学位論文要旨



No 215227
著者(漢字) 谷一,尚
著者(英字)
著者(カナ) タニイチ,タカシ
標題(和) 古代ガラス史研究
標題(洋)
報告番号 215227
報告番号 乙15227
学位授与日 2002.01.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15227号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 青柳,正規
 東京大学 教授 小佐野,重利
 東京大学 教授 川原,秀城
 東京大学 助教授 大貫,静夫
 東京大学 助教授 早乙女,雅博
内容要旨 要旨を表示する

 本論考の目的は、端的に言って「19世紀以来、幾多の先達によって営々と構築されてきた古代ガラス史のうち、未だ解明されていない空白部分を、現在知られているあるいは筆者自らが発掘整理した確実な資料を可能な限り用いて考察し埋める」ことにある。

 以下、幾多の先達によって営々と構築されてきた古代ガラス史における、その主な空白部分の指摘と、本論考がこのどの部分を埋めることにいくばくかでも貢献したか、その意義について略述する。

 単体としてのガラス成立以前の、施釉石、ファイアンスなどのガラス関連物質については、Lucas, A.による先駆的業績がある。ただ、これはエジプトに限定されたものであったので、これに対してメソポタミア・シリアにおけるガラス関連物質の先行性と起源とを、学術発掘による出土例を駆使して論じたのが、Moorey, P.R.S.であった。Mooreyはこの中で、かつて公刊した筆者の論文(本論考第1部第4章所収)などまで引用して厳密な考察を展開している。このMooreyの業績を採り入れながら、筆者が独自に収集した資料を加えて、窯の最高管理温度と金属精錬・ガラス技術が密接に関連していることを指摘し、ガラスの起源について論じたのが本論考第1部第1章。

 前2000年紀のメソポタミアのガラスについては、Oppenheim, A.L., Brill, R.H., Barag, D., von Saldern, A.による共同研究があり、これを大英博物館所蔵品を用いて補強し、新資料を加えて論考を展開したのが、Barag, D.である。このBaragの業績を基本に、岡山市立オリエント美術館所蔵新資料やドイツ隊によるトルコのヒッタイト遺跡ボアズキョイ出土のガラス珠鋳型を加え、技法的復元過程を通して前2000年紀中葉の開放鋳型による鋳造ガラス珠の技法と流通の問題を論じたのが本論考第1部第2章。

 前2000年紀のエジプトのコア・ガラスについては、Nolte, B.の著作(邦訳は谷一尚・近藤薫訳『エジプトの古代ガラス』)が、現在世界中に散らばっている基礎資料を徹底的に集めて論考を加えた最初の業績。独版原典では原色図版が1葉しかなくNolteの資料調査・資料撮影の労苦がこの面では必ずしも報われていなかったが、日本語版では原色図版が80葉と大幅に拡大し、原典版出版以後に発見された新資料も日本側の協力で増補され(この新資料のうち中心となる何点かは、故深井晋司博士の見いだされたものであるが論文執筆以前に逝去され未発表となっていた)、現在までの基本文献となっている。本論考第1部第3章は、この日本語版出版の際に採り入れた新資料を加え、エジプト新王国18王朝期におけるガラス製作の技法とその実態について考察したものである。

 容器以外の西方出土のガラス珠については、黒海北岸における出土例を丹念にまとめたАлксеева,Е.М.の3部作や、ドイツ・東欧・北欧におけるモザイク珠の出土例の集成であるAndrae, R.、イギリスとアイルランドにおける珠の出土例の集成であるGuido, M.、ローマ期のゲルマニアを中心としたガラス製装身具の出土集成であるGebhard, R.などの著作があり、Dubin, L.S.も各地の出土例を網羅的・体系的にあつかっているが、中国出土例については、由水常雄が一連の著作でふれていたものの、厳密な編年考察はほとんどなされていなかった。こういった状況下で、本論考第1部第4章は、重層貼付珠という中国と西方出土の双方の同一型式の珠について、イランにおける東大調査団や中国の学術発掘による確実な出土例から、その伝播年代とその流入の意味とを考察したものである。

 19世紀中葉以降、ガリア地域などでローマ期あるいはそれ以前の都市を起源とする都市が、人口増加などでローマ期の城壁の外側に市域が拡張した際、城壁外のローマ街道に沿って築かれていたローマ期の墳墓が多数発掘され、これに副葬されていた夥しい量のローマ・ガラスが出土した。たとえばケルンでは、1840年頃からこの傾向が見られるが、3世紀初頭までは火葬墓で、キリスト教が布教してからは土葬墓となるので、これをひとつの基準として編年がなされた。こういった考古学的成果をガラス研究に反映させたのが、Dillon, E.、Kisa, A.、Morin-Jeanなどで、ケルン出土ガラスを中心にこの地での独自製作の可能性をさぐり、さらに論考を展開させたのが、Fremersdolf, F.やDoppelfeld, O.らの一群の著作である。本論考第1部第7章は、こういったガリア出土のローマ・ガラスのうち、蛇状貼付文を有する一群のガラス容器について、その起源がシリア・パレスチナ出土例など東方ローマ世界にあることを提示し、その各地における出土例の編年再整理を行ったものである。

 1-3世紀の交易用高級ローマ・ガラスが、中国産の漆器やインド産の象牙製品などとともに集積された形で出土したのが、アフガニスタンのベグラーム遺跡。クシャン朝の夏の都カピシ王宮の宝物庫に比定されている。中国出土のローマ・ガラスは、現在までのところ、どの形態もベグラームやシバルガンのティリャ・テペなど、いずれもアフガニスタンで出土しており、この地域あるいはクシャン朝が中国へのローマ・ガラス交易の中継地の一つであった可能性がある。これを指摘し、墓誌等の文字資料から被葬者や埋葬年が確定できる中国出土例の特性を生かし、中国における埋蔵年代とローマ圏での流行年代との差が短いときは20年から30年内外であることを提示したのが、本論考第1部第5章・第6章。

 中国、韓国、日本など東アジア地域で出土する3-7世紀のガラス容器が、ローマ・ガラスかササン・ガラスか、それとも中国製かあるいは現地製か、の区別はなかなかやっかいで、特にローマ・ガラスかササン・ガラスかは技法的には近接しているためわかりにくく議論のあるところであった。しかしながら、最近の学術発掘による確実なガラス出土例の増加と、これに伴う素材の化学分析資料の増加により、少なくとも用いられたガラス素材がどの地域産のものであるかは、かなり解明されてきた。ローマ・ガラスもササン・ガラスも、同じソーダ石灰系でありながら、マグネシウムとカリウムの含有量に明確な差異が認められる。ローマ・ガラスがマグネシウムとカリウムがいずれも1%以下であるのに対し、ササン・ガラスのそれが3-5%と高い値を示すからである。これは、地中海産の豊富な天然ナトロンを原料として使用できるローマ・ガラスと、その入手が困難でその代用品として砂漠の植物灰を用いたササン・ガラスの素材における本質的差異を示していると考えられる。分析化学における最近の大きな成果のひとつで、これからすると、直接分析されている我国新沢千塚出土碗はササン・ガラス、そのものの分析はなされていないが類例の分析から正倉院型切子碗もササン・ガラスということになる。この最新の分析化学の成果を採り入れ、最近の新出土例による編年作業から切子碗各種の系統と伝播の問題を考察したのが、本論考第1部第9章、第11章、第12章。

 一方、東京大学がイランのデーラマン、ハッサニ・マハレ7号墓で発掘し、パルティアまたはササン・ガラスとされた突起括碗は、そのものの分析はされていないので未確定であるが他地域の同様出土例から、ローマ・ガラスの可能性が高い。これをパレスチナのガラス工房址や中国出土例などの類例を加え指摘したのが本論考第1部第8章。同じハッサニ・マハレの4号墓で発掘された金層ガラス珠に、我国や他地域の出土例も加え、技法的復元と編年を考察したのが本論考第1部第10章。これに本論考第1部第4章で、中国出土例とともに扱ったデーラマン、ガレクティ5号墓出土例を加えた3部が、曽野寿彦・深井晋司等による東大発掘でのガラスの出土成果を用い、さらにその後の成果を加え論考を展開させたものとなっている。

 中国出土ガラス容器については、由水常雄や安家瑶(邦訳は谷一尚「中国の古代ガラス」『世界ガラス美術全集』第4巻中国・朝鮮所収)の業績がある。本論考第1部第13章は、こうして公刊された出土ガラス容器の実物と、敦煌や法隆寺など仏教寺院の壁画に描かれたガラス容器を対比させ、敦煌石窟におけるガラス容器表現法の変遷過程から、法隆寺金堂壁画の制作年代を考察したもの。本論考第1部第14章は、一方で本来棗や砂糖などの西方輸入品の外容器として流入したガラスが舎利容器などに転用され、一方で中国産などのガラス容器が舎利容器として製作されていた当時の状況を韓国出土などのガラス製舎利容器をもとに考察したもの。

 中国では、学術発掘資料の増加に伴い化学分析資料も増加し、ブリルや山崎一雄らの尽力により、時代的・地域的に特色のある多様な成分の中国製ガラスの存在が明らかにされている。こういった中で、唐初期の中国におけるガラス容器製作の実態解明は、古代ガラス史研究の空白部分の一つで、筆者らの中国との合同発掘による初唐期中国製高鉛ガラスの発見は重要な意味を持った。高鉛ガラス製で曲杯という特殊の器形の容器が後の正倉院蔵ガラス容器に繋がる過程を考察したのが本論考第15章。

 西方におけるイスラム・ガラス研究に比べ中国出土のそれについては、あまり研究が進んでいない。本論考第1部第16章は、遼の貴族墓から出土するイスラム・ガラス容器に焦点をあて、西方イスラム世界における貨幣経済の進展により西方で銀が不足高騰していたのに対し、東方では1004年に始まる淵の盟により宋より遼が得たありあまる銀と絹とが存在し、この状況に眼をつけたウイグル商人が、この銀と交換するための商品としてイスラムガラスを用いたと考え、その北方中国流入の意味を考察したものである。

 なお本論考第2部は、以上の筆者の個々の論考や先達の業績により明らかになった事例を中心に、要説篇として概論的にまとめたものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論考の目的は、その冒頭にあるように、19世紀以来、営々と構築されてきた古代ガラス史の、未だ解明されていない空白部分を、最新資料あるいは著者自らが発掘した確実な資料を可能な限り活用・考察して埋めることにある。

 第1部の第1章は、単体としてのガラス成立以前の、施釉石、ファイアンスなどのガラス関連物質に関する考察である。Lucas, A.、Moorey, P.R.S.らの先行研究に、著者が独自に収集した資料を加えて、金属精錬とガラス技術とが密接に関連していることを指摘し、ガラスの起源について論じている。第2章は、紀元前2千年紀のメソポタミアのガラスについて、トレコのボアズキョイ出土のガラス珠鋳型など最新資料を用いて、鋳造ガラス珠の技法と流通の問題を考察する。第3章は、エジプト新王国18王朝におけるガラス製作の技法と実態の考察であり、第4章では中近東と中国から出土する同一型式のガラス珠の比較を通じて、中国への伝播年代とそれがもたらした影響関係を論じる。第5章と第6章では、中国から出土するローマ・ガラスの埋蔵年代がローマ世界での製作年代と2Oないし30年しか違わないことを詳細な資料操作で証明している。このような考察に必要とされるローマ・ガラスの製作年代と製作地を同定するため、第7章でガリア出土の多くがシリア・パレスチナ製であることを新たな整理分類で提示している。

 東アジアで出土する紀元3世紀から7世紀のガラスが、ローマ・ガラス、ササン・ガラス、あるいは中国製もしくは現地製であるのかを論じたのが第9章、第11章、第12章である。当該問題の解明のために筆者は同じソーダ石灰系であるローマ・ガラスとササン・ガラスのあいだにもマグネシウムとカリウムの含有量に相違があることに着目し、天然ナトロン(天然ソーダ)の入手が容易な地中海世界と砂漠の植物灰を用いるササン朝とのガラス材料の違いを明らかにするより科学的な分類によって新たな比定を行っている。

 第8章、および第10章は、東京大学イラン・イラク調査団の発掘資料を再検討すると同時にそれらの資料を用いて、ローマ・ガラスとササン・ガラスとを明確に分類している。第13章は、敦煌壁画に描かれたガラス容器の変遷から、法隆寺壁画の製作年代を推定しようとするものであり、第14章は、中近東で作られたガラス容器が舎利容器などに転用される例を中国、朝鮮の出土例から考察している。また、第15章では、著者が中国で発掘した初唐期中国製高鉛ガラスなどの新資料を用いて、正倉院蔵ガラス容器につながる過程を解明し、第1部の最終章である第16章では、遼の貴族墓から出土したイスラーム・ガラスに焦点をあて、中国世界とイスラーム世界とのガラスおよび銀の交易を詳細に論じている。

 第2部は第1部の考察を進めるに当たっての先行研究の検討および基礎資料の紹介である。

 以上の内容から明らかなように、著者は本論考でガラスの起源と考えられる紀元前5千年紀から紀元1千年紀までの地中海世界、中近東、中央アジア、それに中国、韓国、日本などの東アジアという広大な範囲を視野にとらえ、ガラス工芸の変遷と伝播、そしてガラス技術の展開を考察している。この考察を進めるに当たって、著者は自ら中国等での発掘を行うだけでなく、成分分析に関して自然科学者と共同研究を行い、より科学的な資料と分析・解析データの収集に務めている。その結果本論考は、未だ解明されていない空白部分の充填への貢献によりガラス史研究にあらたな展望をひらく基本書となりうるものであり、博士(文学)の学位を授与するに十分値する論文であると判断する。

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