学位論文要旨



No 214974
著者(漢字) 吉開,将人
著者(英字)
著者(カナ) ヨシカイ,マサト
標題(和) 南越史の研究
標題(洋)
報告番号 214974
報告番号 乙14974
学位授与日 2001.03.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14974号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今村,啓爾
 東京大学 教授 後藤,直
 東京大学 教授 桜井,由躬雄
 東京大学 助教授 大貫,静夫
 東京大学 教授 平勢,隆郎
内容要旨 要旨を表示する

 「呉越同舟」などの故事で広く知られるのは、秦始皇帝による統一以前の「越」の歴史だが、実はそれが滅んだ後も、中国大陸の東南部からベトナムにかけての地域には、「越」を標榜する勢力が繰り返し現れた。

 本論文は、その一つである「南越」に関する歴史考古学的研究である。

 ここでいう南越とは、今日の中国広東省を中心とする地域において、もと秦の派遣した地方官であった趙佗という人物が、秦漢交替期の内地の政治的混乱に乗じて建国し、内地の漢王朝と並立するかたちで、およそ一世紀にわたって存続した「南越国」のことを指す。

 本論文では二部構成をとっており、まず南越国における国家体制とそのイデオロギーを歴史考古学的手法によって明らかにし、次いで後世における趙佗と南越をめぐる歴史意識の変容過程を、おもに文献資料によって検討している。

 全体として目指すのは、古代から現代まで続くこの地域における「歴史世界」としての連続性を、構造的なものとして明らかにすることである。

 したがって本論文は、南越国そのものに対する研究であると同時に、南越という歴史そのものに対する研究ということができる。

 その具体的な内容は以下の通りである。

【第I部】

 まず南越国の拠点である今日の広東省広州市で発見された南越国の印章とその関連資料について整理を試みた。その結果、それらの特徴の多くが同時代における内地の漢の制度や、それに先立つ秦の制度に連なるものであること、さらにその一方で南越国独自の特徴も存在することなどの点が確認された。

 こうした知見をもとに、かつてベトナム北部で発見された「胥浦候印」銅印を検討すると、それがまぎれもない南越国の官印であることが明らかとなる。これによれば、南越国は当時のフロンティアであるベトナム北部の地に支配を及ぼしていたことになる。佚文の記載などと対比すると、それが現地の実情に合わせた南越国独自の制度であったことが推測される。

 さらに広東とベトナム北部を結ぶ位置にあるトンキン湾沿岸で発見された「朱〓執〓」銀印と「労邑執〓」琥珀印に注目して検討を試みると、様々な理由によって、それらが南越国の封爵印とその明器印であることが推論される。「執〓」すなわち「執圭」は秦漢交替期の楚特有の爵称であるから、これにより、南越国の一部に楚制が取り入れられていたと考えなければならなくなる。

 南越国は秦漢交替期における内地の政治的混乱に乗じたかたちで成立している。この時期、南越を取り巻く東南中国一帯には、「越」を標榜する諸勢力やそれに連なる人物が数多く展開し、その動向が秦・楚・漢へと連なる王朝交替の行方を左右した。その中でこれらの「越」系諸勢力の間に楚制が受容されていたことが確認されるから、それに接して成立した南越国に同じように楚制が受容されていたとしてもまったく不都合はない。これを今回「執〓」印が裏付けたことになる。

 秦漢交替期の楚におけるあり方から類推するなら、南越国における「執圭」爵の地位は「封君」相当であったと考えられる。そしてその出土状況と発見地域からするなら、それらの人物は、南越国の内地の封爵者とは異なる「外臣」的な存在であったと推測される。つまり南越国において、この種の楚制は、対「外」的イデオロギーとして表象されていたと考えられるのである。それは「内地」における漢王朝の存在を前提としたものであったと考えるべきだろう。

 以上をまとめると、南越国では、今日のベトナム方面にあたるフロンティア地域には現地の実情に見合った独自の制度を実施し、南越国の内地では秦漢に連なる諸制度を、そしてその間の境界的な地域に対しては秦漢交替期の楚制を実施していたものと推測される。すなわち、南越国内にはこのような重層的な国家構造が存在しており、それぞれに対して異なる系譜と性質をもつイデオロギーが反映されていたと考えられるのである。これを南越独自の歴史世界としてとらえ、「南越世界」と呼ぶことを提唱したい。

【第II部】

 第I部における議論の中で、南越国が今日の中国広東からベトナム北部にまたがる範囲に独自の天下国家を展開させていたこと、その中で秦から漢への歴史の狭間に埋没していた「楚」の制度を再生させ、そのイデオロギー的特性を利用していたことなどについて明らかにした。

 かつてこの南越国が展開していた地域では、その後も「越」を標榜する諸勢力が繰り返し現れた。そしてそのたびに表象されたのが「越」という歴史的存在とそれに連なる伝統を意識した「越」イデオロギーであった。各種文献を読み解くと、それが「南越」をめぐる歴史意識に他ならないことが明らかとなる。

 正史など中国側の王朝中央における文献資料に加え、ベトナムが中国から独立した後に独自に編纂した諸文献、さらに南越国の故地である広東で編纂された各種文献を利用して、そこに見られる「南越」像について検討していくと、きわめて重層的な歴史意識の存在が明らかとなる。

 なかでも南越の故地である、広東を含む中国の嶺南地方とベトナム北部地域が、対比として注目すべき状況を見せている。

 嶺南とベトナムでは、「南越」をめぐる歴史意識が大きな変容を遂げながら受け継がれてきたが、その変容のあり方については、双方の間でちょうど正反対の動きを見せているのである。

 興味深いのは、それが自らの歴史をどのような範囲の歴史の中に位置付けるかという「世界」像の変容を伴っており、そのあり方についても嶺南とベトナムの間で表裏一体の動きが認められるという点である。

 本論文では、これを一体的な歴史過程であることの裏返しである背反構造に他ならないと考え、南越滅亡後もこの地域は一つの歴史世界であり続けたという結論を導き出している。

 このような歴史意識と「世界」像の変容過程には、中国の「内地」と呼ぶべき地域と、広東・ベトナムそれぞれの間との相対関係のあり方が集約的に反映されていると考えられる。

 後世の歴史意識をめぐって得られたこれらの知見は、いずれも第I部における南越国そのものに関する議論と結び付くものである。南越の故地における一つの歴史世界としてのまとまりと、中国内地との相対的な関係のあり方のそれぞれについて、時代をこえた構造的な連続性をここに読み取ることができると考える。

審査要旨 要旨を表示する

 前漢の時代の前半期、現在の広東省広州市を中心に南越という国があり、漢の支配に従うポーズをとりつつも独立国としてふるまっていた。本論文の第I部では、考古遺物を中心に文献史料と照合しつつ南越の統治の形態と背景となる理念の系譜を解明した。

 南越国に関する最も重要な考古学上の発見は、第2代の王のものとみられる墓から出土した豪華な副葬品と「文帝行璽」などの印章群である。およそ秦漢以後の中国にあっては、印章の配布は皇帝が家臣にその権力の一部を委任することの象徴であったから、公的な印章群の組織は、統治の体制を反映する。吉開氏は南越王墓に副葬された印章群と周辺地域で発見された印章の詳細な比較検討から、南越の印の特徴を浮かびあがらせ、それが漢から独立した体系をなし、内臣と外臣の区別に対応するものであったことを論証した。またベトナム発見の「胥浦候印」が漢王朝の与えた印であるとの従来の説を退け、南越の配布した公印であると認定した。このことは、これまで零細な逸文からかろうじて知られていた南越による現在のベトナムの地の支配を、同時代の考古学資料から裏付けたものであり、ベトナムという国の最初期の歴史に対し重要な知見を加えたものである。

 南越印の解明は、そこに「執圭」という戦国楚国と同じ爵位が存在したこと、大きく言えば南越がかつての楚の統治イデオロギーを採用していたことを示す。このことは南越王墓に副葬された鼎の詳細な型式学的分析によっても傍証された。そしてこのような楚の制度の採用の意味を、文献に記された秦漢交替期の政治状況から読み取り、それが漢に対抗するイデオロギーの一環であり、根源的な対立があったことを明かにした。

 また執圭爵が南越時代だけでなくそれを滅ぼした漢の時代にわたることから、この地において異民族の長に与えられた特殊な爵位の存続を明かにするとともに、異民族に与えられた印の蛇形の把手が年代に沿って連続的な型式変化をとげたことを示し、わが国の「漢委奴国王」金印もその型式変化の延長線上にあるとの興味深い仮説を述べる。

 戦国の「越」と漢代の「南越」、現在の「越南(ヴェトナム)」の「越」という名称の背景には、「越」を名乗る王朝や民族意識の複雑な連鎖がある。このような脈絡において、南越をその後の統治者が自己とのかかわりにおいてどう評価したか、多数の文献によって追跡したのが第II部である。後にこの地域は中国とベトナムの領域に分かれ、南越の歴史に対しても対照的な評価がなされるようになるが、両者を対比しながら展望した研究は、徒来なされたことのない広がりと洞察を有するものであり、過去と現在の民族意識のつながりについて我々の疑問に答えている。

 この第II部は考古学や古代史の立場から評価可能な分野の研究ではないが、第I部では、遺物によって政治的統治やその理念を明らかにするという、考古学にとって待望されるが実行は容易でない課題に対し大きな成功を収めたこと、漢側の文献記録からは読み取ることが難しい南越国の統治体制を内部から解明するのに力があったこと、ベトナムの国家黎明期の解明に貢献したことなど顕著な成果があり、その整然とした実証的分析により、今後の研究にとって多くの確実な定点を提供したものとして高く評価される。博士(文学)の学位を授与するのにふさわしい業績である。

UTokyo Repositoryリンク