2.観察結果と考察 パラノイアの妄想について、Freud,S.は、「内的な知覚即ち感情が外界の知覚によって置き換えられる」という投影の機制に着目したが、それ以来、Klein,M.の理論に典型的にみられるように、自分自身の攻撃的な感情を他者に投影して、人の’せいにする’というメカニズムが強調されてきた。しかし著者は、二例のパラノイア患者の治療過程を通じて、人の’せいにする’こととは逆に、何でも自分の’せいにする’ことが、被害的関係妄想の核心にあるという印象を持った。
二症例ともに、患者の両親には悪いことや不都合なことは、患者の’せいにする’強い他罰的傾向が認められた。そのため、都合の悪いことはすべて患者の’せいにされる’という迫害的な外傷体験が繰り返し起こり、悪いことは何でも自分の’せいと考える’傾向が患者の中で強固に形成されていた。そして他人の些細な言動をすべて自分の’せいにする’ことによって、被害的関係妄想を呈するに至っていた。関係妄想は、知覚された事柄を自己に関係づけるのが特徴であり、自分の’せいにする’妄想と呼ぶことが出来る。まず患者は無意識のうちに悪いことや不可解なことの原因が自分にあるという判断をしてしまうのであり、患者の無意識には強烈な自責的傾向が認められる。その無意識の判断が外界に迫害者を作り上げ、それに対し強い敵意が向けられる。この敵意は或る程度意識されており、悪いことは何でも迫害者の’せいにされる’。つまり患者は、無意識では何でも悪いことを自分の’せいにする’が、意識では迫害者という他者の’せいにする’。このように’せいにする’ことをめぐって、患者の無意識と意識には方向の逆転した力動が並存している。
人間の思考の目的の一つは、出来事の因果的な説明をすることである。それは、或る出来事を他の或る出来事の’せいにする’ことにほかならない。この’せいにする’ことはKant,I.のいう生得的な「因果性のカテゴリー」の作用によるものと考えられるが、悪い出来事が起こるたびに、ことごとく患者の’せいにされて’しまうということは、患者の生得的な「因果性のカテゴリー」の自然な働きを阻害し、因果性の思考の発達を著しく歪曲する。そのために現実吟味が損なわれ、感情や願望に引きずられた妄想的世界が生みだされたのだと思われる。
超自我とは、両親の処罰的な側面を自我に取り入れて形成されたものであるが、パラノイアの被害妄想は厳しい超自我による自我への圧迫と密接な関係がある。二例ともに、患者の両親は患者に対してきわめて支配的で、言う通りにしないと厳しく罰して悪い子の烙印を押す傾向があった。このような処罰的で迫害的な側面が、悪い対象像として患者の自我の中に取り入れられて、厳しい超自我が形成され、その超自我と自我の緊張関係が、迫害恐怖をつのらせるとともに、無意識のうちに強烈な罪悪感を生み出していた。この無意識的罪悪感とそれによってもたらされたマゾヒズムが、まるでブラックホールのように不快や苦痛を患者のもとに吸い寄せ、それによって外界をことさらに迫害的なものに変えて、結果的に迫害者を作り出していた。パラノイア患者の無意識には、処罰され苦しめられたいという願望があり、その幻想的な願望充足によって、いじめられ迫害されるという被害妄想を持つに至ると考えられた。そして、この迫害者の成立には、超自我の外界への投影も関与していた。
Klein,M.はparanoid-schizoid positionという概念を提示して、パラノイアと分裂病の発展にとって重要な意味を持つ早期の不安とその防衛を解明しているが、この概念では、内的な悪い対象像の形成において、自らの破壊衝動の外界への投影が決定的な役割を演じており、罪悪感の役割は軽視されている。著者はこの点については賛成できない。二症例における患者の両親は、外的現実として、患者に対して支配的で他罰的であった。この現実が患者に知覚され記憶されることによって、内的な悪い対象像が形成されたものと考えられる。外的現実において対象が「悪い」からこそ、患者の内的世界においても対象像が「悪く」なるのである。前者は客観的な「悪さ」であり、後者は幻想を含んだ主観的な「悪さ」であって、これを区別しなければならないが、この主観的な「悪さ」を通して、客観的な「悪さ」を再構成することが可能である。思い込みや幻想に満たされた内的世界が、治療関係という公共の場に引き出され、相互の批判と承認を不断に歴ることによって、客観的な世界が構成されていくのである。治療では、子供を保護すべき両親の客観的な在り方に焦点をあてるべきであり、両親が子供の甘えに応えようとせず理不尽に他罰的であるなら、その客観的な現実をしっかりと解釈しなければ、患者の傷ついた気持ちは癒されることもない。幻想に彩られた内的対象関係を見ていくことは大切なことではあるが、その幻想を生み出した現実を問うことこそが、臨床における最も重要なテーマである。
また、Klein,M.の理論に従い、内的な迫害者の成立において、患者自身の攻撃性が根本的なものであると解釈すると、不都合なことを患者自身の’せいにした’患者の両親の態度と同じ態度を治療者が再現することになる。その結果、治療者への不必要な病的投影同一化を引き起こし、攻撃的で好訴的な行動化を招き、治療を困難なものにしてしまう危険性がある。
本論文の症例の治療では、被害妄想を患者の攻撃的感情の’せいにする’ことを一切せず、両親の他罰的な関わり方に焦点をあて、無意識的罪悪感の徹底操作をすることで、妄想の消失がみられた.
Freud,S.はパラノイアについて、「同性愛的願望に対する防衛が病気の中心に認められ、しかもその防衛の努力のことごとくが、無意識に強まった同性愛の作用に圧倒されて不成功に終っている」と述べ、同性愛的願望が重要な病原的意味を持つことを指摘している。この同性愛的愛着は彼が晩年になって「前エディプス的母親拘束」と呼び、その重要性に注目したものであるが、その特徴は両価性にあり、強い愛と攻撃性が共存している。これは土居が「甘えのアンビバレンス」と呼んだものにほかならない。土居は、甘えが本質的にアンビバレントなものであることを指摘し、「甘えはいわば初めから、一見その反対のもの、すなわち恨みに転換するように運命づけられている」と言っている。
二症例には、被害妄想とともに、恋愛妄想が認められ、その対象は、容易に迫害者に転ずる傾向があった。患者は強い「甘えの願望」を周囲に向け、それを幻想的に満たそうとして恋愛妄想が生じており、さらにその願望と現実との落差から、常に過敏さと被害感情に悩まされていた。恋愛妄想の対象が被害妄想の対象に、何故いとも簡単に逆転してしまうのかという謎を解く鍵は、この「甘えのアンビバレンス」にある。つまり恋愛妄想も被害妄想も、同性愛的願望というより、両価的な「甘えの願望」に根差しており、同じ無意識の願望に支えられているのである。
以上の考察を通じて著者は、パラノイアの発展する基盤としてのパラノイア的人格についての一仮説を提示した。パラノイア的人格とは、中核に「甘えの願望」と、何でも自分の’せいにして’不快を引き寄せる無意識的罪悪感とマゾヒズムがあり、その周りに迫害恐怖、因果性の思考の歪み、願望充足としての妄想形成という機制、何でも人の’せいにする’攻撃性が布置された精神病的人格構造である。