学位論文要旨



No 128917
著者(漢字) 安達,亜紀
著者(英字)
著者(カナ) アダチ,アキ
標題(和) 化学物質政策の移転と変容 : 政策ネットワークの視点から見たEU・ドイツ・日本
標題(洋)
報告番号 128917
報告番号 甲28917
学位授与日 2013.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(国際貢献)
学位記番号 博総合第1228号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 丸山,真人
 東京大学 教授 石田,勇治
 東京大学 准教授 森井,裕一
 東京大学 准教授 永田,淳嗣
 新潟国際情報大学 教授 臼井,陽一郎
内容要旨 要旨を表示する

2007年6月にEUで施行された化学物質の登録・評価・認可および制限に関するREACH規則は、化学物質政策に「パラダイム変化」をもたらしたといわれる。欧州委員会は2001年の白書でREACH規則を提案し、そこではEUがグローバルなレベルでも化学物質の安全な利用に貢献するとした。翌年、開かれた「持続可能な開発に関する世界首脳会議」では、2020年までに化学物質による人の健康や環境への著しい悪影響を最小化するという目標がEUのイニシアティブによって採択文書に取り入れられ、日本で2009年に行われた化審法改正では、この目標の達成が第1の目的に掲げられた。この過程は、EUから日本への「政策移転」(policy transfer)として捉えられるが、REACH規則と2009年改正化審法の内容は、主な点において異なるものとなった。本研究は、両者に生じた相違の要因を検討するため、欧州と日本における化学物質政策の形成過程を分析する。

EU研究では特に1990年代以降、EUがマルチレベルのガバナンス・システムとして捉えられ、従来の国際関係論による分析に加え、比較政治のアプローチが広く適用されてきた。その一方で、国家や他の国際機関とは異なり、「特異」(sui generis)な機関ともいわれるEUの政策形成過程と、これとは大きく異なる日本の政策形成過程との直接的な比較は、困難であると考えられる。このため本研究では、化学物質政策に関して日本と類似した点が多いEU加盟国のドイツを分析対象に加え、欧州の化学物質政策の形成過程を多層的に捉えて比較を行う。また分析に際しては、ドロウィッツ(Dolowitz P. Dolowitz)らによる政策移転の分析枠組みに指摘されてきた、政策変化を説明するモデルの欠如を補うため、ローズ(R. A. W. Rhodes)とマーシュ(David Marsh)によって提唱された「政策ネットワーク」(policy network)の連続体とメゾ・コーポラティズムの視座を取り入れた。

欧州の化学物質政策では、まず1970年代後半の危険物質指令第6次改正指令とドイツの化学物質法制定時の政策ネットワークを考察した上で、1990年代末に始まったREACH規則の形成過程について検討した。その政策形成過程をEUレベルと加盟国ドイツのレベルの双方から捉え、長期的な視点で考察することにより、メゾ・レベルの公私の関係である政策ネットワークの変化が観察された。この変化は、ローズとマーシュによる連続体に従えば、参加者が限られた閉鎖的な形態である「政策共同体」(policy community)から、多様な利益を代表する幅広い参加者がおり、開かれた状態の「イシュー・ネットワーク」(issue network)への移行であった。

政策共同体はメゾ・コーポラティズムと類似したもので、その政策形成は行政機関と限られた数の優遇された団体の代表者らによって行われる。参加する利益団体の代表者らは政策への選好を共有し、形成された政策の実施段階で団体のメンバーによるサポートを提供できる立場にある。このような政策形成が生じるのは、行政機関がそれらの利益団体の協力を得ることなく政策を形成し、実施に移すための十分な知識や力を持たないためである。一方、実施を担う利益団体が中心となるため、実施段階での困難が予測される政策は採用されにくい。イシュー・ネットワークによる政策形成では対照的に、望ましい政策結果に関して対立する選好を持つ、多様な行動主体が参加する。形成された政策への「確実な実施」を提供できる立場にはない行動主体が、政策形成の早い段階から参加するため、実施を担う利益団体によって「実施が困難」と見なされる政策も採用されやすくなる。

1970年代半ばに始まったEUの危険物質指令第6次改正とドイツの化学物質法制定は、欧州の化学工業にとって重要な貿易相手国であった米国におけるTSCA制定の動きと、それに続くフランスによる立法の表明をきっかけになされた。当時の欧州の化学物質政策では、加盟国政府と業界団体のコンセンサスに基づく政策形成が基盤となっており、その政策ネットワークの形態は業界団体と加盟国政府を中心とする政策共同体であった。そして当時の欧州の化学物質規制の内容は、米国や日本、スウェーデンなどと比べて、厳しいといわれるものではなかった。また危険物質指令第6次改正指令やドイツの化学物質法は、施行前から存在していた膨大な数に上る既存化学物質には適用されなかったため、ドイツでは1980年代、これに対処する取り組みが進められた。これらは先駆的な取り組みであったが、政府と業界団体の協力や業界の自主的取り組みを重視したもので、国による規制の強化は回避される傾向が続いた。

一方、欧州における化学物質政策の決定は、1990年代までに大部分が加盟国レベルからEUレベルへ移行したといわれる。1987年に発効した単一欧州議定書によって、従来は加盟国の全会一致が必要とされていた環境法に関連する理事会の採決に、特定多数決が導入された。また単一欧州議定書と1993年発効のマーストリヒト条約によって、従来は諮問機関の地位にとどまっていた欧州議会の立法における権限が強化された。さらに環境保全への関心の高まりと共に、環境保護団体はEUレベルで利益団体としての地位を確立した。

EUの化学物質政策形成で、業界団体や強力な化学工業を持つ加盟国が影響力を持ち続けたことは、その後も変わりなかった。しかしながら、それらの利益が支配的であった従来の状況は変化し、異なる選好を持つ多様な行動主体が政策結果への影響を求めて競い合う新たな政策ネットワークが出現した。1995年にはさらに、国際的な化学物質政策の推進に積極的なスウェーデンがEU加盟国になり、REACH規則の発議や形成で重要な役割を果たした。

REACH規則の形成における政策ネットワークは、政策結果への異なる選好を持つ多数の行動主体によって政策が形成されるイシュー・ネットワークであった。REACH規則の内容に関しては、特に既存化学物質のリスク評価で、リスクに応じた優先順位を付けるという考え方が十分取り入れられていないことが、業界団体によって批判された。このようなシステムは産業界に莫大なコストをもたらすと懸念された。REACH規則はさらに、従来は公的機関にあった既存化学物質に関する情報の生成や収集、評価に関する責任を、化学物質を製造・輸入する企業に転換し、公的主体と私的主体の役割を大きく変化させた。イシュー・ネットワークによって形成されたREACH規則はまた、業界団体との協力を重視した化学物質政策の形成を伝統とするドイツにとって、受け入れ難いものであった。

一方、日本の政策ネットワークに関しては、1973年の制定時から化審法を所管してきた経済産業省(旧通商産業省)の政策形成について、従来の研究で度々、経済界との緊密な政策ネットワークの存在が指摘されてきた。日本では1950年代以降、公害が深刻化し、1960年代末から70年代初めには、市民運動の拡大や相次ぐ公害訴訟、メディアの報道によって、経済成長優先の政治と閉鎖的な立法過程が「一時的」に破壊されたといわれる。その結果、1973年には未然防止の観点から化学物質に対する上市前の安全性審査を取り入れ、有害化学物質の製造規制などを規定した世界初の化学物質規制法といわれる化審法も制定された。しかしながら、これらは日本の化学物質政策や環境政策における政策ネットワークを開放的に変化させた訳ではなく、その後の化学物質政策は、経済界との緊密なネットワークが指摘される経済産業省の主導で進められてきた。

化審法に基づく化学物質の安全性評価は、欧州と同様に、その施行前から流通していた膨大な既存化学物質には適用されず、既存化学物質の安全性確認は進まない状況が続いた。この問題への対処では、政府と業界の協力や自主的取り組みが重視され、国による規制の強化は回避される傾向が続いた。しかしながら、2008年には政府によって、WSSD目標や欧州におけるREACH規則施行のような「国際的な環境の変化への対応」を目的に「化審法見直し合同委員会」が設置された。産業界の代表に比べ市民の代表が少ないと指摘されたこの委員会では、政府の担当者によって提示された既存化学物質問題への対処を柱とする報告書案が、大きな修正はなく採用された。そこではREACH規則とは異なり、既存化学物質について事業者が製造・輸入量等を定期的に届け出て、国がスクリーニング評価を行った上で優先評価化学物質を指定し、リスク評価を行うという新たな仕組みが提案された。この提案に対し、産業界の代表者らは肯定的な見解を示し、この内容に沿って作成された法案は国会において全会一致で原案通り可決された。このような2009年化審法改正に見られる政策ネットワークの形態は、実施を担う業界団体を中心とし、参加者が限られた政策共同体であった。この政策共同体ではREACH規則のシステムは、産業界に莫大な費用をもたらすものとして否定的に受け止められ、採用されることはなかった。

政策共同体による政策形成では、より確実に政策が実施されるが、政策形成で優遇される一部の団体を除く、他の団体の利益や環境保全のような社会の幅広い利益が犠牲となる可能性が存在する。一方、「サクセス・ストーリー」ともいわれるEUの環境政策には、加盟国における「実施の欠如」という深刻な問題も存在する。グローバルな化学物質政策におけるEUの「貢献」はREACH規則の実施段階において、より明確になると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、2007年にEUで施行された化学物質政策であるREACH規則が2009年に実施された日本の化審法改正に与えた影響について政策移転の視点から検討し、EUと日本の間で政策内容に相違が生じた要因を解明するために、EU加盟国であるドイツの化学物質政策の形成過程にまで踏み込んで重層的な比較分析を行ったものである。

本論文は全体で7つの章から構成されている。第1章では問題の所在が示され、第2章では分析枠組みが提示される。以下、第3章から第6章にかけて、EU、ドイツ、日本における化学物質政策の形成過程が詳細に分析され、第7章の結論に至る。

第1章では、EUのREACH規則(化学物質の登録、評価、認可、制限に関する規則)と日本の改正化審法(化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律)が、化学物質の登録、リスク評価、安全性情報伝達などの点で相違していることが取り上げられ、その要因として政策ネットワークの長期的変化が示唆される。そして、EUと日本との直接的な比較が困難であることから、EU加盟国ドイツを媒介にした重層的な比較が必要であることが示される。

第2章では、政策移転および政策ネットワークに関する先行研究の整理がなされた上で、閉鎖的な政策共同体と開放的なイシュー・ネットワークという二つの政策ネットワーク類型が提示され、この基本枠組みにもとづいてEU、ドイツ、日本の政策形成過程を以下で実証的に分析することが明らかにされる。

第3章では、EU、ドイツ、日本の化学工業を概観し、それぞれの国や地域における化学物質政策の行動主体を明確にしつつ、その多様性が描き出される。

第4章では、1970年代から80年代にかけてのEU(EEC)、ドイツ(旧西ドイツ)、日本における化学物質政策の形成過程が分析される。EUで実施された化学物質規制は、同時期の米国の有害物質規制法(TSCA)と比較して相対的に緩やかであったが、著者はこの要因をイシュー・ネットワーク型の米国と政策共同体型のEUの相違に求めている。ドイツと日本はともに政策共同体型政策ネットワークを持っているが、日本の規制はドイツよりも厳しいものであった。著者はその要因として、ドイツではEU規制を国内法に置き換える過程で産業界の利益が反映されたのに対し、日本では、公害に反対する住民運動や公害裁判などが背景にあったことを挙げている。

第5章では、1980年代後半以降における、欧州でのイシュー・ネットワークの形成とREACH規則の制定過程、およびその過程でドイツが演じた役割、さらにドイツによるREACH規則受容の過程が分析される。欧州においては化学物質政策の決定の大半が加盟国からEUレベルに引き上げられたが、この過程で科学者、環境団体、消費者団体などの影響力が増加し、従来の政策共同体に代わって、これらの行動主体を加えたイシュー・ネットワークが形成された。著者は、ドイツがREACH規則に産業界の利益を反映すべく行動したが、最終的には既存化学物質の規制を盛り込んだ同規則を受け入れ、REACH調整法を制定するに至ったことを解明する。

第6章では、1980年代後半以降の日本における化審法改正の過程が分析される。著者は、改正化審法において地球環境問題に対応して生態系保護の観点が導入された一方で、中央省庁再編を経てもなお政策共同体の閉鎖性が改まることはなく、結果的にREACH規則のシステムが採用されるに至らなかったことを明らかにする。

第7章は以上を総括し、ドイツ化学工業界における最新の動向にも触れながら、REACH規則が政策共同体によって受け入れ可能となる場合もあることを示唆して全体を締め括る。

本論文は以下の点において高く評価することができる。まず、化学物質政策の移転に関して、既存の研究で多く見られるEUと日本との直接の比較ではなく、ドイツを媒介にした多層的で多元的な比較の視点を新たに取り入れたことにより、EU、ドイツ、日本における政策形成過程のより明確な説明が可能になったこと、そして、論拠となる膨大な資料に関して、当事者へのインタビューや公文書による裏付けをとり、綿密な検証を行ったことである。ドイツおよび日本の化学物質政策に関する長期的分析は今のところ手薄な状況にあり、本論文はこの分野での研究水準の向上に資するところが大である。また、本論文は人間の安全保障に関する研究の幅を広げる上でも重要な貢献を果たしていると言える。

他方で、本論文にも問題がないわけではない。たとえば、イシュー・ネットワーク内部での政治的力関係の分析が行われていないこと、また、REACH規則の制定と化審法の改正を政策移転という枠組みで比較することそれ自体の限界が設定されていないこと、などである。

とはいえ、これらの問題点は本論文の学術的価値をいささかも損なうものではない。したがって、本審査委員会は本論文を博士(国際貢献)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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