学位論文要旨



No 217137
著者(漢字) 松波,秀子
著者(英字)
著者(カナ) マツナミ,ヒデコ
標題(和) 田辺淳吉と明治から大正の清水組設計組織の研究
標題(洋)
報告番号 217137
報告番号 乙17137
学位授与日 2009.03.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第17137号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 難波,和彦
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 准教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、明治から大正にかけて活躍した建築家田辺淳吉(1879~1926)の建築活動の実績の全容と背景を明らかにすると同時に、田辺が建築活動をするために身をおいた清水満之助店(以下、清水店)、のちに合資会社清水組(以下、清水組)の設計の様態を、技師(のち技師長)田辺の建築活動の側面から探ろうとするものである。

田辺淳吉および彼が関与した作品、言論に関する、図版資料、文献資料として、清水建設所蔵の図版資料(図面、写真)のほか、田辺家旧蔵資料(博物館明治村所蔵資料、渋沢史料館寄託資料)、『清水建設株式会社社史資料〈昭和十二年~昭和十四年度編纂委員会議事録〉全十三巻』(以下、『戦前社史編纂委員会資料』)」をはじめとする『清水建設百五十年史』および『清水建設二百年史』編纂のために収集整理した清水建設社史資料、現存作品の当時の施主の後身組織が所蔵する資料(図面、写真、文献)、『建築雜誌』をはじめとする刊行物の文献資料を精査し、時系列に田辺淳吉の建築活動とその背景を考察し、論考を進めている。

序論では、既往の研究を紹介し、本論で使用した資料について、その内容と資料価値について述べている。第1章「生い立ちと大学時」では、まず、従来明治12年6月26日生まれとされて来たが、正しくは2月26日生まれであったこと、田邊でなく田邉と書かれていたことを明らかにした。芸術家肌の建築家といわれた田辺の素質の背景を出自に遡って言及し、高等師範学校附属中学校時代、第一高等学校時代、大学時代のクラス会「丼会」など、卒業後、終生親交を結んだ関係を田辺家旧蔵の写真や彼等から田辺宛の葉書や旧蔵写真によって述べ、特に大学時代の同級生の過半は清水組に在籍したことを明らかにした。大学時代に受けた建築教育については、田辺の受講ノートから当時の講義内容を明らかにした。田辺宛の葉書の多くは差出人の自筆の水彩画が描かれているが、それは大学時代にスケッチクラブ「木葉会」の仲間からのものであり、木葉会が現在の単なる同窓会組織ではなく明治31年当初は写生同好会ともいうべきものであったことを明らかにした。また、愛陶家として知られる田辺の作品に散見される「タイル」へのこだわりと大河内、正敏が主宰する「彩壺会」との関係を明らかにした。

第2章 清水店技師(明治36年~大正2年)では、明治36年に田辺が入店する以前、明治中期の清水店の数種の「作品集」を分析し、渋沢栄一を通じて辰野金吾と少なからぬ関係にあったことを明らかにした。明治42~43年の欧米視察について、従来セセッションに営業を受けたことのみが強調されて来たが、渡米実業団に参加した意味、のちの単独の米国視察、欧州視察では、米国での鉄筋コンクリート技術の調査研究、約3ヶ月滞在した英国におけるガーデン・ハウス、アーツ・アンド・クラフツ系の作品から影響を受けたことを指摘した。作品各論では、田辺が入店直後に1)第一銀行京都支店の現場に赴任した経緯を考察した。1)従来取り上げられることがほとんどなかった大阪瓦斯株式会社、F.W.ホーン商会の設計における田辺の先進的な取り組み、2)武田五一基本設計の福島行信邸の実施設計における田辺の果たした役割等を諸史料から明らかにした。3)従来、日本女子大成瀬記念講堂は、田辺の設計とされてきたが、田辺が関与したのはステンドグラスのデザインのみで、主担当は北村耕造であることを明らかにした。4)明治44年の東京勧業博覧会に出品した岡田信一郎と共作「紳士住宅圖案」をめぐって、当時、岡田信一郎、橋本口、富本憲吉らが嘱託として在籍していたことを史料を以て明らかにし、明治末期の清水店の設計組織の様相を明らかにした。また言論においては、後年の誠之堂、晩香廬などのアーツ・アンド・クラフツ系の作品を生み出すことを示唆する「西豪州の住家」、市区改正後の日本橋通りの景観の調査報告「東京市區改正建築の状態と建築常識」、「『建築請負契約書案』案と通常總會の決議」など、住宅への深い関心とともに、請負の看板アーキテクトとして、幅広い論述を展開していることを指摘した。

第3章 清水組技師長(大正2年~7年)では、田辺の代表作で、当時すでに高く評価された誠之堂と晩香廬のほかに、池田侯爵邸、日本倶楽部など、現存しないためにほとんど知られることのなかった作品について考察した。晩香廬は、渋沢栄一の喜寿を祝い清水満之助が贈った小亭であるが、建物とともに当時新進気鋭の工芸家による茶器、花器などの工芸品も贈り、建築家と工芸家の提携というわが国で初めての新しい試みがなされたが、この提携を通じて当時の建築界と工芸界の関連を考察した。さらに「晩香廬」の命名の由来について、従来、「バンガロー」の字音に合わせ、渋沢が自作の漢詩「菊花晩節香」からとったとされていたが、渋沢の詩作以前に既に渋沢の父をはじめ幕末明治には「晩香」と号する例はいくつかあり、渋沢自身も個人用箋には「晩香書屋」を印していたことを指摘し、「晩香」は、陶淵明の「飲酒其五」に由来する「雛籬晩香」にちなむものであることを明らかにした。大正5年の講演録「社會より見たる建築家」では、現代にも通じる「建築家の心掛け」について、清水組の組織人・技術者としての立場と創造作品をつくる建築家とのバランス、すなわち「建築家の近代化と建築の社会的認知の向上」という問題意識を素朴な視点で誠実に述べている。当時、設計部独立問題なども起こり、独立への兆しを感じ取ることができる。

第4章 中村田邊建築事務所(大正10年~15年)では、恩師中村達太郎と独立して設計事務所を開設した2年後に関東大震災に遭い、以後、過労で亡くなるまで震災復旧に多忙をきわめることとなる。晩年の作品として、誠之堂、晩香廬につづくアーツ・アンド・クラフツ系の住宅、根津嘉一郎氏邸洋館と石井健吾氏別邸、そして青淵文庫を完成させている。根津邸洋館は、明治42年に渡米事業団で一緒であった根津氏で、そのすぐ後の明治末期から設計をはじめている。根津邸洋館と石井別邸の外観はともに英国風で、誠之堂、晩香廬、のちの根津嘉一郎別邸との類似点、共通点が多々見られることを指摘した。晩年は設計活動に加えて、住宅、とくに住宅改善に関する問題、庭園、公園に関する言論が多くなり、田辺が建築、住宅をつねに社会との関係においてとらえようとしていることを指摘した。

第5章 アーツ・アンド・クラフツ建築の系譜では、前述の作品各論で触れた田辺の作品、誠之堂、晩香廬、根津嘉一郎氏洋館、石井健吾氏別邸に加え、田辺の歿後、田辺の薫陶を受けた大友弘による根津嘉一郎氏熱海別邸の5件を取り上げ、その平面計画、庭園との関係、地盤面との関係(矩計計画)、外部仕様、内部仕様に、多くの共通点を見出すことができることを指摘し、その共通点には、アーツ・アンド・クラフツの精神が通底していることを指摘した。さらに、誠之堂については、「技巧のすべてを排除した」煉瓦積みには、岡田信一郎の称賛するフィリップ・ウェブの材料に対する考え方に合致し、外観の形態は、ベイリー・スコットのスノウシル・マナーのウェル・コートに類似している。晩香廬の平面は、若干規模が異なるが、誠之堂の平面計画と全く同様である、晩香廬の天井の格縁に見られる草花や木の実、小鳥や動物のモチーフを刻んだ石膏彫刻は、アーツ・アンド・クラフツに顕著な特徴であり、モリスの壁紙に多用されているものである。ただし、この石膏彫刻は、具体的にはモリスでなく、ベイリー・スコットのブラック・ウェル舘の木製の帯飾に類似する。石井健吾氏別邸の外観は誠之堂の外観と全く同様である。そして後に増築される石井健吾氏別邸の外観は根津嘉一郎氏洋館の外観ときわめて似ている。。そして、根津嘉一郎氏邸洋館の内部仕様は、そのまま同氏熱海別邸に継承されている。なお、以上の5棟に共通するもう一つの大きな特徴は、玄関ホールともいうべき「合の間」(石井別邸においては主客室)の内装は、半外部的な扱いとし、腰に(内部でなく)外部と同様の煉瓦積み、あるいはタイル張りとし、小壁には装飾的なハーフティンバーを付している。この手法は、ベイリー・スコットのブラック・ウェル舘にも見られることを指摘した。

第6章 まとめでは、田辺は建築家としてきわめて高い資質を備え、すでに学生時代から設計の名手とされていた。明治から大正にかけて、清水店の技師(のち清水組の技師長)として、看板アーキテクトとして建築活動を行い、多くの後進を育て、初期の清水組設計部の指導者として大きな役割を果たした。従来、田辺は欧米視察でセセッションの影響を受けたことだけが強調されて来たが、むしろ、アーツ・アンド・クラフツの精神に学ぶことが多かったと思われる。また、設計における芸術家肌の側面だけが強調されてきたが、社会とのバランスを常に念頭においた建築家であることを明らかにした。

第7章 現存作品の保存修復と調査結果では、1)誠之堂、2)晩香廬、3)青淵文庫の保存修復のあらましと、修理工事にともなって実施した諸調査の結果について概観している。際立つ事項としては、誠之堂での煉瓦壁の「大ばらし」による移築保存がある。煉瓦壁を適切なピースに切断して搬送し、移築先では基礎と臥梁を新設して、この間に切断した煉瓦壁を組み立て、基礎と臥梁の間にPC鋼棒を貫通させて張力をかけ、煉瓦間のせん断力を増すという非木造建築の画期的な移築の手法を開発した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、明治から大正にかけて活躍した建築家田辺淳吉(1879~1926)の建築活動の実績の全容と背景を明らかにすると同時に、田辺が建築活動をするために身をおいた清水満之助店(以下、清水店)、のちに合資会社清水組(以下、清水組)の設計の様態を、技師(のち技師長)田辺の建築活動の側面から探ろうとするものである。

そのため、図版資料、文献資料として、清水建設所蔵の図版資料(図面、写真)のほか、田辺家旧蔵資料(博物館明治村所蔵資料、渋沢史料館寄託資料)、『清水建設株式会社社史資料〈昭和十二年~昭和十四年度編纂委員会議事録〉全十三巻』(以下、『戦前社史編纂委員会資料』)」をはじめとする『清水建設百五十年史』および『清水建設二百年史』編纂のために収集整理した清水建設社史資料、現存作品の当時の施主の後身組織が所蔵する資料(図面、写真、文献)、『建築雜誌』をはじめとする刊行物の文献資料を精査し、時系列に田辺淳吉の建築活動とその背景を考察し、論考を進めている。

序論では、既往の研究を紹介し、第1章「生い立ちと大学時」では、彼の生年月日を正し、名字の文字を明らかにした。さらには学生時代の交友、趣味、嗜好などを分析している。

第2章 清水店技師(明治36年~大正2年)では、明治36年に田辺が入店する以前、明治中期の清水店の数種の「作品集」を分析し、渋沢栄一を通じて辰野金吾と少なからぬ関係にあったことを明らかにした。明治42~43年の欧米視察について、従来セセッションに営業を受けたことのみが強調されて来たが、渡米実業団に参加した意味、のちの単独の米国視察、欧州視察では、米国での鉄筋コンクリート技術の調査研究、約3ヶ月滞在した英国におけるガーデン・ハウス、アーツ・アンド・クラフツ系の作品から影響を受けたことを指摘した。作品各論での指摘のなかには、従来、日本女子大成瀬記念講堂は、田辺の設計とされてきたが、田辺が関与したのはステンドグラスのデザインのみで、主担当は北村耕造であることも明らかにされている。

第3章 清水組技師長(大正2年~7年)では、田辺の代表作で、当時すでに高く評価された誠之堂と晩香廬のほかに、池田侯爵邸、日本倶楽部など、現存しないためにほとんど知られることのなかった作品について考察した。晩香廬は、渋沢栄一の喜寿を祝い清水満之助が贈った小亭であるが、建物とともに当時新進気鋭の工芸家による茶器、花器などの工芸品も贈り、建築家と工芸家の提携というわが国で初めての新しい試みがなされたが、この提携を通じて当時の建築界と工芸界の関連を考察した。さらに「晩香廬」の命名の由来について、従来、「バンガロー」の字音に合わせ、渋沢が自作の漢詩「菊花晩節香」からとったとされていたが、渋沢の詩作以前に既に渋沢の父をはじめ幕末明治には「晩香」と号する例はいくつかあり、渋沢自身も個人用箋には「晩香書屋」を印していたことを指摘し、「晩香」は、陶淵明の「飲酒其五」に由来する「雛籬晩香」にちなむものであることを明らかにした。

第4章 中村田邊建築事務所(大正10年~15年)では、恩師中村達太郎と独立して設計事務所を開設した2年後に関東大震災に遭い、以後、過労で亡くなるまで震災復旧に多忙をきわめる時代を扱った。この時期、晩年の作品として、誠之堂、晩香廬につづくアーツ・アンド・クラフツ系の住宅、根津嘉一郎氏邸洋館と石井健吾氏別邸、そして青淵文庫を完成させている。

第5章 アーツ・アンド・クラフツ建築の系譜では、前述の作品各論で触れた田辺の作品、誠之堂、晩香廬、根津嘉一郎氏洋館、石井健吾氏別邸に加え、田辺の歿後、田辺の薫陶を受けた大友弘による根津嘉一郎氏熱海別邸の5件を取り上げ、その平面計画、庭園との関係、地盤面との関係(矩計計画)、外部仕様、内部仕様に、多くの共通点を見出すことができることを指摘し、その共通点には、アーツ・アンド・クラフツの精神が通底していることを指摘した。とりわけ、ベイリー・スコットとの類似性を指摘しているところに本論文の特徴がある。

第6章 まとめでは、田辺は建築家としてきわめて高い資質を備え、すでに学生時代から設計の名手とされていたこと、明治から大正にかけて、清水店の技師(のち清水組の技師長)として、看板アーキテクトとして建築活動を行い、多くの後進を育て、初期の清水組設計部の指導者として大きな役割を果たしたことを指摘している。

第7章 現存作品の保存修復と調査結果では、1)誠之堂、2)晩香廬、3)青淵文庫の保存修復のあらましと、修理工事にともなって実施した諸調査の結果について概観している。

以上の研究は、建築家の作家研究と作品分析、建築設計組織の分析、さらには建築作品の修理工事・保存工事の成果を有機的に総合したものであり、斯界に大きな貢献をなすものである。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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