本論文はアンチストークスラマン分光の進展に関する新しい側面についての研究結果を述べている。論文は三つの部分から構成されている。第一の部分ではインコヒーレントアンチストークスラマン散乱が、蛍光性の不純物を含む試料の測定に有効であることを検証している。第二の部分では提出者が見出した新しいタイプの非線形ラマン散乱であるPartially Coherent Anti-Stokes Raman Scattering(PCARS)についてその発生機構のモデルを設定し検証している。第三の部分ではストリークカメラを用いた新しい測定原理にもとづくピコ秒時間分解二次元マルチプレックスコヒーレントアンチストークスラマン散乱(2D-CARS)分光法を、ジフェニルアセチレン(DPA)のS2状態とS1状態の構造と動力学の研究に応用し、2D-CARS法の有効性を示す結果を得ている。 第一章は全体の序論である。この章では、ラマン分光法一般の長所短所を述べた後、アンチストークスラマンに特有な特徴を述べている。ここではラマン過程と蛍光過程の機構の違いからアンチストークスラマン過程の利用によって蛍光の寄与の抑制が可能であること、またインコヒーレントアンチストークスラマン過程においてはその始状態が振動励起状態であることから、信号強度が微弱であり高感度な検出方法が不可欠であることを述べている。またラマン分光測定装置の歴史的発展をふまえ、光検出器、光学素子の発展の結果による最近の測定装置の高感度化についても述べてある。次に提出者が見出したPCARSについて、その発生機構が試料の光学的揺らぎによるものであることをCARSの位相整合条件の前提条件と関連させて簡単に説明している。最後に、発光性の試料の励起状態の有力な研究手法でありながら、その応用例が少ないピコ秒時間分解CARS分光法について、提出者が用いた2D-CARS法の測定原理と利点を、通常行われている方法の困難な点と関連させ述べている。 第二章はインコヒーレントアンチストークスラマン散乱による蛍光除去の可能性を検証した結果を述べている。強度の弱い信号を測定する為の高感度な測定装置の構成を述べた後、蛍光性の不純物を含む試料についてのアンチストークスラマン散乱とストークスラマン散乱の測定結果を比較している。その結果励起光の波長が吸収極大の短波長側にある場合、アンチストークスラマンの利用が簡便な蛍光除去方法であることを実証している。また同時に励起光の波長が吸収極大の長波長側にある場合はその効果が小さく、この手法による蛍光除去に限界があることを指摘している。 第三章ではPCARSの現象と発生機構のモデルの設定とその検証について述べてある。提出者がPCARSと呼ぶ現象は、「同軸上に重ねあわせた角振動数1、2の2本のレーザービームを同じ方向から液体試料に照射した場合、1-2が試料のラマンモードの角振動数と一致すると、位相整合条件を満たさない90度方向への21-2の角振動数を持つ信号光が発生する」というものである。提出者はこの現象の発生機構として「試料の光学的不均一性のため、分子に生じた三次の非線形分極間の位相関係が乱され、その結果位相整合条件を満たさない90度方向へ放出された光である」というモデルを設定し、PCARSのレーザーパワー依存性、インコヒーレントラマン散乱強度との関係、作用スペクトルのバンド形、濃度依存性、温度依存性を検討することによって発生機構のモデルが正当であることを示している。特に濃度依存性と温度依存性に関しては、同様な機構によって発生するレーリー散乱の結果と比較し、PCARSが液体の不均一性について特有の情報を有している可能性を指摘している。 第四章は、ピコ秒CARS分光法によるDPAの一重項励起状態の研究を述べている。提出者は2D-CARS法を用いてDPAのS2状態とS1状態の振動スペクトルを測定することに成功している。またアセチレン部分の炭素を13C同位体に置換した試料を合成し、同位体シフトをもとに中心部のCC伸縮振動の帰属を行っている。その結果、S1状態においては中心部が二重結合的な結合へと大きく変化していること、S2状態のCC伸縮振動バンドが80cm-1の異常に大きなバンド幅を持つことを見出している。提出者はこの二つの特徴をもとに、S2->S1内部転換過程を三重結合的なCC結合から二重結合的なCC結合への異性化過程とみなすモデルを提案している。 以上のように本研究は、アンチストークスラマン散乱のいくつかの新しい側面を研究したものである。特にPCARSは提出者が見出した新しい現象であり、液体の構造と揺らぎに対する新しい研究手法としての発展する可能性を持つ。またDPAについても、高励起状態(S2状態)の振動スペクトルが測定されたまれな例であり、2D-CARS法の有効性を示している。またその結果、基本的な三重結合を持つ分子の一重項励起状態の研究例として重要な結果を得ている。なお、本論文の内容について、濱口宏夫氏の協力のもとに5篇の論文が発表されているが、いずれについても本論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、本論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、本論文の提出者である石橋孝章は、東京大学の博士(理学)の学位を授与される資格を有していると認める。 |