学位論文要旨



No 212879
著者(漢字) 遠藤,秀紀
著者(英字)
著者(カナ) エンドウ,ヒデキ
標題(和) 静脈壁に分布する心筋組織の比較解剖学的および発生学的研究
標題(洋)
報告番号 212879
報告番号 乙12879
学位授与日 1996.05.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第12879号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 教授 菅野,茂
 東京大学 助教授 佐藤,英明
 東京大学 助教授 九郎丸,正道
 国立科学博物館 室長 山田,格
内容要旨

 本論文は、脊椎動物の静脈壁に分布する心筋組織について検討し、その進化史的位置づけと個体発生学的実体を明らかにすることを試みたものである。

 19世紀初頭のCuvierによる記載以来、血管は内皮細胞により形成される血流路であると比較解剖学的に定義されている。そして血管が中膜を備えるならばそれは間葉系由来の付属物である。一方、心臓は本質的には心筋層のみからなる器官で、脊椎動物の初期胚において1層の心筋細胞層として発生を開始し、のちに内膜を分化させることが示されている。このように、心臓と血管の両者が脊椎動物の基本体制において、その起源を明確に区別されるべき器官であることは明らかである。しかし、脊椎動物の多くの種において、心臓近傍の静脈の中膜に心筋組織が観察される。現状では、これらの静脈が比較解剖学的および発生学的に検討されていないため、それを、従来通り血管とすべきなのか、それとも心臓の一部とすべきなのか、全く不明である。

第1章静脈壁心筋組織の系統発生

 円口類2種、軟骨魚類2種、硬骨魚類1種、両生類2種、爬虫類2種、鳥類4種、および哺乳類43種の計56種の脊椎動物を材料に用いた。各種成体の総主静脈、前主静脈、後主静脈、主上静脈、主下静脈、卵黄静脈、鎖骨下静脈、肺静脈、およびそれらと相同の系統にある静脈の壁構造に関して、光学顕微鏡観察を行った。その結果、心筋層は検討した全種の静脈壁に出現していた。そして、心筋組織は総主静脈、近位前主静脈、卵黄静脈、鎖骨下静脈、および肺静脈には出現し得るが、そのほかの系統の静脈系には決して観察されなかった。以上の出現パターンから、心筋組織の有無は、その静脈系が心臓に近いか否かとは無関係である。またその静脈系が進化史的にどのくらい古いかという要因とも関連をもたない。むしろ、特定の静脈系に、心筋層の分布を許容させる独自の歴史性が備わっていると理解される。心臓と血管の発生学的相違を考慮すると、従来の解釈と異なり、心筋層をもつ上記の静脈系を、他の静脈群とは比較発生学的に全く独立した血流路として認識する必要性が示唆された。

第2章静脈壁心筋細胞の微細形態

 哺乳類6種の静脈壁心筋細胞とその近傍組織の微細形態学的記載を行った。心筋細胞の大きさと形態、および細胞内にもっともよく発達する小器官である筋原線維とミトコンドリアについて、静脈壁心筋細胞は心房筋細胞と同様の微細形態学的特徴を示した。静脈壁心筋細胞は形態学的にはあくまでも心筋細胞であり、他の横紋筋細胞を想定する必要は全くないと結論できる。また、一般にT管系と筋小胞体の発達は著しく、様々な伝達物質を含むと考えられる自律神経終末が間質に豊富に分布していた。充実したこれらの収縮関連構造が観察されることから、静脈壁心筋組織が、心臓本体と同様の収縮・拍動能力を備えていることは明らかである。さらに円口類と鳥類における微細形態の検討を加えたが、それらの下等脊椎動物においても、静脈壁心筋細胞と心臓本体の心筋細胞との類似が明らかとなり、静脈壁心筋層が十分な拍動機能を備えていることが推察された。

第3章静脈壁心筋組織の個体発生

 ニワトリとラットの胎仔を用い、心筋層をもつ静脈系の個体発生を追跡した。総主静脈と卵黄静脈の壁における心筋細胞の分布と分化を、免疫組織化学的および微細形態学的に検討した。ニワトリの近位卵黄静脈では、12体節期の胎仔で未分化心筋細胞層が壁中膜に出現していた。一方、ラットの総主静脈の内皮下では、11.5日齢の胎仔に一層の心筋層が出現することが明らかとなった。筋層は次第に総数を増し、充実した心筋壁を形成することが、後期胎仔の観察から証明された。

 近位卵黄静脈も総主静脈も、一層の内皮細胞層を体腔上皮下に構築し、その直後に内皮と体腔上皮に挟まれた空間に心筋層を分布させていた。これらの静脈は、内皮が第一に形成される点では、確かに血管に類似する。しかし、その形成場所は体腔内であり、あたかも心臓のように心筋細胞層を体腔上皮下に分布させることが明らかとなった。したがって、これらの静脈は、周囲を間葉系に覆われながら生じる一般の血管系とは発生学的に異なっている。また、筋層の形成により発生を開始し、後に心内膜を分化させる心臓とも明らかに異なる。心筋層をもつ静脈は心臓でも血管でもない。すなわち体腔内に発生し、まず内膜を、ついで心筋層を中膜に発生させる、新たな血流路の存在を提唱する。そして、その体腔上皮との関係を重視し、これらの血流路を「体腔上皮性静脈」と呼ぶ新しいカテゴリーに帰属させることにする。第1章で確認された心筋層をもついくつかの静脈系は、全て体腔上皮下に形成されることが明らかであり、本章の2系統と同様の発生パターンをとり、また進化史的に類似した変遷を経ている可能性が高い。すなわち、心筋層を有するこれらの静脈が、全て「体腔上皮性静脈」であることが示唆される。

第4章心筋分布領域の種間変異に関する機能形態学的検討

 鳥類と哺乳類の前大静脈および肺静脈を用いて、静脈における心筋層の分布領域が種間変異を示すことに注目した。体重差のある近縁種間で、心筋分布領域を検討したところ、特に肺静脈では、分布域が種の循環生理学的要因に依存して決定されることが明らかになった。体重が小さく基礎代謝率の高い種ほど、心筋層が末梢にまで分布を広げ留という結果が、哺乳類で明確になった。また、この結果が、例えば妊娠期間のような偶発的要因には影響を受けていないことを確認した。心拍数が多く、静脈弁を配置できない小型種において、心房への静脈血の還流と逆流阻止のために、静脈壁心筋層が積極的な役割を果たしていることが示唆された。

第5章静脈壁心筋細胞の機能形態-免疫組織化学的および微細形態学的検討-

 静脈壁においては、各種の機能的要求により心筋細胞そのものが適応的変異を遂げている可能性が高い。そこで、哺乳類6種の前大静脈と肺静脈を用いて、いくつかのオルガネラの発達の程度をモルフォメトリーにより定量的に比較した。その結果、筋原線維とミトコンドリアの比率が、心房筋では種により明らかに変異するのに対し、静脈壁心筋では種間差がほとんど見られないことが証明された。機能的要求が心臓ほど顕著に心筋細胞の微細形態を変異させることがないと結論できる。また、哺乳類の肺静脈と前大静脈においては、心筋細胞に心房性ナトリウム利尿ペプタイド(ANP)の存在が免疫組織化学的に確認された。これは検討した多くの哺乳類に普遍的に見られ、静脈壁心筋層がANP内分泌装置として適応的進化を経てきた可能性が示唆された。一方、ラットの前大静脈壁心筋細胞では特徴的な小窩が観察され、電顕組織化学的手法により、同部位にATPaseの局在が証明された。これは、静脈壁心筋細胞が、血流からの物質輸送に関与していることを示唆する結果といえよう。

付章1996年における比較解剖学の現状認識と課題

 静脈壁心筋のような対象を扱うには、古典的な比較解剖学と発生学の手法が不可欠である。しかし今日、生物学の世界では、これらの「比較」主義に基づく価値体系が崩壊しつつある。分子生物学のような分析主義の勃興の前に、徒に比較分野を縮小していった近年の解剖学の趨勢を批判した。そして、解剖学を還元主義生物学の価値体系から分離することを提案し、考古学・古生物学のようなより親和性のある学問との連携が可能であることを示した。これは、破滅よりも発展を、将来の解剖学に望む人々への呼びかけである。

 脊椎動物に普遍的に見られる心筋組織をもつ静脈系は、心臓とも血管とも異なる新たな概念を必要とする血流路である。そこで「体腔上皮性静脈」と呼ぶ血流路の概念を提唱し、心筋層をもつ静脈を帰属させることを、本論文の結論とする。体腔上皮性静脈は、脊椎動物の基本体制の中で確立されたきわめて古い起源をもつ血流路であり、拍動・収縮、内分泌などの機能をもちながら、適応的進化を遂げてきたことが推測される。

審査要旨

 本論文は、脊椎動物の静脈壁に分布する心筋組織について検討し、その進化史的位置づけと個体発生学的実体を明らかにすることを試みたものである。

 まず第1章において静脈壁心筋組織の系統発生について検討した。円口類から哺乳類に至る計56種の脊椎動物を材料に用いた。各種成体の総主静脈、前主静脈、後主静脈、主上静脈、主下静脈、卵黄静脈、鎖骨下静脈、および肺静脈の壁構造に関して、光学顕微鏡観察を行った。その結果、心筋層は検討した全種の静脈壁に出現していた。そして、心筋組織は総主静脈、近位前主静脈、卵黄静脈、鎖骨下静脈、および肺静脈には出現し得るが、そのほかの系統の静脈系には決して観察されなかった。以上の出現パターンから、特定の静脈系に、心筋層の分布を許容させる独自の歴史性が備わっていると理解された。

 第2章では静脈壁心筋細胞の微細形態について検討した。哺乳類6種の静脈壁心筋細胞とその近傍組織の微細形態学的記載を行った。心筋細胞の大きさと形態、および細胞内にもっともよく発達する小器官である筋原線維とミトコンドリアについて、静脈壁心筋細胞は心房筋細胞と同様の微細形態学的特徴を示した。静脈壁心筋細胞は形態学的にはあくまでも心筋細胞であり、他の横紋筋細胞を想定する必要は全くないと結論できた。充実したこれらの収縮関連構造が観察されることから、静脈壁心筋組織が、心臓本体と同様の収縮・拍動能力を備えていることは明らかである。

 第3章では静脈壁心筋組織の個体発生について検討した。ニワトリとラットの胎仔を用い、心筋層をもつ静脈系の個体発生を追跡した。総主静脈と卵黄静脈の壁における心筋細胞の分布と分化を、免疫組織化学的および微細形態学的に検討した。ニワトリの近位卵黄静脈では、12体節期の胎仔で未分化心筋細胞層が壁中膜に出現していた。一方、ラットの総主静脈の内皮下では、11.5日齢の胎仔に一層の心筋層が出現することが明らかとなった。筋層は次第に総数を増し、充実した心筋壁を形成することが、後期胎仔の観察から証明された。

 近位卵黄静脈も総主静脈も、一層の内皮細胞層を体腔上皮下に構築し、その直後に内皮と体腔上皮に挟まれた空間に心筋層を分布させていた。これらの静脈は、内皮が第一に形成される点では、確かに血管に類似する。しかし、その形成場所は体腔内であり、あたかも心臓のように心筋細胞層を体腔上皮下に分布させることが明らかとなった。したがって、これらの静脈は、周囲を間葉系に覆われながら生じる一般の血管系とは発生学的に異なっている。また筋層の形成により発生を開始し、後に心内膜を分化させる心臓とも明らかに異なる。心筋層をもつ静脈は心臓でも血管でもない。すなわち、体腔内に発生し、まず内膜を、次に心筋層を中膜に発生させる、新たな血流路の存在を提唱する。そして、その体腔上皮との関係を重視し、これらの血流路を「体腔上皮静脈」と呼ぶ新しいカテゴリーに帰属させることにする。

 第4章では心筋分布領域の種間変異を機能形態学的に検討した。体重差のある近縁哺乳類種間で、心筋分布領域を検討したところ、特に肺静脈では、分布域が種の循環生理学的要因に依存して決定されることが明らかになった。心房への静脈血の還流と逆流阻止のために、特に小型の哺乳類で、静脈壁心筋層が積極的な役割を果たしていることが示された。

 第5章では静脈壁心筋細胞の機能形態について、免疫組織化学的および微細形態学的に検討した。まず、哺乳類6種の前大静脈と肺静脈を用いて、いくつかのオルガネラの発達の程度をモルフォメトリーにより定量的に比較した。その結果、筋原線維とミトコンドリアの比率が、心房筋では種により明らかに変異するのに対し、静脈壁心筋では種間差がほとんど見られないことが証明された。また、哺乳類の肺静脈と前大静脈で、心筋細胞における心房性ナトリウム利尿ペプタイド(ANP)の存在が免疫組織化学的に確認された。

 本論文は、脊椎動物に普遍的に見られる心筋組織をもつ静脈系が、心臓とも血管とも異なる新たな概念を必要とする血流路であることを示した。そこで「体腔上皮性静脈」と呼ぶ血流路の概念を提唱し、心筋層をもつ静脈をそれに帰属させることを、本論文の結論とした。体腔上皮性静脈は脊椎動物の基本体制の中で確立されたきわめて古い起源をもつ血流路であり、拍動・収縮、内分泌などの機能をもちながら、適応的進化を遂げてきたことが推測される。

 以上の研究内容は、学術的に貢献するところが大きく、博士(獣医学)にふさわしいものであると、審査員一同が認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53969