学位論文要旨



No 211780
著者(漢字) 佐倉,宏
著者(英字)
著者(カナ) サクラ,ヒロシ
標題(和) 日本人の糖尿病におけるグルコキナーゼ遺伝子異常の解析
標題(洋)
報告番号 211780
報告番号 乙11780
学位授与日 1994.04.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第11780号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中込,弥男
 東京大学 教授 岡山,博人
 東京大学 教授 日暮,眞
 東京大学 教授 折茂,肇
 東京大学 教授 脊山,洋右
内容要旨

 糖尿病は生体内でのインスリンの効果が低下し、糖代謝をはじめとしたさまざまな代謝異常がおきる疾患である。患者数は日本人だけでも500万人以上いると見積られており、その病因の解明と治療法の確立は現代医学の中でも最も重要な課題のひとつである。糖尿病の病態は大きく膵ランゲルハンス島細胞からのインスリンの分泌の低下と、筋肉、肝臓、脂肪組織などにおけるインスリン作用の低下に分けることができる。言い換えれば、糖尿病はインスリンの分泌かインスリン作用のなんらかの異常によって発症する。また、糖尿病はその発症に遺伝的要因が強く関与していることが明らかであり、遺伝的要因に肥満、ストレス、運動不足、などの環境要因が加わって発症する。遺伝的要因とは、究極的には何らかの遺伝子の変異ということになるであろうが、実際に糖尿病を引き起こす原因遺伝子が明らかになっている症例はまだ極めて少ない。

 グルコキナーゼはグルコースをリン酸化する作用を持つ解糖系の第一段階に位置する酵素であり、膵ランゲルハンス島細胞と肝臓においてのみ発現している。このようにグルコキナーゼはインスリンの分泌や作用を考える上で中心的な役割をはたしている臓器に発現し、その酵素活性は生理的グルコース濃度の範囲で大きく変動することから、グルコキナーゼはグルコースセンサーとして働いていると考えられている。多くのインスリン非依存性糖尿病の患者においてグルコースに対するインスリンの分泌の低下が示されているので、グルコキナーゼに何らかの異常が起きて膵ランゲルハンス島細胞のグルコースセンサー機能が低下して糖尿病になる症例が存在するのではないかと推定されていた。特に、日本人のインスリン非依存性糖尿病においては欧米の患者に比べてインスリンの分泌低下が顕著であり、グルコキナーゼ異常症は日本人に数多く見られる可能性が考えられる。そこで、本論文においてはグルコキナーゼに焦点を当てることとし、日本人の糖尿病におけるグルコキナーゼ遺伝子異常の解析を行い、その頻度、臨床像などを明らかにした。

 最初にすでに構造がわかっているラットのグルコキナーゼ遺伝子をプローブとしてヒトのゲノムライブラリーをスクリーニングし、3つのクローンを得た。このクローンの中には図1のようにヒトグルコキナーゼ遺伝子の全エクソンが含まれていた。膵ランゲルハンス島細胞と肝臓とでは第2エクソンから第10エクソンまでは共通であったが、第1エクソンは互いに異なっていた。各エクソンおよびエクソン周辺のイントロン部分のシークエンシングを行い、すべてのエクソンを増幅するためのPCRプライマーをエクソンの近傍のイントロン内に決定し合成した。

図1 ヒトグルコキナーゼ遺伝子のクローニング1:膵ランゲルハンス島細胞型第1エクソン 1L:肝臓型第1エクソン 1V:肝臓型の一部にのみ発現しているエクソン HGK-K,HGK-M,HGK-:単離された3クローン

 次に、患者末梢血よりDNAを単離しPCR法にて各エクソンを増幅し、いったん変性させた後にポリアクリルアミドゲル電気泳動を行った(PCR-SSCP法)。この電気泳動において異なった易動度を示したものについては、サブクローニング後のシークエンス法で、その塩基置換の同定を行った。グルコキナーゼ遺伝子のような糖代謝に重要な遺伝子に異常がある場合、インスリンやインスリン受容体遺伝子異常の患者と同様に優性遺伝形式をとり、しかも比較的若年のうちに糖尿病が発症すると予想されるので、解析対象の患者としては糖尿病の診断時年齢が40才以下で、かつ発端者以外に2人以上の家族歴を有する患者を選択した。

 対象患者209人の患者全員のすべてのエクソンをPCR-SSCP法を用いてスクリーニングした結果、各エクソン及びその周辺に表1に示すような7種類の変異を同定することができた。

表1 日本人のインスリン非依存性糖尿病患者に認められたグルコキナーゼ変異と多型性

 細胞特異的な第1エクソンに認められた変異は、塩基配列を決定した結果5’側の非翻訳領域に存在すると同定された。解析した糖尿病患者の約10%の頻度でこの変異が認められたため、正常人49人においても同部位の検索を行ったところ4人に同一の変異を認めた。両者の間に頻度の有意差はなくおそらく病因的な意義を持たない単なる多型性と思われた。第4エクソンに認められた変異はアミノ酸の変異を伴わないsilent mutationだった。同定された変異の中でグルコキナーゼの活性に影響があると考えられた変異は第7エクソンに見いだされたmissense mutationの1症例だけであった。シークエンスの結果、グルコースとの結合に重要な261番のアミノ酸がグリシンからアルギニンに変異していることが同定された。なお、非糖尿病者100人の中にはこの変異は認められなかった。

 グルコキナーゼ遺伝子のエクソン領域だけではなく転写制御領域に異常があってもグルコキナーゼの発現が障害されて糖尿病に至る症例の可能性が考えられるため、膵ランゲルハンス島細胞と肝臓型のグルコキナーゼ遺伝子の両方の第1エクソンの上流に存在すると考えられる転写制御領域についても、PCR-SSCP法にて遺伝子変異の検索を行った。転写制御領域がどの範囲に存在するかについては明確なデータがないが、一般に転写制御領域は動物の種を越えて保存されているので、ラットとヒトとの間で高度に保存されている領域について解析した。その結果、膵ランゲルハンス島細胞型の上流部分には3ケ所、肝臓型の上流部分には2ケ所遺伝子の多型性を認めた。しかしながら、糖尿病患者と正常者の間に多型性の頻度の差が認められないこと、多型性の違いに関わらず、インスリン分泌能に差が認められないことから、今回同定された多型性は転写活性や糖尿病発症には影響を及ぼしていないものと考えられた。

 今回のグルコキナーゼ遺伝子変異の検索により見いだされた症例は10才の女児であり、他の疾患で通院中、尿糖陽性と随時血糖の高値(179mg/dl)が検査により偶然に発見された。発育は正常であり、体型は痩せ型だった。糖尿病発見時の空腹時血糖は145mg/dlであったが、食事療法と運動療法のみで血糖の改善を認めた。家族の末梢血のDNAを解析したところ、患者の母、兄にも発端者と同じ泳動パターンがSSCP法で認められた。塩基配列を決定した結果、発端者と同じくグルコキナーゼの261番のアミノ酸がグリシンからアルギニンに変異していた。家族に糖負荷試験を施行したところ、患者の母、兄も糖尿病型を呈していたので今回同定された遺伝子変異がこの家系の糖尿病の原因であると推定できた。母親は妊娠時に一時的に尿糖陽性を指摘されたことがあったが、兄は今回まで耐糖能異常を指摘されたことはなかった。3人とも糖尿病性合併症もなく、軽度の糖尿病と判断された。また、インスリンの初期分泌は3人とも正常値の半分程度に低下していた。

 発端者の母親にグルコース負荷を併用したeuglycemic hyperinsulinemic clamp試験を施行した結果、骨格筋を主とする末梢組織におけるインスリン感受性は正常範囲であったが、肝臓におけるグルコースの取り込みは著しく低下していた。

 これらの臨床データから、本症例のグルコキナーゼ異常においては、膵ランゲルハンス島細胞からのインスリンの分泌の低下と肝臓でのグルコースの取り込みの低下の両者が、糖尿病の発症に関与しているものと思われた。

 最近、フランスの若年発症インスリン非依存性糖尿病の家系を中心にグルコキナーゼ異常症が見いだされているが、臨床症状が軽度である点やインスリン分泌に障害を認める点など本症例と類似していた。家族内集積性が強く、若年で発症している家系を精査すれば、日本においてもかなりの数のグルコキナーゼ異常症が同定できるものと思われる。

 今回の研究の結果、200人以上のインスリン非依存性糖尿病の中から1人しかアミノ酸の変異を伴うグルコキナーゼ異常症を見いだしえなかったので、単純に計算すれば、グルコキナーゼ異常症は日本人のインスリン非依存性糖尿病の0.5%以下の頻度でしか存在しないことになる。したがって、依然として大多数の糖尿病の患者の原因遺伝子は不明のままであり、今後新たな原因遺伝子を見いだす努力が必要である。

審査要旨

 本研究は、インスリン非依存性糖尿病の原因として膵臓ランゲルハンス島細胞におけるグルコキナーゼの異常がどの位の頻度で見られ、どのような臨床像を呈するかを解析したものであり、下記の結果を得ている。

 1.家系内に糖尿病が多発している比較的若年発症のインスリン非依存性糖尿病の患者計209人のグルコキナーゼ遺伝子変異をPCR-SSCP法でスクリーニングした。遺伝子転写制御領域を含めて、グルコキナーゼ遺伝子全体にわたり数種類のSSCPパターンの変化が見いだされたが、1例を除いて残りのすべてはアミノ酸変化の伴わない変異や多型性であった。したがって、グルコキナーゼの変異は日本人のインスリン非依存性糖尿病の原因としては稀であると考えられた。

 2.9才で発見された女児のインスリン非依存性糖尿病の患者において、グルコキナーゼ遺伝子第7エクソンの261番目のアミノ酸がグリシンからアルギニンへ変異していることが同定された。家系分析の結果、発端者の兄と母にも同じ異常が同定され、経口糖負荷試験にて三人とも糖尿病型を呈していることが確認された。同じ遺伝子変異はフランスのMODYの一家系にも見いだされ酵素活性がほぼ消失することが報告されており、また正常人には認められなかったので、この変異が本症例およびその家族の糖尿病の原因であると推測された。

 3.グルコース刺激に対するインスリン初期分泌は軽度低下していた。発端者の母親にクランプ試験を行ったところ、末梢組織でのグルコース利用率は正常であったが、肝臓でのグルコースの取り込みは著しく減少していた。したがって、グルコキナーゼ異常症による糖尿病の発症機序には、膵臓ランゲルハンス島細胞におけるインスリン分泌の低下と肝臓におけるグルコースの取り込みの低下がともに関与していると考えられた。

 以上、本論文は日本人のインスリン非依存性糖尿病におけるグルコキナーゼ異常症の解析から、グルコキナーゼが膵臓や肝臓で重要な働きをしており、その異常は糖尿病の原因になることを明らかにした。特に、多数の症例を用いてグルコキナーゼ異常症の頻度を求めたことと、肝臓における糖代謝異常の存在を実証したことは価値が高く、この分野に重要な貢献をなすと思われる。よって、本論文は学位授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50884