学位論文要旨



No 215199
著者(漢字) 甲元,眞之
著者(英字)
著者(カナ) コウモト,マサユキ
標題(和) 中国新石器時代の生業と文化
標題(洋)
報告番号 215199
報告番号 乙15199
学位授与日 2001.12.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15199号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 後藤,直
 東京大学 教授 今村,啓爾
 東京大学 助教授 大貫,静夫
 新領域創成科学 助教授 佐藤,宏之
 駒澤大学文学部 教授 飯島,武次
内容要旨 要旨を表示する

 本書は従来の中国新石器時代の研究においてこれまでとかく等閑にされてきていた動・植物遺存体の分析を通して、黄河流域と長江流域に展開した新石器時代の生業形態を具体的に把握し、黄河流域の畑作栽培地帯と長江流域の稲作栽培地帯での生業活動の異なり、社会組織や文化の相違に論及したものである。

 序文では先史学研究の歴史を瞥見し、先史学研究においては民族誌との比較研究が必要であり、文献史料も「民族誌」として活用するという著者の基本的立脚点を明らかにした。

 第1章「東アジアにおける農耕起源と拡散」では稲作栽培の起源論を中心として、穀物栽培の分布上での年代的広がりとその意味について論じた。最近の稲のDNA分析により、野生種の段階で一年草のインディカ種と多年草のジャポニカ種が存在することが判明したことを受けて、新石器時代の稲粒の長幅比を比較し、現存する野生ジャポニカから直接栽培ジャポニカに変化していったことを明らかにした。ヤンガー・ドライアス期の急激な環境変化により多年草ジャポニカの一部が一年草に変質し、後氷期の四季の明確化という生育期間の減少は胚乳の肥大化を招き、後期旧石器時代以来の水辺での食料資源の積極的獲得活動を行っていた人間に着目されることで栽培が始まったことを論じた。

 第2章から第6章までは新石器時代の遺跡から検出された動・植物遺存体を集成し、それを基に栽培、採集、狩猟と家畜飼育、貝の採取、漁撈などの生業活動の実態を分析した。

 第2章「新石器時代の栽培穀物」では、穀物出土遺跡の時空的広がりを把握し、稲作地帯ではイネが単独に栽培され、畑作地帯では各種の穀物が栽培されていたこと、休耕作物として必須のマメ科植物の栽培化が未だなされていないことなどを指摘して、イネが南北に栽培分布域を拡大することは、連作が可能なイネの特徴と生産性の高さから齎されたイネのもつ食料源としての優位性に起因することを論じた。

 第3章「新石器時代の植物遺存体」では、堅果類は中国各地からほぼ検出されるのに対して、ヒシやハスなどの水辺植物は稲作地帯に多いことを明らかにし、稲作栽培が行われた遺跡の生態環境が河川や湖沼などの水辺であったことを花粉分析の結果から導き出し、稲作栽培が水辺での多角的な生業活動の一環であったことを論じた。

 第4章「新石器時代の狩猟動物と家畜」では、狩猟により捕獲された哺乳動物の個体数を算出し、広範囲にわたる種の捕獲から、シカ科を中心とし中型獣に狩猟対象が収斂して行くことを指摘し、さらに狩猟動物と家畜であるブタの個体と実際得られる狩猟動物の肉量の比較検討を行い、黄河中流域の龍山文化期の住民以外は家畜飼育に依存する度合いが低かったことを明らかにした。龍山文化期では家畜を使用したト骨が盛んとなり、黄河流域の家畜飼育は、祭儀活動の一環として家畜飼育が営まれた可能性を示唆した。また稲作栽培地帯では時期が下るとともにブタ飼育の割合が低下し、逆にシカ科の選別的狩猟が卓越することは、越冬用飼料確保の面での家畜飼育の非有効性から齎されるものであり、稲作栽培地帯では動物性蛋白質は狩猟動物や魚類に依存する度合いの高いことを明確にした。

 第5章「新石器時代の貝の採取活動」では、淡水産貝の捕獲は黄河や淮河流域の畑作栽培地帯で得に多くみられ、貝を素材とした各種の製品もこの地域に集中することを指摘した。また特殊な埋葬儀礼や装飾品に海産の貝が使用される事例を取り上げ、黄河流域や淮河流域では新石器時代の初頭段階から広域的な交流が看取されることから、畑作栽培地帯の広域的なつながりを明らかにした。

 第6章「先史時代の漁撈活動」では、内陸地帯の漁撈に使用された漁具と遺跡出土の魚骨(爬虫類の一部を含む)の集成を行い、具体的な漁撈活動の復元に努めた。網具はそれに使用される錘の違いにより、刺網と投網に分けられ、うち投網は淮河下流域から長江下流域の稲作栽培地帯で発明され、稲作栽培の拡大とともに分布域を広げたことを把握して、稲作と河川漁撈の結びつきの強さを論証し、稲作栽培地帯においてはコイ科の魚類が多く捕獲されたことを出土魚骨の分析から明らかにした。さらに魚類と獣類から得られるエネルギー量から、家畜を飼育飼育するよりも魚を捕獲することの経済的優位性を指摘し、稲作栽培地帯における家畜に対する依存度の低さの原因の一つをこれに求めた。

 以上の各章において稲作栽培が水辺での生態的環境に最も適応した経済類型であり、イネ、シカ狩猟、魚捕獲といった選別的経済戦略、畑作栽培地帯では多種の穀物、多種の家畜飼育などの多角的経済戦略と異なった営みが展開したことを論じた。

 第7章と8章では畑作栽培地帯と稲作栽培地帯での社会構成の違いを論じた。第7章では関中地区を取り上げ、集落と墓地の分析から、新石器時代当初には双系双分制の社会構造をなしているが、その中に一部の人々を特殊的に扱う現象が見られ、これが特定集団の系譜的つながりを強調する方向へ展開し、父系を強調する社会に進展したことを論じた。

 第8章では稲作栽培地帯の劉林遺跡を分析の対象とし、双系的社会構造をなしていたことを明らかにした後に、特定の子供に生得的財産を付与することに社会的階層化の兆しが認められることを指摘して、新石器時代中期の墓域を異にし、副葬品の集中化で示される階層化した集団の出現過程に言及した。新石器時代初期の平等的な社会から、社会分化が生じる素因が畑作栽培地帯と稲作栽培地帯では異なり、畑作栽培地帯での階層分化が早く進展したことを二つの論文では示した。

 第9章と第10章では黄河流域と長江流域では死者に対する観念の違いを論じた。第9章「魚と再生−先史時代の葬送観念」では、仰韶文化の土器に表された魚紋や瓢箪形土器を手懸りとして、これらが特定の子供あるいは女性の墓に副葬品として扱われること、魚の骨が女性の墓に随葬される事例が多いことから、これらが特殊な観念の下に営まれたことを指摘した。次いで文献に記載された伝承や民族誌の事例から、魚が「再生」を祈願する習俗と結びつくものであり、上記した考古学的事実と相応することから、黄河流域に生活した仰韶文化期の人々の間では「再生の観念」が存在したことを論じた。

 第10章「先史時代の『牙』副葬墓」では、墓に副葬された動物の牙を対象として分析を行った。動物の牙を副葬する事例は先史時代中国の各地に断片的に見られるが、中国東海岸一帯では、キバノロの牙やそれを組み合わせて拵えた〓牙器を手に握らせたり、首に吊り下げたりする習俗が卓越して認められる。これらは民族誌の事例から「死者の魂の擁護」がその目的であったことを推定し、「再生の思想」の表し方において、黄河上流地域と淮河下流域では異なりがあることを論じた。

 第11章「先史時代の抜歯習俗」では、稲作栽培地帯に多く認められる抜歯習俗を取り扱った。先史時代中国の抜歯が施された人骨の事例を集成し、所属時期と抜歯様式を分析した。その結果、抜歯習俗は長江下流域の新石器時代中期に、上顎左右いずれかの門歯及び側切歯を抜去することから始まり、次第に下顎の門歯または側切歯や犬歯も抜き去ることへ変化したことを跡付けた。ついで中国において抜歯習俗を記録した文献を跋渉し、文献の記載上で認められる抜歯の意味変化の推移を年代的に把握し、抜歯は婚姻もしくは成人の証として施される事例が古いことから、左右いずれかの門歯あるいは側切歯が抜去されるという様式は、出自の表現として開始されたものであり、これは特定の家系よりも集団を強調する平等社会に適合的な習俗であることを論じた。

 第12章「顎倫春族の生業暦」は、民族誌に見られる狩猟、漁撈、採集活動が社会的単位では生業暦にどのように反映されるかを検討した。考古学的な資料だけでは生業活動相互の関連が明確には把握しにくいために、先史時代と同一レヴェルにあると想定される民族誌の季節による労働比重のかけかたの違いを分析することで、先史時代人の季節や労働対象による営みの違いを明らかにすることを目的とした論文である。顎倫春族の事例では、夏季以外の季節では狩猟、漁撈、採集活動が相互に密接に組み込まれているが、夏季には食料資源の枯渇から生業活動が特定されにくい。夏季に収穫する穀物の栽培が導入されたとすると、通年的に集団活動が営まれることとなり、食料を補充する程度の初期農耕段階では、却って従来の社会集団を結束させる方に向かう可能性を論じた。

 第13章「中国新石器時代の生業と文化」では、本書のまとめとして稲作栽培地帯と畑作栽培地帯での生業活動や社会・文化の面での大きな相違について論じた。穀物栽培と家畜飼育は相反する生業上での行為であり、穀物栽培が不十分な地域で二次的選択として家畜飼育が営まれたことを明らかにし、稲作栽培が水辺での生態的環境を最も有効に取り込んだ生業であったことを指摘した。イネの栽培、魚の捕獲、シカ科の狩猟という選別的な経済類型は、こうした豊かな生態的環境の下で形成されたのであり、畑作栽培地帯では穀物栽培の連作が不可能なために、多種の穀物、多種の狩猟と多種の家畜飼育という多角的な経済類型が展開したのであり、新石器時代の長江と黄河流域では異なった社会生活が営まれていたと結論付けた。

審査要旨 要旨を表示する

 中国では1950年代以降、数多くの発掘調査によって新石器時代に関する膨大な資料が蓄積され、編年や集落・墓地研究が進められた結果、中国各地に多様な新石器文化が展開し、数千年にわたる変遷の末に都市の形成、初期の国家形成に至ることが明らかにされつつある。

 しかしながら、各地の新石器文化の経済的基礎をなす生業については、黄河流域以北の畑作地帯と淮河・長江以南の稲作地帯が大雑把に対照されてはいるが、それぞれの生業の実態とその背景に対する詳細な研究は大幅に遅れている実状にある。

 本論文は中国新石器時代の黄河流域と長江・淮河流域を対象として、両地域の生業形態、社会組織の違いとその要因を明らかにしようとする最初の本格的、総合的研究である。

 その方法の特徴は、理論的枠組みに適宜資料を当てはめる演繹的なものではなく、遺跡から出土する栽培穀物遺体、採集植物遺体、狩猟動物と家畜動物の骨、採取された魚・貝の遺存体を、発掘報告書から細大漏らさず集成する基礎作業をもとに、その種類・数量の地理的分布、時期的変化を明らかにし、新石器時代の長期的な気候変動をも考慮して、黄河流域と長江・淮河流域の生業活動の差異と変遷を論ずる点にある。また資料の解釈に際し、しばしば歴史資料や民俗誌を参照することも特徴といえよう。

 こうした方法によって提出された特筆すべき見解の若干を以下にあげよう。

 まず中国においていかにして農耕が生まれるかという、これまで具体的に論じられることのなかった問題に対しては、とくに稲作を対象に次のような説得的な仮説を提起する。すなわち、すでに後期旧石器時代には小型獣の狩猟、漁撈、植物採集という「水辺での徹底した食料の開拓活動」が始まり、これが新石器時代に入ってからも後氷期の温暖化・湿潤化とともに一層強められることを明らかにし、長江流域ではこの生業活動に、ヤンガー・ドライアス期の気候悪化に適応して生態的に変化した野生稲も取り入れられて稲栽培が始まったとする。野生稲の生態的変化と栽培化については作物学的に十分な論証はまだ得られていないが、後期旧石器時代以降の生態変化に対応した生業の変化の問題がはじめて具体的議論の出発点を得たと評価できる。

 従来の北の畑作、南の稲作とというおおまかな生業の地域的違いも、生業にかかわるあらゆる自然遺物資料を積み重ねて農耕・狩猟・採集・漁撈の細かな組み合わせを復元し、黄河流域では多種類の畑作物の栽培と複数種類の動物の飼育に狩猟を加えた多角的生業形態であるのに対し、長江と淮河流域では稲作を中心に水辺での生態環境に適応した選別的生業形態をとるとし、南北の生業の実態を鮮明に対比した点は高く評価される。

 こうした生業形態を異にする社会については、黄河流域と淮河流域の代表的集落と墓地遺跡を分析し、集落構成と墓地構成の対応などから、両地域とも当初は双系的親族組織であったが、黄河流域では系譜を重視しさらに父系強調へ変化し早くから社会分化が生じたのに対し、淮河流域では出自を強調する抜歯習俗が継続する点から社会分化が遅れること、さらに土器の文様や特殊な副葬品を多くの歴史資料と民俗誌をも援用して考察し、黄河流域と淮河流域では再生観念に違いのあったことを論じ、今後の研究の定点を提出する。

 以上のように本論文は、新石器時代の膨大な発掘調査成果から栽培植物、採集植物、家畜動物、狩猟動物を網羅的に集成し、各食料源の組み合わせ方のいわば生態的法則を明らかにして、生業の地理的な相違と時系列的変化を解明し、さらに集落や墓地の分析から南北の社会の差異と変化を描き、この領域の研究を格段に深化させたと評価できる。黄河流域における農耕誕生のプロセスが長江流域ほど明確にされていないことや、生業と社会組織との対応の論証に整合性を欠く点はあるが、中国新石器時代研究を飛躍的に進展させるとともに、東アジア各地の農耕社会の形成と展開を研究する上で基準となる研究であることはいうまでもない。

 よって審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値すると判定する。

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