No | 128544 | |
著者(漢字) | 加島,卓 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | カシマ,タカシ | |
標題(和) | <広告制作者>の歴史社会学 : 近代日本における個人と組織をめぐる揺らぎ | |
標題(洋) | ||
報告番号 | 128544 | |
報告番号 | 甲28544 | |
学位授与日 | 2012.06.15 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学際情報学) | |
学位記番号 | 博学情第52号 | |
研究科 | 学際情報学府 | |
専攻 | 学際情報学 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本研究は近代日本における〈広告制作者〉という職業理念に注目し、それを歴史学的に調査し、その結果を社会学的に記述したものである。 1章では、次のような問題意識と方法を設定した。まず、広告やデザインにおいては職業理念の「語り直し」や個人と組織の間をめぐる「揺らぎ」が何度も語られてきた。しかし、広告史やデザイン史はそれらとは別に制作物を記述するので、広告やデザインは物として私たちに理解されている。とはいえ、広告やデザインがそれとして理解され始めた時には、制作物に還元されない言葉の分厚さがあったことが史料から確認できる。そこで、本研究は広告やデザインを制作物=物として書くのではなく、また技術や思想=言葉として書いてしまうのでもなく、広告やデザインをめぐる物と言葉の配置関係が有意味になっていく文脈の記述を通じて、私たち自身における理解の仕方を明らかにしようとしたのである。記述の方法としては、知識社会学や言説分析を踏まえた事象内記述という設定を行い、ある対象をもっともらしく語っていく過程を私たち自身の理解の仕方と捉え、それをなぞり返していくことで、広告やデザインをめぐる物と言葉の配置関係を描き出していくことにした。 第2章では江戸時代から大正初期にかけての文案と図案について述べた。ここで明らかになったのは、広告の文案そのものは誰かによって制作されていたが、それは文字の読み書き能力の転用以上のものではなく、文案制作自体には特別な意味づけがなされていなかったという点である。また、図案は工芸との組み合わせにおいて語られ始め、そうした図案と絵画を区別しようとする動きも現れたのだが、そのための参照点が不在であったために、結局のところ図案は絵画に従属してしまう構図が反復された点も明らかになった。工芸図案はそれ自体では自律した制作物ではなかったために、図案を技術的に語ることはできても、職業理念を紡ぎ出すには至らず、またその必要もなかったのである。 第3章では、明治末期から大正期にかけての印刷図案について述べた。そこで明らかになったのは、次の四点である。一つには、図案を語ることが広告を語ることに接近するようにはなったものの、未だその態度は芸術に依存していた点である。二つには、工芸から自律し始めた図案はポスターと出会うことによって、美人画という捉え方を事後的に作り出すと同時にそれと区別していく史的記述を走らせ、また心理学に依拠した技術語りも動き出すことで、芸術には依存しない積極的な意味づけが展開されるようになった点である。三つには、デザイン史が制作物だけを取り上げる杉浦非水とその周辺にも史的記述や技術語りが走っていただけでなく、そこでの史的記述が技術語りを促し、またそうした技術語りが史的記述をさらに書き換えていくような動きが孕まれていた点である。四つには、図案が広告に接近した結果として、資本主義に対する気づきが生まれ、またそのことが階級闘争の言葉を経て、「商業美術家」という主体語りを導いたという点である。これらを踏まえ、芸術家のように制作物と制作者の一致を夢見るのではなく、その不一致を明るく肯定していく商業美術家を、本研究は〈広告制作者〉の誕生としたのである。 第4章では、昭和初期における〈広告制作者〉について述べた。そこで明らかになったのは、次の六点である。一つには、職業理念となった商業美術家が企業のなかで活動できるようなった分だけ実務上の問題意識が生じ、それへの対策として中間的な存在を求めるような声もあがったが、結局のところはそうした存在の信じられなさを確認する方向に向かったという点である。二つには、時局の変化に伴い、広告業界に完全に組み込まれていなかった商業美術家はその論理だけが文脈自由に展開できるようになったと同時に、そのこと自体へのどうでもよさが、さらなる言葉の過剰を促すようにもなったという点である。三つには、ポスター概念が拡張してその分類学が走り出したことにより、ポスターとは区別されていたはずの美人画が、「美人画もポスターである」という史的記述の書き換えに巻き込まれるようになったという点である。四つには、写真とレイアウトの組み合わせを心理学的に意味づける技術語りが走り出し、これが美人画とポスターという意味付けの差異を塗りつぶすと同時に、多くの人々には理解されない「語りのなかのレイアウト」として自律しながら、それなりに文脈を拡大して語られるようになった点である。五つには、このような技術語りが組織語りにまで拡張されていく過程で、組織語りが広告制作における多様な担当者をまとめる中間的な存在を求めると同時に、そうした制作物によって国家と国民の関係を媒介していく存在をも求める話にもなり、それが「報道技術者」として語られるようになった点である。六つには、商業美術家は美学的な主体との区別を前提にしながら主体語りを走らせていたが、報道技術者は美学的な主体との絶え間ない衝突と止揚という弁証法を前提にすることで新しい主体語りを走らせるようになったという点である。これらを踏まえ、芸術家と商業美術家という素朴な区別ではなく、それらを並列的に扱うと同時に、そのこと自体を観察していく視点に主体を設定した報道技術者こそ、商業美術家によって意味付けられた〈広告制作者〉を書き換えた職業理念であると本研究は位置づけたのである。 第5章では、1950 年代における〈広告制作者〉について述べた。そこで明らかになったのは、次の九点である。一つには、戦後のアートディレクターという職業理念は戦時下の報道技術者を部分的に抜き出したものであったという点である。二つには、広告史やデザイン史を踏まえれば、今泉武治とアートディレクターの組み合わせが見えにくくなっているという点である。三つにはアートディレクターとの組み合わせでしばしば語られる新井静一郎においては、その必然性がなかったという点である。四つには、アートディレクターは学術的な言葉ではなく、実務上の問題を参照点としたために、誰にでも似たように語ることが可能になったという点である。五つには、このようにしてアートディレクターが語られるようになったからこそ、それを広告の側から語るのか、それともデザインの側から語るのかという区別が走り出し、またそれに伴って技術語りも展開されるようになった点である。六つには、こうした動き自体が急増した広告主への対応や組織を前提にした広告制作への対応でもあった点である。七つには、こうした経緯を前提にして、東京ADC は再スタートを語り、そもそも区別していたデザイナーを内部に組み込んだ形でアートディレクターの分類学が展開されるようになった点である。八つには、こうした展開を踏まえて史的記述が走り出したものの、それは記述するものの偶発性を孕み、独特の中途半端さを生み出したという点である。九つには、こうしたなかで復刊された新井静一郎の『アメリカ広告通信』が史的記述の荒さを充填するようになり、またその分だけ、今泉武治が見えにくくなったという点である。第5章が述べてきたのは、アートディレクターが職業理念として語られるようになったからこそ、今度はそれ自体の理解の仕方に変化が生まれ、またその変化がさらなる記述を促すようになったという動きである。こうしたことを踏まえ、本研究は第5章を〈広告制作者〉の自律と位置づけたのである。 第6章では、1960 年前後の〈広告制作者〉について述べた。そこで明らかになったのは、次の五点である。一つには、商業美術家、報道技術者、アートディレクターまでは当事者が職業理念を語っていたが、ここになってグラフィックデザイナーは作品制作に注力し、そのこと自体を批評家が意味づけていくという、物と言葉の新しい配置関係が生まれた点である。二つには、1950 年代の工業デザインにおいて模倣が社会問題となり、それを否定しながら日本の独自性を肯定していくことが論理として自律し、その結果として西洋の模倣と日本趣味の間を揺らぎながら「日本調モダンデザイン」が登場するに至ったという点である。三つには、こうした揺らぎがグラフィックデザインにも作用し、そこでは西洋の模倣を回避しつつ、かといって日本趣味に回収されることのない、モダンデザインと伝統を組み合わせたグラフィックデザイナーがそれとして語られるようになったという点である。四つには、このようにグラフィックデザイナーを語れてしまうこと自体が、個人による偶発的な表現を問題視して組織を前提にした科学的な広告制作を強調しはじめた広告業界の動きの効果でもあった点であり、またそうだからこそ、組織を否定して個性を強調することが西洋を否定して日本を肯定することと論理的に二重写しになったという点である。第6章が述べてきたのは、西洋のモダンデザインを素朴に模倣するのではなく、かといって組織を前提にしたアートディレクターにも回収されることのないようにしたグラフィックデザイナーをめぐる動きである。こうしたことを踏まえ、本研究は第6章を〈広告制作者〉の展開と位置づけたのである。 第7章では、1960 年代の〈広告制作者〉について述べた。そこで明らかになったのは、次の七点である。一つには、デザインを学ぶ学生が増加したことに伴い、当事者や批評家と技術語りを深く共有することのないままグラフィックデザイナーを意味づけていくという、物と言葉の配置関係が生じた点である。二つには、そうした関係の効果として不真面目さを肯定することとデザイナーを語ることを組み合わせた身の上相談がそれとして成立3するようになり、グラフィックデザイナーをめぐる意味づけは大衆との関係を無視できなくなったという点である。三つには、デザイン学生の増加とモダンデザインの限界が日本宣伝美術会に対する学生運動に結実し、さらに解散に追い込んでいったことは、大衆との関係を本当に無視できなくなったグラフィックデザイナーのあり方を象徴していたという点である。四つには、モダンデザインを否定しながらもグラフィックデザインを語り続けるために、何か別なる評価のしかたが探求され始め、そこで情念なるものが語れるようになった点である。五つには、こうした別なる評価方法への探求が、異分野交流の場所においてなされ、そこでは限られた人々による「わかる/わからない」といった評価方法が機能しにくくなった分だけ、より多くの人々による「面白い」という評価方法が上昇したという点である。六つには、このような展開が日宣美にも跳ね返り、「ジャンセン水着ポスター」の「わからなさ」が「面白い」として評価されるようになり、またそのことを前提にして、かつて否定されていたはずの「感覚」が肯定されるようになったという点である。七つには、このようにして私たちはグラフィックデザイナーを芸術家と同じように理解することができるようになったのだが、そのこと自体が組織を前提にして科学的な広告制作を進める広告業界の動きと不可分であり、またそうだからこそ、グラフィックデザイナーは個性を強く語らされてしまったという点である。第7章で述べてきたのは、大衆からの評価を前提にすると同時に、組織を前提にした広告制作には回収されまいとするグラフィックデザイナーの動きである。こうしたことを踏まえ、本研究は第7章を〈広告制作者〉の並存と位置づけたのである。 第8章では、ここまでに述べた職業理念の「語り直し」と個人と組織をめぐる「揺らぎ」が循環関係にあることを確認した上で、その系譜においては、広告とデザインを同じように語ることができた時とそれぞれにしか語れなくなってきた時とでは、広告やデザインをめぐる物と言葉の配置関係が異なることを指摘した。つまり、言葉が物を強く囲い込むことができた戦前までと、もはや言葉が物を強くは囲い込めなくなった戦後とでは、私たちにおける広告やデザインの理解の仕方が異なることが明らかにされたのである。そして、このような経緯を踏まえて登場した1970 年代以降の広告史やデザイン史は制作物を前提にして記述を進めることになり、またそうだからこそ、制作物が特定できない制作者(の言葉の過剰さ)は記述されないという物と言葉の配置がもっともらしくなったのである。このように広告やデザインを理解可能にしていく文脈の記述こそ、本研究が〈広告制作者〉の歴史社会学として提出したものである。 | |
審査要旨 | 本論文は江戸末期から1970年代に至るまでの「広告制作者」の自己認識の変遷を、時代ごとの広告・広告制作についての意味づけ・言説および広告を取り巻く社会的・組織的制度の変容と関連付けながら、歴史社会学的な手法によって辿り返したものである。従来の広告史研究が、作品としての広告、作品の作者としての広告制作者の存在を、貫歴史的に同定しうる分析単位として作品史、作家史を描き出してきたのに対し、本論文は、広告および広告制作者といったカテゴリーが有意味なものとして認識されるようになる歴史的由来を、筆者が「事象内記述」と呼ぶエスノメソドロジー的な観点に則った方法論に立脚し、膨大な史資料に基づいて丁寧に記述しており、広告、広告制作の意味構成の歴史にかかわる独創的かっ画期的な研究であると評価しうる。 第一章では、本論文がよって立つ問題意識と方法論が、先行研究との差異を明示したうえで記述される。既述のように、本論文では、当事者によるカテゴリー執行に定位する事象内記述という方法が採用されている。それはある意味で従来言説分析と呼ばれてきたものと近接する方法論であるが、そこでは、言説が言及する対象の変化と相関して「言説と対象の関係」そのものが変化するという点に方法論的な重点が置かれ、当事者水準の「言説/対象」の認識に寄り添う形で分析を進めることが目指されている。言説分析の先行研究においてもしばしば、分析者が操作的に言説や対象の同一性を画定してしまうことの問題が指摘されてきたが、本論文は、そうした問題を重要な分析課題として引き受けた研究であるといえよう。 第二章では、江戸期から大正期に至るまでの「文案」「図案」をめぐる実践と言説が扱われ、広告の「文案」「図案」作成が、いまだ自律した社会的カテゴリーとして生成していない段階の様子が、制作をめぐる制度との連関において記述されている。続く第三章では、明治末期から大正期にかけての印刷図案を素材として、図案制作が工芸からじょじょに自律し、ボスターというメディアや技術をめぐる言説などとの連関から、図案作成と広告作成という二つのカテゴリーが近接し始めるダイナミズムが論じられ、作品(制作物)とその作者の密接な関係性を特権化するロマン的な作品・作者概念とは異なる、商業美術家という独特のカテゴリーが誕生する様子が分析される。四章では、商業美術家が有意味な職種カテゴリーとして成立した後、組織編成や時局の変位のなかで、「報道技術者」の独特の位置づけが生まれてくる過程が描かれ、「広告制作者」という個人と,(職業団体や「国家」等の)「組織」との関係性が詳細に論じられている。続く五章では五〇年代における広告制作者の範型としての「アートディレクター」が、今泉武治・新井静一郎周辺の言説と実践に照準しつつ、広告業界との距離関係とともに記述される。六章は、広告に関わる組織を前提して存在しているアートディレクターとは異なるグラフィックデザイナーという存在が、デザインを囲繞する制度や言説、実践の中において立ち上がってくる様子が分析され、七章ではそうしたグラフィックデザイナーが六〇年代の「大衆化」の状況のなかで、次第に組織的な広告制作の外部に位置する「感性」を持つ存在として規定されて(あるいは自己規定して)いく様子が描き出される。技術者でも組織人でもなく、曖昧にしか規定されえない属性である「感性」を持つ主体としての〈広告制作者〉が、有意味なカテゴリーとして立ち上がってくる過程がここでの主題である。最終章では、以上のような〈広告制作者〉の意味づけと実践の変遷が、制作者という個人と、個人を取り囲む制度・組織との関連の仕方(これを本論文では「秩序」と呼んでいる)の変容として、理論的に分析される。 きわめて概括的にまとめるならば、本論文が従事しているのは、広告制作にかかわるヒト・モノ・コトの複雑な連関を、膨大な史資料に基づいて分節化し、理論的に構造化する作業である。本論文は、ヒト(広告制作者、広告人)の歴史とモノ(デザイン・広告)の歴史、コト(広告をとりまく組織やメディアなどの制度)を分離して扱ってきた従来の研究に対して、「対象」と「言説」の関係自体の可変性を主題化する方法論(事象内記述)をもって対峙し、最終的には、ヒト/モノ/コトの関連の変位から、近代におけるメディア実践としての広告制作の歴史的・社会的位置を理論的に問題化するものであり、実証性、方法論的意識、理論的射程のいずれの点においても、きわめて野心的・斬新なものである。当然のことながら、そうした野心を実現するに十分な経験的分析の精度を認めることができる。 委員の中からは、自らが援用する理論的枠組みの説明、最終章での組織(広告をとりまく制度)と個人(制作者)の関連についての説明に、やや荒削りな部分があること、論述表現のスタイルが独特でわかりにくい部分が残ることなどが共通して指摘された。しかし、膨大な一次資料を読み込み、精査し、それを新しい方法論課題に即して精緻に読み解いていった本論文の実証的・理論的価値を鑑みた場合、総合的に見て本研究が博士号に値するものと全員審査委員が合意した。 よって、本審査委員会は、本論文が博士(学際情報学)の学位に相当するものと判断する。 | |
UTokyo Repositoryリンク |