学位論文要旨



No 213133
著者(漢字) 平せ,隆郎
著者(英字)
著者(カナ) ヒラセ,タカオ
標題(和) 史記東周紀年の再編について
標題(洋)
報告番号 213133
報告番号 乙13133
学位授与日 1997.01.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第13133号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 尾形,勇
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 教授 池田,知久
 東京大学 教授 川原,秀城
 女子美術大学 教授 古川,麒一郎
内容要旨

 『史記』は、漢以前の中國を研究する者が、必ず参照する基本史料である。特に始皇帝による統一以前は、多くの國が並存し、かつ國ごとに配された記事にはそれぞれの君主の紀年が附されているため、それら記事相互の關聯を探るには、『史記』年表に負うところが少なくなかった。『史記』には「三代世表」・「十二諸侯年表」・「六國年表」・「秦楚之際月表」等十表がある。これらのうち、東周時代すなわち春秋戦國時代に共和以後を加えて扱う「十二諸侯年表」・「六國年表」が、上記の目的にかなう。

 ところが、「十二諸侯年表」・「六國年表」については、古来『史記』本紀や世家との矛盾が多々指摘されてきた。『史記』を利用する者は、注釋等に示されたこの種の矛盾に、否應なく気附かされることになる。しかしながら、その矛盾が總計どのくらいにのぼるのかという點になると、古來の注釋を含め、實はまともには議論されてこなかったのである。

 本論は、この矛盾を検索してもれなく議論し、その矛盾が生起した原因を探り、『史記』記事を編年しなおして一覧にした。その上で、古本『竹書紀年』・『編年記』の紀年記事を加え、『戦國策』・『戦國縦横家書』から編年可能な記事を増補してさらに検討した。

 矛盾の解消には、大きく分けて二つの方法がある。矛盾の一方を是とし、他方を非として捨て去る一般的方法と、古代史料相互には矛盾はないはずだとして、實際に見られる矛盾の由来を解明する方法とである。これまでの研究が主として進めてきたのは、前者であり、後者を試みた研究も、多くの矛盾に目をつぶる結果となった。

 本論は後者の方法を全面的に進めた。紀年構成に關する従来の枠組を概ね否定し、新たな枠組に沿って記事を再配列して、矛盾をもたらした由来を残さず説明した。すべて説明するというのが鍵である。説明をもれなく介在させることで、本論で問題にする古代史料は、本來相互に矛盾することなく使用し得ることを明らかにした。

 矛盾の由来を解明する條件として、本論では、以下の8點を問題にする。これらのうち第5點までは、従來ほとんど気附かれず、一部に議論された場合も綜合的・構造的なそれとして展開されなかった。また第6點以下も部分的検討にとどまっている。いかなる點について従来誤っていたかを()中に示して列記すれば、以下のようになる。

 1:君主在位の稱元法(立年稱元法卒年次を踰年稱元法卒年次と誤って年表を構成)

 2:暦(正月のずれを勘案しなかった)

 3:諡號風,稱號(別君主に誤る)

 4:稱王改元(改元後の紀年を別君主の在位紀年や改元前の紀年に誤る)

 5:封君紀年・相邦紀年等(これらを君主在位紀年に誤る)

 6:轉寫・繋年等(『史記』年表を通して誤った年次を作り出す)

 7:『史記』紀年整理(『史記』年表上のつじつま合わせで一部数値を操作)

 8:天文記録(暦日・日蝕等に實際の天象と矛盾が生じている)

 これらのうち、1が骨格の大要を決め、2以下がその骨格に沿って紀年矛盾の生ずる由来を説明し、また骨格決定上の微調整を進める。3・4・5、とくに3は記事の年代を大幅にくるわせている。『史記』記事に關わるいわゆる矛盾は、年代矛盾の他、3・4・5で別君主・別人に誤った場合、および本来不明の君主を6で誤って補ってしまった場合等がある。

 他に、例えば『蘇子』という書物から寫された史料と考えられる場合に、本来不記の發信者を機械的に「蘇秦」として増補したり、本来「蘇子」とあったのを機械的に「蘇秦」と直したりして誤った類も指摘できる。この問題は3に絡めて議論した。

 以上の誤りは、その誤った過程がすべて法則的に説明され、記述上の矛盾は解消される。

 なお、版本の異同により年代が議論されることがある。本論の検討では、矛盾の説明とはほぼ無縁であった。

 以上を有機的に議論し、以下の諸表を提示する。

 表I 新十二諸侯年表

 表II 新六國年表

 表III 『史記』東周記事年次年代検索表

 表IV-I 『史記』東周記事の編年(表I對照部分)

 表IV-II 『史記』東周記事の編年(表II對照部分)

 表V-I 十二諸侯年表新舊對照表

 表V-II 六國年表新舊對照表

 表V-III 索隠解釋表

 表VI-I 『左傳』と本論の對應

 表VI-II 『戦國策』と本論の對應

 附圖 各國世系

 表Iは、十二諸侯年表を再編する。『史記』所載卒年次、および年次關係を示す史料を用いて連續する部分を明らかにし、骨格をビジュアルに示した。

 表IIは、六國年表を再編する。『史記』所載君主卒年次と古本『竹書紀年』とによって連續する部分を明らかにし、骨格をビジュアルに示した。上に議論した8つの條件を驅使し、同一記事で従來乖離していたものも、しかるべく納めた。

 表Iと舊十二諸侯年表、表IIと舊六國年表が具體的にどう相違するかは、表IV-IおよびIIに示した。また、舊六國年表の補正作業は従来も爲されてきたが、その補正が表IIとどう異なるかも、表IV-IIに盛り込み、補正が一部に留まっていることを明示した。

 古本『竹書紀年』を繋年の根據として多用したが、これについても、いくつかの條件を議論しなければならない。『史記』索隱の著者司馬貞は古本『竹書紀年』から各國紀年を算出したらしい。彼等の想定を復元して表V-IIIに示した。

 表IIIは、『史記』の記述に沿って、所載紀年を再検討し、本来の年次か、『史記』において十二諸侯年表や六國年表を通して書き換えられた年次かを示した。従来それらの舊年表を通して生じていた矛盾も示してある。

 表IVは、表IIIに示した諸紀年記事を、西暦年代順に再配列し、併せて古本『竹書紀年』・『秦簡編年記』・『戦國策』・『戦國縦横家書』を補入した。戦國史の綜合的研究書として汎用される楊寛『戦國史』が矛盾する年代のどれを選擇したかもわかるようにした。『戦國策』・『戦國縦横家書』と本論との關係を表VI-IIに示した。

 『春秋』・『左傳』と本論との關わりは、表VI-Iに示した。

 附圖として示した各國世系は、その他諸史料と本論との橋渡しに配慮したものである。

 さて、『史記』に示された記事自體に、いったいどの程度の矛盾があるのか。孔子の死去を分岐點とし、それ以前と以後とに分けると、孔子死去以前についてのべ290件、死去翌年以後についてのべ545件、これが本論においてはじき出した矛盾の綜数である。ただし、これは本論表IIIにおいて、同一内容の記事について複数の年代が得られる場合の数値で、のべ綜数は2891件である。原則として君主の年次ごとに記事をひとまとめの單位にし(條件の相違によりさらに分割した場合も少なくない)、記事のそれぞれに附された紀年を十二諸侯年表や六國年表に據って西暦に置き換え比較している。これには、『史記』記事から十二諸侯年表や六國年表によって得られる年代と『春秋』・『左傳』記事によって得られる年代とが矛盾する場合、および古本『竹書紀年』が絡む場合が含まれる。

 これらの数値は人をして驚嘆せしむるに充分である。なぜにかくも多数の年代矛盾が惹起されてくるのか。従来、研究者個々が問題にしてきた一部の事例だけであれば、一つを是とし残りを非とする方法もあるいは許されるかもしれない。しかし、かくも多数となると、何らかの原因を探るのが筋、このことは、誰の目にも明らかである。本論は、その原因を法則的に検討した。

審査要旨

 漢代およびそれ以前の歴史を研究する場合に、司馬遷の『史記』が最も基本的な文献史料となることは言うまでもない。よって列国が併存する始皇帝の統一以前の時代についても、『史記』、とくにその「年表」において、「紀年」の形を以て明記される諸国の歴代君主の在位年代を、歴史展開の大綱として採用するのが永年の通則であった。しかしその紀年に従うとき、『史記』の他の記載と往々にして矛盾が生じ、諸他の文献史料に認められる史実ともズレが多く認められたこともまた、古来、指摘されてきたところである。

 本論文では、『史記』の東周(春秋戦国)時代を中心とする周王の共和元年から始皇帝統一までの記事を通観し、まず835件に上る矛盾の箇所をはじき出す。ついで、これら矛盾のすべてにわたって、旧来試みられたごとき「事例を個別的に考証して、一方の記載を是とし一方を非とする」という一般的方法を一旦すて去り、矛盾は矛盾として認めた上で、それらを惹起させるに至ったより法則性のある事由を追求する。本論文の大部分を占める膨大かつ詳細・緻密なる各種の「新編年表」は、如上の方針に基づき、論者が矛盾の「解決」を果たした、その成果の集大成である。

 上記のような矛盾やズレを惹起させた事由、ないしは事情として、本論文が新たに摘出するのは、以下のような項目である。

 第一は、君主の在位年代が、即位したその年が元年となる(立年稱元)のか、それとも即位の翌年から元年と数えられた(踰年稱元)のか--いう稱元法から見た場合、司馬遷は、踰年稱元法が戦国中期になって出現したものであったことを知らずに、当代の通念(踰年稱元法)のままに整合性を求め、ついには前代の紀年を改変することにも至ったという事情。第二は、各国が採用していた暦は一律でも同種でもなく、よって国ごとに「年始」が異なるの場合があるのは当然であり、この点を考慮しないで、相互に矛盾ありと見て、強いて整理がなされたという事由。このような事由の「発見」によって、論者はまず、矛盾やズレの大多数が解決され、以て紀年配列を「構造的に是正」できることになる、とする。ついで論者は、第三に、君主の諡号や生号において、その同一字から君主が取り違えられたという事由、第四として、列国の君主が「王」を稱して改元した事情を『史記』は未だ十分には確認していなかったという事由、第五に、戦国の各国内の封君の紀年を、これも踰年稱元法に基づくものと解したり、あるいは君主自身の紀年と取り違えることで、様々な矛盾が生じたという事由をあげる。

 かくて論者は、このような様々な事情のもとで「紀年の書き替え」がなされたことを考慮に入れれば、ここに始めて、基本的な年代記である『春秋左氏伝』と、『史記』との間の矛盾をめぐる多くの懸案も解決できると説く。また、『史記』編纂時における年代整理の場合、稱元法の誤解等によって年代のダブツキが発生し際には、時には10年にも及ぶ記録が削除がなされることも起こり得たと指摘する。

 紀年に関する本論の考察は、矛盾のある個々の事例についても、古来の諸注・考証・学説の類を渉猟・検討する手続きを怠っていないし、また上記の諸事由の抽出の際には、近年発現した金文・帛書・盟書等の各種出土文字史料、あるいは紀年に関わる断簡零墨まで比較検討の対象とし、加えて暦法・天文・音楽等に関する成果と方法を援用・駆使するという、きわめて周到で創意あるものとなっている。ただ、提示された事由のうち、最も「構造的な是正」の可能性を納得させるのは、上記の第一と第二の指摘であり、矛盾やズレを一括して是正することを目論む本論の立場において、第三以下の諸事由は、やや個別的な手直し論の感も拭いきれない。また、援用された暦法の解釈等については、これらが極めて難解で複雑なものであるだけに、異論の出る余地も残されていよう。

 しかし、本書が大成した「新編年表」は、論者自身の言の如く「決定版ではない」にしろ、これまで祖述されてきた年代に対して全面的な改編を迫るものであり、本論が公刊されれば(すでに『新編史記東周年表』東京大学東洋文化研究所報告、東京大学出版会、1995年、として刊行が達成されている)、研究者が必ず座右におくべき書となることに疑いはない。

 以上の観点から、本論文を博士(文学)の学位を授与するに十分に値するものと認定する。

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