学位論文要旨



No 213967
著者(漢字) 荒井,秀
著者(英字)
著者(カナ) アライ,シゲル
標題(和) 元素の特性を活用する触媒的不斉合成反応に関する研究 : 実用的方法論の開発を目指して
標題(洋)
報告番号 213967
報告番号 乙13967
学位授与日 1998.09.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第13967号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柴崎,正勝
 東京大学 教授 福山,透
 東京大学 教授 長野,哲雄
 東京大学 助教授 遠藤,泰之
 東京大学 助教授 小田嶋,和徳
内容要旨

 生体は精緻な分子認識を基盤として鏡像異性体を厳格に区別するため,生物活性物質として生体内に直接投与される医薬品,農薬は光学活性化合物でなければ効果的な薬理活性は期待できない.したがって光学活性化合物の効率的合成法の開発は,この4半世紀において有機合成化学の最重要課題であり続けてきた.少量の不斉源から理論的には無限の光学活性体を供給しうる触媒的不斉合成法は,効率並びに一般性に優れた方法論として注目を集めており,様々な成功例が知られるに到っている.しかし,化合物の効率的「供給」という観点からは未だに発展途上の分野であると言わざるを得ない.化学反応固有のコスト並びに環境調和性といった,ややもすると科学とは本質的に関係のない問題点が工業化への大きな障害になる事が多く大学研究室レベルでの成功が必ずしも「工業化」にはつながらないからである.したがって,安価な反応試剤の開発,穏和な反応条件並びに簡便な実験操作法などの確立は,「工業化」実現への直接的方法論になりうる.そこで筆者は,上記の問題点を解決しうる方法論の開発として,「実用性」をキーワードとした触媒的不斉合成法の開発研究に着目した.前半部では,遷移金属触媒を用いた不斉合成,後半部では相間移動触媒を用いた展開についてそれぞれ述べる.

1.不斉ヘテロバイメタリック錯体を用いる触媒的不斉ヒドロホスホニル化反応の開発

 -アミノホスホン酸は,ペプチドミメティックスの基本構成単位として非常に重要且つ汎用性の高いキラルビルディングブロックでありながら,効率的合成法に関しては全く知られていなかった.筆者は-アミノホスホン酸の最も効率的且つ直接的合成法として,イミンとホスファイトを用いた炭素-リン結合生成反応に着目した.触媒としては,反応基質間の多点制御が可能で,ニトロアルドール反応或いはマイケル反応に極めて有効な2種の異種金属含有のヘテロバイメタリック錯体(Figure 1)を用いて,イミンの高効率的不斉ヒドロホスホニル化反応の確立を目指し以下種々の検討を行った(Table1).化学量論量のヘテロバイメタリック試剤存在下,基質を用いて反応を行ってみると,良好な不斉収率を示すものの加熱条件でも低収率でしか目的物が得られてこなかった(runs1-3).これは,立体的にかさ高いTr基による反応点の遮蔽に起因すると考えられたので,次に着脱が容易で立体的に小さいジアニシルメチル(DAM)基を有する基質を用いることとした.その結果,室温下でも速やかに反応は進行し,触媒としてはLPB錯体が効果的で目的物が最高71%eeで得られてくるものの(run5),化学収率が低く触媒サイクルに問題があることが示唆された.反応の効率的進行を念頭に種々検討したところ加熱が効果的であり(run6),沸点の高いトルエンを用いたトルエン-THFの混合溶媒で検討したところ,意外にも室温で速やかに反応が進行し,化学収率,不斉収率とも大幅な向上が見られた(run7).さらに反応条件について詳しく検討したところ,本反応は-20℃でも反応が進行することがわかった(run8).すなわち,触媒サイクル中における触媒再生のステップに何らかの問題があったために見掛け上反応の進行が極めて遅かったと考えることができる.そこで室温で反応時間を延ばしたところ,非常にゆっくりではあるが触媒が10mol%でも反応は進行し,極めて高い不斉収率で目的物を得ることに成功した(runs9-11).さて,化学反応の進行を妨げている要因として,生じた生成物が錯体からの解離が困難なためと考えられたので,次に窒素原子上の電子密度を下げるべく電子供与性の官能基であるメトキシ基をもたないジフェニルメチル(DPM)基を保護基に有する基質を用いて検討することとした(Table2).予想通り反応は速やかに進行しを用いた場合よりも大幅な加速効果が見られることがわかった.特に触媒量を5mol%まで低減しても化学収率,不斉収率ともに遜色なく目的物が得られることがわかった(run2).また他の基質にも適用可能であり,特に脂肪鎖を有する基質に関しては80%eeを越える高い選択性で反応が進行する.本反応は反応条件が極めて穏和で,得られる生成物の光学純度も高く,さらに高価な試薬を必要としない.現在,本方法論を用いてアミノホスホン酸が工業的に合成され,Alcrichから市販されるまでに到っている.

Table 1.LnMB-Promoted Asymmetrc Hydrophosphonylation of lmineTable 2.(R)-LPB-Catalyzed Asymmetrc Hydrophosphonylation Using 1c
2.不斉相間移動触媒を用いる不斉Darzens縮合の開発

 相間移動触媒(Phase-Transfer Catalyst以下PTCと省略)とは,互いに交じり合わない不均一系において,反応速度を大幅に加速させる微量添加物質の総称である.したがってPTCは,同一分子内に疎水性部位と親水性部位を併せ持つ(両親媒性)といった特徴ある化学構造を有する.大別すると4級塩,クラウンエーテル,ポリマーなど様々なタイプが知られており,それぞれの特徴を生かした新しい化学反応への展開がなされてきた.しか光学活性PTCを用いた触媒的不斉合成への展開は未だに発展途上であり,成功例は極めて少ない.この事実は,イオン結合のようなフレキシビリティの高い化学結合を用いたエナンチオ制御が極めて困難である事に起因している.近年飛躍的に発展した遷移金属触媒を用いる不斉合成とは対照的である.さてPTCを用いる化学反応の特性は,1)一般に反応条件が穏和である,2)反応溶媒に水を用いることが可能である,3)後処理が簡便で操作性に優れている,4)化学反応の経済性の追求に有利である,などが挙げられるため,実用的方法論の開発への直接的解決手段と考えられる.そこで筆者は,安価なキラルアミンから容易に誘導可能な4級塩を用いて,有機合成上最もチャレンジングな課題の一つである不斉炭素-炭素結合生成反応の開発を念頭に本研究に着手した.

 Darzens縮合は同時に2つの不斉点の制御が可能な,有機合成化学上極めて有用な炭素-炭素結合生成反応の1つである.しかしながら,触媒的不斉合成への展開は大きく遅れていた.光学活性な金属試剤を用いても,本反応の終了後には不活性な金属ハライドを形成してしまい触媒サイクルの構築自体が極めて困難なためである.実際,過去の報告例は化学量論以上の不斉源を用いるジアステレオ選択的な反応に限られ,触媒的不斉合成の成功例は皆無だった.そこで筆者は,光学活性4級塩を相間移動触媒に用いれば触媒サイクルのみならず効果的な不斉環境の構築も期待でき,最も効率的で且つ実用性の高い触媒的不斉Darzens縮合の開発につながりうると考え,以下詳細に検討することとした.

 市販の光学活性4級アンモニウム塩(PTC)触媒量存在下,クロロケトン及びアルデヒドを用いて種々の溶媒,塩基を用いてDarzens縮合を行った(Table 3).塩基として水酸化リチウム存在下,種々の溶媒を用いて溶媒効果を検討した結果,本反応系はエーテル系溶媒,特にジブチルエーテルが効果的であることがわかった(run7).ジブチルエーテルは安価で毒性も低く実用性を考慮した場合,優れた反応溶媒といえる.次に塩基について検討したところ,水酸化ナトリウムなどの強塩基を用いると速やかに反応が進行するものの目的物はほとんどラセミ体であった(run11).また水酸化マグネシウムなどの弱塩基を用いた場合,反応自体がほとんど進行しない(run12).

Table 3.PTC-Catalyzed Asymmetric Darzens Condensationa

 以上の結果から,溶媒としてジブチルエーテル,塩基として水酸化リチウムが効果的であることがわかったので,次にPTCについて検討することとした.

 反応条件を最適化した結果,PTCを10mol%用いてジブチルエーテル(0.1M),水酸化リチウム・水和物(2.0eq)を用いたときに最も高い化学収率,不斉収率でを与えたので,以下この条件で検討した(Table4).実際反応を行ってみると,ベンジル基上の官能基及び位置によって不斉収率に大きな差が見られた.トリフルオロメチル基が4位に導入されたものが最も効果的で,3位もしくは2置換のものは大幅な不斉収率の低下が見られた(runs2-4).トリフルオロメチルと同様の立体効果が期待できるメチル基を4位に有するPTCを用いるとほとんど不斉は誘起されないことから(run5),本反応においては電子吸引基の導入が効果的であると考えられた.しかしながらニトロ基あるいはシアノ基のような電子吸引基は効果的でなかった(runs7,8).また電子供与基が導入されたPTCを用いた場合,不斉はほとんど誘起されなかった(run9).

Table 4.PTC Effect

 以上の結果から本反応においてPTCが最も効果的と考えられたので,次に基質について検討することとした.アルデヒドと同様,脂肪鎖を有する基質に関しては,70%ee程度と良好な不斉収率で目的物が得られてくることがわかった(Table5).芳香族アルデヒドを用いた場合も中程度の不斉収率を示した.不斉誘起におけるトリフルオロメチル基の役割は不明な点も多く現在検討中であるが,本結果はキラル4級アンモニウム塩をPTCとして用いる不斉Darzens縮合における最初の成功例である.現在は更なる一般性の追求並びに不斉収率の向上を目指し種々検討中である.

Table 5.Substrate Effect
審査要旨

 生体は精緻な分子認識を基盤として鏡像異性体を厳格に区別するため,生物活性物質として生体内に直接投与される医薬品,農薬は光学活性化合物でなければ効果的な薬理活性は期待できない.少量の不斉源から理論的には無限の光学活性体を供給しうる触媒的不斉合成法は,効率並びに一般性に優れた方法論として注目を集めており,様々な成功例が知られるに到っている.そこで荒井秀は、「実用性」をキーワードとした触媒的不斉合成法の開発研究に着目した.

1.不斉ヘテロバイメタリック錯体を用いる触媒的不斉ヒドロホスホニル化反応の開発

 -アミノホスホン酸は,ペプチドミメティックスの基本構成単位として非常に重要且つ汎用性の高いキラルビルディングブロックでありながら,効率的合成法に関しては全く知られていなかった.荒井は-アミノホスホン酸の最も効率的且つ直接的合成法として,イミンとホスファイトを用いた炭素-リン結合生成反応に着目した.触媒としては,反応基質間の多点制御が可能で,ニトロアルドール反応或いはマイケル反応に極めて有効な2種の異種金属含有のヘテロバイメタリック錯体(Figure 1)を用いて,イミンの高効率的不斉ヒドロホスホニル化反応の確立を目指し以下種々の検討を行った(Table1).その結果、特に脂肪鎖を有する基質に関しては80%eeを越える高い選択性で反応が進行することを見い出した.本反応は反応条件が極めて穏和で,得られる生成物の光学純度も高く,さらに高価な試薬を必要としないことから、現在,本方法論を用いてアミノホスホン酸が工業的に合成され,Aldrichから市販されるまでに到っている.

Table 1.LnMB-Promoted Asymmetrc Hydrophosphonylation of lmine
2.不斉相間移動触媒を用いる不斉Darzens縮合の開発

 相間移動触媒(Phase-Transfer Catalyst以下PTCと省略)とは,互いに交じり合わない不均一系において,反応速度を大幅に加速させる微量添加物質の総称である.したがってPTCは,同一分子内に疎水性部位と親水性部位を併せ持つ(両親媒性)といった特徴ある化学構造を有する.大別すると4級塩,クラウンエーテル,ポリマーなど様々なタイプが知られており,それぞれの特徴を生かした新しい化学反応への展開がなされてきた.しかし光学活性PTCを用いた触媒的不斉合成への展開は未だに発展途上であり,成功例は極めて少ない.この事実は,イオン結合のようなフレキシビリティの高い化学結合を用いたエナンチオ制御が極めて困難である事に起因している.近年飛躍的に発展した遷移金属触媒を用いる不斉合成とは対照的である.さてPTCを用いる化学反応の特性は,1)一般に反応条件が穏和である,2)反応溶媒に水を用いることが可能である,3)後処理が簡便で操作性に優れている,4)化学反応の経済性の追求に有利である,などが挙げられるため,実用的方法論の開発への直接的解決手段と考えられる.そこで荒井秀は,安価なキラルアミンから容易に誘導可能な4級塩を用いて,有機合成上最もチャレンジングな課題の一つである不斉炭素-炭素結合生成反応の開発を念頭に本研究に着手した.

 その結果Table 3〜5に記されるごとく、キラル4級アンモニウム塩をPTCとして用いる不斉Darzens縮合における最初の成功例を確立した。

Table 3.PTC-Catalyzed Asymmetric Darzens CondensationaTable 4.PTC EffectTable 5.Substrate Effect

 以上の新規触媒的不斉合成法は、医薬化学および医薬合成に多大な貢献をすることが期待され、荒井秀の研究業績は博士(薬学)に値すると判断した。

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