学位論文要旨



No 213239
著者(漢字) 石橋,孝章
著者(英字)
著者(カナ) イシバシ,タカアキ
標題(和) アンチストークスラマン分光の進展とパーシャリーコヒーレントアンチストークスラマン散乱の発見
標題(洋) Development of anti-Stokes Raman spectroscopy and discovery of partially coherent anti-Stokes Raman scattering
報告番号 213239
報告番号 乙13239
学位授与日 1997.03.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13239号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,保
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 田隅,三生
 東京大学 教授 小林,孝嘉
 東京大学 助教授 岡本,裕巳
内容要旨

 本論文では、著者が行ったアンチストークスラマン分光の進展に関する新しい側面を述べる。論文は三つの部分から構成される。第一の部分は、アンチストークス自発ラマンが、蛍光性の不純物を含む試料の測定に有効であることを述べる。第二の部分は、著者等が見出した新しいタイプの非線形ラマン散乱であるPartially Coherent Anti-Stokes Raman Scattering(PCARS)について述べる。第三の部分は、最近開発されたピコ秒二次元マルチプレックスCARS分光法を用いて行った、ジフェニルアセチレンのS2状態とS1状態の構造と動力学に関する研究を述べる。

1.自発アンチストークスラマン分光による蛍光除去の可能性

 蛍光による妨害は、ラマン分光の応用を妨げる最も大きな要因であり、その解決のために様々な方法が提案されているが、未だに全ての場合に適用可能な一般的解決方法は得られていない。

 ラマン過程は即時的な過程であり中間状態におけるエネルギー緩和が起きず、信号光のエネルギーは、入射光のエネルギー-(終状態のエネルギー-始状態のエネルギー)によって決まる。これに対して蛍光は、中間状態におけるエネルギー緩和のために、始状態と終状態が同じであったとしても、ラマン光よりも一般に低エネルギー側に現れる。この両過程の機構の違いのために、ラマン光の蛍光に対する強度比は、アンチストーク側において改善することが期待できる。

 一方アンチストークスラマン散乱は、振動励起状態を始状態とする過程であるためその強度がストークスラマン散乱よりも非常に弱く、高感度な測定が不可欠であった。著者等は、マルチチャンネル検出器+レーリー線除去フィルター+シングル分光器を組み合わせた高感度なラマン分光装置を作製し、アンチストークスラマン分光の発光性試料の蛍光除去への応用を試みた。

 一例として、エタノールに不純物として蛍光性の色素(日本感光色素NK1088)を加えた溶液(吸収極大503nm、O.D.約0.025)の488nm励起のラマンスペクトルを図1に示す。(a)がストークスラマンスペクトルであり、(b)がアンチストークスラマンスペクトルである。アンチストークスラマンスペクトルはボルツマン因子によって振動励起状態の熱分布を補正してある。図1から明らかなように、蛍光のバックグラウンドとラマン光の強度比は、アンチストークス側において著しく改善されている。幾つかの種類の不純物に関して同様の実験を行ったが、このような効果は励起光が不純物の吸収極大より短波長側にある場合特に有効であるが、長波長側にある場合は強度比の改善の度合が低下することを確かめた。このようにアンチストークスラマンによる蛍光除去は、万能では無いが励起波長を適切に選択すれば効果が大きく、比較的簡単に試みることが出来る一つの手法であることを示すことが出来た。

図1 蛍光性の不純物を含むメタノールのラマンスペクトル
2.Partially Coherent Anti-Stokes Raman Scattering(PCARS)

 著者等は、角振動数12の2本のレーザービーム(1>2,1-2:ラマン遷移の角振動数)を同じ向きから平行に試料に照射すると、90°方向への1レーザーからのアンチストークスラマン散乱の強度が増大することを見いだした。レーザーパワー依存性、自発ラマン強度との関係、スペクトルのバンド形、濃度依存性、温度依存性等を検討した結果、この現象をCARSに類似の三次の非線型分極による現象であると結論した。

PCARS信号発生機構のモデル

 試料に1レーザーと2レーザーが入射すると、角振動数≡21-2の三次の非線形分子分極が各分子に生じる。この分子分極は波数ベクトルk≡2k1-k2(k1,k2は入射レーザーの波数ベクトル)で表わされる位相関係を持つ。その結果、角振動数の光の波数ベクトルがkと同じ大きさを持つとき、kと平行な方向に放射された光のみが強め合い指向性のある信号光が得られる。これがCARSの位相整合条件である。しかし実際の試料は、多かれ少なかれ光学的に不均一であり、各非線型分子分極の間の位相関係は部分的に乱される。その結果、位相整合条件が緩和され、位相整合条件を満たさない90°方向へ非線型分極からの放射が生じ得る。著者等は、この現象をPCARS(Partially Coherent Anti-Stokes Raman Scattering)と呼んでいる。PCARSはその発生機構から考えて、液体試料の不均一性(または揺らぎ)と深く関係しており、液体構造や分子のコヒーレントな振動励起に関する情報を含んでいる。

測定装置

 1レーザーは、Nd:YAGレーザーの第二高調波(532nm,15ns)を、2レーザーは、Nd:YAGレーザー励起色素レーザー(563-560nm,15ns)を使用した。両レーザービームは同じ向きから平行に重ね合わせ、焦点距離70mmのレンズで集光し試料に照射した。90°方向への散乱光は分光器で分光し、マルチチャンネル検出器で検出した。(図2)

図2 PCARSの測定配置
PCARS信号

 ベンゼンのアンチストークス散乱スペクトルを図3に示す。(a)は1レーザーのみを照射した場合に得られる自発アンチストークスラマンであり。(b)は2レーザー((1-2)/2c=992cm-1)を同時に照射したもので、振動数差に対応したバンドの強度が増大している。(c)は(b)から(a)を引いた差スペクトルであり、アンチストークス散乱強度の増大分、即ちPCARS信号である。更にPCARS信号強度は、1レーザーのパワーの二次に、2レーザーのパワーの一次に比例し、ほぼ自発ラマン強度の二乗に比例することを確認した。

図3 ベンゼンのアンチストークス散乱の増大
PCARSスペクトルのバンド形

 PCARS信号強度を両レーザーの振動数差に対してプロットしたPCARSスペクトル(トルエンの1004cm-1バンド)を図4に示す。PCARSスペクトルのバンド形は、自発ラマン散乱スペクトルの場合と異なり非対称である。これは、自発ラマン散乱の強度が三次の非線型分極の虚数部分に比例するのに対し、PCARS強度がその二乗に比例するためであると考えられる。非線型分極として「ローレンツ型函数+実数のラマン非共鳴項」を仮定することによって、PCARSの非対称なバンド形を再現することができた。

図4 トルエンの自発ラマンスペクトルとPCARSスペクトル
濃度依存性

 PCARS強度の濃度依存性を、各種溶媒(メタノール、n-ヘプタン、シクロヘキサン、シクロヘキサノン、重ベンゼン(C6D6))中のベンゼンの992cm-1バンドについて調べた。(図5)通常の自発ラマン散乱の強度は濃度の一次に比例し、CARSの強度は濃度の二次に比例する。PCARS強度は、濃度に対して一次でも二次でもない、溶媒の種類によって大きく異なる依存性を示した。このことは、PCARS信号の発生過程が溶液の濃度揺らぎによる不均一性の影響を受けていることを示している。

図5 PCARS強度の濃度依存性ベンゼン992cm-1バンド
温度依存性

 ベンゼンの992cm-1バンドのPCARSの強度の温度依存性を測定した。PCARS強度は25℃から75℃への温度上昇に伴って約1.2倍に増大した。これは温度上昇にともなって試料の熱運動により揺らぎが増大し、光学的不均一性が増大するためであると考えられる。

3.ジフェニルアセチレンのS2状態とS1状態のピコ秒2次元マルチプレックスCARS分光

 ジフェニルアセチレン(DPA)は、三重結合を持つ基本的な芳香族化合物分子の一つであり、各種分光法を用いて励起状態の構造や動力学が研究されている。溶液中の一重項励起状態については、S2状態がこの種の分子としては長い寿命(約8ps)を持ち、かつ蛍光状態であることが示されている。またS1←S2内部転換過程が約1000cm-1の活性化エネルギーをもつことも示されている。溶液中のアニオン、カチオン、T1状態については、自発ラマン分光法によって中心部のCC結合に関する知見が得られていたが、一重項励起状態のラマンスペクトルは蛍光の妨害のために得られていなかった。著者等は、ピコ秒2次元マルチプレックスCARS分光を用いてS2およびS1状態のCARSスペクトルを測定した。更にDPAのアセチレン部分の炭素の一つを13Cに置換した13C-DPA(Ph-13C≡C-Ph)を合成し、同位体シフトを用いて中心部CC伸縮振動バンドの帰属を行い、一重項励起状態における構造情報を得た。

 測定は5mMシクロヘキサン中で行った。寿命の異なる二種類の過渡CARSバンドが観測された。寿命の値から、短寿命(20ps以下)のものをS2状態に、長寿命(約200ps)の過渡種をS1状態に帰属した。S2状態のCARSスペクトル(光励起後-5〜5ps)を図6上に示す。2099cm-1のバンドは、半値半幅約30cm-1の非常に幅広いバンドであり、同位体置換によって39cm-1の低波数シフトを示す。同位体シフトの値から、このバンドをほぼ純粋なCC伸縮バンドに帰属できる。この振動数は基底状態の場合より約100cm-1低波数であり、S2状態においてCC結合が弱くなっていることを示している。しかしながら振動数自身は、依然としていわゆる三重結合領域にとどまっており、中心部の構造は三重結合的で分子は直線形をとっている可能性が高い。S1状態のCARSスペクトル(光励起後20〜40ps)を図6下に示す。S1状態のCARSバンドのうち、いわゆる二重結合領域にある1577と1557cm-1のバンドは、13C置換によって1573と1535cm-1に低波数シフトし、強度比も大きく変化している。観測された大きな同位体置換効果は、これらのバンドに対する中心部CC結合伸縮振動の寄与が大きいことを示しており、中心部CC結合伸縮振動の振動数は二重結合領域まで低下していると結論できる。このことは、S1状態に於いては中心部分のCC結合は、大きく結合次数が低下し二重結合的になっていることを示している。また、中心部の構造もシス形やトランス形などの折れ曲がり形へ変化している可能性がある。

図6 DPAのS2状態とS1状態のCARSスペクトル

 得られたS2状態とS1状態の構造は、S1←S2内部転換過程の動力学とも深く関係していると思われる。S2状態とS1状態のCC結合部分の構造が大きく異なっていることから、この部分の構造変化が内部転換過程に密接に関係している可能性がある。内部転換過程をCC結合部分の異性化として捉えると、内部転換過程の活性化エネルギーは構造変化の座標に関してS2とS1のポテンシャル面が交差しているために生じたポテンシャル障壁として理解できる。また、S2状態のCC伸縮振動バンドの幅が異常に広いことは、振動モードのエネルギー(2099cm-1)が障壁の高さ(1000cm-1)よりも大きいため、この振動が超高速な位相緩和過程を伴っていることが原因である可能性が高い。

審査要旨

 本論文はアンチストークスラマン分光の進展に関する新しい側面についての研究結果を述べている。論文は三つの部分から構成されている。第一の部分ではインコヒーレントアンチストークスラマン散乱が、蛍光性の不純物を含む試料の測定に有効であることを検証している。第二の部分では提出者が見出した新しいタイプの非線形ラマン散乱であるPartially Coherent Anti-Stokes Raman Scattering(PCARS)についてその発生機構のモデルを設定し検証している。第三の部分ではストリークカメラを用いた新しい測定原理にもとづくピコ秒時間分解二次元マルチプレックスコヒーレントアンチストークスラマン散乱(2D-CARS)分光法を、ジフェニルアセチレン(DPA)のS2状態とS1状態の構造と動力学の研究に応用し、2D-CARS法の有効性を示す結果を得ている。

 第一章は全体の序論である。この章では、ラマン分光法一般の長所短所を述べた後、アンチストークスラマンに特有な特徴を述べている。ここではラマン過程と蛍光過程の機構の違いからアンチストークスラマン過程の利用によって蛍光の寄与の抑制が可能であること、またインコヒーレントアンチストークスラマン過程においてはその始状態が振動励起状態であることから、信号強度が微弱であり高感度な検出方法が不可欠であることを述べている。またラマン分光測定装置の歴史的発展をふまえ、光検出器、光学素子の発展の結果による最近の測定装置の高感度化についても述べてある。次に提出者が見出したPCARSについて、その発生機構が試料の光学的揺らぎによるものであることをCARSの位相整合条件の前提条件と関連させて簡単に説明している。最後に、発光性の試料の励起状態の有力な研究手法でありながら、その応用例が少ないピコ秒時間分解CARS分光法について、提出者が用いた2D-CARS法の測定原理と利点を、通常行われている方法の困難な点と関連させ述べている。

 第二章はインコヒーレントアンチストークスラマン散乱による蛍光除去の可能性を検証した結果を述べている。強度の弱い信号を測定する為の高感度な測定装置の構成を述べた後、蛍光性の不純物を含む試料についてのアンチストークスラマン散乱とストークスラマン散乱の測定結果を比較している。その結果励起光の波長が吸収極大の短波長側にある場合、アンチストークスラマンの利用が簡便な蛍光除去方法であることを実証している。また同時に励起光の波長が吸収極大の長波長側にある場合はその効果が小さく、この手法による蛍光除去に限界があることを指摘している。

 第三章ではPCARSの現象と発生機構のモデルの設定とその検証について述べてある。提出者がPCARSと呼ぶ現象は、「同軸上に重ねあわせた角振動数12の2本のレーザービームを同じ方向から液体試料に照射した場合、1-2が試料のラマンモードの角振動数と一致すると、位相整合条件を満たさない90度方向への21-2の角振動数を持つ信号光が発生する」というものである。提出者はこの現象の発生機構として「試料の光学的不均一性のため、分子に生じた三次の非線形分極間の位相関係が乱され、その結果位相整合条件を満たさない90度方向へ放出された光である」というモデルを設定し、PCARSのレーザーパワー依存性、インコヒーレントラマン散乱強度との関係、作用スペクトルのバンド形、濃度依存性、温度依存性を検討することによって発生機構のモデルが正当であることを示している。特に濃度依存性と温度依存性に関しては、同様な機構によって発生するレーリー散乱の結果と比較し、PCARSが液体の不均一性について特有の情報を有している可能性を指摘している。

 第四章は、ピコ秒CARS分光法によるDPAの一重項励起状態の研究を述べている。提出者は2D-CARS法を用いてDPAのS2状態とS1状態の振動スペクトルを測定することに成功している。またアセチレン部分の炭素を13C同位体に置換した試料を合成し、同位体シフトをもとに中心部のCC伸縮振動の帰属を行っている。その結果、S1状態においては中心部が二重結合的な結合へと大きく変化していること、S2状態のCC伸縮振動バンドが80cm-1の異常に大きなバンド幅を持つことを見出している。提出者はこの二つの特徴をもとに、S2->S1内部転換過程を三重結合的なCC結合から二重結合的なCC結合への異性化過程とみなすモデルを提案している。

 以上のように本研究は、アンチストークスラマン散乱のいくつかの新しい側面を研究したものである。特にPCARSは提出者が見出した新しい現象であり、液体の構造と揺らぎに対する新しい研究手法としての発展する可能性を持つ。またDPAについても、高励起状態(S2状態)の振動スペクトルが測定されたまれな例であり、2D-CARS法の有効性を示している。またその結果、基本的な三重結合を持つ分子の一重項励起状態の研究例として重要な結果を得ている。なお、本論文の内容について、濱口宏夫氏の協力のもとに5篇の論文が発表されているが、いずれについても本論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、本論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、本論文の提出者である石橋孝章は、東京大学の博士(理学)の学位を授与される資格を有していると認める。

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