No | 216011 | |
著者(漢字) | 吉田,純 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ヨシダ,ジュン | |
標題(和) | 清朝考証学の群像 : その情熱の根源を見つめて | |
標題(洋) | ||
報告番号 | 216011 | |
報告番号 | 乙16011 | |
学位授与日 | 2004.04.28 | |
学位種別 | 論文博士 | |
学位種類 | 博士(文学) | |
学位記番号 | 第16011号 | |
研究科 | ||
専攻 | ||
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 中国清朝康煕期から道光期に至る約三百年間に生起した経書及び諸子を対象にした文献学であり、一代の学術運動であった清朝考証学につき、その微に入り細に入る内容に自己投入した考証学者たちの情熱の根源の所在に注目しつつ、華北・華南双方の幾多の考証学者たちの学問と生活の再現を試みた彙集である。 篇別構成は、導論、第一章 閻若〓、第二章 紀〓、第三章 崔述、第四章 翁方綱、第五章 劉台拱と汪中、第六章 戴震と段玉裁、第七章 襲自珍の八部分からなる。 導論では、遠く南宋の呉域に由来する上古漢語研究と経書批判が各々康煕期の顧炎武・閻若〓に受け継がれ、清朝考証学の両支柱になったこと、また生来知恵の遅かった者ほど大器晩成していること、および少年期に生員の塾師から音韻学初歩の指導を受けた者が成長後、古音学の分野で大成していること、さらに当時は生員までで挙業を断念し、読書の学に沈潜した者に限って真の学究者が多かったことを述べた。 第一章「閻若〓」は二つの節に分け、第一節「『尚書古文疏証』とその時代」では東晋晩出の『孔氏伝古文尚書』が偽作であることを論破した閻若〓の『尚書古文疏証』の所説に対する、同時代人の黄宗義・顧炎武・朱彝尊らの"畏れ"を含んだ反応を分析した。第二節「閻家の四十年――『尚書古文疏証』が公刊されるまで」ではこの『尚書古文疏証』が、閻若〓の没後四十年になって「淮揚士大夫」の義捐を受けようやく公刊された事実に着目し、その理由を雍正帝の地方官僚に対する皇帝専制権力―極集中型支配に求めた。 第二章「紀〓」では『四庫全書』総纂官を務めた紀〓の著書『閲微草堂筆記』を対象に、清朝考証学の最盛期であった乾隆-嘉慶期を代表するその学問思想を多面的に考察した。まず『四庫全書』の編纂を主宰して得たと思われる闊達な事物の相対視に着目しその諸局面を分析し、次いで紀〓の思想性向である宋学の"理"の限定性の自覚に注目し、同時代人の戴震との符合にも言及した。またその図抜けて闊達な学問観からは、円熟の時をはや過ぎようとする清朝考証学の命運を暗示させることを指摘した。 第三章「崔述」では所謂「清代三省の学」からは地理的にも懸絶した旧直隷省大名県で古史批判を行い巨冊『考信録』を著述した、民国以降の近代中国史学の先蹤者である崔述の人間と学問を詳述した。まず崔述が経書中の上古・古代の歴史記事の合理性を検討して、そぐわぬものは仮借無く排斥する諸例を挙げ、その学問が清朝考証学の口号「実事求是」の名の下に現実の経書を否定に導くというパラドキシカルなものであったことを指摘し、ついでこの異才を育んだ家庭教育について詳述し、また一人の読書人兼士大夫としての崔述の平生を事細かに再現した。次には著者積年の関心事である儒学言論の遵守事項「闕疑」の精神の具有を崔述の学問中に求め、繁を厭わず多数の実例を示した。上記の通り崔述は史学畑の学者とされてきたが、儒学的教養人であることに間違いは無く、『考信録』の中核部分『洙泗考信録』における孔子像の理想化に着目し、学問は既成観念の放棄に始まることを宗とした崔述自身が、"聖人"孔子という内なる偶像からはやはり脱却できなかった実例を見出し、これを儒者崔述脳漿中の残滓と指摘した。 第四章「翁方綱」では概ね清末に盛行したとされる「漢宋兼採学」の先蹤として他に類を見ない乾嘉期の翁方綱の学問につき、その最晩年の著書であり天下の孤本でもある『蘇斎筆記』を対象として、その実相の分析を行った。これは江藩『国朝宋学淵源記』巻上冒頭の語「六経尊服鄭、百行法程朱」のような、清儒一般の、学問と操行との間で各々漢学・宋学を使い分けるという視座からの分析ではなく、あくまで翁方綱の学問そのものにおける両者の関係づけの考察である。翁方綱の学問の根柢は宋の二程子・朱熹の唱導であるが、「宋学」の代表者朱嘉の『周易』先天方位やその門人蔡沈の『尚書』解釈を「害経」「乱経」と手厳しく糾弾する。もう一方の「漢学」は経書の古義を存すという意味で尊重するが、それに附加逓伝された後世の穿鑿を何より忌む。同時代人中もっとも見解の齟齬した者は恵棟であり、その著書『周易述』は頻繁に槍玉にあげられている。翁方綱の漢宋兼採とは漢宋両学の経書解釈の一々に臨んでその可否を審判するものであり、その実相は両学の是々非々の審判であると結論する。 第五章「劉台拱と汪中」では江藩『国朝漢学師承記』に立伝されていながら通俗的な知名度を持たない劉台拱と心友汪中の学問、並びにその同時代者の章学誠・王念孫・段玉裁らとの親交を詳述した。劉台拱には相手を一度で心服させる特異な感化力があり、その交友中には互いに相いれず共にその言行を「狂生」と目された汪中と章学誠も含まれていた。汪中は友誼に狭量でありながらも一度の対面で劉台拱に心服し、劉台拱はその没後の遺著公刊に至るまで深い親交を保った。汪中の学問中、最も注目すべきは墨家思想の顕彰であり、その精粋を示す「墨子序」を検討し、また貧窮の母子家庭に育ったかれが、それを、社会に実現する目的で構想した「貞苦堂」の概要を詳述した。汪中は乾嘉の学の構成員でありながらも、その研究対象は既に群経から諸子思想へと発展しており、墨子のみならず荀子に対しても「荀卿子通論」の論緒があり、その内容として、由来中国儒学の正統は性善説であるが、性悪説を呈示した荀子の伝経の功を顕彰して「周公之ヲ作リ、孔子之ヲ述べ、荀卿子之ヲ伝フ」とする、その異色の高評価を紹介した。劉台拱が五十一歳で病没した汪中の遺著を、その一子汪喜孫と頻回な連絡を取りつつ校勘編集し、多大の労をそれに費やした経緯を詳述した。主著『文史通義』として結実する章学誠の「史学」について、第四章で取り上げた翁方綱は、その奇抜さゆえに劉台拱に対しそれが那辺に帰属するかを問うたが、劉台拱は「知ラズ」の一言で応え、それに対し章学誠は劉台拱が自身の学問内容をよく会得したものとして並々ならぬ賛意を呈した―事を紹介した。劉台拱の学問の精粋は『儀礼』にあり、『儀礼補疏』と名付ける著書を構想していたが、江南の諸儒に幾多の啓発を与えながらも『儀礼補疏』の著述には懶であった由を追跡した。王念孫の『広雅疏証』、段玉裁の『説文解字注』という、清朝考証学を代表する二大成果を結実に導くべく、両者に慰安の手簡を送り続けた結果、両者は完成したが、逆にその両名から『儀礼補疏』著述を慫慂されつつも一向に応じず、五十五歳で病没するまでの過程を、両名の手簡から詳述した。考証学者として優に主張すべき自己を持ちながら、清朝考証学の"花神"として生きて悔いなかった劉台拱の学者としての生涯の意味づけを、当時の学問観−即ち個々人の貢献の総和が学問であるという通念に求めて本章を締めくくった。 第六章「戴震と段玉裁」は主に乾嘉期を代表する考証学者戴震・段玉裁の学問を扱ったもので三つの節からなる。第一節「乾嘉考証学における三つの世代」は乾隆嘉慶八十五年間の考証学を微視的に考察し、この期間に活躍した学者たちを、その治経の目的認識から三世代に分別する試論である。即ち戴震にとっての訓詁とはあくまで〈聖人の心思〉へ肉薄するための技術的階梯に過ぎなかったのであるが、かれがその階梯に多大の信を置き過ぎたためにライフワーク『七経小記』を完成できぬまま逝ったのに対し、段玉裁も治経の究極の目的をやはり〈聖人の心思〉への到達に置いてはいるものの、漢字成立運用の法則六書を"聖人六書の法"とまで称揚し、仮借の原理の追究により諸経間の字面の齟齬を調停することこそ"治経の方法"であると説く趣旨から、段玉裁の経学は、戴震の雄渾壮大でありつつも蹉跌した経学の目的認識を、純然たる文献学の次元に引き下げることにより、その記念的成果『説文解字注』の完成刊刻を完遂した、一世代下の成功裡の結実であった旨を論じた。さらに一世代下の顧広圻・江有誥らに対して段玉裁は治経に"知る"ことへの"畏れ"を持ち、群経に対する総合的理解を前提とするというその同世代の治経観から、これら後進に見られる知見の狭さを憂慮したことを述べた。第二節「段玉裁のライフワーク――段注長編圧縮の舞台裏」は著者積年の課題の検討の一環であって、清朝考証学の学者たちが往々経済的・身体的な労苦と闘いながら何ゆえ緻密な文献学に命をかけるのかという、その熱いパトスの根源の詳悉への肉薄の端緒として、病苦に悩まされながら莫逆の友劉台拱の慰謝を頼みにしつつ『説文解字注』長編精錬に辛苦する段玉裁平生の生々しい生活の再現を試みた。第三節「段玉裁晩年の思想」は段玉裁晩年の思想の顕彰であり、最晩年の翳りをも反映しつつ意外にも宋学に傾斜していたその心像を紹介した。 第七章「〓自珍」では段玉裁の外孫で後に清末経今文学の旗手となった〓自珍の、あたかも自身の恋の顛末を述べたかのような満州貴人子女同士の恋物語を紹介し、〓自珍の作になる数々の「詞」をも援用し、詞作に明け暮れた若き文学者としての相貌を再現しようと試みた。他方、呼ばわれることのみ多く実体が紹介されていない、〓自珍十二歳の折、外祖父段玉裁から伝授されたと言われる『説文』学の内容を今に伝える「最録段先生定本許氏説文」の訳注を示した。 | |
審査要旨 | 清朝考証学とは、西暦一七世紀末から一九世紀なかばにかけて中国学術の主流派を形成した学派で、古代から伝世されてきた文献を、音韻・語彙・文法等の実証的研究手法によって史料批判し、後世の恣意的な読み込みを排除してテクストの原意を蘇らせようという意図をもった学的営為を本質とする。百年前の学術変動の転換期においても西洋伝来の文献学と調和することで、今でもその成果が先行研究として利用されている反面、それ自体が思想史・学術史の研究対象となることは近年まであまりなかった。本論文は、内外の新たな趨勢に棹さして、清朝考証学の性格をその担い手たちの生き様や個性に焦点をあわせて論じきった意欲作である。 著者は「清朝考証学の群像の生々しい<人間>像の再現と、中国哲学研究最後の難関である清朝考証学を成立せしめた群像の情熱の根源は何かという問いの解明」を企図し、彼らの「熱気」を掬い取って語ることによって、これまで文献学として評価されてきた清朝考証学を、「人間学」として見ようとする。そのため、従来の研究が彼らの学問の方法や成果を核にすえて分析してきたのに対して、意図的に彼らの伝記や逸話を中心的話題として取り上げ、その人間くささを強調する手法を採っている。 分析対象として取り上げられた九人の学者のうち、閻若〓・紀〓・崔述・翁方綱・劉台拱・汪中・戴震・段玉裁の八人は、いずれも考証学の大家であり、異論の余地がない人選である。最後の〓自珍は春秋公羊学者という分類で近代思想家のはしりとして扱われるのが一般的だが、彼は段玉裁の孫であり、その薫陶を深く受けてもいた。著者は彼を清朝考証学の殿軍として位置づけることによって、中国の学術が大きく変質する一九世紀後半への見通しをつけている。 本論文は著者が過去二十年来書きため、折に触れて発表してきた諸論文を全面的に改稿し、如上の問題意識に沿って整理しなおしたものであり、著者のこれまでの研究が何を意図していたのかが、大きな枠組みとして提示されたものと評することができる。史料解読の精緻さは、研究対象である考証学者たちに全く見劣りしない。引用文の翻訳にも、平易でこなれた日本語としての工夫が凝らされている。 ただし、今回このように整理され、贅肉がそぎ落とされることによって、かつて個別の論文が初出時に見せていた、細部にわたる著者の視点の鋭さはかえって失われてしまったきらいがある。九人の学者たちの取り上げ方や分析視角は、必ずしも整合的に統一されていない。また、カトリックの布教活動によって紹介されたヨーロッパ学術と考証学との関わりにもほとんど触れていない。しかし、本論文はこのような欠陥を有しながらも、世界的に見てきわめて斬新かつ広闊な成果であることは間違いなく、研究史的に今後常に参照されることとなろう。よって、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしい水準に達しているものと判断する。 | |
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