学位論文要旨



No 215226
著者(漢字) 宇田川,洋
著者(英字)
著者(カナ) ウタガワ,ヒロシ
標題(和) アイヌ考古学研究・序論
標題(洋)
報告番号 215226
報告番号 乙15226
学位授与日 2002.01.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15226号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今村,啓爾
 東京大学 教授 後藤,直
 東京大学 助教授 大貫,静夫
 新領域創成科学 助教授 佐藤,宏之
 早稲田大学 教授 菊地,徹夫
内容要旨 要旨を表示する

 北海道の先史時代は、旧石器時代、縄文時代、続縄文時代、擦文・オホーツク時代と続き、それらの後にアイヌ文化の時代が設定されている。このアイヌ文化の時代は、いわゆる日本史(和人史)の立場、北海道史の立場、アイヌ史の立場からの時代設定がなされているが、筆者は考古学の立場からこの時代を設定している。年代的には擦文・オホーツク文化の時代の終末年代を13世紀とし、14世紀頃から18世紀末頃までを「原アイヌ文化」と称し、その後の現代に繋がる変質したあるいは変質せしめられた段階を「新アイヌ文化」と呼んでいる。そして、「原アイヌ文化」の段階はさらに細分して考えることができ、14〜15世紀頃の「前期アイヌ文化」、16世紀段階の「中期アイヌ文化」、17〜18世紀頃の「後期アイヌ文化」を設定している。これらの時代区分はあくまでも考古学の立場からのものであるが、このようにアイヌ文化を考古学的な方法論でアプローチすることによって、その成立のプロセスを解明しようとするのが筆者のいう「アイヌ考古学」である。

 本論の構成は三部とし、第1章は「アイヌ文化を考古学的に考える」とした。ここでは、実際の調査例としてチャシ遺跡・中世の館址・幕末の陣屋跡・アイヌの送り場(すべての生物や道具がもつ霊魂の送り儀礼を行った場)・墓の実例を紹介してみた。その編年的位置づけを行うのに際し、無文字社会のアイヌの記憶力の確かさからアプローチしてみた結果、15〜16世紀の前期アイヌ文化の時代に達した。アイヌ文化の形成過程を探るに当っては、従来の竪穴住居からアイヌの平地住居への転換およびカマドから炉への変換をアイヌの火に対する信仰から捉えることができることを説明し、それが内耳鍋の文化を形成したことと結びつけてみた。そしてアイヌ自製品に対して内耳鉄鍋の如き本州製品(和産物)の流入の増加は、自集団意識を高めさせる結果にもなったようである。それが「蝦夷地」と呼ばれた時代のアイヌ族の民族的アイデンティティの確立を含むアイヌ文化の確立につながったようである。16世紀からの積極的なチャシの構築はそのような和人との抗争の増大とも結びつくのである。

 第2章は「ものを通して見る」とした。ここでは、北海道を含む北方地域で重要な役割を果たした道具類つまり考古学でいう物質文化(遺物)のそれぞれがもっている特性を分析し、それらが東北アジア世界あるいは北米までを含む北方地域でどのような位置づけがなされるのか、あるいはアイヌ独特のものであるのか等を分析してみた。言語系統の面でまだ定説が無いアイヌ族の位置づけをも視座に入れている。初期の和産物の代表的な鉄鍋は交易という背景を考えることができ、アイヌ自製品の軽石製火皿はその祖形をエスキモー文化の石ランプにまで求めることができるようである。それは毒窩をもつ矢尻の文化圏ともほぼ重なり、「東北アジア海岸トリカブト毒矢文化圏」とも重なるものであることが解明された。言語系では、考古学からは古アジア語族系の可能性が出てきたのである。しかしアイヌを含む北方地域の煙管と喫煙儀礼を考えると、古アジア語系とツングース系に共通して見られ、まだアイヌ族の所属は不明といわざるを得ないが、考古学からのアプローチも重要であることがわかる。

 北方諸族の仕掛け弓・罠では、けもの道に弓を張って仕掛けるいわゆる仕掛け弓はやや特殊な構造とメカニズムをもつが、アイヌ集団とアムールランド周辺の諸族に見られることが判明した。またその特殊形の縦型のタイプ(シベリアではcherkanと呼ばれる)も同様の広がりをもつことが分かったが、前者はクマ・シカ等の大型獣に、後者はカワウソ・テン・イタチ等の毛皮獣に主に用いられるものである。特に毛皮交易の問題ともかかわってくるが、オホーツク文化の中にこの仕掛け弓の部品が存在する可能性を指摘しておいた。

 擦文時代の木製品を考えると、それらはほとんど後のアイヌ社会に見られる木製品と同様のものであることが指摘できたが、今後はここでは扱わなかった近年資料が増加しつつあるオホーツク文化のものとの対比も必要である。

 弓弭形角製品の解釈では、樺太アイヌの楽器である五弦琴(トンコリ)との関連を考え、出土品をミニチュアと見て、木製品で復元してみたところ実用品たりえるものであることが理解でした。一種の実験考古学である。

 北方地域の考古学的文化接触を考えるために、樺太・千島・カムチャッカ・アリューシャン列島の送り場遺跡と出土遺物を見てみた。送りの形式では北海道の場合より限定され、竪穴上層遺構と貝塚という形式しか認められなかったが、出土遺物からはアイヌ文化の影響が明確にカムチャッカ半島まで及んでいることが判明した。

 北海道の考古学上のアイヌ文化期の貝塚を検討して見ると、貝類にやや特色が認められ、それは近代のアイヌが食用としていたものとやはりほぼ重なることが分かった。クロアワビやアザラシ等を出土するアイヌ期に特徴的な存在として位置づけられる貝塚は、交易の盛行に伴うとする意見もあるが、予測はできてもまだその検討には資料が少ないと感じる。

 動物意匠遺物に関しては、北海道各時代出土のものをすべて集成したであるが、そこからは動物信仰の推移が読み取れた。つまりオホーツク文化に至っての三分化(クマ・海獣・トリ)は、後のアイヌのekashi-itokpa(祖印)の基本形と一致するものであると結論できたのである。つまり、動物信仰の面でオホーツク文化がアイヌ文化に与えた影響が大であったことを証明できたのである。

 第3章は「遺跡を考える」とし、アイヌ文化の考古学的調査の実例を示した。まず、代表的なクマ送り(iomante)の実例として標茶町シュワンの例を紹介したが、民族誌記載だけでは表現されない生の出土状態を記録することができた。またシマフクロウ送りというiomanteも確認できたが、それは動物考古学の成果でもある。

 アイヌ文化期の送り場遺跡では、北海道の全遺跡を網羅し、時代別の検討を行い、また送りの形式を7つに分類し、その変遷のプロセスを考えてみた。竪穴等の窪みを利用する形式が古く、貝塚形式が現れ、最新形式は御神木形式に推移することが理解できた。

 アイヌ期の別の遺跡であるチャシ跡遺跡は、「チャシとアイヌ社会」で概説を行っておいた。定義について触れ、古記録や口承文学(yukar)に見られるチャシ、立地と構造、機能と伝承、年代的位置づけ、アイヌ文化の中での位置づけを考察している。チャシ地名史料集成では最新のデーターを提供してみた。これは地名学から逆に考古学に迫る方法論である。同様にアイヌ伝承からチャシにアプローチする方法もある。それが「チャシとアイヌ伝承」である。その分析を通して、チャシが一般的にアイヌの砦といわれる所以を理解することができた。つまりチャシにまつわる伝承のほぼ半数が闘争伝承なのである。チャシを分析する一つの方法としてチャシ人口を考えてみたのが「チャシコッ分布の一分析例」である。川筋毎に考えてみたが、特殊な場合を除いて22〜44人に1個の割合でチャシが構築されていたらしいことが理解できた。それは集落(kotan)との関係あるいは集落の領域(iwor)を考える上でも重要なことであろう。「アイヌコタンの立地試論」のところでも触れておいたが、チャシとコタンは本来密接な関係にあるものである。「チャシ跡遺跡の地域研究」では、チャシの形態と壕の形態分類を記号化して、チャシ分布の濃密な根室半島と標茶町の場合を比較検討してみたものである。根室半島では面崖式でコの字状壕をもつものが優勢であることが分かったが、そのことは寛政国後の戦い(1789)と関係するチャシの最後の姿を表現しているものということができる。内陸に位置する標茶町の場合は丘頂式で1条壕あるいはテラスをもつものが多く、それはチャシの早い段階のものである可能性がある。

 アイヌ墓に関しては、擦文・オホーツク文化の例との比較、樺太との比較を行い、擦文人は北海道アイヌに、オホーツク人はサハリンアイヌおよびクリールアイヌにつながる系統であった可能性を指摘しておいた。

審査要旨 要旨を表示する

 周知のように、北海道・樺太・千島列島にはアイヌと呼ばれる人たちが居住した。このアイヌについては主に民族学や言語学からの研究が行なわれてきたが、その民族や文化としての成立の起源を求めるとなると、彼ら自身が文字記録を持たなかったために、考古学の対象である物質資料にたよらざるをえない。しかしアイヌがアイヌ文化と呼びうる文化を持つようになったのは、さかのぼっても内地の中世のことであったので、従来の考古学の常識的な考えかたからするとあまりに新しい時代にすぎ、1960年代まで積極的な研究はおこなわれてこなかった。この未開拓の分野に全面的にとりくみ、アイヌ考古学の基本的骨組ををつくりあげたのが、当該論文『アイヌ考古学・序論』である。

 この論文において筆者はアイヌに関して考えうるほとんどあらゆる物質資料を順にとりあげる。それは住居・炉・土鍋・鉄鍋・軽石製火皿・煙管・矢尻・狩猟用具・仕掛け弓をはじめとする罠類・さまざまな木製品・弦楽器・狩猟動物の遺存体・動物意匠製品、送り場遺跡、・砦であるチャシ・集落・墓地におよぶが、その一つ一つにおいて、氏は資料を悉皆的に集成、分類し、その変化の過程を解明し、生活の中での位置付け、社会的意味、精神的な面での考察に及ぶ。

 扱った資料の中心は当然出土遺物であるが、比較研究の対象は民具資料全般におよび、その性格究明のため、和人による文献記録を隅々まで渉猟し、伝説までが重要な情報源として網羅的にとりあげられる。その比較の対象は本来のアイヌの居住地を大きく超える極北地域、東北ロシアにおよび、そこにおいても物質資料、歴史記録、伝説が精力的に追究される。同時にまた津軽の豪族安東氏や十三湊の動向に対しても丁寧な目配りが示される。

 各章の中でももっとも労作といえるのはチャシの研究である。これまでに知られるすべてのチャシをリストアップし、川すじごとにその立地と形態を分類するだけでなく、各チャシにかかわる江戸時代の文献記録、伝説を細大漏らさず収録し、コタンや推定人口との関係が細かく考証され、その変遷過程が分析され、チャシの変化がアイヌ内の争乱、和人との対立の激化に関係することが示される。

 アイヌ文化は本来民族学的な概念であるが、考古学的な面からその成立を求める筆者は、先行するオホーツク文化や擦文文化の中に形成されてくるさまざまな物質文化諸要素とのつながり、祭祀などの精神的要素のつながりを指摘する。そしてアイヌ文化の成立については、土器と竪穴住居の消滅を重視するが、その背景に、和人による、毛皮などの北方資源を求める交易活動の活発化が、鉄鍋など和の産物を大量にもたらし、それが従来の自給自足的な生活形態を変化させ、土器やかまどをともなう竪穴住居の廃絶をもたらしただけでなく、やがては、アイヌの存在を自己の利益のために利用しようとする和人との対立が、自己をアイヌとして他者から区別する民族意識の形成に大きく影響したことが考察される。

 ただしこのような理解は各章に分散して記述され、まとまった記述はなされていない。それどころか、この論文は個々の遺物の丁寧すぎるほどの記述と分析が延々と続いたあと、全体としてのまとめがないままに突然に終るのである。本論文にアイヌ文化の成立と変質の過程を安直に学ぼうと期待する読者は失望するに違いない。しかしここに筆者が本論文を「序論」と銘うった意味が浮かび上がる。氏が牽引車として開拓してきたこの分野、可能な限りの手段をつくして展開してきたこの新しい分野であるからこそ、宇田川氏はこの分野の研究がまだ「序論」の段階にすぎないとみなし、安易なまとめを避けたのであろう。それでも今回、基本資料の悉皆的吟味の終了をもって研究の第1段階の完了を宣言したのである。未完成であること、まとめがないことは、氏がなしとげたものの大きさを考えるなら、けっして学問として価値の低さを意味しない。

 ここに一つの新しい学問分野の全容が開示され、その骨組が示された。この分野で今後に続くすべての研究者は、好むと好まざるとにかかわらずこの宇田川氏が築いた確固とした土台によって研究を進めることになる。もちろん宇田川氏自身が続く研究の展開について何を構想されているか、ヒントは各章に散りばめられているのである。

 以上、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位の授与に価することを全員一致で認定した。

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