学位論文要旨



No 216308
著者(漢字) 青山,昌文
著者(英字)
著者(カナ) アオヤマ,マサフミ
標題(和) ディドロ美学・美術論研究
標題(洋)
報告番号 216308
報告番号 乙16308
学位授与日 2005.07.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第16308号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 名誉教授 渡邊,守章
 東京大学 教授 杉橋,陽一
 東京大学 教授 高橋,哲哉
 東京大学 教授 鈴木,啓二
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、フランス18世紀の思想家ドゥニ・ディドロの美学・芸術理論並びに美術論・美術批評を考察の対象として、その美学・芸術理論・美術論・美術批評が、通俗的意見に反して、内部に矛盾を学んでおらず、極めて理論的・哲学的に一貫したものであるということを明らかにすることを第一の目的とするものである。

本論文は、しかしながら、ただ単に、ディドロの美学・芸術理論・美術論・美術批評が全体として無矛盾であるという、いわば消極的な結論を導出することのみを目的としているものではない。より積極的に、ディドロの美学・芸術理論・美術論・美術批評が、プラトン・アリストテレスによって代表されるヨーロッパの古典的美学・芸術理論の伝統を正統に受け継いでそれを深く踏まえたものであり、そして、そうであるがゆえに、カント以降のドイツ観念論美学に典型的な近代主観主義を乗り越えるために有効な資源=力を豊かに内に秘めていて、この意味において、近代にありながらも近代を越える力を我々に提供しているものである、ということを明らかにしようとすることが、本論文の第二の、より深い目的である。

カント的な近代美学は、現代においてさえも、基本的には大きな影響力をいまだに失っていない美学である。しかし、あるいはそれゆえにこそ、美学においても、近代以降の物の考え方−−例えば、近代的な「特権的主体」や「偉大な創造的主観性」の神話−−を根本的に乗り越えること、即ち、近代の乗り越えが、今日まさに要請されているのであり、この点において今日ますますその重要性が明らかになっている美学の一つが、ディドロの美学なのである。

この、近代的な「特権的主体」や「偉大な創造的主観性」の神話を根本的に乗り越えることは、まさしく学問としての表象文化論のめざすことの一つであると言えるであろう注1。本論文は、それゆえ、表象文化論の最も根幹をなす概念である「表象」(representation)の古典的基盤の解明を通じて、現代の知としての表象文化論と、プラトン・アリストテレス以来のヨーロッパの古典的美学・芸術理論との接点を、ディドロにおいて、明らかにしようとするものでもある。

考察の順序は、ディドロのごく近い周辺においてさえも見受けられた主観主義の潮流の概観から始まる。モンテスキューにおいて相当程度に強まったその主観主義への傾斜が、ドイツにおいても見られることをその次に述べて、バウムガルテンのその点に関する決定的転回を検証した後に、そのような後期バウムガルテンと決定的に異なるディドロ美学の、超近代主観主義的な、美の哲学的原理論を、詳しく見てゆく。

次に、そのディドロの美の哲学の基礎の上にしっかりと打ち立てられているディドロの芸術哲学について、その芸術創造理論を中心に詳しく見てゆき、ディドロの芸術哲学が、超近代主観主義的な実在論であり、実践的な制作の立場に立ったミーメーシス哲学であることを明らかにする。

そしてその次に、以上の、ディドロの美の哲学と芸術哲学が、最晩年に至るまでのディドロの芸術理論において一貫してその基礎をなしていることを明らかにし、そして最後に、そのような美の哲学と芸術哲学と芸術理論の上に立ってディドロがなした史上初の本格的美術批評の中から、グルーズ論とシャルダン論を採り上げて、通俗的なディドロへの批判−−ディドロが道徳的なるものや文学的なるものを偏重して絵画的なるものを軽視した、などという、余りにも流布している、ディドロのグルーズ論への批判−−の誤謬を指摘し、ディドロの美術批評が、カント美学とは原理的に全く対立しているものであって、関心の美学の上に立つものであり、強度の美学の上に立つものであることを明らかにし、また、ディドロ自身の<存在の連鎖>の自然哲学の上に立つモナド論的な世界ミーメーシス論であり、世界の内なる声のミーメーシス論に他ならないことを明らかにする。

バウムガルテンは、1739年の時期には、美に関して、実在の側の完全性が美であるという古典的伝統的な論定を行っていたのであるが、その後、1750年に至って、彼は、感性的認識の完全性が美である、という根本的な転回をなすようになり、美についての完全な主観主義に転向した。

1745年、ディドロは、『真価と徳に関する試論』において、美は、世界における存在の内に根拠をもっているのであり、そのような存在を本質的な深いレヴェルにおいて模倣(imitation)することは、単に現象界の具体的存在者を表面的に機械的に模写(copie)することと全く次元を異にする営みに外ならない、と述べ、また、「宇宙においては全てが結び合わされている」 注2と述べ、現実界に現存している存在の内における関係(rapports)を、現実の存在の法則と呼んだ。更にディドロは、美しい人間とは、身体の調和的な全組織が、最高度に優秀な仕方でもって一致協力して、様々な数多くの機能(fonctions)を最もよく遂行するような人間に外ならない、と述べているのであって、まさに、1767年のディドロの著名な<理想的モデル>論は、1745年に既に、原理的には完壁に提示されているのである。

この関係について、ディドロは、『百科全書』の項目<美>において、美学的哲学的考察を行う。ディドロは、プラトンもアリストテレスも明示的には為し得なかった美の哲学的定義を行ったのである。

この項目<美>においても、カント的な近代美学と鋭く対立するところの、実在に全面的に根拠をおく美学が提示されている。ディドロ美学においては、美を認識する主観の存在・非存在にかかわりなく、自然或いは芸術家によってひとたび美しく形成せられた事物において、美は既にその事物の内に成立しているのである。この超認識主観的実在論美学を、ディドロは、晩年に至るまで一貫して堅持してゆく。このことは、次の一文によっても明確に確認されることである。

「美しいものは、常にどんな場合でも美しい。変わるのは私の感覚のみである。私がルーヴル宮殿の柱廊の前を、その柱廊を見ることなく通り過ぎる。(その時)その柱廊は、私が見ないということの故に、私にとってより美しくなくなるであろうか。全然そんなことはないのである。」注3

従来この項目<美>の美学を論ずる人々の多くは、ディドロが美を<関係の知覚>としてとらえたと述べてきているのであるが、現実にはディドロ自身がくり返して力説しているように、知覚する認識主観が存在していなくとも、或る美しい事物は依然として常に美しいということこそ、ディドロ美学の根幹をなす命題に外ならないのである。

ディドロは、関係について次のように語っている。

「実在的関係がどのようなものであろうとも、正しくその実在的関係こそが美を構成する、と私は主張する。」注4

実在的関係が美を構成するということは、そのダイナミックな意味においては、或る一存在は、その<一>の内において<多>を再現すればする程、それだけますます濃度の濃い充実した存在となり、それだけますます美しい存在となる、ということを意味しているのである。ディドロ美学において、美とは、<一における多の再現>としての<存在の充実した在り方>に外ならないのである。

<一>に重心を置くライプニッツのモナド論に対して、ディドロの存在充実の美学は全く逆に<多>に重心を置くものであって、ディドロは、ライプニッツの予定調和論に、自らの、自然の「全てのものを結びつける大いなる連鎖」注5の思想を代置して、<一における多の再現>の思想全体を無神論化したのである。

アリストテレスと全く同様に、ディドロもまた、文学、音楽、美術等の全芸術は、その個別的な媒体・手段に相違はあっても、全てミーメーシス=模倣という一点において共通しており、まさに模倣ということこそが、芸術の本質に外ならないと論定している。

美と真は、根本において同一である。芸術家は、芸術創造において、美を追求するにもかかわらずではなくして、正しく美を追求するがゆえに、機能という、真を根拠とするものを、観念として、最高度に実体構造化させるのであり、そのようにして得た<理想的モデル>を模倣することによって、芸術作品を創造するのである。

ディドロは、カントなどとは明確に立場を異にする美学者であって、「あらゆる関心ぬきの満足」などではなく、まさにその反対に、「強烈に関心をかき立てる」力・エネルギーを持っていることを、芸術作品の本来的な根本性格として認めているのである。

<一における多の再現>のディドロ美学は、ディドロのシャルダン論において確固とした根本的根底をなしている。シャルダンの為す「自然の極めて忠実な模倣」の究極的な対象たる<自然の真なる本質>とは、世界の複合的な一体性なのであり、実在的自然における全存在の連鎖という、世界の全体的にして複合的な在り方そのものなのである。

シャルダンは、見事に、生の本質をミーメーシスし、世界の内なる声を、自らが描いた存在から発声させることに成功している。そしてディドロは、高度に哲学的なモナド論的世界模倣論の上に立って、芸術作品から聞こえてくる、世界の内なる声を、言葉による自立的な構築物に更にミーメーシスすることを成し遂げ、世界初の、本格的な意味での、美術批評を創始したのである。

注1 渡邊守章『表象文化研究−−文化と芸術表象』(放送大学教育振興会、2002年)3頁。

注2 Denis Diderot、CEuvres completes、Paris、Hermann、t.l、1975、p.313.

注3 Denis Diderot、CEuvres、Paris、Robert Laffont、t. l、1994、p.908.

注4 Denis Diderot、CEuvres completes、Paris、Hermann、t.VI、1976、p.162.

注5 Denis Diderot、CEuvres completes、Paris、Hermann、t.IX、1981、p.32.

審査要旨 要旨を表示する

青山昌文氏が提出した博士(学術)学位申請論文『ディドロ美学・美術論研究』は、18世紀フランスの哲学者ディドロの美学思想に関する研究であり、その芸術理論・美術論・美術批評が、全体として理論的・哲学的に強固で整然とした体系性を有していること、またその体系性が最初期から晩年まで一貫して認められることを証明することをめざしている。さらに、そのディドロ思想を西欧美学史の伝統的な系譜に位置づけたうえで、カント以降の近代美学の地平で覆い隠されてしまった彼の理論の潜在的活力の復権を試みている。

本論文は以下のような全6章構成になっている。まず、第1章「美学における主観主義への傾斜」では、ディドロ思想の背景をなす18世紀フランスの知の状況が、ヴォルテール、ダランベール、モンテスキュー、さらにドイツのバウムガルテンにも触れながら、彼らの思想との対比の下で展望される。

第2章「ディドロの美の哲学」では、初期ディドロがシャーフツベリの著作『真価と徳に関する試論』を自由にフランス語訳しつつそこに付した多くの訳注を手がかりに、〈関係〉、〈機能〉、さらにその根底に横たわる〈全存在連鎖としての自然〉等、以後30年以上にわたるディドロ美学の歩みにおいて揺るぎない基礎をなすことになる諸概念が、浮き彫りにされてゆく。批判されるべき〈模写〉の概念と対比的に、ディドロは本質的なるものの〈模倣〉を顕彰するが、このミメーシス論が原初的な形ですでにこの最初期の訳注に現われていることの重要性が指摘される。また『百科全書』の項目〈美〉において、カント的な近代美学と鋭く対立する、「美の実在」に全面的に根拠をおく「超=認識主観的」美学が提示されていることが明らかにされる。

第3章「ディドロの芸術哲学」では、ディドロの執筆した『百科全書』の〈模倣〉の項目をはじめいくつかのテクストに焦点を絞りつつ、ディドロもまたアリストテレスとまったく同様に、文学、音楽、美術等の全芸術は、その個別的な媒体・手段に相違はあってもすべてミメーシス=模倣という一点において共通しており、芸術の本質は〈理想的モデル〉の模倣に存すると論定していることが指摘され、ディドロを古代ギリシャ以来の西欧美学思想史の系譜に位置づける試みが展開される。

第4章「ディドロの芸術理論──最晩年を中心に」はディドロ晩年の『絵画論断章』の分析であり、そこにおいてもこのミメーシス理論のさらなる展開と深化が見られることが、〈批評〉〈モデル〉〈統一性〉〈シンメトリー〉などの諸観念に触れつつ示されている。

第5章及び第6章は「ディドロの美術批評」に捧げられ、それぞれグルーズとシャルダンという二人の画家に向けられたディドロの言説が分析されている。ディドロに今日的な意味での美術批評の祖を見るのは通説であるが、彼の美術批評の真の意義はまだ十分には明らかにされていないというのが本論文の主張である。たとえば、グルーズに対するディドロの態度はこれまでグルーズの絵の教訓的価値をめぐる単なる道徳主義的な称揚にすぎないものとして軽んじられる向きがあったが、本論文ではそれを〈強度の美学〉ないし〈エネルギーの美学〉の上に立つ美術批評として読み直し、斬新な再評価を試みている。

しかし、ディドロが『1767年美術展覧会批評』でもっとも高く評価している画家は、言うまでもなくシャルダンである。〈一における多の再現〉としてのディドロの美学思想は、このシャルダン論においても根本的な基盤をなしている。ディドロによれば、シャルダンの絵における色彩は世界内の相互的な連鎖を表わすものであり、一つの絵画的世界の内なる存在は、他のすべての存在から光の反射を受け、同時にその受けた光を反射してもいる。ディドロは、自然における全存在の連鎖というモナド論的「世界模倣論」の上に立って、芸術作品から聞こえてくる〈世界の内なる声〉を、言葉による批評文へとさらに「ミメーシスする」ことを為し遂げ、それによって世界内在的にして作品内在的な美術批評を西欧においで初めて創始した、というのが青山氏の主張であり、本論文全体の結論にもなっている。

ディドロの文章は、知性のあまりに生き生きとした活動がそのまま転写されている結果、飛躍が多くしばしば論弁の筋道が辿りにくい。また一気に対象と同一化したり、視点が自在に転移してゆくために、一貫性がないかのように受け取られることも多い。本論文で青山氏は、文学としては面白いかもしれないが哲学ではないと言われるがちであったディドロの文業を細密に読み抜いて、初期から最後期まで一貫する美学理論の枠組みを引き出してみせている。これが本論文の学問的貢献として第一に挙げるべき点であろう。

また、そのような強固な体系として提示されたディドロの美学・芸術理論・美術論・美術批評が、一方で、プラトン・アリストテレスによって代表されるヨーロッパの古典的美学・芸術理論の伝統を正統に受け継ぎ、それを深く踏まえたうえで提起されたミメーシス理論であるという点、しかし他方でまた、カント以降の主観主義的な近代美学と根本的に異なるものであるという点を、二つともども明快に剔抉している。ディドロの美学をカントに至る前段階と捉え、カントによってディドロが乗り越えられたとする、もともとはドイツ人の哲学史家が唱えはじめ、今でもフランス人の間でさえかなり流布している見解を批判して、ディドロ美学の美学史における位置とその意義の正当な評価を提示していることが、本論文の大きな価値であることは疑いを容れない。

近代の立場からディドロを見れば矛盾・混乱と見えるものも、実は矛盾でも混乱でもなく、そこに統一的な体系性が貫徹していることを、青山氏はテクストの字句に即しつつきわめて説得的に証明している。またそうしたディドロ思想が、近代的な「特権的主体」や「偉大な創造的主観性」の神話の乗り越えのために、さらに言えば、〈近代〉それ自体の乗り越えのために、一つの有効な拠点を提供しており、たとえばクリストのような現代のアーティストの仕事を理解するうえで有用な理論たりうるという点を明らかにしたこともまた、本論文の大きな成果であろう。

本審査委員会は、慎重審議の結果、従来のディドロ論の不当性を糾弾しようとするあまり論述がポレミックになりすぎている点、断罪の対象としての〈近代〉の概念が一面的にすぎるという点、演劇や音楽といった美術以外の芸術ジャンルへの言及がない点など、いくつかの不満はあるものの、前述の種々の学問的価値に比べればそれらは小さな瑕疵にすぎないと判断し、青山昌文氏による本論文『ディドロ美学・美術論研究』を、博士(学術)にふさわしいものであるとの結論を得た。

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