学位論文要旨



No 215127
著者(漢字) 大塚,達朗
著者(英字)
著者(カナ) オオツカ,タツロウ
標題(和) 縄紋土器研究の新展開
標題(洋)
報告番号 215127
報告番号 乙15127
学位授与日 2001.09.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15127号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今村,啓爾
 東京大学 教授 後藤,直
 東京大学 助教授 大貫,静夫
 新領域創成科学 助教授 佐藤,宏之
 お茶の水女子大 教授 鷹野,光行
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は,縄紋土器という既存の認識を見直し,これまで縄紋土器と呼ばれてきた土器群に対し新しい方針で研究する必要のあることを論じた。そして,そのための研究がキメラ土器論であることを説き,かつ,その研究実践を示した。

 そもそも,縄紋土器という既存の認識は,一つの由来から派生し日本列島内で連綿と変化してきた土器群の存在を認めること,つまり,縄紋土器一系統説あるいは一系統的縄紋土器説であり,そのような縄紋土器を育んだ日本列島の先史遠古の土器文化が縄紋土器文化(=縄紋文化)であるという認識につながる。そして,そのことを体系的に導き出したのが,山内清男の縄紋土器研究(=山内型式論)である。とくに日本の敗戦後(1945年以後),科学的根拠のない『記紀』神話を参照する考古学(戦時中の主流であった)に取って代わって,1930年代に整えられた山内清男の学説と研究方針が広く受け入れられ,日本列島各地で数多くの縄紋文化の遺跡が調査され,縄紋文化の集落跡や縄紋土器やそれ以外の文物が多く検出されるにしたがい,当該研究が盛んになり,縄紋文化の内容がさまざまに変貌を遂げ今日に至るのである。しかし,1945年以後今に至る間,山内の諸研究が盛んに引用・言及されるが,それらがそれぞれ十分な追試・追証を受けて山内の説く縄紋土器一系統説の評価が定まったという事態は見いだせないのである。つまり,縄紋文化の大前提たる縄紋土器の存在性格は,研究の流れをよく回顧すると,山内以外の研究者によって十分吟味されたわけではないのである。

 まず,山内型式論の体系性の検証を行った。一系統的縄紋土器の存在性格を導出した山内型式論の体系性は,つきつめれば,層位と型式に関する正当な理解と,ダーウィン流の生物進化論のアナロジーとしてモンテリウスが考古学に持ち込んだ事物の漸進的変化(事物は徐々に変化する)観=漸進主義に基づく。

 層位と型式に関する正当な理解とは,存在論的に先行する層位と認識論的に先行する型式とが循環関係になるために,層位と型式を全く別々に議論はできない点を山内が理解していたことを指す。遺跡から発見された遺物それぞれは千差万別で多種多様なために,一個一個そのまま議論の俎上にのせることは不可能である。そこで,他とは違うがこれらは似ているという意味のまとまり(離散的存在)として遺物を把握できないかという要請がなされてきた。この種のまとまりを意味する考古学的概念が型式で,特定のまとまり=型式に置き換える際の恣意性を回避ないし減じる方策が,モンテリウスが案出した「確実なる発見物」であり,この「確実なる発見物」のより洗練された議論が層位と型式で,しかも,層位と型式の関係について山内が正当な理解に到達していたことを確認した。したがって,山内が制定した縄紋土器諸型式の,その制定手続きは妥当であったと考える。

 他方,変化の漸進主義に立つ山内は,縄紋土器型式の細別という有名な研究方針を提示し,縄紋土器の変化は時の経過に比例するという論理="粘土特性生成宿命論"を用意し,縄紋土器の一系統性を証明するために独特な紋様帯系統論を提示した。しかし,細別の方針では,縄紋土器は切れ目なく徐々に変化し,切れ目なく徐々に変化するのが縄紋土器であると述べるにすぎず,しかも,縄紋土器の存在をすでに前提にするから,細別研究で縄紋土器の実態あるいは真相が分かることはない。また,"粘土特性生成宿命論"は,時が経てば自ずと変化するという因果関係を内在する人工物の存在を前提とするが,そのような事物が存在するはずがない。相同という由来上の同一性="変化しない部分"を紋様帯から窺うのを本務とする山内の紋様帯系統論は,紋様帯それ自体の分類が議論に含まれる以上,よりメタ・レベルでの紋様帯の同一性の説明を要求されるが,この種の説明は必然的に無限退行に陥るので,紋様帯系統論によって縄紋土器の一系統性を証明することは決してできない。山内は,一系統である縄紋土器を証明するために紋様帯系統論を構築しようとしたが,結局,日本列島に土器があること以外に山内の側に根拠はなく,その日本列島が有意である根拠は事実から明示された事柄ではなく,日本列島を一つの文化圏と見なす〈島国日本〉論という山内の世界観に由来するといわざるを得ない。

 となると,山内が説く縄紋土器は日本遠古の歴史的実在ではなく,そのように構成されたモノと断定せざるを得ない。縄紋土器をとりあえず日本列島におけるある時期幅の中の土器群という便宜的な設定は可能だが,一つの由来をいただき日本列島に連綿と変化し続けた土器群としての縄紋土器は決して根拠づけられていなかったのである。

 では,縄紋土器と呼ばれてきた土器群の研究はどう展開し直すべきなのか。非現実的な研究方針や非実在的な因果関係及び一系統性を要請してしまう漸進的変化観・漸進主義と,固定的な文化圏を措定してしまう〈島国日本〉論とを大前提にしないことに尽きる。〈時系列にそった型式群〉志向ではなく,〈広域比較から論定される並行型式群〉志向に転換した上で,漸進的変化と違う変化(非漸進的変化)が特定できるかという問題を検討しなければならない。並行型式群の論定や非漸進的変化の論定といえば,佐藤達夫の異系統土器論が注目されるべきだろう。とくに,佐藤が注意を喚起した〈一個体の土器に異系統の紋様が施される場合〉=キメラ土器が出現することこそ並行型式群の同時性と非漸進的変化とを端的に示してくれるのであるから,この異系統土器論の今日的展開=キメラ土器論が,重要であると考える。

 非漸進的変化を示すキメラ土器としては,草創期・隆起線紋土器と豆粒紋土器の場合と,橿原式紋様を受容する関東・東北の後期末晩期初頭型式間に登場する場合を取りあげた。

 九州の浮紋表現(浮紋系土器)と本州の環状表現(肥厚系口縁部土器)が収斂することで隆起線紋土器が成立することを明らかにし,広域な範囲において収斂という関係が成立するので,隆起線紋土器が広く分布する理由も説明し得た。隆起線紋土器の存在性格は,九州の浮紋表現と本州の環状表現という異系統要素を併せ持つ土器,すなわち壮大なキメラ土器であるから,漸進的変化から生じたのではなく,九州〜本州の広い範囲で意図的に製作された特異な土器といわざるを得ない。また,豆粒紋土器(豆粒紋のみ施紋土器)も,九州の浮紋表現と本州の粒状の形状表現(「ハ」の字形爪形紋土器に由来する)とが収斂することで成立する壮大なキメラ土器であることを明らかにした。豆粒紋土器や隆起線紋土器の登場の背景を探ってみると,一系統的縄紋土器(一つの由来から派生し徐々に切れ目なく変化した土器群)という議論が無意味であることが明らかになった。異なる土器文化の収斂によって壮大なキメラ土器である隆起線紋土器と豆粒紋土器が広く作られたことからは,それ以前に,由来が異なる土器文化が複数あって日本列島には広くまとまった文化圏がないことや,北海道はさらに別と見るべきことなどが分かったのである。そして,隆起線紋土器や豆粒紋土器を通して九州・四国・本州の範囲が一つの文化圏化することに関して,二種類の壮大なキメラ土器が出現し,九州由来の型式が遠方の本州で,本州由来の型式が遠方の九州で,それぞれ見いだせる異型式の遠方分布の相互性から判断すると,当時の各地方の人々の交流・往還が広く行われていたことを想起すべきと論じた。

 つぎに,橿原式紋様を手がかりに,後期末から晩期初頭にかけて,九州〜本州の範囲での地域間の関係が緊密化したと把握しなければならないことを指摘した上で,関東と東北の型式間には独特のキメラ土器が存在し,そのキメラ土器を軸と見立てると対称性が存在するように,関東と東北の型式の頚部紋様帯間と胴部紋様帯間において紋様上の変換("手本"−"写し")がシステマティックに遂行されるので,両地域間に対化と呼ぶべき強い結びつきがあることを論定した。関東的紋様と東北的紋様及び双方の施紋原則がはっきり特定でき,かつ,"手本"−"写し"関係が特定できるので,関東に出土する東北的紋様そのものを有する土器は持ち込まれた土器か関東で東北の型式加担者が製作したかのどちらかであり,東北に出土する関東的紋様そのものを有する土器は持ち込まれた土器か東北で関東の型式加担者が製作したかのどちらかである。実際にそれぞれの地方の型式加担者が相互に行き来したことが想起できるのである。つまり,この対化の範囲が文化・社会的に意味ある範囲であり,橿原式紋様が主体的に担われる範囲がまた別の文化・社会的に意味ある範囲であることが導き出されるのである。このように,ある特定範囲に登場するキメラ土器を手がかりに地域間の関係をたどっていく研究は,隆起線紋土器や豆粒紋土器というキメラ土器の場合とは別に,日本列島の範囲をたやすく縄紋文化という一つの文化圏でまとめることができないことを意味する,もう一つの事例研究である。

 草創期・隆起線紋土器と豆粒紋土器の場合と,関東・東北の後期末晩期初頭型式間に出現する場合とを取りあげたキメラ土器論から,日本列島を所与の文化圏として固定化することの無根拠性を明らかにし得たと考える。キメラ土器論を継続することによって,縄紋土器文化とは異なる多文化的規定を日本列島の先史土器群全体に与え再編成することが,今日の考古学的研究の現実的実践課題であると展望する次第である。

審査要旨 要旨を表示する

 この論文は、縄紋時代草創期と、後期〜晩期と呼ばれる縄紋時代の初期と末期について、その土器が、どのような形・紋様・製作技法の集合体として存在するかを解明し、その属性の示す法則性の把握から、土器情報の伝達・交換を考察し、さらには縄紋時代社会のありかたそのものの再考に至る極度に専門的な論文である。

 縄紋土器は縄紋文化研究のもっとも大きな資料であるが、大塚氏ほどこの対象に対し、精密かつ分析的に取り組んだ人はいないであろう。土器を見るにあたって、土器は人が作ったものであるから、当然個々に多少の違いがあるのが当然だという常識的発想は、専門家の間にも見られるが、氏は土器相互の厳密な比較によって、一本の線の有無、その曲がり方にいたるまで、それを採用させる共通の約束ごとがあり、紋様の変化はその約束事自体の変化にしたがったことを示す。そしてその約束ごとは、関東と東北といった遠距離地域にまで相互に乗り入れることが明かにされる。そればかりか相互の乗り入れのために、たとえば関東の土器の中に東北の土器要素を受け入れる構造が用意され、そこに両地域の土器要素をあわせもつキメラが生れる。このキメラこそが氏の研究のキーワードであり、2地域間の土器の時間的関係、各地域の土器の純粋な要素の抽出のための定点となる。

 草創期の土器に対し、氏は従来の諸研究の方法を批判する。すなわち共伴したらしい石器に依存する土器の年代的位置づけ、紋様の変化に単純な一方向性を想定した順序づけ、あるいは恣意的に起源地を想定しそこからの伝播と伝播過程での変化で説明するような従来の考え方を批判し、地域ごとの土器のあくまで具体的な変化の過程と遠隔地間でおきた相互の乗り入れ関係の把握による独自の編年を示す。そして隆起線紋土器という草創期の大きな土器のブロック自体が、先行する2群の土器のキメラとして成立したと論ずる。

 後期・晩期についてはじめにとりあげられるのが、橿原式土器紋様である。これは近畿地方を中心に縄紋時代の末期に流行したと考えられてきた紋様であるが、これまで、弥生前期の類似の紋様に変化する、縄紋と弥生をつなぐ紋様であると論じられてきた。しかし大塚氏は、近畿地方土器編年を厳密に再検討すると、この紋様が弥生時代の直前まで続かず、弥生時代の類似の紋様になるという議論の時間的前提自体がなりたたないことを示すと同時に、むしろ後期末晩期初頭という限られた時期に関東・東北地方に広がる、一見別種とも見える紋様と密接な関連をもって生起したことを示す。

 大塚氏は、このように論じてきた土器の多系統観をもって、縄紋文化全体に論を及ぼし、縄紋文化を一つの系統としてとらえるのは誤りである、それは多くの系統の集合体にすぎないと論断する。突っ込みのたりない諸種資料の分析を繋ぎ合わせて縄紋文化の全体観と称する立論が普通である現在の学界において、大塚氏の、一種類の資料分析を徹底的に深めたうえでの縄紋文化観の提示は大いに意義のあるものと認められる。しかし土器は文化の一要素にすぎない。土器をもって文化と呼びなおすには、それが妥当であることが広い視野から論証され一定の支持を得なければならない。そもそも地方の土器系統どうしが相互に受け入れ可能な開かれたシステムを保持し続けたという大塚氏の結論こそが、縄紋文化に小部分を超えた大きな一体性があることの証拠ではないのだろうか。この点で大塚氏の最後の結論には疑問を表明せざるをえない。しかしながら本研究は99パーセント土器の研究であるから、最後の1パーセントにおいて、自己の研究を重視するあまり過度の主張があったとしても本研究の価値が大きくそこなわれることはない。むしろ徹底的に精密な研究が、一転、大きな視野を開くことを示したことにおいて、土器研究に新たな地平を開いたものであり、博士(文学)の学位に値すると認められる。

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