学位論文要旨



No 216438
著者(漢字) 福田,正宏
著者(英字)
著者(カナ) フクダ,マサヒロ
標題(和) 極東ロシアから北日本における先史土器の研究 紀元前1千年紀のアムール下流域〜北海道における土器型式群の系統論的考察
標題(洋)
報告番号 216438
報告番号 乙16438
学位授与日 2006.02.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16438号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宇田川,洋
 東京大学 教授 大貫,静夫
 東京大学 助教授 佐藤,宏之
 明治大学 教授 石川,日出志
 常呂町教育委員 主幹 熊木,俊朗
内容要旨 要旨を表示する

目的と視点

本論では,紀元前1千年紀の北海道・サハリン・アムール下流域で作られた先史土器群の変遷過程と考古学的に認定できる型式の広がりについて説明する。既存の時代区分でいえば,北海道では縄文時代晩期〜続縄文期,サハリンでは新石器時代後期,ハバロフスクより下流のアムール流域では新石器時代後期〜初期鉄器時代のコンテクストが考察の対象となる。

最も周辺地域との接触を反映しやすい土器資料を使って日本列島の「北辺」地域の具体像を説明することになるが,続縄文期あるいは晩期後半からの諸文化を北東アジアにつながる「北方」の漁撈・狩猟・採集文化の最前線とみなし,津軽海峡周辺で東北北部まで及んだ稲作農耕社会を知った弥生文化と接触したとする理解がある点に注目したい。しかし,東北地方の弥生文化の遺物群が道央まで複合的にあって,逆に東北でも北海道の恵山文化の遺物が存在するので,極東地域全体での文化配置としてみた場合,生業の面で東北と異なるが,北海道南西部にも類似した「弥生系統」の存在を認めてもよい。一方,アムール・サハリンなど学問的に未開拓な地域の事例を脈絡なく取りあげ,道南西や本州に由来すると考えられないコンテクストの起源にする姿勢がしばしばある。この場合,実際の資料にもとづいた見解はほとんどない。冷戦時にくらべて,アムールやサハリンでの情報は格段に増えた。たとえ大枠であっても,それらの成果を最大限に利用し,まず各地の文化配置の構図を点検してから,いかなる脈絡でモノが移動したのか推察したほうが議論として生産的である。本論では,その地域の縄文晩期〜弥生時代併行期の文化構図を,自身の現地調査や具体的な資料にもとづき,できるかぎり等質に解説する。また,日露間では調査件数・資料個体数に大きな差があるため,資料操作法を統一できないが,小地域の型式内容を単独で設定するのではなく,個別の変異が極東アジア全体の文化構図のなかではどの文化系統に含まれ,異文化系統といかに区別できるのか注目して,それぞれで共通した認定方法で結論を導きだす。

具体的な分析結果は以下の通りである。

縄文晩期〜続縄文期前半の北海道における土器の編年と型式間交渉

北海道南西部の亀ヶ岡式土器北海道南西部〜青森県北部に分布した聖山式の体部文様は入組文と工字文が大半を占める。「入組文→工字文」という文様転換はなく,晩期最終末の大洞A'式まで両類型の系統は残った。青森県内で入組文の系統は東北弥生土器の主要な体部文様である連結入組文になった。型式・分布・出土状況を総合すると,聖山式は,I期(大洞C2式新段階〜大洞A1式併行)とII期(大洞A2式〜大洞A'式併行)にわかれる。聖山式の主体的な分布の北限は道央までで,ここまで東北中部の大洞式と連鎖的な文様帯変遷があった。南限は持続的に聖山式の比率が組成のなかで高い青森県北である。よって,道央〜青森県北までの聖山式を北部亀ヶ岡式とする。聖山式は北海道在地系の幣舞式に型式的な影響を与えた。

北海道東北部の縄文晩期在地系土器道央から道東北に広がった幣舞式は在地系統の爪形文系土器から成立した。爪形文系土器には「爪形文→刺突文→縄線文」という変遷があり,道東では,縄線文段階になって縄線文列にヘラ描き沈線文による蛇行沈線文・カッコ文が加わって幣舞式が成立した。道央での事例も含めると,全道規模での幣舞式の編年は,「幣舞I式(浜中大曲式・大洞C2式古段階併行)→幣舞II式(聖山I期・大洞C2式新段階〜大洞A1式併行)→幣舞III式(聖山I期新段階・大洞A2〜A'式併行)」となる。

北海道の縄文晩期土器の編年と系統全道的に縄文晩期の土器を亀ヶ岡式と在地系の2系統にわけて整理すると,「1期(御殿山式・爪形文土器)・2期(上ノ国式・刺突文土器)・3期(浜中大曲式・縄線文土器・幣舞I式)・4期(聖山I期・幣舞II式)・5期(聖山II期・幣舞III式)」となる。2系統の型式間交渉を時期別にみると,1〜3期に両系統が単一の組成で混在し,4期に聖山式と幣舞式に分離し,5期で融合する過程があった。

続縄文期前半の北海道における土器型式の系統と接触続縄文期初頭の道央では第I段階(砂沢式併行)・第II段階(二枚橋式古段階併行)・第III段階(二枚橋式新段階併行)という順序がある。道東では道央第I段階と第II・III段階に併行する2段階があり,サハリン南部を含めた宗谷海峡周辺では,「種屯内I群(道央第II段階併行)→声問川大曲III群B類(道央第III段階併行)」となる。これにもとづき,続縄文期1期(砂沢式併行)・2期(二枚橋式古段階)・3期(二枚橋式新段階)・4期(宇鉄II式)の全道的な型式間交渉を整理すると,道南−道央の1〜3期では晩期5期の聖山式の系統が続くが東北北部の型式との交渉もあり,4期になって道南で東北北部と関係の強い恵山式が成立し,道央で従前の系統に道南・東北北部の要素が融合した。道央−檜山−日高−道東は2〜3期に連絡があり,道南に近いほうが道南−道央との交渉をもつ。道東の釧路−網走の1〜3期では,全体的に同調しているが,晩期5期からの地域性は残り,両者の型式融合はなく,3〜4期になって別々の型式が成立した。宗谷海峡周辺では1〜2期に道央−道南との交渉があり,3〜4期になると網走から強い影響を受けた。続縄文4期以降になると,道南・道央・道東で排他的な4型式が成立・展開した。

縄文晩期〜続縄文期前半の型式間交渉晩期から続縄文5期までの全道的な型式間交渉の構図を時系列上でたどると,「混在(晩期1〜3期)→分離(晩期4期)→融合・錯綜(晩期5期〜続縄文期3期)→分離(続縄文期4期)→融合(続縄文5期)」という変遷になる。

サハリン新石器文化の土器型式間交渉

新石器時代のサハリン南部には南サハリン・アニワ・鈴谷文化がある。南サハリン文化の宗仁式は道東の縄文早期の型式と関係するとされたが不確実で,アニワ式は宗谷海峡周辺の続縄文期の型式である。サハリン北部には櫛歯ジグザグ文土器をともなうイムチン文化と,櫛歯文・櫛描文・型押文土器のある北サハリン文化があった。イムチン文化の櫛歯ジグザグ文土器はアムール下流域のなかでも河口部周辺における新石器時代後期ヴォズネセノフカ文化の土器と型式的な連絡がある。北サハリン文化の土器はアムール方面のウリル系土器の型式内容をもつ。新石器時代のサハリン南北では,土器型式の変遷が通時的に大きく異なった可能性が高い。アニワ式の一部もしくはその次に成立した南部の縄線文土器と北サハリン文化の櫛歯文土器が,旧国境線あたりで接触して櫛歯文・縄線文をもつ鈴谷式が成立したのなら,この段階で南北の対置的な文化配置が崩れたと考えられる。

新石器時代後期〜初期鉄器時代のアムール河口部周辺における土器の編年と型式間交渉

ヴォズネセノフカ文化と初期ウリル文化の土器の系統関係アムール下流域の新石器文化はマルィシェヴォ・コンドン文化とヴォズネセノフカ文化に大きくわかれ,河口部周辺でもこれと連動した変遷があった。ヴォズネセノフカ文化のマラヤガバニ式に続くコッピ式は,河口部周辺に広がり,ウリル文化と年代が近い。紀元前1千年紀前半に遡る可能性のあるアムール中流域の体部文様や彩色がヴォズネセノフカ文化に近いリブノエオゼロ例をウリル式の古段階とすれば,これに似た体部文様と14C年代をもつコッピ式は関連づけられる。一方,新石器時代後期末〜青銅器時代の沿海州南西部では雷文・櫛引文をもつ類型があり,これらの文様は中流域のウリル式古段階でも特徴的である。以上の状況証拠から,コッピ式は位置づけられ,ウリル式の上限を1千年紀前半とみなす見解にも蓋然性がうまれる。

ウリル系土器の系統と展開アムール中流域のウリル式・ポリツェ式はウリル系として1系統にまとめられる。編年順序は「1期(ウリル式古段階)→2期(ウリル式新段階)→3期(ポリツェ段階)→4期(クケレヴォ段階)」となる。ウリル系統は河口部周辺にも存在し,ゴールィムィス1遺跡のウリル系2期に相当する第III〜IV段階の層位によって,第III段階では,「貼付文→ヘラ引き沈線文や細沈線による文様・櫛歯による簡略化した幾何学文→帯状にならぶ櫛歯文・短沈線による櫛歯文・クランク文」という文様の出現順序があり,第IV段階のバリシャヤブフタ式の特徴は第III段階に近いとわかる。これに周辺遺跡の事例と14C年代をあわせれば,河口部周辺のウリル系土器の変遷は,「1期(コッピ式)→2期(ウリル系2期)→3期(サルゴリ式)→4期(バリシャヤブフタ式)→5期(ウリル系2期)」となる。この編年案にもとづくと,アムール河口部周辺のウリル系土器は,地域色はあるが中流域からの強い影響を受け,櫛歯文が卓越する4期以降にサハリン北部〜中部にウリル系の土器型式が拡散したといえる。

総括紀元前1千年紀のアムール下流域〜北海道における文化配置の理解

極東アジア全体における文化構図なかで各文化系統を説明するため,各国での実情に即して考古学的文化を土器文化と認定すれば,恵山文化は東日本弥生文化の一部となり,道央周辺とサハリン中部周辺に弥生系・縄文系・ウリル系文化の考古学的な境界があり,これらの範囲は生態学的にも確定できる。つまり,弥生系文化は道央まで及び,道東北〜サハリン南部には縄文系文化が広がり,アムール下流域〜サハリン北部の文化系統は北海道方面の縄文系文化と全く無関係だった。北方の文化系統がサハリン北部と南部の境界を構造的に越えるのは,紀元1千年紀後半のオホーツク文化が広がってからである。

審査要旨 要旨を表示する

論文の分析対象は紀元前1千年紀の日本列島北部から極東ロシアで、その地域では考古資料の時間軸を設定する上で重要な土器型式編年に不備や空白が残されていた。申請者は、自らのアムール流域での発掘調査と日露両国での資料収集で得たデータの分析によって、当該時期・地域の歴史叙述にあたっての基礎データを提供し、文化配置やヒトや情報の動態を復元しており、完成度の高い研究成果を挙げている。

第1〜3章では、縄文晩期〜続縄文期前半の北海道の土器群を東北地方との対比で編年的に整理し、縄文晩期のものを亀ヶ岡系と在地系に分け、それらが融合・錯綜を経て続縄文期前半の道内で四つの異質の型式が成立したプロセスを明らかにしている。また、道北部の続縄文期初頭の土器を宗谷海峡周辺という枠組みで捉え、サハリン南部に分布する同時期の土器を含めて周辺地域との影響関係を論じている。以上の分析により、北日本の前1千年紀の土器編年が確立されたのである。第4章では、サハリン新石器時代の諸文化に関して、各々の土器型式を隣接地域との横の関係の中で認定し、北部ではアムール河口部周辺、南部では北海道と絶えず影響関係があったことを明らかにしている。さらに、続縄文期半ばの鈴谷式土器の成立によってこの南北の差が解消した可能性も指摘した。第5・6章ではアムール河口部周辺の新石器時代後期〜初期鉄器時代の土器群をヴォズネセノフカ文化とウリル文化の系統関係、そして、ウリル系土器の変遷に注目して考察している。まずヴォズネセノフカ文化の土器の諸特徴を編年的に整理し、それとウリル文化初期の土器群との系統関係を捉え、次にアムール中流域のウリル系土器の編年をもとに河口部周辺の同系統の土器編年を構築し、サハリン北部の様相についても言及している。最後に、各章の分析結果に基づき、各土器系統の違いから極東アジア全体の文化構図の中で前1千年紀のアムール下流域〜北海道の文化配置を説明し、道央とサハリン中部の植物地理区分ラインに文化系統の境界を求めている。そして、縄文文化に入ってきた南からの弥生系文化は道央まで及び,道東北〜サハリン南部では縄文系文化が残り、アムール下流域〜サハリン北部では縄文系文化と無関係なウリル系文化が存続し、紀元1千年紀後半のオホーツク文化期になって大陸方面の文化系統がサハリン南北の境界を越えるという仮説を提示した。

本論文は、地域毎の編年と地域間の対比、土器の動きに表われた地域間交流様態の解明といった個別研究を総括し、広域のアムール下流域〜北海道の土器型式系統に基づく考古学的な文化配置を行った研究である。とくに学問的に未開拓であった間宮海峡周辺地域の調査研究に初めて本格的に取り組んだ点は高く評価できる。ヒトの動態のより深い追及と北東アジア全域への射程範囲の拡大が望まれるが、考古学的手法として現状ではこれ以上の追及はできないと考えるため、本論文の価値は損なわれない。

以上より、本委員会は、博士(文学)の学位を授与するにふさわしいと認めるものである。

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