学位論文要旨



No 213674
著者(漢字) 須磨岡,淳
著者(英字)
著者(カナ) スマオカ,ジュン
標題(和) DNA,RNAおよびcAMPを加水分解する金属触媒の開発
標題(洋)
報告番号 213674
報告番号 乙13674
学位授与日 1998.01.29
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13674号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小宮山,真
 東京大学 教授 渡辺,公綱
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 教授 相田,卓三
 東京大学 助教授 八代,盛夫
内容要旨

 生体内でのリン酸エステルの役割は,DNAやRNAによる遺伝情報の保存・発現だけにとどまらず,細胞内の情報伝達・酵素活性の制御など多岐におよぶことが知られている。たとえば,アデノシン3’,5’-環状リン酸(cAMP)は細胞内での情報伝達を担っており,cAMP加水分解触媒による人工的なcAMP濃度の制御は,細胞機能の人工制御への道を開くものである。また,DNAを塩基配列特異的に切断する人工酵素は,天然の制限酵素に替わるものとして遺伝子工学・医学などの種々の分野から興味が持たれている。しかしながら,リン酸ジエステルは生理条件下では非常に安定な結合であり,これを加水分解する触媒系はほとんど見出されていないのが現状であった。したがって,これまでに報告されている触媒系のほとんどは,p-ニトロフェニルエステル等の非常に良い脱離基を有するリン酸エステルを加水分解するものに限られていた。本研究では,従来は天然の酵素の力を借りること無しに加水分解することは不可能とされていたDNAやcAMP等のリン酸エステル化合物に対して,非常に高活性を有する金属触媒系を開発することを目的とした。

Ce(IV)によるcAMPの効率的加水分解

 種々の金属イオンについてcAMP加水分解活性を検討した。その結果,塩化セリウム(III)水溶液を用いると,pH8,30℃の条件で,cAMPが迅速に加水分解されることを見出した。さらに,塩化セリウム(III)水溶液を,酸化還元滴定することにより,溶液中のセリウム(III)がセリウム(IV)に酸化されていることを明らかにした。溶液調製中に生成するセリウム(IV)の量と,cAMP加水分解活性の相関より,系中に生成したセリウム(IV)によりcAMPの加水分解反応が著しく促進されていることを見出した。

 セリウム(IV)の触媒作用について詳細に検討した。pH7,30℃の条件で,Ce(IV)(NH4)2(NO3)6(10mM)を用いてcAMPの加水分解反応を実行した結果を図1に示す。反応開始後15秒でcAMPは加水分解され,3’-AMPおよび5’-AMPが約9:1の割合で生成した。この時,各モノリン酸がさらに加水分解されたAdoも少量検出された。このcAMP加水分解の擬一次速度定数は6.1min-1(半減期;7秒)であり,この加速効果は触媒不在下の実に1013倍にも達した。

図1 Ce(IV)(NH4)2(NO3)6(10mM)を用いたcAMPの加水分解。(a)t=Osec,(b)t=15sec

 次に,pH7,30℃において,種々の金属イオンを用いた,cAMP加水分解活性を比較検討した(図2)。Ce(IV)の活性は,他のランタニド金属(III)イオンに比較して103倍以上も高活性であることが示された。また,他の4価のイオン(Zr(IV)およびHf(IV))に比べても,500倍以上活性が高く,Ce(IV)の4価という電荷の大きさのみがcAMPの加水分解に有効であるわけではなく,Ce(IV)の加水分解活性の特異性が示された。

 セリウム(IV)は酸化剤として一般に知られているにもかかわらず,pH2〜8の領域にわたって加水分解のみが促進され,cAMPの酸化反応は起っていないことをNMRおよびHPLC分析により明らかにした。また,反応のpH依存性およびセリウム(IV)初濃度依存性より,pH2では,セリウム(IV)の2量体([Ce(IV)2(OH)4]4+)が活性種であることを明らかにした。さらに,この結果に基づき,生理条件下でのCe(IV)によるcAMP加水分解機構を考察した(図2)。

図2 種々の金属イオンによるcAMP加水分解反応の擬一次速度定数(pH7.0,30℃)図3 Ce(IV)によるcAMPの推定加水分解機構
コバルト錯体によるcAMP加水分解

 種々のコバルト錯体によるcAMP加水分解反応の擬一次反応速度を表1に示す。最も活性の高い[Co(III)(cyclen)(H2O)2]3+錯体を用いた場合,擬一次速度定数は1.2h-1(半減期35min)であり,触媒非存在下と比較して1010倍の加速効果が得られた。この触媒活性は,コバルト(III)錯体としては最高活性を有する。また,生成物は3’-AMP,5’-AMPおよびAdoのみであり,すべてcAMPの加水分解生成物であった。脱塩基の生成物であるアデニンおよびその他の生成物は検出され無かった。

表1 種々のコバルト(III)錯体によるcAMP加水分解の擬一次速度定数(pH7.0,50℃)

 cAMP加水分解活性は,表1に示すように,コバルト(III)錯体のアミン配位子構造(図4)に大きく依存した。その活性の序列は,cyclen>trein>(tme)2>tren>(tn)2>2,3,2-tet>(en)2であった。最も活性の高かったcyclenと比較して(en)2はわずか4000分1の活性しか持たなかった。しかし,(en)2錯体の場合でも,触媒非存在下に比べ実に106倍もの加速効果が得られた。

図4 コバルト(III)配位子の構造

 これに対し,cyclam,cth,およびdien錯体はほとんど活性を持たなかった。触媒活性を有するコバルト(III)錯体の構造はコバルトの6個の配位座のうち4つをアミン配位子が占め,残りの2つの配位座を占めているH2Oがシス位の関係にあることが重要であることが示唆された。さらに,31P-NMR測定により,コバルト(III)とリン酸の配位形態を推定し,コバルト(III)錯体によるcAMPの加水分解の反応機構を図5のように考察した。

図5 コバルト(III)錯体によるcAMP加水分解の推定反応機構
DNAオリゴマーの切断と末端の確認

 cAMPの加水分解に対して高い活性を持つセリウム(IV)が,DNAオリゴマーに対して,非常に高い切断活性を持っていることが知られていた。しかし,この切断が加水分解であるかどうかは不明であった。そこで,セリウム(IV)を用いたDNAオリゴマーの切断の後,その切断フラグメントを酵素処理することで切断末端の構造を明らかにし,セリウム(IV)によるDNAオリゴマーの切断様式を決定した。32Pで標識したDNAオリゴマーをセリウム(IV)により切断後,各切断フラグメントをポリアクリルアミドゲル電気泳動により分取・精製した。分取した各切断フラグメントを,T4キナーゼ,デオキシヌクレオチジルトランスフェラーゼ,アルカリフォスファターゼの各酵素により処理し,ポリアクリルアミドゲル電気泳動により分析した。その結果,これらの切断フラグメントの末端は全て加水分解により生成する水酸基およびリン酸基であり,ラジカルによる糖鎖の酸化的切断は起きていないことが実証された。したがって,セリウム(IV)により加水分解されたDNA断片は,そのままで酵素処理が可能であり,遺伝子工学に応用できることが明らかとなった。

Ce(IV)/Ln(III)/dextran系触媒によるTpTの加水分解

 cAMPやDNAの加水分解に対して非常に高活性であるセリウム(IV)は,生理条件下で金属水酸化物によるゲル状の沈澱を生じるため,工学的な応用が困難である。このセリウム(IV)がデキストランを配位子として用いることで,均一化することを明らかにした。チミジリル(3’→5’)チミジン;TpT)の加水分解を行なったところ,わずかながら加水分解活性を示した。さらに,このセリウム(IV)/デキストラン系にランタニド金属イオンの一つであるプラセオジム(III)を添加することにより,反応が300倍以上も加速され,半減期7時間でTpTが加水分解されることを明らかにした(表2)。

表2 TpT加水分解擬一次速度定数(pH7.0,50℃)a

 次に,Ce(IV)/dextran系に添加するPr(III)濃度依存性を検討した。図6に示すように,Pr(III)の添加に従い,加水分解活性が増大し2:1で最大活性を有した。さらに,Pr(III)を添加すると,活性の減少が見られた。すなわちCe(IV):Pr(III)=2:1のクラスターが反応の活性種であることが示唆さた。また,動的光散乱法により,これらの反応溶液を測定した結果,セリウム(IV)/デキストランおよびセリウム(IV)/プラセオジム(III)/デキストランはいずれも,溶液中で直径約15nmのコロイド状粒子を形成していることを示した。

図6 Ce(IV)/Pr(III)/デキストラン3元系触媒を用いたTpTの加水分解の擬一次速度の[Pr(III)]0/[Ce(IV)]0依存性(pH7.0,50℃)
コバルト(III)錯体による2’-AMPおよび3’-AMPの相互異性化反応

 アデノシン2’-モノリン酸(2’-AMP)とアデノシン3’-モノリン酸(3’-AMP)との相互のエステル交換反応を促進する触媒系の開発に成功した。2’-AMPと3’-AMPの異性化反応は,強酸性条件下ではスードローテションを経て比較的容易に進行するが,中性領域ではほとんど進行しないことが知られていた。この反応に対して,コバルト(III)トリス(3-アミノプロピル)アミン(trpn)錯体を用いると,モノエステルの加水分解反応はほとんど進行しないにもかかわらず,異性化反応のみが速やかに実現することを明らかにした(図7)。これに対して,コバルト(III)(tme)2錯体を用いると,モノエステルの加水分解反応が優先的に進行し,配位子の構造の違いにより触媒作用が大きく異なることをが明らかとなった。

図7 Co(trpn)錯体(2.5x10-3M)による,2’-AMPから3’-AMPへの異性化反応のHPLCチャート(pH8,30℃)

 以上のように,従来は酵素の力を借りること無しに加水分解することは不可能とされていたDNAやcAMP等のリン酸エステル化合物に対して,非常に高活性を有する金属触媒系の開発に成功した。今後,本研究をもとに,次世代バイオテクノロジーが展開されるものと期待される。

審査要旨

 本論文は,生体内の重要なリン酸エステル化合物を加水分解する金属触媒の開発に関するものであり,8章より構成されている。

 生体内でのリン酸エステルの役割は,DNAやRNAによる遺伝情報の保存・発現だけにとどまらず,細胞内の情報伝達・酵素活性の制御など多岐におよぶことが知られている。たとえば,アデノシン3’,5’-環状リン酸(cAMP)は細胞内での情報伝達を担っており,cAMP加水分解触媒による人工的なcAMP濃度の制御は,細胞機能の人工制御への道を開くものである。また,DNAを塩基配列特異的に切断する人工酵素は,天然の制限酵素に替わるものとして遺伝子工学・医学などの種々の分野から興味が持たれている。しかしながら,リン酸ジエステルは生理条件下では非常に安定な結合であり,これを加水分解する触媒系はほとんど見出されていないのが現状であった。したがって,これまでに報告されている触媒系のほとんどは,p-ニトロフェニルエステル等の非常に良い脱離基を有するリン酸エステルを加水分解するものに限られていた。本研究では,従来は天然の酵素の力を借りること無しに加水分解することは不可能とされていたDNAやcAMP等のリン酸エステル化合物に対して,非常に高活性を有する金属触媒系を開発することに成功した。

 第1章は,緒論であり,本研究が行われた背景を述べるとともに,本研究の目的と意義を明らかにした。

 第2章では,種々の金属イオンについてcAMP加水分解活性を検討した。その結果,塩化セリウム(III)水溶液を用いると,pH8,30℃の条件で,cAMPが迅速に加水分解されることを見出した。さらに,塩化セリウム(III)水溶液を,酸化還元滴定し,溶液中のセリウム(III)がセリウム(IV)に酸化されていることを明らかにした。溶液調製中に生成するセリウム(IV)の量とcAMP加水分解活性から,系中に生成したセリウム(IV)によりcAMPの加水分解反応が著しく促進されていることを見出した。

 第3章では,前章の結果に基づき,セリウム(IV)の触媒作用について詳細に検討した。セリウム(IV)は酸化剤として一般に知られているにもかかわらず,pH2〜8の領域にわたって加水分解のみが促進され,cAMPの酸化反応は起っていないことをNMRおよびHPLC分析により明らかにした。また,反応のpH依存性およびセリウム(IV)初濃度依存性より,pH2では、セリウム(IV)の2量体([Ce(IV)2(OH)4]4+)が活性種であることを明らかにした。さらに,この結果に基づき,生理条件下でのCe(IV)によるcAMP加水分解機構を考察した。

 第4章では,コバルト(III)錯体を用いたcAMPの加水分解反応を行なった。コバルト(III)-アミン錯体は,pH7で比較的安定に均一溶液として存在するため,反応機構の解析が行ないやすく,新規触媒系の開発に大きな知見を与えると考えられる。種々のアミン配位子の構造と加水分解活性から,配位子として1,4,7,10-テトラアザシクロドデカンを用いた場合が,最も高活性であることを明らかにした。また,cAMPの加水分解により生成するアデノシン3’-リン酸(3’-AMP)と5’-リン酸(5’-AMP)の生成比に関しても,ビス(1,3-ジアミノプロパン)錯体が,他の配位子と異なり5’-AMPを特に優先的に生成することを明らかにした。さらに,31P-NMR測定により,コバルト(III)とリン酸の配位形態を推定し,コバルト(III)錯体によるcAMPの加水分解機構を考察した。

 第5章では,セリウム(IV)を用いたDNAオリゴマーの切断の後,その切断断片を酵素処理することで切断末端の構造を明らかにし,セリウム(IV)によるDNAオリゴマーの切断様式を決定した。32Pで標識したDNAオリゴマーをセリウム(IV)により切断後,各切断断片をポリアクリルアミドゲル電気泳動により分取・精製した。分取した各切断断片を,T4キナーゼ,デオキシヌクレオチジルトランスフェラーゼ,アルカリフォスファターゼの各酵素により処理し,ポリアクリルアミドゲル電気泳動により分析した。その結果,これらの切断断片の末端は全て加水分解により生成する水酸基およびリン酸基であり,ラジカルによる糖鎖の酸化的切断は起きていないことが実証された。したがって,セリウム(IV)により加水分解されたDNA断片は,そのままで酵素処理が可能であり,遺伝子工学に応用できることが明らかとなった。

 第6章では,生理条件下で金属水酸化物によるゲル状の沈澱を生ずるセリウム(IV)が,デキストランを配位子として用いることで,均一化することを明らかにした。チミジリル(3’→5’)チミジン(TpT)の加水分解を行なったところ,わずかながら加水分解活性を示した。さらに,このセリウム(IV)/デキストラン系にランタニド金属イオンの一つであるプラセオジム(III)を添加することにより,反応が300倍以上も加速され,半減期7時間でTpTが加水分解されることを明らかにした。また,動的光散乱法により,これらの反応溶液を測定した結果,セリウム(IV)/デキストランおよびセリウム(IV)/プラセオジム(III)/デキストランはいずれも,溶液中で直径約15nmのコロイド状粒子を形成していることを示した。

 第7章では,アデノシン2’-モノリン酸(2’-AMP)とアデノシン3’-モノリン酸との相互のエステル交換反応を促進する触媒系の開発に成功した。2’-AMPと3’-AMPの異性化反応は,強酸性条件下ではスードローテションを経て比較的容易に進行するが,中性領域ではほとんど進行しないことが知られていた。この反応に対して,コバルト(III)トリス(3-アミノプロピル)アミン錯体を用いると,モノエステルの加水分解反応はほとんど進行しないにもかかわらず,異性化反応のみが速やかに実現することを明らかにした。これに対して,コバルト(III)ビス(1,1,2,2-テトラメチルエチレンジアミン)錯体を用いると,モノエステルの加水分解反応が優先的に進行し,配位子の構造の違いにより触媒作用が大きく異なることを示した。さらに,31P-NMRを測定することにより,コバルト(III)とリン酸の配位形態を推定し,反応機構の考察を行なった。

 第8章は,総括であり,本研究を要約して得られた研究成果をまとめた。

 本論文により得られた成果は,次世代の遺伝子工学や細胞機能の人工制御などの種々の工学的分野への寄与が非常に大きいと思われる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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