おろし風は、山越え気流に伴う気象現象の中でも、しばしば被害を伴う局地的な強風を発生させることから、特に興味ある現象として古くから気象学の研究対象となってきた。おろし風を発生させる山越え気流がハイドロリックジャンプ(はね水現象=山などの障害物を越えた流体が下流側で上方にはね上がる現象)を伴うことは、Long(1954)やHoughton and Kasahara(1968)の実験的・理論的研究や、Lilly and Zipser(1972)の観測的研究などにより古くから知られていたが、ハイドロリックジャンプの振舞に対する一般場や地形の効果については、これまで十分には調べられていなかった。また一般におろし風は地形の3次元的な影響を強く受けるにもかかわらず、これまでのほとんどの研究は、一般場や地形の2次元性を前提としていた。本研究では、非静水圧数値モデルを用いた数値実験と理論的考察により、ハイドロリックジャンプを伴うおろし風の振舞が一般場の変化や地形にどのように依存するかを数値的・力学的に調べ、これらを参考に日本における代表的なおろし風である「やまじ風」の事例研究を行った。また、非静水圧ネスティング数値モデルを開発することにより、これまで行われたことのなかった現実的な設定でのおろし風の予報実験を行った。 第一章では、風上側と風下側で非対称な2次元の山を越える大気の流れの性質を、数値実験と解析解により調べた。 解析解によれば、風下側斜面が急傾斜な非対称地形では山岳波がエンハンスされやすいが、その傾向は数値実験でも確認された。やまじ風の場合、四国山地の北側斜面が急傾斜になっていることが一般風が南よりの場合の砕波を起こりやすくしている。また、中国山地の存在によるブロッキングが、ハイドロリックジャンプの発生・停滞とジャンプ後面の逆向きの風の発生を容易にしている。ハイドロリックジャンプの振舞(ジャンプの停滞位置や移動速度の大小)の一般風の大きさに対する依存性は、Houghton and Kasahara(1968)が示した浅水流に生ずるハイドロリックジャンプの振舞と定性的に一致した。 1987年4月21日の顕著なやまじ風について、実況データに基づく大気プロファイルを用いた数値実験を行い、逆転層がある場合には無い場合と比較して地表風はより大きくなることを確認した。また、一般風の大きさを時間とともに増大させる実験を行い、ハイドロリックジャンプの四国山地風下側斜面での発生と、一般風の強まりに応じた風下側への移動、およびこれに伴う平野部でのおろし風のオンセットをシミュレートした。数値実験で得られた場は、やまじ風の特徴である「やまじ風前線(ハイドロリックジャンプに伴う地上風速の急変域)」や、やまじ風前線北側での一般風とは逆向きの北風を表現しており、観測された地上での風速や気温・気圧の時間変化と、おろし風オンセットのタイミングのずれを除けば、概ね良く対応していた。実験結果に基いて一般場の変化に応じたやまじ風の概念モデルを提案した。 第二章と第三章では、第一章で指摘された2次元シミュレーションと観測とのずれの原因の一つとしての3次元地形の効果を調べた。 山脈地形を越える浅水流における3次元地形の効果については、流路幅が変化する場合の定常状態が存在する条件についてArakawa(1969)が考察を行っているが、本研究の第二章では、非定常流(ハイドロリックジャンプを伴う流れ)の解の特性を、Houghton and Kasahara(1968)の理論的モデルを流路幅が変化する場合に拡張することにより調べた。山脈の風下側に移動するジャンプを伴うレジームでは、流路幅が小さいほど、また山脈が高いほどジャンプの移動速度は大きくなる。この結果は、山を越す流れと谷間を吹き抜ける流れは同じ様に変形されるというArakawa(1969)の指摘を裏づける。一方、山脈の後面にジャンプが停滞するレジームでは、ジャンプは流路幅が小さいほどより風下側に発生し、流路幅の減少はジャンプの停滞位置に関しては、山脈の高さの増大とむしろ反対の効果を持つ場合がある事が分かった。ジャンプの手前の流速は流路幅が小さいほど大きくなり、この結果は強いおろし風が鞍部を伴う山脈の鞍部風下側に発生する傾向があることに対応している。 第三章では、おろし風に対する3次元地形の効果を、山脈を越える流れに対する鞍部の影響に焦点を当てて、線形解析解と数値実験によって調べた。山の形状を記述するため、スコーラー数で無次元化した山の高さと、山の高さに対する鞍部の振幅の比の2つのパラメータを用いた。 数値実験で得られた流れのレジームは、線形論の予測するレジームと概ね良い対応を示したが、各レジームを分けるクリティカルな山の高さは線形論の予測値に比べて20%程小さかった。線形論によれば山脈前後の気圧差によって生ずるドラッグは鞍部の振幅が大きいほど大きくなるが、数値実験で得られたドラッグは山脈前面での澱み点の発生を伴う非線形レジームでは鞍部の振幅が大きいほど小さくなった。このことは、強いおろし風を生じさせるのに適した山脈地形の形状において鞍部の振幅に上限があることを示唆している。山脈が鞍部を伴う場合、山蔭後面では鞍部を伴わない場合と比較してより小さな高さの山に対しても砕波が生じ、ジャンプの停滞と後面の逆風の発生が見られた。一方、鞍部の後面では強風域は容易に風下側に拡大し、ジャンプ自体も不明瞭である場合が多い。ジャンプの振舞は、鞍部の存在による山脈の高さの違いに極めて敏感だが、山脈風上側のブロッキングは、鞍部の有無に比較的鈍感である。これらの鞍部の振幅の変化に対するハイドロリックジャンプの振舞の応答は、第二章で示された浅水流に生ずるハイドロリックジャンプの流路幅の変化への応答と定性的に対応している。 1987年4月21日のやまじ風の事例に対し、第一章で行った一般風を時間とともに増大させる数値実験の3次元モデルによる再実験を行った。東西方向に平均した地形を用いた2次元数値実験では早過ぎるおろし風のオンセットのタイミングが、鞍部を含む四国山地の地形を用いた3次元数値実験では改善された。また、地表摩擦の効果をシミュレーションに含めることによって、より現実的な地表風系が得られた。シミュレーション結果を基に、やまじ風の特徴の東西方向での地理的な違いの理由を四国山地山蔭でのハイドロリックジャンプの停滞とその後面の逆風及び三島付近に抜ける鞍部風下側での強風域の拡がりによって説明した、やまじ風の概念モデルの改良版を提唱した。 第四章では、第三章で用いられた非静水圧モデルをもとに多重ネスティング局地モデルを開発し、おろし風の予報実験を行った。 モデルの初期化として、非弾性の連続の式と上・下部の境界条件とが満足されるように、変分客観解析を用いて風の場の修正を行った。側面境界条件として、Orlanski(1976)の放射条件の外部参照値を時間変化させてネスティングを行った。 1991年9月27日の台風19号に伴うやまじ風の事例について、気象庁現業予報モデルJSMにネスティングした10kmと2.5kmの水平分解能をもつ非静水圧モデルによるシミュレーションを行った。10km分解能モデルにより予報された風は基本的にJSMによるものに近く、一般場の変化を良く表現するものの顕著なおろし風はシミュレートされなかった。一方、2.5km分解能モデルでは、四国山地後面のおろし風、新居浜付近の逆風、やまじ風前線がシミュレートされ、観測された地上風の変化と良く対応していた。シミュレーションで得られた風系と一般風の強さの変化に対応するハイドロリックジャンプの消長は、第三章で提唱したやまじ風の概念モデルを概ね支持する。 比較感度実験を行い、地面温度が低いほど、また地表面粗度が小さいほど、地表付近の風は強くなることを確かめた。やまじ風の場合、四国山地の特徴的な形状(風上側と風下側の非対称性、鞍部の存在)に加え、燧灘の存在が、海陸の粗度の違いを通じて平野部での強風の発生に寄与している。 |