学位論文要旨



No 212167
著者(漢字) 蘇木,宏之
著者(英字)
著者(カナ) ソノキ,ヒロユキ
標題(和) 虚血心筋弛緩障害における細胞内Ca貯留部位からのCa遊出とプロテインキナーゼCの役割
標題(洋)
報告番号 212167
報告番号 乙12167
学位授与日 1995.03.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12167号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野々村,禎昭
 東京大学 教授 古瀬,彰
 東京大学 教授 熊田,衛
 東京大学 教授 高井,克治
 東京大学 助教授 永井,良三
内容要旨 目的、背景

 虚血性心疾患の発作時に、心筋の収縮能が障害されることは良く知られているが、同時に心筋の弛緩能も障害を受けることが報告され、最近注目されるようになった。この虚血心筋の弛緩障害は心室拡張期の血液充満の障害を介し、心拍出量を低下させ重篤な肺うっ血や心不全を引き起こすとされている。このため、虚血心筋の弛緩障害を改善することは臨床上重要と思われる。しかし、現在までのところ虚血を緩解する以外、弛緩障害を回避する有効な手段はほとんど知られていない。

 近年、弛緩障害発生の一因として細胞内Ca濃度の過剰上昇(Ca overload)が有力視されるようになってきた。しかし、そのCa overloadには細胞膜から細胞内へのCa流入がその主体であるとする説や、細胞内のCa貯留部位からのCa遊出を重要視する説などの種々の説があり、虚血によるCa overloadの機構は未だ明らかにされてはいない。

 最近、プロテインキナーゼCがNishizukaらにより発見され、その活性化により種々の器官の細胞内Ca輸送能が亢進することが報告されるようになった。虚血心筋においてプロテインキナーゼCの活性化によりCaが細胞内から除去されるならば、心筋の弛緩能は亢進し、虚血心筋の弛緩障害も改善されるものと推定される。しかし、今のところ心筋の弛緩能に対するプロテインキナーゼCの役割は未だ明らかにされていない。本研究は虚血による心筋弛緩障害における、上述した二点の問題の基礎的解明を試みたものである。即ち、

 I)虚血心筋の弛緩障害に対して細胞内Ca遊出が如何に関与するのか。

 II)虚血心筋弛緩障害におけるプロテインキナーゼCの役割は何か。

 これらの解明のために、犬を用いて新しい虚血心筋弛緩障害モデルを作成し、細胞内Ca遊出阻害作用を有するとされる8-(N,N-diethylamino)-octyl-3,4,5-trimethoxybenzoate(TMB-8),およびプロテインキナーゼCの阻害作用を有するとされる1-(5-isoqunilinylsulfonyl)-2-methylpiperizine hydrochloride(H-7)、プロテンキナーゼC賦活化物質12-O-tetradecanoylphorbol-13-acetate(TPA)の作用を検討した。

実験方法A)虚血心筋弛緩障害(global ischemia)モデルの開発

 雑種成犬104頭を用いた。ペントバルビタール麻酔下に開胸し、心膜を切開して心臓を露出した。心尖部から左室内にカテーテル先端型マイクロマノメーターを挿入し左室内圧と左室拡張終期圧を測定した。この左室内圧の上行脚と下降脚の一次微分から心筋収縮能の一つの指標であるVmaxとWeissの方法により心筋弛緩能の指標である時定数Tを算出した。右大腿動脈から大動脈内に挿入したカテーテルを圧トランスデューサーに接続し、体血圧を測定した。次に、左頚動脈から左室冠状動脈前下行肢と左回旋枝の両冠状動脈起始部への灌流回路を接続し、左室の自家血灌流標本を作成した(図1)。左心室虚血を作成するためこの回路に反応性充血が消失するまで狭窄を加え、洞結部挫減後、電気刺激装置により右房ペーシング(PR)を行い、その刺激頻度を3分間隔で100,120,150,180b/minに段階的に増加させた。この時、左室弛緩能の指標である時定数Tと左室拡張終期圧の変化を観察し、左室の拡張障害の発現について検討した。

B)虚血心筋弛緩障害モデルにおける細胞内Ca遊出阻害薬TMB-8の作用

 心筋弛緩障害発生に細胞内Caの遊出が如何に関与するかを検討するため、細胞内Ca遊出阻害作用を有するとされるTMB-8の30g/min,あるいは100g/minを灌流血液中に持続注入し、A)と同様に狭窄後、PRを段階的に増加させ、その時の時定数Tと左室拡張終期圧の変化を観察した。

C)虚血心筋弛緩障害モデルにおけるプロテインキナーゼC阻害薬H-7とプロテインキナーゼC賦活物質TPAの効果

 プロテインキナーゼCの虚血心筋弛緩障害における役割を検討するため、プロテインキナーゼCの阻害作用を有するとされるH-7の100g/minあるいはプロテインキナーゼCの賦活化物質であるTPA50g/minを灌流回路内に持続注入して、A)と同様に狭窄後に右房ペーシング頻度を増加させた。

図1.犬左心室自家血灌流標本とglobal ischemia.LV:左室,RV:右室,LA:左房,RA:右房,Ao:大動脈,PA:肺動脈,LAD:冠状動脈左前下行枝,LCX:冠状動脈左回旋枝,CoPP:冠灌流圧,LVP:左心室内圧,ECG:心表面心電図,PR:ペーシング頻度,i.c.:冠状動脈内投与.
成績A)虚血心筋弛緩障害モデル

 灌流回路狭窄後にペーシング頻度を増加させたとき、頻度依存性に時定数Tと左室拡張終期圧が増加した。この時、体血圧は下降し、冠血管抵抗は増加した。心収縮力の指標であるVmaxは減少した。狭窄前から狭窄下、ペーシング頻度180b/minでの変化は、T:27.9±1.4→65.4±7.3 msec(P<0.05),平均体血圧:102.7±4.9→77.8±9.4mmHg(P<0.05),冠血管抵抗:1.73±0.19→2.84±0.40×105 dyne sec/cm5(P<0.05),左室拡張終期圧:1.4±0.4→13.1±1.2mmHg(P<0.01),Vmax:3.42±0.25→2.40±0.23 sec-1(P<0.01)(平均値±標準誤差)であった。

B)TMB-8の効果

 TMB-8は、狭窄後のペーシング頻度増加による左心室拡張期時定数Tと左室拡張終期圧の上昇に対して有意かつ用量依存性の抑制効果を示した(図2)。ペーシング頻度180 b/minではそれぞれの抑制はT:65.4±7.3→34.5±1.4 msec(P<0.01 vs.対照群),左室拡張終期圧:13.1±1.2→4.8±1.2mmHg(P<0.01),(対照群→TMB-8 100 g/min処置群、平均値±標準誤差)であった。この時、TMB-8は冠血流量やVmaxなどの他の循環パラメーターに影響を及ぼさなかった。

図2.虚血心筋弛緩障害に対する細胞内Ca遊出害薬TMB-8の効果.MBP:平均体血圧,CoBF/g:単位左心室重量当たりの冠動脈血流量,CoVR:冠動脈血管抵抗,LVEDP:左室拡張終期圧,T:拡張期時定数,○:対照群(n=9),●:TMB-8 100g/min処置群(n=7),▲:TMB-8 30g/min処置群(n=7).平均値±標準誤差.+p<0.05,++P<0.01 vs.対照群.斜線部は狭窄時を示す.尚、狭窄前のこれら循環指標には3群間に有意の差を認めなかった。
C)H-7とTPAの効果

 プロテインキナーゼCの阻害作用を有するとされるH-7は狭窄後の頻回刺激による左心室拡張期時定数Tの上昇を有意に抑制した。これとは逆に、プロテインキナーゼC賦活物質であるTPAはこの拡張期時定数Tの上昇を増強した(図3)。この時、TPAとH-7は冠血流にほとんど影響を及ぼさなかった。ペーシング頻度180 b/minにおけるTの値は対照群:65.4±7.3 msec,H-7群:45.5±6.3 msec(P<0.01 vs.対照群),TPA群:86.4±6.0 msec(P<0.05 vs.対照群),(平均値±標準誤差)であった。

図3.虚血心筋弛緩障害に対するプロテインキナーゼC阻害薬H-7とプロテインキナーゼC賦活化物質TPAの効果.○:対照数(n=9),●:H-7処置群(n=7),▲:TPA処置群(n=4).平均値±標準誤差.+P<0.05,++P<0.01 vs.対照群,斜線部は狭窄時を示す.尚、狭窄前のこれら循環指標には3群間に有意差を認めなかった。
考察

 左冠動脈血流量の減少と右房ペーシング頻度を増加させることによりイヌ左室global ischemiaモデルの作成を検討した。冠灌流回路の狭窄と右房ペーシング頻度の増加により、時定数Tと左室拡張終期圧が増加して心筋の弛緩障害が認められた。この時、狭窄のために冠動脈血流量が増加せず、ペーシング頻度の増加により心筋の酸素需要だけが増加するため、左心室の心筋は虚血に陥ると考えられた。以上のことから、虚血に基づく弛緩障害を有するglobal ischemiaモデルが作成できたものと判断された。このモデルでは心室中隔の一部を除き左室自由壁全体がほぼ均一に虚血に陥るので、虚血心筋の本来の動態を検討するのに適したモデルであると考えられた。細胞内Ca遊出を阻害するとされるTMB-8はこの虚血による左心室弛緩障害を用量依存的に改善した。このとき、冠血流量は増加しておらず、TMB-8の弛緩障害の改善は心筋の細胞内Ca遊出の阻害を介するものと考えられた。これらのことから、細胞内Ca貯留部位からのCa遊出は虚血心筋の弛緩能に対してそれを障害する方向に作動しているものと推定された。プロテインキナーゼCの阻害作用を有するとされるH-7は虚血に伴う心筋弛緩障害を改善し、プロテインキナーゼCの賦活物質であるTPAは逆にこれを悪化させた。このことから、プロテインキナーゼCの活性化により虚血心筋の弛緩能が障害されることが推定された。

結論

 本研究は麻酔犬を用いて虚血に基づく新しい左心室弛緩障害モデルを作成し、虚血心筋の弛緩障害における細胞内Ca貯留部位からのCa遊出とプロテインキナーゼCの役割を検討したものである。その結果、以下の結果を得た。

 I)細胞内Ca貯留部位からのCa遊出を阻害するとされるTMB-8は虚血による弛緩障害を改善した。

 II)プロテインキナーゼCの阻害作用を有するとされるH-7は虚血心筋の弛緩障害を改善し、一方プロテインキナーゼCの賦活化物質であるTPAは虚血心筋の弛緩障害を悪化させた。

 III)これらのことから、虚血心筋の弛緩障害に対して細胞内Ca貯留部位からのCa遊出とプロテインキナーゼCの活性化は虚血心筋弛緩能を障害する方向に作動することが推定された。

 以上のように、細胞内Ca遊出とプロテインキナーゼCは虚血心筋の弛緩能の障害発現に関与すると推定され、このことは、今後虚血心筋弛緩障害に対する新しい治療ストラテジーを提示するものと期待される。

審査要旨

 本研究は虚血による心筋弛緩障害における細胞内Ca貯留部位からのCa遊出とプロテインキナーゼCの役割を解明するため、犬虚血心筋障害(global ischemia)モデルを作成し、細胞内Ca遊出を阻害するとされるTMB-8と、プロテインキナーゼCを阻害するとされるH-7あるいはプロテインキナーゼCの賦活物質であるTPAの効果を検討し、下記の結果を得ている。

 1.左回旋枝および左前下降枝の両冠状動脈血流量の減少とペーシング頻度の増加により犬心筋弛緩障害モデルの作成を試みた。この操作により、ペーシング頻度に依存した左室弛緩能の指標である左室拡張時定数Tの増加が認められ、虚血による心筋弛緩障害のモデルが犬に作成されることが示された。

 2.この虚血心筋弛緩障害モデルにおいて、細胞内Ca遊出阻害作用を有するとされるTMB-8は用量依存的にTの増加を抑制し、虚血による心筋の弛緩障害を改善した。これにより、細胞内Ca貯流部位からのCa遊出は虚血による心筋弛緩障害に対して促進的に作動している可能性が示された。

 3.また、プロテインキナーゼCを阻害するとされるH-7もTの増加を抑制し、虚血による心筋の弛緩障害を改善した。一方、プロテインキナーゼCの賦活物質であるTPAはTの増加を増強し、弛緩障害をむしろ悪化させた。これらのことから、プロテインキナーゼCの活性化が虚血心筋弛緩障害に促進的に作動する可能性が示された。

 以上、本論文は犬虚血心筋弛緩障害モデルにおける細胞内Ca遊出とプロテインキナーゼC活性に影響を及ぼす薬物の弛緩障害への作用を検討することから、細胞内貯留部位からのCa遊出とプロテインキナーゼCの活性化が虚血心筋弛緩障害に促進的に作動する可能性を明らかにした。本研究は、これまで充分な検討がなされていなかった虚血心筋の弛緩障害の発生メカニズムの解明に重要な知見を与え、また虚血心筋弛緩障害に対する新しい治療法の開発に貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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