No | 127361 | |
著者(漢字) | 三浦,哲哉 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ミウラ,テツヤ | |
標題(和) | サスペンス映画論 | |
標題(洋) | The Suspense Film | |
報告番号 | 127361 | |
報告番号 | 甲27361 | |
学位授与日 | 2011.06.23 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第1076号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | 超域文化科学 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本研究は、映画史のはじまりから2011年現在までの、主にハリウッド映画におけるサスペンス表現を対象とする。その目的は、映画におけるサスペンスの自律性((1))、そして歴史的多様性((2))をあきらかにすることである。以下、順に述べる。 (1)従来、サスペンスは、観客に想像的な願望充足の快楽を与えることという映画の目的に従属する要素であると考えられてきた。あるカットがもう一つのカットへ滑らかにつながることというミクロ・レベルから、主人公が目的を達成することというマクロ・レベルに至るまで、なにごとかが思い通りに実現し、連続することの快楽がまずあり、中断や宙吊りとしてのサスペンスは、結局のところそれを引き立たせるための副次的な手段であるという通念がある。すなわち、それは大団円のカタルシスを増幅させるための「遅延」と「引き延ばし」の技法である。本研究は、それに対し、サスペンスそのものを映画鑑賞の目的とする観点を示し、その自律的な発展史を叙述したうえで、サスペンスという表現形式の価値を見直すことを目的とする。 まず、映画史のはじまりにおいて、映画観賞はそれ自体、サスペンスの体験であった。いまだ物語を持たない初期映画において、映画は身体的な恐怖と不安を喚起するアトラクションと同じ文脈で受容されていた。列車のスペクタクル、とりわけ「ヘイルズ・ツアー」がそれを証し立てている。観客は、知覚を機械に拘束され、自由を奪われるという受動的な経験を与えられる。それは時間の不可逆性の感覚化である。その後のあらゆるサスペンス表現の基底には、映画という機械装置に根ざした、この無能力の経験がある。 (2)歴史的多様性。観客が最初に経験した知覚の宙吊り状態は、やがて映画が登場人物を中心とした物語映画へ生成する過程で分節化され、馴致される。映画のサスペンス表現は、それら映画的表象の制度と習慣のなかに、再びこの原初的な受動性を導入する試みである。それは定義上、単一かつ超歴史的なフォーマットではありえず、映画的表象の様々な水準における変遷に即して、形式的に更新され続ける。初期映画から物語映画へ。サイレントからトーキーへ。古典的スタジオ時代からスペクタクルの時代へ。これら様々な断絶が、新しいサスペンス表現の産出と同期する。章立てに沿って、さらに具体的に述べよう。 第一章では、チェイス・フィルムとレスキュー・フィルムを経て、アメリカ映画のなかでサスペンスがどのように生成したかを、D.W.グリフィスのフィルモグラフィーを辿りながら検証した。グリフィスにはバイオグラフ時代から『国民の創生』(1915) へ至る過程において、ショット断片を統合し、現在進行形の時間を連続させる方法を確立する。しかし、それと同時に、そのような自然な「現在」とは相反する要素をつねに作品のなかに混在させる。女優リリアン・ギッシュの遺影のようなクロース・アップ、「活人画」的な静止画面、変化しない「永遠」の時制におかれた天使的形象がそれである。その結果、グリフィスの映画には二つの時間の相が共存する。現在進行形の時間と、永遠の時間。変化の時間と無変化の時間である。人間の認識において相容れない二つの時間を異質なまま共存させることで生じる「引き裂かれ」が、グリフィスの絶対的な新しさの秘密であり、サスペンスの強度の秘密である。映画における原初的受動性としてのサスペンスは、このようにして高度な時間の形式へと高められる。 次の第二章では、マック・セネットと彼に続く喜劇人たちによるサイレント時代のバーレスク映画をとりあげる。バーレスクは、サスペンス=宙吊りの姿勢を、もっともバリエーション豊かに、かつ大量に生産した。それは第一次世界大戦によって飛躍的に加速する「全面的機械化」(ギーディオン)と並行関係を持つ。キーストン・スタジオのコメディアンたちが現出させたのは、有機的環境から遊離した新しい「機械人間」たちであり、彼らの不自然な動きが、運動感覚における失調を喚起する。ロイド、チャップリン、キートンらによって、それはさらに高度に発展する。 第三章では、都市の犯罪を題材にしたフリッツ・ラングの諸作品を軸として、主に第二次大戦までの、ハリウッド映画におけるサスペンス表現について論じる。ラングのサスペンスの新しさは「無意識」の導入にあった。「意識そのものの操作」を主題とした「マブゼ」シリーズおよび『M』は、全体主義体制に向かう1920年代から30年代にかけてのドイツの都市表象と密接に結びついていた。ラングは、映画という装置それ自体に含まれる意識への強制力そのものを再帰的に形式化した。 ハリウッドに渡った30年代のラングが、スタジオ・システムのもとで作った映画も、そのような姿勢の延長線上にある。高度な規範性、「超自我的」な拘束力(たとえば勧善懲悪の強要)に従いながら、それを反転させ、加虐性において示すことで、不可避的な断罪のサスペンスが組織される。また、ラングとの対比において、規則遵守的な「説話的サスペンス」、慇懃無礼のシニシズムにおいて制度との距離を保ち、暗示的な意味作用を張り巡らせるルビッチのサスペンスの価値があきらかになった。 第四章では、1940年代から始まったサスペンスのジャンル化について考察する。旧来のスタジオ・システムの変容を背景として、40年代に「サスペンス」は、「メロドラマ」ないし「スリラー」から独立した一つのジャンルの名となる。オーソン・ウェルズ、ジャック・ターナー、そして現在「フィルム・ノワール」と呼ばれる犯罪映画群は、映画の制度的な表象の臨界において、見るという営みそのものを問いに付す。見ることの媒介性(ウェルズ)、不透明性(ターナー)。映画的視覚それ自体を再帰的に形式化する営みにおいて、サスペンスは「主観」へとスペキュラティブに屈折する。 第五章では、アルフレッド・ヒッチコックの作品について論じ、その歴史的な位置を再検討する。ヒッチコックは、従来の「追いかけ」や身体感覚的な宙吊り、あるいは説話的な謎解きとは異なる局面において、観客を全面的に巻き込むセノグラフィーを発明し、サスペンスを現代的な美学として公認させた特権的な作り手である。映画の中で、相互的に照応するように配置された形象同士が、継起的な物語の時間を越えて、意味のネットワークを張り巡らせること。その結果、ヒッチコックの画面と対峙した観客は、あらゆる細部に意味があるという信憑を受け入れざるをえなくなる。意味の先取りを課された観客は、未来完了形の時間の中に捉えられ、「いまだ」と「すでに」の間で宙に吊られる。観客はこうして必然的にイメージに魅惑され、サスペンスは全面化する。 第六章では、ヒッチコック以後のサスペンスについて考察する。古典的スタジオ・システム崩壊後の「スペクタクル」の時代において、類型化されたサスペンスの物語形式のなかに、様々な要素が加算される混淆形態が生み出されるが、それらは即時的な刺激を追求することで、空疎化するリスクを抱えている。それに対し、「SFサスペンス」、そして自作自演作家クリント・イーストウッドの諸作品では、サスペンスのセノグラフィーの更新が試みらる。とくにイーストウッドは、「傷」と「形見」の主題において、ヒッチコックに比肩するサスペンスの新しい局面を開く。 以上、第一章から第六章までを通覧することで、サスペンス表現の内的な動因として、次の要素が明らかになった。予定調和性((1))と自作自演形式((2))、覚醒の主題((3))である。 (1)あらゆる劇映画は、基本的に次の矛盾を抱えている。すべての出来事はあらかじめ定められているにもかかわらず、登場人物たちは、現在進行形の生を営んでいるように振る舞うという矛盾である。サスペンスはこの矛盾を、「自然らしさ」の見せかけによって覆い隠すのではなく、矛盾そのものを鋭く露呈させ、時間の形式へと高める試みである。 (2)自作自演は、予定調和性と強く結びついたサスペンス形式のもっとも純粋な現れである。すべてをあらかじめ知り統御する映画監督と、同時に現在進行型の時間を生き直す俳優が、一つの身体において通底しているということ。その矛盾から出発して、チャップリン、ウェルズ、イーストウッドは、それぞれ「自己」を宙吊りにする循環的なセノグラフィーを発展させた。 (3)サスペンスによってもたらされる宙吊り、自失の経験は、喪失の契機において、自己が自動的に準拠していた足場=習慣を、再感覚化する。そこには歴史的な意味がある。サスペンスの緊張の渦中で、私たちの無意識を構成する技術の足場がいかなるものであるかが対象化され、ひいては近代社会の根源的な不安定性が露呈する。習慣とは、映画という表象制度の習慣でもある。サスペンスは、映画という習慣の総体の臨界点において作られる。それがサスペンスの創造的な活力でもある。 以上をもって本研究は、従来のサスペンス研究を次の点において更新することができた。第一に、説話偏重の見直し。サスペンス映画は英米圏においてストーリーテリングの問題に還元されることが多かったが、本研究は、映画という装置に根ざした視聴覚体験としてのサスペンスの多様性を示すことができた。第二に、心理学的サスペンス研究の相対化。サスペンスを「罪障性」から読み解く図式主義等に対して、そのような図式に先行するセノグラフィーの歴史性を明らかにした。第三に、「感情移入論」とサスペンスの関係を見直すことができた。従来、サスペンスは登場人物への「感情移入」を前提としてはじめて成立すると考えられてきた。だが本研究はそれを逆転させ、「感情移入」以前に観客を否応なく巻き込むプロセスこそがサスペンスであることを示した。サスペンスは、「感情移入」がそこから生成するところの未分化の状態、ひとが人格を失う地点へ観客を導く。そこでひとが抱く感情は、「感情移入」の不可能性としての「ユーモア」と「憐憫」である。「憐憫」の感情とともに、観客とイメージの関係そのものがその都度、賦活される。その意味において、サスペンスは精神的な節制の営みである。 | |
審査要旨 | 三浦哲哉氏の博士号(学術)学位請求論文『サスペンス映画論』は、映画史初期から今日までのハリウッド映画におけるサスペンス表現の歴史的変容を辿りつつ、映画という表現媒体の本質に直結するこのサスペンス(宙吊り状態)という概念の理論的究明と新解釈をめざした、野心的労作である。 従来、サスペンスは、観客に想像的な願望充足の快楽を与えるという娯楽目的に奉仕する副次的要素と見なされてきた。三浦氏はサスペンスを、その解消すなわち「カタルシス」の瞬間を通じてのみ有意味化する過渡的様態としてではなく、「宙吊り」の持続それ自体の強度として、またそれが観客に強いる絶対的な「受動性」と「無能力」の情動体験として捉えるという視点を提起した。三浦氏の本研究は、この「サスペンスの自律性」という命題を、D・W・グリフィスからクリント・イーストウッドに至るアメリカ映画史の「サスペンス映画」の系譜の精査によって緻密に検証し、その射程と有効性の論証を試みたものである。 本論文は全六章から成り立っている。第一章ではD・W・グリフィスにおける「並行モンタージュ」の時間構造が、第二章では無声時代のバーレスク喜劇映画と技術史における同時代の「全面的機械化」現象との関係が、第三章ではフリッツ・ラングにおける全体主義と無意識の関係が、それぞれ考察される。以上の三章から成る第一部は、一九三〇年代までのハリウッド映画におけるサスペンスの変容と深化の過程を、その多様な広がりにおいて明晰にまた精密に記述することに成功している。 後半の第二部は、「サスペンス映画」というジャンルが成立した一九四〇年代以後を扱う。第四章で、オーソン・ウェルズとジャック・ターナーにおける「見ること」それ自体の批評化、すなわち視覚行為の形式的な「自己再帰性」が分析された後、第五章において、サスペンス表現の完成形を提出したアルフレッド・ヒッチコックの作品の映画史的意義が精密に検討される。「いまだ」と「すでに」の間で宙に吊られる「未来完了形」の時間の諸相をヒッチコックの諸作品の系譜の中に探ってゆくこの第五章は、本論文の圧巻と言ってよい。 それを受け、締め括りの位置に置かれた最後の第六章は、「ヒッチコック以後」──すなわちヒッチコックとともに飽和状態に達したサスペンス表現が、効率的に機能する透明な説話技法から、映像それ自体のスペクタクル効果へと移行した一九六〇年代以降の映画史が扱われる。そこでは「スペクタクルの時代」において不透明な混濁を強いられることになったサスペンスが、二一世紀に入った現在までどのように生き延びてきたかが俯瞰されるが、中でもサスペンスの「セノグラフィー」の効果的な更新を図った映画作家としてクリント・イーストウッドの作品の歴史的意義が強調される。 百十数年に及ぶ映画史の全体を視野に収め、その流れをほぼ時間継起に沿って辿り直した研究でありながら、論述に粗雑さや散漫さの印象がなく、サスペンス概念の変容を示す「力線」がくっきりと浮かび上がっているのは、三浦氏に透徹した史的認識と堅実な理論視座があり、それに基づいて、扱うべき監督と作品の選択が厳密に行なわれているからである。グリフィスの傑作『ドリーの冒険』(1908年)は幼い少女の誘拐と発見という題材を扱うが、この無声映画の傑作をその初期に持つ映画史は、ほぼ一世紀後、やはり誘拐された(ただし発見はされないまま終る)子供の悲運を主題とするイーストウッドの『チェンジリング』(2008年)に逢着することになる。本研究は、映画におけるサスペンスの問題を、この二つの「誘拐映画」に枠取りされその間に広がる一世紀の時間の中で、その理念的な「自律性」と歴史的な「多様性」において捉え、詳細な作品分析を通じて記述し尽くそうという壮大な試みである。こうした総合的な視点に基づく研究はこれまでアメリカ本国にもなかったもので、その学術的意義はきわめて大きいと言わなければならない。 また、個々の論点に関して英米圏の最新の研究を着実に咀嚼し、批判的に摂取しており、そのうえで三浦氏独自の判断が示される分析のアプローチと方法論は、きわめてオーソドックスなアカデミズムの手法を示すものでありながら、論文の文章自体は、昨今の映画研究にありがちないたずらな晦渋さを免れ、しなやかな魅力に溢れた風通しのよいもので、「サスペンス映画の歴史」ないし「サスペンスをめぐる映画史」として一般の読書人にも十分に受け容れられうるものと考える。 審査においては、サスペンス概念の理念的追求にやや深さが足りないこと、とくに「無能力」の概念についてはより徹底的な考察が必要なこと、対象のコーパスをアメリカ映画に限定することがいかに正当化されるかに関して疑問が残ること、それと関連して母国の外に放逐されたアメリカ映画人(ロージーやフラーらいわゆる「五〇年代映画作家」)への目配りが乏しいことなど、いくつか批判や疑念が提起された。また、論旨がおおむね明晰な第五章までと比較して、最終章の記述がやや粗く、視点がいまだ不安定なゆえの混乱があるのではないかという指摘もなされた。しかし、これらは本論文の学術的価値を損なう決定的な瑕疵とは言えないという点で、審査員全員の意見が一致した。 以上を鑑み、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。 | |
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