学位論文要旨



No 216173
著者(漢字) 熊木,俊朗
著者(英字) Kumaki,Toshiaki
著者(カナ) クマキ,トシアキ
標題(和) 環オホーツク海沿岸地域古代土器の研究
標題(洋)
報告番号 216173
報告番号 乙16173
学位授与日 2005.02.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第16173号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宇田川,洋
 東京大学 教授 今村,啓爾
 東京大学 教授 大貫,静夫
 東京大学 助教授 佐藤,宏之
 早稲田大学 教授 菊池,徹夫
内容要旨 要旨を表示する

 古代〜中世における日本列島の北方史をめぐる研究は、「交流」をキーワードとして広域的な歴史動態を論じる、というダイナミックな展開を見せている。そこでは文献史料のみならず考古資料が非常に重要な位置を占めるのであるが、実は日本列島の北端部を含む環オホーツク海沿岸地域においては、考古資料の時間軸を定める上で重要な役割を担うはずの土器型式編年に不備や空白が残されたままとなってきた。

 本論では、日本列島史で言う弥生時代から平安時代に至る時期において環オホーツク海の沿岸地域で使用されていた土器群、具体的には続縄文土器およびオホーツク土器を中心とした土器群について、考古学的な方法を用いて型式編年を行い、当該時期・地域の歴史叙述のための基礎的データを提供するとともに、土器の分析を通じて明らかになった当該地域の人や情報の動態について考察した。その成果は、1.広域にわたる地域間の編年対比の確立、2.当該時期・地域における広域土器編年を可能とするための新たな視点・方法の提言、3.土器の動きにあらわれた地域間交流様態の解明、4.新発見資料・未報告資料の提示による「資料的空白」の補完、の4点に集約することができる。

 成果の第1点は広域にわたる編年対比の確立である。続縄文時代においては北海道全域からサハリン南部に至る地域、オホーツク文化期では北海道からサハリン、アムール河口部にまで及ぶ地域の各土器型式群について、型式細別ならびに時期区分・地域区分を整理し、縦と横の関係を確定させた。具体的な成果は別紙添付の土器編年表に示したとおりである。

 成果の第2点については時期別に述べる。まず本論第1部では続縄文土器の検討を行っているが、ここでは続縄文土器型式編年全体を構造的に捉える視点・方法を新たに提起した。恵山式土器を除く主要な続縄文土器型式の編年は同一の視点・方法で分析できる、というのが本論第1部での新たな提言であり、この分析方法-文様割りつけ原理と文様単位の分析-を用いることにより、多数にのぼる続縄文土器型式間の構造的な同一/差異性が容易かつ系統的に把握可能となる、というのが本論第I部における方法論上の成果である。続いて本論第II部ではオホーツク土器についての検討を行っているが、ここでは「層位的所見」を偏重した先学の土器編年方法に対して問題点を指摘するとともに、すでに先学によっても提起されていた属性分析の手法を発展・精緻化させることにより、オホーツク土器型式編年の視点・方法を深化させた。オホーツク土器全体の広域編年対比を秩序立ったものとするには、アムール河口部から北海道にわたる広い地域の各土器型式群に対し、共通の視点で属性を分類・把握することが現状では最良の方法となる。本論第II部ではそのような視点に立ち、属性分析的な手法を用いた編年を実践した。

 成果の第3点についても時期別にまとめる。まずは本論第I部の続縄文土器である。

a)続縄文前半期においては、東北北部〜北海道南部の系統を母胎とする恵山式土器が、道南部で成立した後に北海道中央部(道央部)に分布域を拡大してゆくが、道央部では恵山式土器と在地の系統とが並立することはなく、いわば「なし崩し」的に恵山式土器が侵入し、受容されている。同じ頃、釧路地域でも網走地域の宇津内IIa式土器がやはり「なし崩し」的に受容され、それまで存在していた網走/釧路地域間の地域差は縮小する。道央部と道東部においてこのような拡大があった後に、道央部で恵山式土器と宇津内式土器の両系統が接触して生じたのが後北A式土器である。後北A式土器の成立は、先立つ時期の恵山式アヨロ2b式相当の土器を母胎とし、続く時期に宇津内IIbI式土器との型式交渉が強化されることによって独自の系統が生成されてゆくプロセスとして理解できる。

b)後北A式土器の成立以後、道南部/道央部/網走地域/釧路地域間の地域差は再び顕在化し、互いに交渉を持ちながらもこの4系統は意識的に排他性を保ち続け、後北C2・D式土器の成立期まで痕跡的にではあるが各系統が存続する。

c)続縄文後半期の後北C2・D式土器は、高い斉一性を持ちながら広域に分布するとこれまでは考えられてきた。しかし、時期別・地域別に後北C2・D式土器を細別してみると、以下のような地域差が段階的に生じていることが判明した。すなわち、成立当初の後北C2・D式土器には道央部/道東部それぞれの系統の影響が残ることにより地域差が生じているが、その後地域差は一旦解消される。しかし次の時期には道央部的な文様割りつけが道東部でいち早く崩壊することにより、地域差が再び顕在化してくる。このように斉一性が高いとされる後北C2・D式土器であっても、その「斉一性」には進行/後退するプロセスがあるので、結果としてこの土器型式にも地域差は存在することになる。

d)続縄文後半期のサハリン中部〜北海道北端部に分布する鈴谷式土器の型式学的特徴については、これまで縄線文=南部側に分布/櫛目文=北部側に分布という二分法的な理解が支配的であったが、資料の現状との矛盾も多かった。鈴谷式土器の型式変遷を「複雑から単純へ」という視点から再整理してトレースすると、資料の現状をうまく説明できると同時に、そこには南北交流が段階的に進行するプロセスが浮かび上がってくる。

 次に本論第II部のオホーツク土器である。

a)オホーツク文化初頭の土器である十和田式土器の分布はサハリン南西端部〜北海道北端部に限られるが、次のオホーツク文化刻文期になると、アムール下流域の靺鞨系土器の影響を受けて環オホーツク海沿岸の広い地域でほぼ同一の土器型式(刻文系土器)が分布するようになる。北海道においては十和田式土器から刻文系土器への型式変化は非連続的であり、遺跡の継続性にも断絶が認められる例が多いことから判断すると、この時期にはサハリン以北から北海道へとヒトの流入があった可能性が高い。しかし刻文系土器には前半段階からすでに微細な地域差がある点等からすると、ヒトの流入は一元的な地域からの大規模な侵入ではなく、すでに萌芽的に存在していた各地域別のネットワークに取り込まれる形・規模で起こったものである、と考えることができる。

b)オホーツク文化刻文期の土器群は2時期に細別可能であり、その後半期から顕著な地域差が生じ始める。地域差はまず宗谷海峡を境に生じ、その後さらに地域化が進んでアムール河口部/サハリン/北海道北部/北海道東部とそれ以東という型式圏に分かれるようになる。地域差がまず宗谷海峡を境として生じる背景には、擦文文化との交流が道北部でいち早く生じたことが影響している。またそのような交流によって、オホーツク土器・擦文土器両者に型式学的な影響が双方向的にもたらされ、特に道北部ではオホーツク土器の型式変化が促進された。

C)同じ頃、アムール河口部ではオホーツク式系統の土器と在地のテバフ式系統の土器の交渉が進み、両者の系統が「融合」した土器が生み出されるまでに至った。オホーツク文化とロシア極東地域の交流は、金属器等の大陸系遺物がアムール流域のものであることからその地域との関係が注目されてきたが、アムール河口部周辺の在地伝統やヤクーチャ方面との交流も視野に入れた多面的な視点が必要である。

d)北海道東部における刻文系土器から貼付文系土器への移行過程については、これまで不明な部分が多かった。この問題は、刻文系土器と貼付文系土器の間に、道北部の沈線文系土器に併行する時期を新たに設定すると理解が容易になる。具体的な移行過程は、まず沈線文期の前半には道東部独自の系統の上に道北部の影響が及び、その後再び道東部の系統が復活し、逆に道東部から道北部へと型式学的な影響が及び始める、という流れである。

e)続いて、北海道では貼付文期後半になると道北部の系統は衰退し、道東部の系統が勢力を強めてくる。最終的には道北端部にまで貼付文系土器が分布するようになる。

 成果の第4点はオホーツク土器に関する「資料的空白」の補完である。まずアムール河口部の資料についてはこれまでまとまった量の資料はほとんど報告されていなかったが、本論では2001年度に発掘調査されたニコラエフスク空港1遺跡の出土資料を詳しく紹介・分析することにより、この地域の土器群の実態をまとまった形で初めて明らかにした。続いてサハリンの資料については、情報が少なかったこともあり戦後はまとまった形で論じられることはほとんど無かったが、本論では改めて関連資料を渉猟しつつ、具体的な土器の分析に基づいて型式編年を再構成した。また、北海道の資料については、オホーツク文化の最重要資料の一つであるにもかかわらず不明な点が多い網走市モヨロ貝塚出土の土器群について、新たに実測して再報告し、北海道東部における土器型式編年の基礎資料を提供した。

 以上が本論の成果である。広域編年対比が確立していない環オホーツク海沿岸地域においては本論の持つ意義は決して小さくなく、本論は日本列島とその北方地域の交流史解明のための足固めとしての役割を果たすことになるであろう。

続縄文土器編年表

※1 時期区分は、宇田川洋氏の5期区分(宇田川1982)をもとに、早期を一部改変して設定した。

※2 早期の土器群から波状沈降文・波状縄線文が消滅した段階。その他の型式学的特長は早期とほぼ同じ。

※3 宇津内IIb式や後北A式等が断片的に確認されている。

※4 南千島では下田ノ沢IIa式が確認されている。

※5 道東武網走地域ではほとんど出土しない。また道央部と道東部釧路地域の間では地域差が著しい

続縄文・擦文・オホーツク土器編年表

巻末付図1 土器編年表

審査要旨 要旨を表示する

 本論文の分析対象地域は、日本列島の北端部を含む環オホーツク海沿岸地域であり、考古資料の時間軸を設定する上で重要な土器型式編年に不備や空白が残されていたところである。申請者は、まったく新たな土器型式分析方法(「文様割りつけ原理と文様単位の分析」)と、自らのアムール河口部での発掘調査を通しての新資料での分析等から、当該時期・地域の歴史叙述のための基礎的データを提供し、さらに当該地域のヒトや情報の動態について考察しており、完成度の高い研究である。

 第I部の続縄文土器編年では、道東北部の宇津内式と下田ノ沢式土器、道央部の後北式土器群を先の「文様割りつけ原理」で整理を行った。また道北端部からサハリンに分布する鈴谷式土器を扱い、続縄文土器群とオホーツク土器群の連続性/非連続性つまり南北交流が段階的に進行するプロセスを明らかにした。特に「文様割りつけ原理」の手法では、多数の土器型式間の構造的な同一/差異性が系統的に把握され、そこに存在する縦の系統関係と横の影響関係を明確にした。第II部はオホーツク土器編年である。道北部編年の枠組とされてきた礼文町香深井A遺跡の土器編年を層位と型式のクロスチェックで再検討し、文様要素他の各属性の組み合わせパターンから属性を絞り込み、刺突文群→刻文I群→刻文II群→沈線文群という変遷を設定。その後、網走市モヨロ貝塚の未公開資料をも駆使して型式学的検討を加え型式変遷過程を提示した。道北部との対比では、両地域で系統が交錯するプロセスを整理し、さらに刻文土器群の検討をアムール河口部との比較等から地域差を設定し、その地域別ネットワークにヒトが取り込まれる形・規模を土器型式論で想定。最後にオホーツク土器の展開過程とその背景をまとめ、北海道の続縄文・擦文土器との編年対比も行い、オホーツク土器の成立・展開過程を明らかにし、広域編年対比を確立している。

 本論文は、地域毎の編年と地域間の対比、土器の動きに表われた地域間交流様態の解明等、従来個別に行われてきたものを総括し、広域の環オホーツク海沿岸地域の土器編年を初めて確立した研究として高く評価できるものである。土器交渉とヒトの動態をもう少し追及して欲しかったが、現時点ではいかなる研究者もさらなる追及は困難と考えるので本論文の意義を損なうものではない。

 以上より、本委員会は、博士(文学)の学位を授与するにふさわしいと認めるものである。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/40226