1 本論文は柳田国男の思想と学問を「経世済民」の学としてとらえ、日本における社会政策学派の一展開として位置づけたものである。課題と方法を述べた序章に続いて、分析は柳田の生涯にそって十二章にわたってその著作を検討しており、その概要は以下のごとくである。 まず第1章では、農村の貧困問題を生涯の研究課題とするようになった背景に、幼少年期の辻川時代に基礎的経験としての貧困を体験したことが指摘される。ついで第2章では、転居後の布川時代に関西と関東における対照的な環境を対比し比較するという方法を身につけると同時に、人の「心意」は二つの農村に共通するものがあることに気づいていたことに注目している。第3章では、学生時代の交友関係を検討しつつ、ナショナリズムとロマン主義の色彩をもった詩人としての柳田が、大学では経済学・農政学を専攻し、卒業後は農商務省に勤務して農政官僚となり、内閣法制局に転じてからも諸大学で農政学を講じるようになった過程が検討される。第4章では、1902年の著書『農政学』を分析して、その社会政策論の眼目が自立経営の育成におかれていたことを解明し、補論として柳田の社会主義論では働く者への共感も示されるが、私有制の擁護が労働全収権思想によりなされていると指摘している。第5章では、通常柳田民俗学の出発点と評価されている1909年の『後狩詞記』の学問的意義を検討してそれを「郷土」を措定したことに求め、第6章ではそれをふまえて翌1910年の『農業政策』が「郷土」の衰退をもたらす一極集中を批判し地域主義を強調したものであるとされ、第7章で同年の『遠野物語』における人間研究が地域主義の倫理的基礎を追求したものであると主張される。ついで第8章では1914年から17年にかけての雑誌『郷土研究』の主題・方法・性格が検討され、柳田の社会問題研究の特徴が分析される。第9章から第11章にかけては「学問のみが世を救うを得べし」と主張した1928年の『青年と学問』、農民問題の経済政策に力点をおいて「経世済民」論を展開した1929年の『都市と農村』、日本人の生き方とその課題を探って倫理政策を展開した1931年の『明治大正史世相編』があいついで検討され、第12章では教育政策論として「一人前」育成を主張した1939年の『国語の将来』が1934年の『民間伝承論』とあわせて検討され、補論として太平洋戦争下で「比較民俗学」を構想した柳田のアジア意識が吟味される。以上の検討に基づいて、終章で柳田の学問が社会政策学としての「経世済民」の学であり、ワーグナー流の国家主義的傾向の強い日本の社会政策学派の中では特異な、プレンターノ、シュモラーの流れをくむ社会政策学であったと結論される。 以上の構成から窺われるように、本論文は柳田に関する従来の通説、すなわち農政学に挫折して民俗学に入ったと理解する「挫折説」を批判し、農政学を発展進化させる過程で民俗学が形成されたと理解する「深化説」を主張している。柳田の問題意識は生涯を通じて農民問題であり、一般には民俗学として解されている「郷土研究」も農民問題を研究するための方法論であって、農民問題解決のための農業政策を模索するかたちで社会政策学を継承するものであったというのが著者の主張である。農民問題を克服すべき主体は農民自身であり、そこで必要とされる農民の「自助」と「協同」の倫理を自覚するために、「郷土研究」の方法を用いて農民の「固有信仰」を究明し、それを自己認識することの重要性が強調されたとするのである。経済問題は倫理問題に帰着し、農民自身の力の自覚のために倫理教育が重要となって、経済政策と並んで倫理政策・教育政策が重視されるにいたったというのが、農政学から民俗学への柳田の思想と学問の大きな流れについての著者の理解である。 2 本論文の主要な貢献は、柳田の業績を農業問題への一貫した関心の持続という観点から詳細に検討し、農政学のみならず、通常は民俗学として理解されている業績についても一貫した問題関心にたって展開されたものであることを指摘した点にある。通例は『農政学』と『農業政策』を一括し、『後狩詞記』と『遠野物語』を一括して両者を対比する観点をとるのに対し、本論文の第4章から第7章では、『農政学』ののち『後狩詞記』による「郷土」の発見をへてはじめて『農業政策』における地域主義的な一極集中批判が可能となり、同時にそのことによって『遠野物語』による地域主義の倫理的基礎の設定が可能となったという理解が提示されている。農政学と民俗学、経済政策と倫理政策とを切り離して対立的にとらえるのではなく、両者の相互関連を柳田の論述に即して読み取り、明快に指摘したことは、本論文の第一の貢献である。著者が提起した論点は、今後の柳田研究にとって、重要な示唆をあたえるものといってよい。また、論旨を展開するにあたって、著者は関連する資料を広く探索していくつかの重要な新資料を発堀し、それに基づいて論旨の説得性を強化することに成功していることもあわせて評価される。 上記の1900年代の諸著作の関連に関する理解のみでなく、著者の叙述が論文の全体にわたって高度の一貫性をもってなされていることも特筆されてよい。著者の理解する柳田の思想と学問の展開過程は以下のように要約することができよう。まず農民の貧困への強烈な危機意識を根底において、社会政策によりその解決をはかるために農政学に向い、自立経営の育成論を構想して産業組合によるその実現を主張し、協同主義的な自助主義、農民相互間の「協同相助」を強調する。ついで山村の地域の中に協同相助の倫理が生きていることを発見し、これをふまえて地域主義的な農業政策を構想し一極集中を批判する。この地域主義的経済政策の倫理的な基礎を山間の小市場地域にみられる人間生活や民間伝承にさぐり、固有信仰の重要性を認識する。そのうえで差別問題に接近し、経済生活と宗教生活の二側面から農村生活誌をとらえるという郷土研究の方法をつかみ、さらに孤島としての沖縄・島国としての日本の生活苦を解決するためには郷土研究という学問が重要であり、都市と農村の対立・地主と小作の対立をこえて国民総体の幸福を追求するためには、自作・小作の農民組合が地域主義的な経済改革を日本固有の「協同相助」の倫理にたって行うことが必要であるとする。さらに同時代の日本人の社会生活のなかに日本人の生き方をさぐり、個人の人間的な自立には教育政策が決定的に重要であるとして教科教育の批判と「民間伝承」の考察により日本人のメンタリティの基礎である「心意」の探求を行い、主体的な判断力を持つ国民の育成により国民総体の幸福の実現をはかる。こうして、「経世済民」の学としての柳田の思想と学問は、日本における社会政策学派の一展開を示すものであった、というのが本論文において著者が把握した骨格である。ここにみられるように、論旨の一貫性はみごとに示されているといってよい。 3 しかし、本論文にはいくつかの問題点があることも指摘しなければならない。著者は「挫折説」を批判して「深化説」を主張するに当たり、さきに触れた1910年前後の諸著作に関しては農業問題と郷土研究との相互関連を詳細に検討しているが、以後の柳田に関しては、主として農業問題・経済問題に関説した著作に検討の重点が向けられ、これらの作品と柳田が精力的に発表した数多くの民俗学的著作との関連については十分な言及がなされていない。「挫折説」をとる論者の多くは柳田をすぐれて民俗学者として評価しているわけであるから、これに対して「深化説」を主張するに際しては、各時期における柳田の全著作の中で農業・経済問題にかかわる諸著作の占める位置についてより周到な言及が必要であると考えられる。検討された著作が戦前のものに限られ、第二次大戦以降の柳田の思想についての言及がなされていないことも、柳田の生涯の問題関心が農民問題にあり、その学問が「経世済民」の学であったという結論の説得性を増すためには問題を残すものであろう。柳田の学問が、時代とともにいかに変化してきたかについての展望が示されれば、著者の論旨はさらに説得性を高めたであろう。 柳田の論旨をいかに理解するかについても、著者の強調点にはなお問題となるいくつかの論点が残る。まず柳田の中農養成策実現の客観的可能性いかんについて、農家数を減少させて1戸あたりの経営規模をふやすことによって自立経営を育成するという政策が、当時の村落共同体の実態と抵触せずに実行可能であるか否か、昭和恐慌期のように農村の外部に雇用を吸収する条件のほとんどない時にも柳田の構想は不変であったのか、柳田の理想とする産業組合による解決は経済事業体としての各種の制約に拘束された産業組合によって可能であるとしうるか、現実には村全体の農家の利害に制約されて自立経営の育成は困難なのではないか、柳田は一貫して政府の政策に対する批判者であったとされるが、石黒農政に代表される現実の農政の意図は柳田の見解と類似していたとみられるのではないか、などの諸論点について、より立ち入った吟味がなされる必要があろう。著者が柳田の構想に内在して論旨を進める点はこの論文の長所でもあるが、その構想の前提となる経済の実態について引証されるのが概説的な文献にとどまり、近年の経済史・農業史研究の成果を十分に反映していない点には問題が残る。 なおいくつかの問題点を指摘すると、『妹の力』で柳田は、「固有信仰」における女性の指導的役割に言及したことが指摘されているが、柳田が育成を力説する「中農」については年齢・性別などの家族関係が明確でなく、この点は、地域主義的な経済改革における差別や女性の役割に関する問題関心からあらためて再検討される必要があろう。 最後に、西洋思想の受容や国際比較に関する検討が十分ではないことが指摘されよう。例えば第4章では柳田がベンサムやミルの功利主義に触発されたことを重視しているが、日本におけるイギリス功利主義の受容史のなかで柳田が占める位置について文献的検討が十分ではない。結論の部分では柳田はプレンターノ的な社会政策学派として位置づけられているが、この評価は社会政策学派に関する近年の思想史的研究の成果に照らせば見直すべき点も含んでいると考えられる。さらに、「農村生活誌」(ルーラル・エコノミー)に対する関心は柳田と同時代の欧米に共通しており、その点で国際的な視野から柳田をあらためて評価することも可能であろう。 4 以上のような問題点があるとはいえ、本論文は農政学から民俗学にわたる柳田国男の思想と学問につきその内在的な関連を一貫した観点にたって解明し、研究史に大きな寄与をなしたものであり、審査委員会は全員一致で本論文の著者が博士(経済学)を授与されるに値するとの結論に達した。 |