学位論文要旨



No 128487
著者(漢字) ガルバレス パトリック ウィリアム
著者(英字)
著者(カナ) ガルバレス パトリック ウィリアム
標題(和) オタクへの生成変化 : 秋葉原における男性と少女のムーブメント
標題(洋) Becoming-Otaku : Men,Girls and Movement in Akihabara
報告番号 128487
報告番号 甲28487
学位授与日 2012.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学際情報学)
学位記番号 博学情第50号
研究科 学際情報学府
専攻 学際情報学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉見,俊哉
 東京大学 准教授 Jason,G.Karlin
 東京大学 准教授 清水,晶子
 デューク大学 教授 Anne,Allison
 明治大学 准教授 森川,嘉一郎
内容要旨 要旨を表示する

この博士論文は「オタク」の意義を問うものである。 序章では「オタク」をとりまく言説をその起源から説き起こし、現在問題となっている点を述べる。日本製マンガ・アニメが世界を席巻した現在、海外の人気が逆輸入される形となった「OTAKU」は日本でも浸透し、一般化した。その結果、「オタク」という語の意味は薄く、用法は幅広くなり、誰もが対象となる語となった。一方、1980年代前半の「おたく」言説の誕生を見ると、当時ひらがなで表された「おたく」は、マンガ・アニメの登場人物を性的対象にする、社会的に逸脱した人物を指していた。特にその言説の中心にあったのは男性であり、その男性らしさの欠如も特徴の一つとされた。彼らは手塚治虫や宮崎駿、少女マンガや同人誌を消費し、「美少女」のエロスを追求した。この意味で、「オタク」とは、様々なメディア・商品という形をとるキャラクターとの親密な関係性そのもの、あるいは消費の仕方・遊び方の問題である。本論文では、特に秋葉原におけるいわゆる現在の「オタク・ムーブメント」を考察する。2000年代半ばに「オタク・ブーム」や「アキバ・ブーム」が進んだにも拘わらず、この男性と美少女(マンガ・アニメ・ゲーム)との関係は非常に問題化された。オタクが一般化・自然化していく最中、「おたく」は常に存在していた。著者が秋葉原で行った参与観察(2004年~2010年)とインタビュー(アーティスト、専門家など)より、本論文ではオタク・ムーブメントの可能性を把握することを目的とする。そのため、新しい理論が必要であるとし、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの概念、「lines of flight」(逃走の線)、「becoming」 (生成変化)、そして「girl」(少女)を利用する。

第二章では、「オタク」にまつわる既存研究と言説を整理し、オタク・ムーブメント、つまりローレンス・エングの「reluctant insiders」という概念に説明される、主流・多数であり男性中心的な社会体制への包括そのものがもたらす疎外に注目する。特に、二次的な創作行為も含むマンガ・アニメの消費がいかに、ジェンダーとセクシュアリティの問題と繋がっているかを論じる。「オタク」言説の根底には、男性であることに失敗し、社会性的な発展を遂げられなかった男性であるという不安があり、それが虚構のキャラクターに強い愛着を持つ、あるいは消費や遊びの仕方が女性的すぎるという批判に繋がった。第三章では、「美少女」を通じて、あるいはその周囲で描かれるオタク・ムーブメント、つまりドゥルーズの「lines of flight」(逃走の線)と「becoming」(生成変化)が秋葉原におけるオタクのイメージの再構築を妨げていることを示す。「アキバ・ブーム」や「オタク・ブーム」がその最盛期にあっても、オタク自身のクィアなパフォーマンスは、変態的イメージを関連させた女性的な男性性の機能不全への恐怖を引き起こした。第四章ではこの流れが具体的にどのような形を取るかを、メイドカフェをフィールドとした参与観察の結果から読み取る。2000年代半ばの「オタク・ブーム」や「アキバ・ブーム」と共に秋葉原において人気を博していた様々な種類のメイドカフェは、美少女という幻想と個人的かつ快楽的な少女の消費という2点と結びついている。オタクはこのように、社会的に逸脱した形態の存在(例えば美少女のメイドなど)を欲望することで、規範的な家族的再生産という強制力を拒否している者たちである。

第五章以降は、街やメイドカフェを渡り歩くオタクそのものから離れ、彼らを魅了するメディアについて論じる。第五章では、美少女ゲームを分析するが、これはポルノグラフィ要素を含み得る美少女ゲームの親密かつ私的な性質から、ゲームをするオタクたちの寝室に入って参与観察を行うことが叶わなかったためである。しかし、著者は美少女ゲーム愛好家たちのグループに参加することができ、彼らは定期的に会って具体的なゲームのタイトルやその内容、また自らの美少女ゲームの体験について語り合った。美少女ゲームをすることと、(パフォーマティブに)それについて語ることの両方は、男性性をパロディにし無力化するため、美少女ゲームは「抵抗の快楽」であると言うことができる。第六章は「萌え」、つまり虚構のキャラクターに対する感情的な反応について論じる。「萌え」にまつわるメディア言説、既存研究、出版物やインタビューなどから、歴史的に「萌え」を考察する。「萌え」は戦後マンガというジャンルを確立した手塚治虫まで遡ることができ、彼の作品やマンガ表現が美少女を発展させた。「萌え」とは、(美)少女にまつわる場合、感情的な一体感であり、オタクが少女であり少女がオタクであるか識別ができない状態になることであると結論づける。第七章では、「少女」の重要性を指摘し、なぜそれがオタクにとって感情的な反応を呼び起こす最も魅力的な形態であることを分析する。これは主にドゥルーズの「girl」(少女)と「becoming-woman」(女性への生成変化)にまつわる学問的論考の敷衍であり、オタク・ムーブメントにおいてこれらがどのような働きをするかを精細に説明する。

本論の結章となる第八章では、以上の議論を総合し、今日の社会におけるオタク・ムーブメントの重要性を説く。オタク・ムーブメントは、既存の国家、ジェンダー、年齢などのカテゴリーの境界を曖昧化し、越境する。それ故に、オタク・ムーブメントは問題化される。これは一つの単位に還元し、閉じ込めておけるものではなく、常に生成変化し続けている。よって、これまでに多くの日本国外の学者が扱ってきたように、アニメ・漫画を消費するすべての人をオタクとしたり、オタクを普通の趣味の一環として自然化・平凡化したりすることは問題であり、不可能である。また、これまでに国内の学者が扱ってきたように、オタクを特定の時間・場所に限定し、オタクをアイデンティティや文化に還元して語ることにも問題がある。なぜなら、このように還元することは、生成変化のプロセスを切り取り、ある一時点のみを反映させ、それが全てであるかのように扱うこととなるからである。それにより動的な生成変化のプロセスであるオタク・ムーブメントは、静的な歴史分析の対象物に変化してしまう。よって、我々はオタク・ムーブメントを定義し管理・統制しようとするのではなく、常に生成変化し続けるプロセスとして扱い、他の存在に生成変化していく存在として認めなくてはならない。

審査要旨 要旨を表示する

Patrick W. Galbraith氏は、社会学、人類学、文化理論等のアカデミックな学問分野に通暁し、日本の現代文化を深く理解し、理論を現実分析に統合的に応用していくことのできる高い知的能力を有した若手研究者である。同氏は、すでに国際学会で発表を重ね、国際的な学術誌、英語の出版物にも成果があり、その高度な学術的能力は海外の研究者にも評価されつつある。そうした基礎に立ち、同氏は博士課程在籍中、東京・秋葉原のサブカルチャーをフィールドとした丹念なエスノグラフィー的研究を進めてきた。本論文は、同氏が2004年から2010年まで秋葉原で実施した参与観察とインタビュー調査の成果であり、同時に関連する文献や資料の渉猟、さらにそうした実証的成果と先端的文化理論を統合し、1970年代以降の日本のメディア文化の中での社会的モードとしての「オタク」の構築・編成を、現代資本主義の欲望の生産体制との関係において多面的に考察した研究である。本論文は、「オタク」や日本のサブカルチャーをめぐる言説の編成を歴史的に明らかにし、「オタ列についての分析視角を既存の文化理論の単なる応用にとどまらない仕方で提示し、エスノグラフィックなフィールドワークと理論的視角を統合している。

第1章と第2章では、「オタク」と取り巻く言説が、その端緒から国際的な広がりをもつに至るまでの過程が詳細に検証されている。1980年代には、マンガ・アニメの登場人物を性的欲望の対象にする社会的に逸脱した人物を指すことが多く、また「男性らしさ」を欠如させた男性をも意味したこの用語が、2000年代以降、「オタク・ブーム」や「アキバ・ブーム」というように、男性中心的な社会体制に包摂され、支配的な文化コードの中に自然化・一般化されていく過程で、いかなる断裂、疎外が生じていくのかが間われ、同時に本論文の理論的パースペクティブが、人類学者ジョージ・マーカスの「移動人類学 mobile ethnography」等も参照しながら明らかにされていく。その上で、第3章ではより具体的に、「美少女」をめぐる言説とその周囲に生成される「オタク・ムーブメント」が、ジル・ドゥルーズの理論的概念である「逃走線Lines of flight」や「生成変化becoming」の考え方を下敷にしながら考察されていく。第4章では、メイドカフェについての詳細な参与観察調査の成果が生かされ、これらの場において、このような「オタク」をめぐる断裂や疎外、逃走線が、どのような具体的、パフォーマティブな姿をとって演じられているかが示される。さらにその延長線上の分析が、第5章では「美少女ゲーム」、第6章では「萌え」、第7章では「少女」について位相をずらしながら展開される。そして終章では、今日の社会における「オタク・ムーブメント」が、国家やジェンダー、年齢などのカテゴリーを曖昧にさせていきながら越境的に進んでいくことが、骨太の理論的展望のなかで論じられている。

質疑においては、同氏のフィールドワークの厚みや理論的考察力が高く評価される一方、同氏が基礎にしているドゥルーズの理論が、日本のオタク現象を分析する上でどこまで不可欠な理論枠組であるのかという論点や、ジェンダー研究の成果の活用の仕方、「少女」をめぐるヴァーチャルな次元とリアルな次元の関係把握等について突っ込んだ議論がなされた。また、同氏が「オタク」を単一の概念ではなく、その中にパブリックとプライベート、支配的なものと逃走的なものがせめぎ合う抗争的概念として示し、具体的な分析で探究している点が高く評価されながらも、そうした分断線についての考察は、ドゥルーズの「逃走線」の概念に囚われないほうがもっと深められるのではないかとの指摘もあった。同氏は、審査委員からのこれらの鋭い質問、論評に対し、自らの立論について淀みなく説明し、その優れた知的考察力を改めて証明した。

以上、本論文は、現代日本社会のユニークな文化現象に対し、理論的、実践的に高度なアプローチを展開し、学術的価値の高い研究としてまとめられているとの認識で審査委員一同の評価が一致した。したがって、本審査委員会は、全員一致で、本論文が博士(学際情報学)の学位に相当するものと判断した。

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