学位論文要旨



No 216727
著者(漢字) 西村,昌也
著者(英字)
著者(カナ) ニシムラ,マサナリ
標題(和) 紅河平原とメコン・ドンナイ川平原の考古学的研究
標題(洋)
報告番号 216727
報告番号 乙16727
学位授与日 2007.03.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16727号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今村,啓爾
 東京大学 教授 大貫,静夫
 東京大学 助教授 佐藤,宏之
 上智大学 教授 青柳,洋治
 東京外国語大学 教授 小川,英文
内容要旨 要旨を表示する

 紅河が形成する紅河平原とメコン川からドンナイ川にかけての河川が形成するメコン・ドンナイ平原は、東南アジア大陸部の大穀倉地帯であり、過去の長い歴史において、国家興亡の舞台にもなったところである。本論文は、その2大平原地域における地域性を明らかにすることを目的とした比較考古学である。

 両地域とも、大河川を中心とする河谷に形成された平野が地形の中心であり、完新世の最大海進後に形成された沖積地が多くを占めている低平かつ湿潤な自然環境である。

 両地域共に考古学のデータは多いが、編年が整備されていない場合が多いため、良好な層位的発掘に基づいて、紅河平原では旧石器時代から紀元1000年紀の編年問題の整理、紀元2000年紀の無釉陶器の編年、メコン・ドンナイ平原では紀元前2000年紀から1000年紀の土器編年を行った。

 紅河平原域の場合、第3章、第7章で述べたように、旧石器からホアビニアン時代及び前期新石器時代には、すでに平原域の辺縁部は居住域になっており、後期新石器時代、特にフングエン段階以降は、遺跡数や居住範囲も増加・増大し、重層マウンド遺跡なども出現するようになる。

 しかし、メコン・ドンナイ平原域では、第6章、第8章で明らかにしたように、確実な旧石器時代の遺跡については、疑問符が残り、他大陸部東南アジアで確認されているホアビニアン・インダストリーの遺跡、さらには北部の前期新石器に並行する遺跡も確認されていない。これは調査密度や精度にも起因していようが、前期新石器並行の遺跡がないことは明らかな違いである。そして、フングエン段階とほぼ並行する新石器時代以降、重層マウンド遺跡が出現する。これは、北部ヴェトナムを除く大陸部東南アジア他地域と同様な文化変化の傾向を示している。この場合、新石器文化の出現は、よそからの導入を積極的に評価した方がよいのであろう。ここにオーストロ・アジア系言語の人間集団の植民説が登場する余地が含まれているわけである。

 北部のフングエン期(後期新石器時代後半期)と南部の新石器時代の生業体系に、稲作農耕が組み込まれていたことは、土器の器種組成、籾を混ぜた土器の存在、遺跡立地などから間違いない(第9章)。ただし、新石器時代以降の遺跡分布変遷には差異を読みとることができる。

 両地域とも新石器時代から青銅器時代に遺跡数が激減しているが、減り方としては南部の方が激しい。ただし、水上交通の要所に集落を移し、平原と周辺にはない金属資源の入手を計っていることは共通している。

 北部では、青銅器時代と鉄器時代を通じて、下流域への居住域拡大や遺跡増加が明確に確認されるのに、南部では遺跡数増加は微弱ながら確認できるものの、ホーチミン市南端のカンゾー地域のような特殊環境での遺跡形成を除いて、居住域拡大は明瞭には認められない。

 これは、北部が作付け選択などの農耕技術の向上を行い、低地開拓を可能としたのに、南部ではそうした水稲農耕による低地開拓や、そのための農耕技術革新のベクトルが弱かったことを意味している。

 しかし、北部では紀元後1世紀以降、南部ではオケオ文化以降、ともに平原部低域に遺跡の爆発的増加が認められる。これはともに南海貿易活発化による交易中継地形成の必要性などに関係していようし、平原部低域も政治支配域として認識した国家の存在が大きいのであろう。こうした低地での本格的な遺跡形成が、低地社会の形成、ひいては平原域としての文化的均質性を作り出しているようだ。

 問題は、10世紀以降の違いである。北部は10世紀以降も開拓を続け、海岸線形成に応じた開墾を現在まで続け、水稲農業をベースにした人口凋密地帯を作り上げてきた。しかし、南部ではオケオ文化以後の遺跡はないわけではないが、散在するようにしか確認できず、オケオ文化期に比べ明らかに減少すると考えられる。つまりポスト・アンコール時代以降の遺跡が非常に少ない。ポストアンコール、アンコール時代を担ったクメール人も当該域では、大規模な遺跡をさほど残してはおらず、クメール帝國にとっては当該域は辺境であったようだ。

 この現象に対して、一つ明確に言えることは、南部の低地社会が、北部ほど水稲耕作を集約化し、農業地として積極的な土地利用を行ってこなかったことである。つい最近まで、メコンデルタには雨期稲栽培域が広く広がっていたことは、北部のように水利条件の人工改変など稲の集約化生産へむけた投資が無かったことを意味している。これは、後の紅河平原を中心とする北部平原域の輪中化(第16章)と、それに準じるものが全く発達しなかった南部に端的に象徴されている。

 第7、8、10章で論じたように、平原部は石や金属資源のない寡資源地帯である。この付帯条件が、過去において集落形成パターンも左右する大きな文化変動を起こす主因となっている。おそらくこれは紅河平原、メコン・ドンナイ平原に限らず他東南アジア大陸部や世界の沖積平野に共通している可能性があるのではないだろうか。

 この平原部の寡資源性については、現在の経済活動をみていてもよく理解できることである。量の多寡は無視して、品目で考えた場合、山間部から入手される資源・製品において、金属資源がその価値の高いものであったことは言を待たないであろう。

 逆に海岸を含む平原から供給できる資源・原料あるいはそれをもとにして生産・供給されているものは品目は意外に少なく、ガラスと陶磁器以外は他所より原料をもってきて加工しないと供給できないものばかりである。ガラスと陶磁器は、考古資料でしばしば確認できるもので、特に陶磁器は山間部の古墓から多く出土している。平野が主体的に生産し、供給できる数少ない重要かつ需要の高いものであることが理解できる。

 また、山岳域の墓葬からしばしば出土する副葬品には、青銅器もある。第15章で述べたように、銅鼓は平野部での製作と判断されるし、山間民族の伝統楽器である銅鑼も平野部での製作と判断される。当然、外部からの資源供給を安定させ、集約的生産や高度な生産技術を伴わないと、その生産が優位な立場になることはないであろう。北部ヴェトナムの平原部の場合、武器や寺鐘に青銅製品を多く使う伝統が、高度な青銅器生産を集約化、活発化させてきたようで、現在でも原料を輸入してでも生産を行う体制が存続を許され、伝統的青銅器鋳造村落として多く残っている。また、寺鐘などの場合、大きさや意匠・モチーフを、注文者の意をくみ取って生産する必要があることも、専業生産者の存在を可能にする条件である。銅鼓についてもこの脈略で理解できる部分があるはずだ。陶磁器の場合、山間部集団の好みを反映して製作している例は非常に少ないが、銅鼓に関しては、完全にその可能性が高く、山地と平野の関係を象徴するユニークな器物である。

 第15章の銅鼓分布研究が示すように、ドンソン時代までの紅河平原は、文化的に同質的な空間であることを示していない。紅河本流からドゥオン川あるいはそれ以南の居住稀薄地帯を分岐線として南と北では銅鼓に対する文化的処遇の差をうかがい知ることができる。そして、漢文化の本格的な入植・侵入(紀元後2世紀以降)により、紅河平原域内の文化的均質性が高められているようだ。これは、域内のどこでも確認される磚室墓とその副葬品からうかがい知ることができる。逆に、磚室墓群は、7章でも論じたように山間地域では全く報告されておらず、漢文化が侵入できない強烈な異文化空間が成立していたと判断される。同じくオケオ文化の遺跡は第8章で論じたように、山間部に非常に少ない。近年Lam Dong(ラムドン)省Cat Tien(カッティエン)遺跡が話題となっているが、ここはドンナイ川上流域にあるかなり規模の大きい盆地に位置しており、山間部・丘陵地帯の遺跡とは認識できない。

 メコン平原とその周辺の場合、鉄器時代あるいは、次続するGiong Phet(ゾンフェット)期段階では、甕棺葬や伸展葬土坑墓の違いに代表されるように、地域性を解消するような文化段階には至ってないようだ。オケオ文化以降に初めて、地域性の薄い土器アセンブリッジ、宗教建築が出てくるようだ。これは現在、穀倉地帯の基盤をなし、多くの人間が生活する平原部が、実は過去において、周縁山麓地域の方が居住の密度が高く、その中心域(デルタ部など)では低いということに密接に関係しているようだ。国家が出現してから、そうした平原域の地域性が薄められるという現象は、例えば、北部の平原部において政治権力が編み出した水田支配・分与システムにより、米を主作物とし、その集約化へ進むことにより、平野部全体で密な人口居住が可能とならなければ、起きえなかった現象であろう。北部ヴェトナムの各長期王朝が紅河平原を、中国の中原のように位置づけ、政治中心地を寡資源地域の真ん中におき、水稲耕作の集約生産のための諸政策を進めたことは、それなりの意味のあったことなのである。

 オケオ文化の場合、低湿地も含べた低地で、集落数を膨大に増やしている背景には、水稲耕作による食糧確保が基盤になっていることは間違いない。しかし、その後の集落が連続しないことは、北部のよう、政治権力が土地の支配・分与を重視していなかったことに起因する可能性がある。つぶり、土地以外の別のもの(例:人間)を支配下におく政治システムであったのではないだろうか。これはオケオ文化の主たる担い手であった国家"扶南"の性格を考える上で興味深い現象である。つまり、低湿地を含む低地居住の進展は、その土地の農業開発ではなく、交通や交易拠点の確保などの別目的であった可能性が高い。北部と南部に生まれた政治権力の基本的構造差であろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は南北に細長いベトナムの両端に広がる2つの平野、紅河平原とメコン・ドンナイ平原における旧石器時代から現代に亘る諸問題を、両地域の比較という観点から論ずることを主題としておりますが、これはほとんどベトナム考古学のすべて、否、普通は考古学の対象とみなされない近現代まで含めて考古学的方法によって包括的に捉えようという無謀な企てであり、とうてい1個人のなしうる仕事とは考えられません。しかしあえてそれに挑んだところに西村氏の不屈の闘志がありました。氏は過去6千年間の土器と陶器を時代順に排列し、各時代の遺跡分布の変化を追跡し、広く低平なデルタ地形を含む南北ベトナムの開発史の違いを抽出、比較し、この無謀な計画に相当程度の成果を収めたことに驚かされます。この研究がなお未完成であるとしても、それはベトナム人自身による考古学が開始されて50年足らず、調査件数も十分でない現状がなせるものであり、氏の力の範囲を超えるところに原因があります。

 この研究の第一歩として氏は各時代の土器と陶器を年代順に排列する基礎作業を進めましたが、そこで行なわれたいくつかの具体的な仕事、たとえばベトナム南部新石器時代の土器編年、西暦2千年紀の陶器の編年作業などはベトナム人研究者もほとんど行っていない分野であり、氏の研究対象の広がりと精密さは驚異的であります。またベトナム北部新石器時代のフングェン期とホアロク期の前後関係を逆転させる新説は、発掘された証拠からも妥当であり、ベトナム農耕社会成立過程の理解に根本的変更を迫るものであります。

 この論文に盛られた多岐にわたる成果の意義を短く要約することは困難ですが、氏が東南アジアで初めて発見した銅鼓の鋳型一つとりあげても、古代ベトナム民族の象徴とみなされてきたこの器物が、何と中国の王朝がベトナム内に築いた都城の中心で作られ、周辺地域に配布されていたという誰も夢にも想像しなかった事実を明らかにしました。

 氏が提出した数々の仮説は、証拠と説得力に富むものから、今後の検討を必要とする不確かさを残すものまでさまざまであり、現在のベトナム考古学の通説と大きく異なるために現地研究者の反発を招くであろうものも少なくありません。しかしそれらの仮説に対し真摯な対応を求め、学問の目的や基本的な方法にまで掘り下げて議論を継続することは、学問の真の国際協力につながる道になるでしょう。

 全体として荒削り、未完成の観を残す論文でありますが、部分、部分で成し遂げられた具体的な成果はきわめて大きく重要で、東南アジア考古学の分野で一人の日本人研究者によるものとしては最大の業績群と評価することができます。その意義において本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するものと結論いたしました。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/43789