本論文は、「われわれの認識における言語の働きや言語の理解とはいかなるものであるか」という、われわれの言語と認識のあり方を廻るもっとも基本的な問いについて考察したものである。そこで、本論文はウィトゲンシュタイン、とりわけ後期ウィトゲンシュタインとクワインという、今世紀の分析哲学を代表する二人の哲学者の所説を取り上げ、両説の詳細な比較検討を通して論述を進める一方、「認識の進展」とそれに伴う「言語の変化」という、言語と認識を廻る「ダイナミックなプロセス」に焦点を当て、そのプロセスを適切に扱うべく、幾つかの主要なテーゼを提案する。これより、本論文は「全体論的」と称すべき、体系的で柔軟な言語観と認識観を提示し、これをもって本論文の答えとするのである。本論文の著者はここ十数年にわたって本論文の問いと格闘してきた者であり、その間、何本かの論文を海外も含めて世に問うてきたが、本論文はこれらの蓄積の上に書かれた「中間決算」と言えるものであり、間違いなく一つの到達点を記すものである。 本論文は、全体として五つの章と結語とから構成されている。 第一章は、言語の本質とその理解を廻る「従来の哲学」の見解を批判し、それらについてのまったく新しい視点を導入した後期ウィトゲンシュタインの「洞察」が紹介される。その「洞察」によれば、言語とはチェスのようなゲームにたとえられる「規則の体系」にほかならず、われわれの言語活動は「言語ゲーム」と名づけられる。このとき、言語の理解とは、規則の表現に対して一定の反応を他の人々と一致して行うことのできる技術を身につけることだと捉えられ、言語の成立基盤がこの「われわれの一致」にあることがまず確認される。 第二章は、前章で紹介されたウィトゲンシュタインの「洞察」が不適切だとして批判され、彼の言語観や言語理解の「限界」が指摘される。かの「洞察」によれば、言語の成立基盤は「規則におけるわれわれの一致」にあるがゆえに、言語規則や意味の問題と事実の問題とは身分上異なるものとして峻別されなければならない。だが、「痛みを感じないのに、痛みのふるまいを惹き起こす病気」「規準と徴候の間の揺れ動き」などの事例は、それらの間の峻別が成立せずに「相互浸透」が生じており、よってかの「洞察」から「意味変化のパラドックス」と類似の困難が帰結することを示している。同じことが「世界像」という、彼の最晩年の概念についても当てはまる。たしかにこの概念は理論的な科学における言語理解(「体系の把握による理解」「像を描くことによる理解」)に通じる側面をもっているが、これを「文法的規則」として意味の問題と解するかぎり、同じことである。彼の「原子論的」な「洞察」はわれわれの言語理解のもつ「根深い体系性」を十分に捉えることができないのである。 第三章は、クワインの「発想」に依拠しつつ、「全体論的」な言語観と認識観が提示されるとともに、本論文のもっとも主要なテーゼが提案される。クワインは「経験主義の二つのドグマ」において知識や信念の体系の「一般的な改訂可能性」を認める「全体論」を主張したが、『ことばと対象』においては言語の理解を「言語共同体のメンバーに共通の言語的なふるまいのパターン(共有信念)を身につけること」と規定して、より「保守」的な「全体論」を主張した。ここで「疑念」が生じる。この「全体論」は、「共有信念」の一部が変化すれば、全体としての言語もまた変化するという、「言語変化のパラドックス」を避けることができるであろうか。この「疑念」に応えるべく、著者は「対話の一般的な円滑さ」という、言語の同一性に関するクワインの基準を最重要の「鍵」として受け止め、それに依りながら、次の二つのテーゼを提案する。一つは、言語の同一性とは推移律を満たさない「準-同一性」であるというものである。もう一つは「補償の原理」であり、その骨子は、共有信念の不一致によって対話の円滑さが低下したとしても、「準-同一」の言語における対話であるかぎり、残りの信念に合致した形の論証や説明を与えることによってそれを「補償」することができるというものである。この原理こそ、著者が本論文で提案しようとする「基本的な考え方」にほかならない。 第四章は、前章で提案された「補償の原理」に対して注釈・但し書き・拡張の作業が施される。対話の円滑さは言語の基本的な部分や特殊な専門領域のみならず、もっと細かな話題にも依存しているので、「補償の原理」はそれら個々の話題に対しても適用されなければならない。すると「一基準語」の「基準命題」(所謂「分析命題」)が改訂不可能であることが「補償の原理」から説明することができる。また一基準語から「法則集約語」への変化を一律に「単なる言語上の変化」としてではなく、「補償の原理」にしたがって「準-同一」の言語の中で行われる「認識の進展」や「理論(信念)の変化」として見なければならない事例もある。さらにクワインの見解に反して、「観察の理論(信念)負荷性」により、「観察文」の「刺激意味」は「理論(信念)の変化」とともに変化し得るのであり、「補償の原理」を適切に拡張することによってその改訂可能性を説明することができる。こうして「補償の原理」は信念体系の「内部」だけでなく、その「ふち」に位置する「観察文」に対しても適用されることになり、体系全体を支える「グローバルな」原理としての資格を得ることになる。 第五章は、前二章で展開された言語観と認識観に対して提起され得る二つの問題が検討される。一つは、「言語の習得可能性」の問題であるが、「全体論的」な言語観においても、言語の理解にはそれを「全く理解していない」状態と「完全に理解している」状態との間にさまざまな中間段階があり、言語の習得可能性が否定されることはない。もう一つは、「言語共同体」という概念の問題である。この概念は主として「「準-同一」の言語を話す人々全体からなる言語共同体」を意味するのであり、よって一人の人間が同時に複数の「言語共同体」に属することがあり得ると結論される。 結語は、「ウィトゲンシュタイン的アプローチ」と呼ばれた第一章の議論を振り返り、それに対する著者の応答が述べられる。「従来の哲学」の議論に対してこの「アプローチ」が主張する「文法的規則」とは、「「補償の原理」にしたがってそれを否定するために必要な説明や論証を与えることが極めて難しい」命題のことだと解釈される。だが、「従来の哲学」もウィトゲンシュタインの哲学もともに「基礎づけ主義」に荷担しており、両者の「中間」としての本論文の立場からは原理上否定不可能で「確実な基礎」となる命題はなにも存在しないと言わなければならない。 以上が、本論文の内容の概略である。 本論文の意義としては、以下の四つが挙げられる。 第一は、ウィトゲンシュタイン、それも後期ウィトゲンシュタインとクワインという、二人の「大哲学者」の所説を言語と認識を廻る「ダイナミックなプロセス」の一点で「ぶつけ」るという、海外にも例を見ない着想の斬新さである。そしてこの着想は本論文の内容と構造の全体をいわばはじめから決定づけるものであり、二人の哲学者の所説の受容と批判を通してはじめてかの「プロセス」を正当に捉えることができるという、本論文の主張と議論の展開を説得力のあるものにしている。 第二は、言語の同一性は推移律を満たさない「準-同一性」であるという、「一見したところ非常識に見えるテーゼ」を提案したことである。この「テーゼ」は「対話の一般的な円滑さ」という、言語の同一性に関するクワインの行動主義的な基準を重視した結果であるが、この「テーゼ」の「非常識」さは彼の基準の「非常な曖昧さ」という特徴をいわば逆手に取った結果にほかならない。そしてこの「テーゼ」によって従来からの「予断」に満ちた「言語の変化」という概念に新たな楔を打ち込み、「言語の変化」から「理論(信念)の変化」を切り離し、「外的観点」と「内的観点」の区別を導入することによって、「外的観点からは言語の変化はあったが、内的観点からは言語の変化はなかった」という仕方でかのプロセスを柔軟に扱うことができるようになる。 第三は、「準-同一」の言語における対話の成立条件として「補償の原理」を提案したことである。この原理は、「科学革命」のように、比較的短期間の中に生じる大きな理論や信念の変化に対応できるように要請されたものであるが、「全体的な安定性」と「一般的な改訂可能性」という、体系的な言語理解にとって不可欠な二条件、あるいは「流通しつつ変化する」という、言語の実態のもつ二面性を見事に説明し、保証する原理だと言ってよい。さらにこの原理は後に「観察文」にも適用できるように拡張されることにより、言語という体系全体に適用される真に「グローバルな」原理となる。 第四は、言語の「準-同一性」と「補償の原理」に基づいて、「全体論的」で「ダイナミックな」言語観と認識観を提示したことである。本論文は「言語哲学」「認識論(知識の哲学)」「科学哲学」の分野に属すると言われているが、われわれの言語と認識のあり方をそれ自体として根本から問い、それを包括的な形で提示するという試みがそれほど頻繁になされるわけではあるまい。本論文の試みはそれを象徴する「補償の原理」の名とともに長く記憶され、また遠い将来にわたって多方面からの議論の対象になり得るものと予想される。 本論文にも問題点がないわけではない。本論文における「全体論」と「原子論」という用語の意味と理解およびウィトゲンシュタイン解釈の正否について、また「対話の一般的な円滑さ」という概念の内容および「指示」や「真偽」などの意味論的概念の取扱いについて、さらに知識社会学的立場からのウィトゲンシュタイン批判への対応について問題点が指摘された。また本論文とデイヴィッドソンの哲学との関係について検討の要望が出された。 このように、本論文にもなお今後の論考に俟つ余地はあるものの、それは本論文の価値を損なうものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。 |