日本古代の医療制度は、律令の編目の一つである医疾令に規定される。日本の医疾令は、律令の他の編目と同じく、唐の医疾令を継受して成立したものであるが、日本・唐とも医疾令は現存しない。日本の医疾令の復原については、江戸時代以来の先学の業績があり、その成果は日本思想大系『律令』(岩波書店、1976年)に集大成されており、唐の医疾令は仁井田陞『唐令拾遺』(東方文化学院、1933年)に11条が復原されている。本書第一章「日唐医疾令の復原と比較」では、まず『唐令拾遺』の修正と追補を行い、失われた唐の医疾令条文を、さまざまな史料から抽出し、可能なかぎり原型に近づくよう復原した。ついで『律令』に復原される日本の医疾令文の字句を追加し、あらためて全27条の条文配列を検討し、医疾令の構成原理を考察した。その上で、唐と日本の医疾令を比較して、古代日本の医療制度の特質を明らかにした。一般に日本の律令法は、唐律令を輸入した継受法の側面と、それ以前からの固有法の側面とを併せ持っているが、医疾令においては、ほぼ唐令を引き写して成立していることが明白になった。つまり医療制度に関して、いまだに未開な日本社会に、高度な中国文明をそのまま移植するという古代国家の指向がうかがえるのである。なお本稿による日本・唐医疾令文の復原成果は、仁井田陞著・池田温編集代表『唐令拾遺補』(東京大学出版会、1997年)に採り入れられている。 第二章から第四章は、医疾令のいくつかの条文に個別に検討を加えた。第二章「天皇の薬」では、天皇の薬の調合を規定する合和御薬条について考察した。まず『儀式』「進御薬儀」の文中に本条の逸文が記されていることを発見し、『律令』の復原文に字句を追加し、大幅に修正を加えた。その上で、唐令の当該条と比較し、関連する律の規定とも照らし合わせて、日本と唐との条文の違いの起因するところを探った。唐の皇帝と日本の天皇との医療行為に対する意識の違い、唐と日本との医療制度の成熟度の差異を確認した。 第三章「医針生の教科書」では、陸奥国多賀城跡から出土した医書断簡漆紙文書が、散逸して現存しない中国の医書『集験方』の断簡である可能性が高いことを指摘した。『集験方』は日本の医疾令医針生受業条に規定される医針生の教科書である。おそらく日本令の藍本であった唐の永徽医疾令にもこの『集験方』が医針生の教科書としてあげられていたものと思われるが、唐の開元医疾令では『傷寒論』に変更されている。最新知識を要求する医療技術に関わる問題であり、日本においてもテキストの変更はあり得たわけで、この医書断簡は不要となって廃棄されたものとも考えられる。ともあれ地方諸国においても、医疾令の規定通り、中央に準じての医療教育が実施されていたことが実証された。 第四章「年料雑薬の貢進と官人の薬」では、藤原宮跡出土の薬物木簡を素材として、諸国からの薬物徴収制度(諸国輸薬条)と官人の治療について(五位以上病患条)の具体像を窺った。従来「薬物木簡」と一括して漠然と考えられてきたけれども、改めて個々の木簡を検討してみることによって、藤原京の時代、浄御原令・大宝令制下の医療制度の実態が判明し、医疾令の成立についても手がかりを得ることができた。薬物木簡を荷札木簡と薬物請求・受領書木簡とに分けて考察し、前者によって、すでに浄御原令制下には諸国産出薬物の分布が国家によって把握され、貢進、徴収体制が整えられていたことを明らかにした。そして後者がいわば処方箋であり、五位以上の官人の治療が円滑に運営されていたことを指摘した。これらの木簡はいずれも典薬寮関係のものであり、藤原宮における官司とその付属施設の所在が確認され、また取り扱う薬物の種類の多さから、10世紀の『延喜式』の規定の前提となる体制が、すでに7世紀末にはほぼ完成していたことがわかった。 第五章と第六章は正倉院文書を使って、医疾令に規定のない五位以下の下級官人の医療の様相を描き出した。第五章「写経生の病気と治療」は東大寺写経所で働く写経生たちの休暇願いの文書である「請暇解」や薬物請求文書などから、写経生の病気の実態をみ、中国の医書に記される処方薬や調剤が意外に普及していたこと、これまで民間療法とみなされてきた大豆や小豆や醤による治療が、実は中国の医書に依拠するものであることなど、8世紀の下級官人の医療に関する水準が案外に高かったことに言及した。 第六章「天平宝字二年の詔と酒と薬」は東大寺写経所の事務帳簿「銭下充帳」にみえる「薬」について考察した。天平宝字二年の帳簿のみにみえる「薬」が実は酒であり、同年二月に出された群飲禁酒の詔に規制されて、治療の名目以外に飲むことが禁じられた酒を、帳簿上「薬」と記載して処理していたことを指摘した。こうした禁令の効力も二、三年のものだったらしい。あわせて関連する帳簿についての『大日本古文書』の錯簡も正した。 第七章「供御薬儀の成立」では、正月三箇日に白散・屠蘇などの薬を飲む儀式について検討した。まず『儀式』などの儀式書から儀式次第を確認し、『延喜式』の規定する処方と『医心方』による処方とを比較対照して、典拠となる中国の医書を確定した。従来、正月元旦に屠蘇を飲んで一年の邪気を払うという行事の由来は、『荊楚歳時記』などの中国の歳時記の影響のみが指摘されていたが、実は『葛氏方』などの中国の医書の影響が大きいことを論証した。そしてこの儀式の原型の成立は、7世紀末の天武朝と考えられること、その際には国家の医療機関である典薬寮の成立や、薬物徴収体制の確立などの医疾令による医療制度の整備が不可欠であったことを述べた。 第八章「假寧令と節日」は、医療制度とも密接に関わる休假(暇)制度についての考察である。古代の休假制度は假寧令に規定される。まず唐假寧令1条を敦煌写本書儀などから復原した私案を提示し、その上で日本令の当該条と比較した。唐では休暇の対象が内外官すべてであるのに対し、日本では京官に限られていることについて、令を継受した時点での日本における官僚制の透徹する範囲が在京諸司に限られていたことによる可能性を指摘した。節日の休暇が日本令では削除されていることについては、節日を純粋な休暇と捉える唐と、節日の儀式・宴もまた政務とする日本との違いを示した。あわせて節日の受容について考察を加え、唐令の節日条の存在を推定、復原し、日本雑令の節日条と比較検討し、節日という習俗・行事の定着にも令という法の継受が必須であったことを述べた。また唐假寧令が節日規定の変更とともに、幾度となく改変されていることに注意を喚起し、日本令と異なる唐令の柔軟性を主張した。なお本稿による唐假寧令文の復原成果は、前掲『唐令拾遺補』に入れられている。 終章「『医心方』の世界へ」では、天平九年の疫病流行の際に出された疱瘡治療に関する典薬寮勘文と太政官符を分析した。典薬寮勘文が『千金方』『新録方』などの中国の医書を博捜して処方を採択、類聚していたことを確認し、それがすでに10世紀の『医心方』のレベルに到達していたことを示した。また同じ時期に出された太政官符が、これまで言われてきたように典薬寮勘文にもとづいて作成されたものではなく、むしろ内容的には全く逆のことを述べていることを指摘した。典薬寮勘文は中国の医書を典拠として、典薬寮の治療を受けられる五位以上の官人を対象に作成されたものであり、太政官符は臨床的所見をもとに、諸国百姓に疫病への心得を通達したものなのである。そしてこの太政官符は『医心方』にも引用され、さらに11世紀にも依るべき疱瘡治療法として参照されている。つまり日本の古代国家が中国の先進的な医療制度を積極的に継受し、医学教育を充実させ、知識・技能の向上を図った結果、7世紀末から8世紀の医療水準は、その後数世紀に亘って通用するほどに急激に高まったのである。 付論I「唐と日本の年中行事」は、本論第七章・第八章に関連して古代日本の年中行事の成立を考えたものである。唐令節日条が浄御原令段階で継受されたことを推定し、同時に為された中国の暦の採用とその後の暦日意識の普及によって、習俗を含む知識と文化とが急速に地方社会に浸透していった様相を略述した。 付論II「日本古代の地方教育と教科書」は本論第三章で扱った教科書の問題を発展させて、大宰府跡をはじめとして各地の遺跡から出土する木簡や漆紙文書に検討を加え、地方教育の実態に迫った。また日本に現存する7-11世紀の漢籍のあり方は、古代日本の知識人の学問に対する姿勢を表していることを示した。 かつて「医史学」という言葉を提唱された富士川遊氏は、医史学は「医学的知識ノ歴史」であり、「医学ノ歴史ハ文化史ノ一部分ニ属スルモノトス」と明言された(富士川遊『日本医学史』裳華房、1904年、5・6頁)。医学は先進性を尊ぶ学問であり、医療水準はまた社会の文化レベルを計るものさしともなりうる。日本古代の医療制度を明らかにすることは、その時代の社会と文化とを映し出すことに繋がると考える。本書は、医疾令・假寧令という法の分析を核とする制度史の研究であるけれども、同時に制度の導入によって形成された文化-科学技術・知識・習俗を含む-の様相を描き出すことをも目指したものである。 |