも多くない。9週齢のWistar ratに4週間リジン、あるいはバリンのみが欠乏した飼料を与え肝臓中のアミノ酸濃度を測定すると、セリン、スレオニン濃度が通常の数十倍にまで上昇することが明らかになった。セリン合成酵素、セリン、スレオニン代謝酵素の肝臓におけるmRNA発現量の変化から、セリン合成速度上昇、及びセリン、スレオニン代謝速度低下がその原因であると考えられた。必須アミノ酸欠乏飼料摂取により、恒常的に体タンパク質分解が惹起されることが報告されており、欠乏しているアミノ酸はそこから遊離されるアミノ酸により補われるが、残りの19種類の非欠乏アミノ酸は生体にとっては過剰なものとなる。過剰となったアミノ酸は通常、尿素回路により尿素に変換され体外に排出されるが、必須アミノ酸欠乏飼料摂取時には一部がセリン、スレオニンの状態で主に肝臓に集積され、尿素回路の負担が軽減されているものと考えられた。これはアミノ酸インバランスに対する適応現象の一種である可能性が高い。

第二章では、エネルギー要求とアミノ酸の恒常性維持に対する要求のクロストークについて調べた。必須アミノ酸獲得と並んで、エネルギー獲得は動物の摂食行動の大きな目的である。おそらく肉食動物ではこれらは同義になるものと考えられるが、ヒトを含む雑食動物、そして非反芻草食動物では、アミノ酸恒常性とエネルギー恒常性を維持する機構は、強い相互作用を持ちつつも明確に独立して存在している可能性が考えられる。実際、ある種の肉食動物では、タンパク質や必須アミノ酸が欠乏している実験食を与えても摂食し続けることが報告されているが、ラットでは、必須アミノ酸欠乏飼料に対してはエネルギー獲得を犠牲にした明確な摂食拒絶行動が発現する。これまでエネルギー獲得の観点から摂食調節機構の研究は幅広くなされているが、アミノ酸恒常性維持機構との関係についての研究は驚くほど少ない。8週齢のWistar ratにバリン欠乏飼料を1週間与えると、摂食亢進ペプチドである血中グレリン濃度が、通常ラットの1日絶食時と同等にまで上昇したが、摂食量は依然として低いままであった。さらにグレリンを腹腔内投与しても摂食量は増加せず、バリン欠乏飼料はラットに末梢の"グレリン抵抗性"を惹起することが示された。摂食亢進ペプチドであるグレリン、neuropeptide Y (NPY)、agouti-related protein (AGRP)は視床下部を介してその機能を発現する。このグレリン抵抗性ラットの脳室内にグレリンあるいはNPY、AGRPを投与すると、グレリン、NPY投与によりある程度の摂食亢進が見られるものの、AGRP投与による摂食促進効果は見られず、食餌中の必須アミノ酸のインバランスは脳内で摂食亢進ペプチドに由来する情報伝達を阻害していることが始めて明らかにされた。これはアミノ酸の恒常性に対する要求が、エネルギー恒常性に対する要求を上回っている状態であると理解される。中枢でエネルギー恒常性を司っている機構とアミノ酸恒常性を維持している機構は視床下部、あるいはその下流の何れかの階層で相互作用しているはずである。その具体的な接点となる分子を明らかにすることは、様々な基礎的な研究のベースとなり、応用展開への基盤となるものである。例えば、拒食症やガン治療、その他疾患に伴う食欲不振時には、摂食促進の目的でグレリンを注射することがあるが効果が出にくい。疾患に由来する生体内のカタボリックな状態が体内のアミノ酸バランスを乱していることが"グレリン抵抗性"の原因なのかも知れず、その分子メカニズムを明らかにする必要がある。

第三章では、運動による代謝変化と必須アミノ酸欠乏症状の関係について調べた。運動のモデル系としてラットのケージ内に自発走行可能なホイールを設置した。これによりラットは1日の夜間に数キロの距離を自発的に走行するようになり、結果として強度の運動が負荷されて骨格筋、心筋などでタンパク質代謝が変化することが報告されている。そもそも動物は「動く」ことを特徴にしているが、運動は体内のタンパク質の代謝回転を大きく変化させることが報告されている。一般に、運動強度が高まるとタンパク質の代謝回転は速くなる。生体のタンパク質中のアミノ酸の量は、遊離アミノ酸プールに存在するものより10,000倍以上多く、何等かの理由によりタンパク質の代謝回転が少しでも変動すれば、遊離アミノ酸プールには多大な影響が及ぼされることは想像に難くない。即ち、運動強度の異なる個体間ではアミノ酸プールの恒常性維持機構が異なり、獲得しなければならない必須アミノ酸の量が異なる可能性がある。前述したように、非走行ラットにリジン欠乏飼料を4週間与えると肝臓中のセリン、スレオニン濃度が通常の数十倍に上昇したが、走行させることによりこれらの上昇が半分以下にまで抑制された。また走行運動はリジン欠乏による摂食拒絶行動の発現も抑制した。ヒラメ筋中のアミノ酸濃度を測定すると、食餌に由来するリジン濃度の低下が走行運動により有意に回復しており、また、ヒラメ筋中の他の必須アミノ酸、血中インスリン濃度の低下も回復した。その結果タンパク質合成が促進され、リジン欠乏飼料摂取条件下でも、自発走行運動によるヒラメ筋重量の有意な増加が認められた。走行運動によるタンパク質の代謝回転の加速がアミノ酸の利用効率を高め、体内の利用可能なリジンプールを増加させているため、肝臓中にセリン、スレオニンを集積する必要が無く、また摂食行動も許容されている可能性が考えられた。ラットの自発走行運動は食物中のアミノ酸を効率良く利用できる代謝調節系を成立させると言える。げっ歯類の中には、走行によりアミノ酸バランスの悪い植物性食物に依存し得る枠組みを作り出していたものがいる可能性も考えられる。言い換えれば、多くのエネルギーを費やす夜間の走行運動は、リジンが不足している穀物類を主食とし得る適応戦略である可能性がある。この結果をヒトに外挿すると、現代の平均的ヒトはほとんど運動しないことで、アミノ酸欠乏状態に対する抵抗性が大きく減弱している可能性もある。

本論文は、必須アミノ酸欠乏時には肝臓にセリン、スレオニンを集積するという代謝的適応が生じ、摂食行動についても末梢のグレリン、中枢のAGRPに対する抵抗性が惹起され摂食拒絶行動が発現するという適応現象が存在することを始めて見出した。またこれらの現象は、個体の日常的な運動強度の違いに強く影響され、走行運動がこれらの必須アミノ酸欠乏症状を減弱させる方向に作用するという結果は、動物のアミノ酸恒常性維持機構を考える上で特筆すべき結果であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

タンパク質は体を構成する基本的な材料であり、タンパク質を構成するアミノ酸は外部から獲得するか生合成することにより安定供給されなければならない。多くの微生物や植物は、然るべき窒素源の存在下で全てのタンパク質構成アミノ酸を生合成することが可能である。一方動物は、進化の過程で約半数のタンパク質構成アミノ酸を生合成する能力を放棄し、いわゆる必須アミノ酸として食物から摂取する道を選択した。したがって、必須アミノ酸の供給を食物に仰いだ時点から、必要なアミノ酸の安定供給を担保するアミノ酸恒常性維持に関する何等かの機構が成立しているはずである。本論文は、食物中アミノ酸の欠乏がもたらす代謝的適応、摂食行動に関する適応を明らかにした上で、それらが動物の特徴的行動である「動く」ことによりどのように影響されるのかを探り、アミノ酸恒常性維持機構の実態に迫ることを目的とした。本論文は三つの章から成り、第一章で必須アミノ酸欠乏時に特有の代謝状態を明らかにし、第二章でエネルギー要求とアミノ酸の恒常性維持に対する要求が背反した場合の摂食行動に関する適応を明らかにした。第三章では個体の運動強度の違いに由来する代謝速度の違いがアミノ酸利用効率にどう影響し、代謝的適応、摂食行動に関する適応がどのように変化するのかを探った。

第一章では、必須アミノ酸欠乏飼料を継続的に摂取することにより生じる欠乏症状を明らかにした。9週齢のWistar ratに4週間リジン、あるいはバリンのみが欠乏した飼料を与え肝臓中のアミノ酸濃度を測定すると、セリン、スレオニン濃度が通常の数十倍にまで上昇することが明らかになった。セリン合成酵素、セリン、スレオニン代謝酵素の肝臓におけるmRNA発現量の変化から、セリン合成速度上昇、及びセリン、スレオニン代謝速度低下がその原因であると考えられた。必須アミノ酸欠乏飼料摂取により、恒常的に体タンパク質分解が惹起されることが報告されており、欠乏しているアミノ酸はそこから遊離されるアミノ酸により補われるが、残りの19種類の非欠乏アミノ酸は生体にとっては過剰なものとなる。過剰となったアミノ酸は通常、尿素回路により尿素に変換され体外に排出されるが、必須アミノ酸欠乏飼料摂取時には一部がセリン、スレオニンの状態で主に肝臓に集積され、尿素回路の負担が軽減されているものと考えられた。

第二章では、エネルギー要求とアミノ酸の恒常性維持に対する要求のクロストークについて調べた。8週齢のWistar ratにバリン欠乏飼料を1週間与えると、摂食亢進ペプチドである血中グレリン濃度が上昇したが、摂食量は顕著に低下していた。さらにグレリンを腹腔内投与しても摂食量は増加せず、バリン欠乏飼料はラットに末梢のグレリン抵抗性を惹起することが示された。摂食亢進ペプチドであるグレリン、neuropeptide Y (NPY)、agouti-related protein (AGRP)は視床下部を介してその機能を発現する。このラットの脳室内にグレリン、NPYあるいはAGRPを投与すると、グレリン、NPY投与によりある程度の摂食亢進が見られるものの、AGRP投与による摂食促進効果は見られず、食餌中の必須アミノ酸のインバランスは脳内で摂食亢進ペプチドに由来する情報伝達を阻害していることが明らかになった。これはアミノ酸の恒常性に対する要求が、エネルギー恒常性に対する要求を上回っている状態であると考えられた。

第三章では、運動による代謝変化と必須アミノ酸欠乏症状の関係について調べた。運動のモデル系としてラットのケージ内に自発走行可能なホイールを設置した。前述したように、非走行ラットにリジン欠乏飼料を4週間与えると肝臓中のセリン、スレオニン濃度が通常の数十倍に上昇したが、走行させることによりこれらの上昇が半分以下にまで抑制された。また走行運動はリジン欠乏による摂食拒絶行動の発現も抑制した。ヒラメ筋中のアミノ酸濃度を測定すると、食餌に由来するリジン濃度の低下が走行運動により有意に回復しており、また、ヒラメ筋中の他の必須アミノ酸、血中インスリン濃度の低下も回復した。走行運動によるタンパク質の代謝回転の加速がアミノ酸の利用効率を高め、体内の利用可能なリジンプールを増加させているため、肝臓中にセリン、スレオニンを集積する必要が無く、また摂食行動も許容されている可能性が考えられた。

以上、本論文は必須アミノ酸欠乏時には肝臓にセリン、スレオニンを集積するという代謝的適応が生じ、また末梢のグレリン、中枢のAGRPに対する抵抗性が惹起され摂食拒絶行動が発現するという適応現象が存在することを見出した。またこれらの現象は、個体の運動強度に強く影響され、走行運動がこれらの必須アミノ酸欠乏症状を減弱させる方向に作用することが明らかとなった。これらの知見は動物のアミノ酸恒常性維持機構を考える上で特筆すべき結果であると考えられ、学術的、応用的意義は少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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