学位論文要旨



No 217305
著者(漢字) 西本,晴男
著者(英字)
著者(カナ) ニシモト,ハルオ
標題(和) 土砂移動現象及び土石流の呼称に関する変遷の研究
標題(洋)
報告番号 217305
報告番号 乙17305
学位授与日 2010.03.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第17305号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,雅一
 東京大学 教授 永田,信
 東京大学 教授 酒井,秀夫
 東京大学 准教授 芝野,博文
 東京大学 准教授 大手,信人
内容要旨 要旨を表示する

本研究は,土砂災害を防止軽減するための基礎的研究として,土砂移動現象を表現する際に使用される呼称について、呼称の成立過程,呼称間の意義の関係及び呼称の変遷と時代的背景や国民の認識の変化との関係について考察したものである。

日本は,急峻な山地や丘陵地が7割を占め,地震,火山噴火,梅雨期・台風の大雨などの自然条件から,土砂災害に対して脆弱な条件を有しており,土砂災害により毎年人命・財産に多大の被害が発生している。全国に約52万ヶ所ある土砂災害危険箇所に対して、砂防施設の整備のみの対処には限界があり,行政や専門家と一般住民が協働する警戒避難体制の確立によるソフト対策が重要である。これまでの住民やマスコミとの対応の経験から,土砂移動現象に関する研究成果を適切に伝える際や、集中豪雨時に土砂災害の危険度を分かりやすく説明する際には,土砂移動現象の呼称の使用の方法が聞き手の理解を得るために極めて重要な位置を占めていると考える。一般的には現象の呼称は研究の深化に伴い細分化された用語として成立していく。このような視点に立って土砂移動現象の呼称について研究した事例はこれまでにない。このため、本研究は冒頭に述べた考察により,土砂移動現象の呼称に対する理解が研究、行政、一般社会のどのレベルにあるかをふまえた対応のあり方と,関係用語の伝播の特性についての知見を得ることにより、土砂災害防止軽減に資することを目的とするものである。

第1章で既往研究の論点を整理するとともに,研究を進めるための方向性を示した。

第2章では,本研究で対象とする土砂移動現象はマスムーブメントの概念のものであることを示すとともに、近年の土砂移動現象の研究では土石流に関するものが多く,その中ではソフト対策に関するものが増加していることを示した。また土砂移動現象によって生起する土砂災害の実態と対策の現状ついて整理し,土砂災害軽減対策の方向性についてまとめた。

第3章では,土砂移動現象に関する呼称の変遷について,古代から江戸時代までの状況については古文書を,明治時代以降については研究論文を分析し、「山崩」という用語は古代から存在し,江戸時代には「山津波」などが使用されはじめ,明治時代からは研究の深化と共に現象の呼称が細分化したことを示した。明治時代以降の国語辞典で土砂移動現象の呼称の推移を考察し,「山崩」,「山津波」は明治時代に,「山潮」,「地すべり」,「泥流」,「押出し」は大正時代から昭和時代初期に,「土石流」,「鉄砲水」は昭和時代後期に出ていることを明らかにした。さらに「地すべり」は明治時代末から大正時代に使用されるようになったことと,山崩の方言は複数の系語に分類し分布特性をみると「ぬけ」の入った言葉が最も広く分布していることを明らかにした。

第4章では,土砂移動現象により生起する災害の総称である「土砂災害」の成立過程について行政,研究の両分野から分析し,1960年から「土砂害」,1977年から「土砂災害」の使用が始まったことを示した。また類似用語である「山地災害」は「土砂災害」とほぼ同じ意味を持ち,「地盤災害」は平地の地盤の災害と地すべり,土石流まで含めた広い概念であることを示した。

第5章では,土砂移動現象のなかでも人命・財産への直接的影響の大きい「土石流」について考察した。一般社会,言語,行政,研究の各分野における呼称の変遷について,文献,新聞報道記事,国語辞典,行政文書,古文書等の調査により,社会的背景との関係,土石流関係用語の相互関係,海外での呼称の状況について考察し次の事を明らかにした。1)土石流現象を表現する用語として,「山津波」と「山潮」が江戸時代から使用されていた。2)土石流の研究は,明治時代中頃から行われており、「山抜」,「暴流」,「砂流」,「泥流」及び「押出」が明冶時代から使用されていた。3)「山津波」は,土石流現象の実態が分っていなかった時代に,迫り来る土石流の様子を津波のイメージと捉えられ,その感覚を表現した用語であると考えられる。4)「土石流」は、1916年に諸戸北郎が創案したと考えられる。ドイツ語Murgangの翻訳語である可能性がある。5)国語辞典において土石流に関する用語が見出し語と扱われた年次は,「山崩」1888年,「山津波」・「山抜」1889年,「山潮」1921年,「蛇抜」・「押出」・「泥流」1935年,「鉄砲水」1969年,「土石流」1981年である。6)「山津波」は,「土石流」が一般語化する1975年頃まで,土石流現象を表す代表的な用語として使用されていた。7)新聞報道記事における使用状況、国語辞典での用例から,「山潮」は山口県と九州地方で限定的に使用されていた用語である。8)1970年に土石流が初めてビデオカメラに捉えられて以降,土石流現象が一般の人々にも徐々に知られるようになり,新聞報道記事、災害碑等の碑文および文芸作品の用語使用状況から,1975年頃には「土石流」という用語に対する一般国民の認知度が高まっていたと考えられる。1975年頃以降は,「土石流」が全ての分野で主に使用されている。9)砂防行政においては,1958年に「土石流」を使用した文章を中期計画に盛り込み,1966年の山梨県足和田災害の直後には「土石流」を使用した通達を出している。1982年の長崎大水害の直後にはハード・ソフトの総合的な対策の実施について,名称に「土石流」を使用した通達が初めて発出されている。10)「土石流」という用語が成立してから行政や一般社会で使用されるまでタイムラグがあるのは,自然災害とその社会的影響度との関係,防災行政の中における土砂災害の比重などの時代的背景が関係していると考えられる。11)1991年の雲仙普賢岳噴火災害におけるマスコミ報道により,「土石流」という用語は多くの日本人に認知されるところとなった。12)海外の土石流の呼称については,19世紀から砂防工事を積極的に実施していたフランスとオーストリアには,それぞれ土石流現象を表現する単語として,フランス語ではlave,ドイツ語ではMureとMurgangが存在している。また,英語ではMud flowよりDebris flowが一般的である。

第6章では,「鉄砲水」の語源は,林業における運材法の一つである「鉄砲堰」あるいは「鉄砲(流し)」である可能性が大であり,これは鉄砲堰から放出される流水の態様と自然現象としての鉄砲水の態様との相似性にもとづくものと考えられることを示した。また,「鉄砲水」は1960年頃から1990年頃には,「土石流」や「山津波」と同義語として,あるいは急激な洪水や土石流を包含する用語として使用されていたが、1990年頃以降は,概ね山地・中山間地の河川や渓流で発生する突然の出水・増水を意味する用語として使用されていることを明らかにした。

第7章では, 火山砂防関係の呼称として,「火山泥流」,「泥流」及び「土石流」という用語について次の事を明らかにした。1)火山学分野では,1970年代まで岩屑流など水を含まない現象も含めて噴火で流出する火砕物やその堆積物を「泥流」と呼んでいた。2)「火山泥流」は,火山地域で発生する「泥流」を非火山地域で発生する泥流と区別するため,1927年に火山学者が初めて使用した。3)砂防学分野では,火山地域で発生する土石の流れを、「土石流」や「泥流」と呼んできたが,1989年から噴火で一次的に発生する現象を「火山泥流」と呼んでいる。4)火山学分野では,「火山泥流」と「泥流」を発生原因に無関心に使用してきたが,近年は総称的呼称として「火山泥流」や「ラハール」を使用し,その前に一次的現象は「一次」を、二次的現象は「二次」を付けて表現している。5)火山防災マップでは,火山噴火で一次的に発生する現象を「火山泥流」とし,二次的に発生する現象を「土石流」としているものが多く,一部に用語の混乱もみられる。6)防災用語としては,噴火で一次的に発生する現象を「火山泥流」、噴火後の降雨で二次的に発生する現象を「土石流」または「泥流」と呼ぶことが妥当である。

第8章では,土砂移動現象の呼称の変遷に関する総合的考察を行った。一般社会と研究分野での用語の使用変遷に年次的相違があること,用語の成立過程としては,俗語的なもの,研究由来のもの,行政由来のもの,産業用語由来のものなど様々であること,用語の意義は研究の深化と用語の細分化により変化していくこと,用語の細分化体系においては前身的用語があるもの,ないものがあることなどを示した。これらをふまえ,土砂移動現象の用語が現在において研究,行政,一般社会のどのレベルまで認識されているかの視点から,「深層崩壊」,「石礫型土石流」など研究者間のみで使用されているもの,「土石流」,「地すべり」など一般社会で広く認識されているものなど様々であることを明らかにした。また,用語の伝播には「土石流」や「地すべり」のように研究→行政→一般社会と普遍性のあるものと,俗語として発生した「山崩」や「山津波」,産業用語由来の「鉄砲水」のように個別性のあるものがあることを示した。

したがって,理学的・工学的研究の深化に伴う土砂移動現象解明の成果や防災対応を一般国民に効果的に伝える際には,用語が認識されているレベルとその用語の伝播の特性を十分に考慮することが必要であり,用語の解説を適宜付加することが重要である。本研究で得られたこれらの知見が,土砂移動現象に関する研究成果を一般に説明する際に生かされることが期待される。

以上の内容を要約したものを結言とした。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、土砂災害の防止軽減のために、砂防施設の整備のみの対処には限界があり、行政や専門家と一般住民が協働する警戒避難体制の確立による対策が重要であることをふまえて、土砂移動現象の各用語に対する理解が研究、行政、一般社会のどのレベルにあるかを明らかにし、関係用語の伝播の特徴についての知見を得ることにより、土砂災害防止軽減に資することを目的としている。

第1章で既往研究の論点を整理するとともに、研究を進めるための方向性を示した。

第2章では、本研究で対象とする土砂移動現象はマスムーブメントの概念のものであることを示し、近年の土砂災害研究においては土石流に関するものが多く、その中ではソフト対策に関するものが増加していることを示した。また土砂移動現象によって生起する土砂災害の実態と対策の現状ついて整理した。

第3章では、土砂移動現象に関する呼称の変遷について、古代から江戸時代までの古文書を、明治時代以降については研究論文の題目を分析し、「山崩」という用語は古代から存在し、江戸時代には「山津波」などが使用されはじめ、明治時代からは研究の深化と共に現象の呼称が細分化したこを示した。明治時代以降の国語辞典では、「山崩」、「山津波」は明治時代に、「山潮」、「地すべり」、「泥流」、「押出し」は大正時代から昭和時代初期に、「土石流」、「鉄砲水」は昭和時代後期に出ていることを明らかにした。さらに「地すべり」は明治時代末から大正時代に使用されるようになったこと、山崩の方言は複数の系語に分類し分布特性を明らかにした。

第4章では、土砂移動現象により生起する災害の総称である「土砂災害」の成立過程について行政、研究の両分野から分析し、昭和35年から「土砂害」の、昭和52年から「土砂災害」の使用が始まったことを示した。また、「土砂災害」と類似用語である「山地災害」は「土砂災害」とほぼ同じ意味を持っていること、「地盤災害」は平地地盤災害のみならず地すべり、土石流までも含めた広い概念であることを示した。

第5章では、「土石流」について、一般社会、言語、行政、研究の各分野における呼称の変遷について、文献、新聞報道記事、国語辞典、行政文書、古文書等の調査により検討した。1)土石流現象を表現する用語として、「山津波」と「山潮」が江戸時代から使用されていた。2)土石流の研究は、明治時代中頃からなされており、「山抜」、「暴流」、「砂流」、「泥流」及び「押出」が明冶時代から使用されていた。3)「山津波」は、土石流現象の実態が分っていなかった時代に、土石流の様子を津波のイメージと捉え、その感覚を表現した用語であると考えられる。4)「土石流」は、1916年に諸戸北郎が創案したと考えられる。ドイツ語Murgangの翻訳語である可能性がある。5)国語辞典において土石流に関する用語が見出し語と扱われた年次は、「山崩」1888年、「山津波」・「山抜」1889年、「山潮」1921年、「蛇抜」・「押出」・「泥流」1935年、「鉄砲水」1969年、「土石流」1981年である。6)「山津波」は、「土石流」が一般語化する1975(昭和50)年頃まで、土石流現象を表す代表的な用語として使用されていた。砂防行政においては、1958年に「土石流」を使用した文章を中期計画に盛り込み、1966年の山梨県足和田災害の直後には「土石流」を使用した通達を出している。1970年に土石流が初めてビデオカメラに捉えられて以降、新聞報道記事、災害碑等の碑文および文芸作品の用語使用が増加し、一般国民の「土石流」という用語に対する認知度が高まっていた。

第6章では「鉄砲水」について、1960年頃から1990年頃には「土石流」や「山津波」と同義語として、あるいは急激な洪水や土石流を包含する用語であったが、1990年頃以降は、概ね山地・中山間地の河川や渓流で発生する突然の出水・増水を意味する用語として用いられていることを明らかにした。

第7章では、 火山砂防関係用語として、「火山泥流」、「泥流」、「土石流」という呼称について、呼称の変遷を論じている。

第8章では、土砂移動現象の呼称の変遷について、現象の認識と研究の深化による用語の細分化があること、研究分野での使用に留まる用語から報道、文芸作品での使用に至っている用語まで研究、行政、一般社会などの分野毎にその使用に時期的相違があるという一般性と、用語毎に社会的な定着過程の段階が異なる現状を明らかにした。これらは、防災対応を一般国民に効果的に伝える際に、用語が認識されているレベルとその用語の伝播の特性を理解した用語使用に必要な知見である。そして、以上の内容を要約したものを結言としている。

以上のように、本研究は学術上のみならず応用上も価値が高い。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。

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