学位論文要旨



No 216668
著者(漢字) 後藤,直
著者(英字)
著者(カナ) ゴトウ,タダシ
標題(和) 朝鮮半島初期農耕社会の研究
標題(洋)
報告番号 216668
報告番号 乙16668
学位授与日 2006.12.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16668号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大貫,静夫
 東京大学 教授 今村,啓爾
 東京大学 助教授 佐藤,宏之
 東京大学 助教授 早乙女,雅博
 青山学院大学 名誉教授 田村,晃一
内容要旨 要旨を表示する

 日本列島の初期農耕社会(弥生時代の社会)研究には、その農耕と金属器の故地である朝鮮半島の初期農耕文化、すなわち無文土器時代の文化・社会に対する正確な理解が必要である。それにもとづいて日朝両地域の初期農耕社会を比較し、異同とそれぞれの特質を明らかにできる。

 本論文は朝鮮半島初期農耕社会を、弥生社会と対比しつつ無文土器(第1部)、青銅器(第2部)、農耕(第3部)から把握することを目的とする。

 第1部では無文土器時代の時間軸設定のための土器編年および弥生時代と無文土器時代の時間的平行関係を論じる。無文土器には地域差があり、大きくは清川江以北の西北地域、大同江流域を中心とする西地域、漢江流域以南の南地域そして東北地域に分けられる。

 まず、西地域のコマ形土器を遺跡ごとに4グループに分け、第4から第1グループへ編年し、さらに西北地域では公貴里型土器、新岩里I・II類土器、細竹里II類土器が小地域ごとに展開した後に美松里型土器が広がり、これらがコマ形土器と平行することを明らかにする。これら西〜西北地域の無文土器の下限年代は、その後の魯南里型土器や灰色縄蓆文土器の時期に普及し始める鉄器と一部で伴出する明刀銭から、紀元前3世紀初頃と推定する(第1章)。

 弥生土器と密接な関係がある南部地域の無文土器は、甕形土器の口縁部形態に即して3大別し、第1群土器(孔列土器)と第2群土器(二重口縁短斜線土器)を前期に、第3群土器(粘土帯土器)を後期に編年する。前期では二重口縁短斜線土器のほうが古いと予測し、後期土器は粘土帯や壷形土器把手の形態により3時期に細分できることを示し、西地域との関係については前期と後期の境がコマ形土器の終末にほぼ平行することを述べる(第2章)。

 南部地域では、その後発見された松菊里式土器をもって中期が設定され、前期がさらに細分できる見通しがたったので、第2章を補足するために1990年代中頃の資料にもとづき再度土器編年を行った。前期を刻目突帯文土器→二重口縁短斜線土器→退化二重口縁短斜線土器→孔列土器の4期に、中期を先松菊里式土器(3種・3期)→松菊里式の4期に編年する(第3章)。

 なお東北地域の編年は北朝鮮の研究成果を引いて簡単に触れている(第7章)。

 南部地域の無文土器と弥生土器との平行関係は、北部九州出土の後期無文土器(後期を3期細分した第2・3期土器)と伴出弥生土器にもとづいて、無文土器後期1期が弥生時代前期初〜中頃、2期が前期後半〜中期前半、3期が中期前半〜後半、3期から原三国時代への移行期が中期後半頃に平行し、無文土器中期は弥生時代初頭前後以前とする。北部九州に無文土器とそれを模した擬無文土器が出現するのは、弥生前期末の農耕文化の定着を背景に朝鮮半島との新しい形態の交渉が始まり(これは青銅器の伝来に表される)、あらたな移住・渡来と弥生社会側の受け入れがあったためと考える(第4章)。その後西日本各地で無文土器と類似土器の出土例が増えたが、これらを無文土器直系土器、直系土器が弥生土器風に変化したもの、無文土器とは無関係の土器に判別し、前二者が出現するのは、第4章で推定した朝鮮半島との新たな交渉がすでに北部九州から瀬戸内、近畿ともつながっていたためと考える(第5章)。

 第2部は青銅器とその副葬墓を主題にする。

 まずそれまで別々に議論されていた無文土器と青銅器の関係を明確にするために、青銅器と土器・石器の共伴ないし同時出土事例をもとに、土器編年の中に青銅器を位置づける(第7章)。青銅器の初現は西〜西北地域の無文土器時代初めにさかのぼる少量の銅泡・鑿・鏃である。本格的な普及・製作は琵琶形銅剣の時期で、西〜西北地域のコマ形土器後半・美松里型土器の時期、中南部地域の無文土器中期に当たる(紀元前4世紀代、上限は5世紀に上がりうる)。これに続く細形銅剣の出現時期にも地域差はほとんどなく、西地域ではコマ形土器の直後、中部以南では無文土器後期始めで(紀元前3世紀初前後)、終末は無文土器末期、西暦紀元前後と推定する。

 これと青銅器副葬墓の変遷(第9章)にもとづいて青銅器文化を6期に分ける(第6章)。第1期に遼寧青銅器文化から少量の青銅器が入り、第2期に琵琶形銅剣の流入と製作によって本格的青銅器文化が始まる。細形銅剣が出現する朝鮮青銅器文化の確立期を第3期とし、多鈕細文鏡と銅戈の出現をもって第4期とする(この時期の青銅器伝来により弥生時代青銅器文化が始まる)。中国系鉄製武器と車馬具の普及とともに青銅武器が衰退し消えていくのが第5期、末期の青銅器が東南地域に残存するのが第6期である。

 第8章ではこの時期区分に沿って、青銅器文化の展開を11に分けた地域ごとに吟味する。西北部、東北部は遼寧省東端〜吉林省地域青銅器文化の南縁をなし、他地域の青銅器とはかなり異なる。清川江流域・咸興平野以南では、支石墓社会を基盤に琵琶形銅剣文化が発達し(第2期)、これを引き継いで細形銅剣文化が濃密に展開するが(第3〜5期)、大同江流域・咸興平野地域では楽浪郡の設置などにより第5期に衰退・終焉し、西南地域では第3〜4期に盛期を迎え独特の青銅儀器を生むが第5期末に終わり、東南地域では第4〜5期に地域色を強め第6期まで継続する。

 第9章、第10章は青銅器副葬墓の種類と副葬青銅器組み合せの変遷および地域差に反映される階層分化、被葬者の共同体に密着した首長からより強力な首長への変化、西部地域における楽浪郡の設置による被葬者の性格の変質などを論じる。

 弥生時代青銅器は朝鮮半島から伝えられるが、両者の間には青銅器の扱いの違い、すなわち朝鮮半島では副葬が通例で埋納は例外的だが、弥生社会では埋納が通例で副葬は北部九州の前期末〜中期末の例外的現象であることを指摘し、この違いの要因として、青銅器の製作・配布・管理をおこなう首長と共同体の関係、その基礎にある農業共同体のありかた、さらにその背後の農耕の相違などを想定する(第11章)。

 第12章は霊岩出土の14枚の鋳型について、鋳型観察からの鋳造技術の復元とその方法を論じ、さらに型と製品との関係の考察にもとづきこの一括鋳型の時期を青銅器文化第4期始めと結論づける。

 第3部は弥生時代農耕の母体であった朝鮮半島農耕の特徴を、弥生農耕と対比して明らかにする。農耕の実態を示す栽培植物種子の2003年までの報告事例は第16章にまとめた。それ以前に執筆した第13〜15章ではその時々の事例集成にもとづいて論述しているが、いずれの章においても、朝鮮半島初期農耕では畠作の比率がきわめて高い点に、水稲農耕に大きく傾く弥生農耕と際だった差異・特質を有することを強調する。

 第13章では無文土器時代集落遺跡の立地を検討して6類型に分類し、そのうち河川中・下流域の河岸段丘上と小平野・谷底平野に面する低丘陵に立地する集落が農耕社会発展の中心となると考える。また温量指数分布などの自然条件および栽培植物遺体各種類と出土地域との関係にもとづき、おおむね南から北へイネ優先地域、イネ優勢地域、雑穀優勢地域、雑穀地域の四つの作物地域が形成されていることを推定した。

 朝鮮半島の農耕は、新石器時代中期に中国東北地方の雑穀畑作農耕が伝わって狩猟・漁撈・採集を補完する生業として始まる。この畠作農耕の基盤の上に無文土器時代には石庖丁を伴う新たな雑穀畠作農耕が急速に拡大し、さらに水稲農耕も伝わるが中部以北には広がらず、中部以南で雑穀畠作と水稲がほぼ五分五分に結びついた農耕が展開したこと、この南部の農耕が日本列島に伝わると気候や地形の違いから水稲農耕の比重を大きく高める方向に変容したことを論じる(第14章)。

 最後に第13・14章の議論を深め、朝鮮半島の初期農耕においては北部では畠作のみに傾くが南部でも畠作の比重が高いことを強調し、また集落が弥生集落にくらべ相対的に小規模・短期継続であることを論じ、畠作比重の高さがその要因であろうこと、さらにこのことが共同体や首長の性格に大きく影響し、水稲農耕に大きく傾く弥生社会とは異なる農耕社会を生み出したと結論づける(第15章)。

 終章は以上をふまえ、緊密な交流があった無文土器文化と弥生文化の間には相当の違いがあったこと、その歴史的意味について、農耕の実態と青銅器の扱いの違いをとおして示し、まとめとする。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、弥生時代の初期農耕文化の源流とされる朝鮮半島の初期農耕文化について論じたものである。朝鮮半島の初期農耕文化の具体的な様相の地域差、時期差をさまざまな角度から明らかにしたうえで、日本列島の初期農耕文化がその源流である朝鮮半島とはかならずしも同じではなく、そのまま受け入れたのではないことを明らかにしており、成立した農耕社会の内容も大きく異なるものであったとの結論に至っている。朝鮮半島の影響のみを重視してきた従来の初期農耕文化研究とは一線を画するものであり、重要な視点を提示したと言えよう。本論文を一貫しているのは、個別遺跡、遺物資料についての徹底した検証とそれからの緻密な論理の展開であり、そのことが本論文の結論を十分説得力あるものとしている。

 第1部では、考古学のもっとも基礎となる土器編年の枠組みを独自に作り上げ、朝鮮半島の南北を体系的に見る視座を確立している。その編年体系を踏まえた上で、北部九州に多く見つかる朝鮮系無文土器に着目した。弥生時代前期末は、この土器の登場にあわせてやはり朝鮮半島を源流とする青銅器が登場する重要な画期となっているが、まとまって出土する遺跡は数少なく、渡来した人数は限られるとし、この時期においての変革の主役がやはり弥生文化側にあったことを明らかにしている。

 第2部では青銅器を副葬する墓の朝鮮半島内における地域性や時代による変化を明らかにする。そして、弥生時代の青銅器文化がもっとも密接な関係を持っていたのは朝鮮半島の東南地域であると結論する。ついで、日本列島と朝鮮半島では、青銅器文化の展開に相違があり、朝鮮半島では青銅器はおもに墓の副葬品として発見されるが、弥生文化では青銅器の儀礼的な埋納が発達することから、それを社会の差異の反映と見て、弥生時代における首長層が相対的に未発達であったとの理解に至る。

 第3部では日本および、朝鮮半島出土植物遺体の網羅的な集成をおこない、弥生時代では稲作が主体であるが、その源流である朝鮮半島では、南北での濃淡はあるものの、イネはほかの畠作雑穀とともに出ることが多く、稲作が主体というものではなかったことを明らかにしている。旱地農法を基盤に畠作と水田稲作が結びついた朝鮮半島南部の農耕が日本列島に伝えられると、日本列島の自然条件に適応して、湿潤農法に再度変容するとともに、長期継続型の集落を中心に灌漑水田農耕で結びついた共同体規制の強い社会が形成されていったのであるという、重要な視点を提起している。

 現在進行している弥生時代およびそれと同時期の朝鮮半島の年代的な見直しから今後修正の必要な部分も出てこようが、本論文が日朝両地域の初期農耕社会の比較研究をする上できわめて重要な論点を提示していることに疑問はない。よって、審査委員会は一致して、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしいものと判定する。

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