学位論文要旨



No 127333
著者(漢字) 串田,純一
著者(英字)
著者(カナ) クシタ,ジュンイチ
標題(和) 超越論的な生命の哲学ハイデガーにおける形而上学の可能性
標題(洋)
報告番号 127333
報告番号 甲27333
学位授与日 2011.04.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1072号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村田,純一
 東京大学 准教授 石原,孝二
 東京大学 准教授 廣野,喜幸
 東京大学 教授 榊原,哲也
 東京女子大学 教授 森,一郎
内容要旨 要旨を表示する

本論は、1920年代半ばから1930年頃までハイデガーの思想を「超越論的な生命名の哲学」として再解釈することを目的とする。

ハイデガーの思想においては、前期・後期を通じて人間という存在者が「存在」との関わりにおいて特別な役割を与えられている。これに対して、その生前に公刊された著作においては、「生命あるいは生物一般の存在」という多くの哲学者が注目してきた重要な主題についてはまとまった論が見られず、一つの空白となっていた。

しかし、彼の死後に全集の一巻として1929年から30年にかけての講義『形而上学の根本諸概念』が出版された結果、ハイデガーがその中で「石には世界がない」「人間は世界を形成する」と共に「動物は世界が貧しい」という三つ組のテーゼを提示し、動物・有機体についての大規模な存在論的探求を展開していたということが明らかとなった。とくに、J・デリダが『精神について』において「世界が貧しい」という表現の複雑な含意を問題にした後、「人間あるいはヒューマニズム概念の再検討」という現代思想の主要問題において、ハイデガーの動物論は基本的な参照項の一つとなった。デリダによると、ハイデガーは、一方で「存在を理解する人間」と他の生物との間に比較不可能な決定的断絶を認め、人間を「優位」な存在者とする旧来の人間主義を否定した。しかしながらハイデガーは同時に、この断然の構造を記述するために「貧しい」という価値的含意の残る表現を用いざるをえなかった。彼には、良くも悪くも人間主義が残存していると言いうるのである。

本論は、こうした議論を踏まえつつ、まずはハイデガーの動物・生命論を同時期の彼の哲学全体の中に位置づけ、その性格と可能性および問題点を明確にすることを、第一の課題とするが、同時にその一環として、人間的現存在もまた生命一般の一つの可能的な在り方として解釈することができるのか、という問いに取り組む必要が生じる。序論で取り出されたこうした課題は、以下の4つの章において遂行された。

第1章ではまず、「形而上学」を積極的に構想していた時期のハイデガーの思想全体を俯瞰し整理する作業を行った。終生変わらない彼の考えによると、プラトン・アリストテレス以来のヨーロッパ哲学は一貫して「形而上学」であり、その形而上学は、存在者の存在一般の意味を問う「存在論」と、全体としての存在者の在り方とその根拠を問う「神学」との二重性を帯びている。この「存在‐神学的二重性」は、中世においては「必然的に存在している創造主」としてのキリスト教的な神に基礎づけられていたが、彼は、形而上学とその二重性の源泉はあくまでも人間的現存在のうちに存する、と考える。そしてこのことは、カントに結実する人間の主観の意識に基づけられた近代哲学においても、十分に究明されていない。そこでハイデガーは、自ら一つの「形而上学」を形成しようとするのである。

私たち人間は、様々な存在者の存在を理解し、それらの全体と関わりながら自ら存在している。ハイデガーは、このような人間的現存在の在り方を有限的な「超越」と呼んだ。そして1920年代後半ごろの彼は、この人間の超越に基づいて、存在一般の意味を明らかにする「基礎存在論」を展開すると共に、このように存在を理解する一つの存在者が全体としての存在者のただ中に属しているのはどのようにしてなのか、を問われるべき事柄として挙げ、これを「メタ存在論」と名付けた。「基礎存在論‐メタ存在論」というハイデガーにおける形而上学は、伝統的な存在論‐神学的としてのそれを、人間を中心として再構成したものなのである。

ところで、全体としての存在者への理解や関わりには、個々の存在者をその存在の仕方・様式によって区別するということが属している。そして、道具、人間、物質、といったその区分の一つに「生物」あるいは「生命」がある。それは、極めて理解が困難で謎めいた存在者の領域としてだけでなく、同時にまた私たち自身がそこに含まれるという意味で、非常に特異で重要な探求対象となる。ハイデガーもまた、あくまでも「世界」という形而上学的概念の解明という枠内においてではあるが、人間以外の生物の存在を動物に代表させて解釈した。しかし、そこで挙げられ後に大きく注目される「動物は世界が貧しい」というテーゼは、「動物とはそれ自身でいかなる存在者であるか」を問題にしているような印象を与えてしまい、人間主義との関係でも、様々な問題を惹起してしまう。

そこで第2章では、ハイデガーの動物・有機体論が「現存在の有限的な超越」という基本的立場を曖昧にしたまま展開されていることを指摘し、「私たち人間的現存在は動物あるいは生物一般に対してどのような存在理解を企投しているのか」という本来の超越論的な問いを改めて立て、ハイデガーの具体的な分析を、この問いへの一つの答えとして再解釈した。

ハイデガーは、人間以外の生物もまた確かに他の存在者への「接近通路」を持ちそれらと相互に作用しているが、しかしそれは人間のようにその存在者の存在を理解することを通じてではない、と言う。動植物は、自らの内に既に規定された衝迫を備えつつこれを積極的に抑止しており、特定の他の存在者によってこの抑止を除去されることによって、或る行動を発現させるのである。このとき、脱抑止するものと脱抑止された行動が働きかける存在者が共存していることによって初めて、その行動は当の生物の生存に奉仕するのであり、生物の存在はこうした脱抑止を構成する諸要素を共存させている全体的環境に全面的に依存し「捉われている」と言われる。そして、脱抑止の構造が明らかになるのは、人間がまさにこうした全体的環境を改変してその諸要素を分離することによってなのである。

しかしここでは同時に、人間が他の生物を理解し記述するには、当の生物が本来決して持っていない存在者の理解をあたかも備えているかのように見なさざるを得ない、ということが示されている。現代の自然科学的企投は、このいったん動物に付与した「世界」を改めて奪い取り返すのであり、「動物は世界が貧しい」というテーゼは、むしろこうした人間による生命理解の構造の限界を反映したものだったのである。以上が、「超越論的な〈生命の哲学〉」の見方である。

ところが、ハイデガーの構想する形而上学には、現存在の存在理解の分析に基づく基礎存在論だけでなく「メタ存在論」もまた属している。彼自身はこの両者が現存在のテンポラリテートの解釈を通じて結び付つという見込みを持っていたが、結局それは完遂されなかった。そこで本論の第3章では、存在理解を備えた人間それ自身が全体としての存在者のただ中で実存している仕方とはどのようなものか、というメタ存在論の問いに「人間もまた生物の一種である」という観点にから一定の答えを与えることを試みた。

この探求の手掛かりは、既にハイデガー自身のテクストの中に見出すことができる。というのも、ハイデガーはライプニッツのモナド論やアリストテレスの『形而上学』を扱った同時期の講義において、「脱抑止」という語を、人間を含む実体一般の活動の仕方を特徴づけるものとして用いているからである。人間における存在理解とその他の生物における環境への捉われは、脱抑止されるという一般的構造の異なった可能性なのである。しかも、ハイデガーの叙述を総合的に見ると、人間的現存在による世界の形成とは、単に脱抑止されるだけではなく脱抑止することでもある、という解釈を得ることができる。人間とは「全体における存在者の開明性としての世界のただ中で、諸々の存在者の可能性を理解しつつ、それが持つ能力の一つとしての抵抗性を利用して他の無規定な諸可能性の発現を抑止して、特定の衝迫的な可能性を方向づけながら解放し続ける、という衝迫を脱抑止されている生き物」なのである。そして、このように人間を〈超越論的な生命〉として解釈する過程で、全体としての存在者が開示されるのは気分や感情といった「情態性」を通じてである、ということもまた、明らかとなった。

ところが、人間の世界形成には様々なかたちで失調が生じうる。それは一般に何らかの気分として開示されるが、なかでも、全体としての存在者の諸可能性が全面的に方向づけを失う「深い退屈」は、それに捉えられた現存在が自らの有限的な超越の構造そのものを問題にする契機となりうるという意味で、形而上学の根本気分と呼ばれる。現存在はそこで、解き放たれるべき自らの可能性を、単独で新たに見出してくることを要求される。

第4章では、こうした人間的現存在の先鋭的な存在の可能性を闡明するため、先ず、ハイデガーが、人間と他の生物を分けるものとして通常挙げられる言語を世界形成一般の内部にどう位置づけているのかということを、簡単に確認した。それによると言語は、存在者全体に潜在する可能性を方向づける、という人間の能力を、解き放つ。しかしまたそこには、様々な他の可能性を覆いあるいは排除するということが必然的に伴い、これが人間という言語を持つ動物に固有の有限性をなしているのである。

そしてこれを受けて本論は、リルケの詩作品のハイデガーによる解釈をさらに再解釈し、可能性を方向づけるという言語の能力を詩作という形で純粋に解き放つということが、深い退屈として現れるような世界の全体的な失調を新たな創造的可能性へと向け変える一つの方途でありうる、という見方を提示した。そしてこれは、人間を他の動物から引き離すことを意味するのではなく、むしろ言葉を世界全体の中に存在する生命の一つの可能性として理解することによって、自らの超越の有限性を安んじて引き受けるということなのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中期ハイデガーにおける形而上学的存在論を「生命の哲学」として解釈しなおすことによって、その意義と射程を明らかにしようとするものである。

ハイデガーの哲学が前期から後期まで一貫して「存在とはなにか」を問題にする存在論を中心として展開されたものであることはよく知られている。そのなかで、モノの存在、道具の存在、そして人間存在など、これら存在者の存在のあり方は繰り返し論じられるが、動物などの生物の存在が際立った仕方で主題化されることはほとんどなかった。ところが、ハイデガーの死後に公刊された1929年から30年にかけての講義録『形而上学の根本概念』のなかでハイデガーは動物の存在に関して大変興味深い議論を展開し、次のようなテーゼを提出している。すなわち、「石には世界がない」「人間は世界を形成する」「動物は世界が貧しい」というテーゼである。

串田氏の本論文は、この「動物は世界が貧しい」というテーゼに焦点を当て、それに対する独特の解釈を示し、ひいてはハイデガーの哲学を生命論として読みかえる可能性を示そうとするものである。

この試みによって、第一に、ハイデガーの哲学のなかでは、アリストテレスの可能態(デュナミス)として用いられていた概念が生命過程を説明するために用いられる「脱抑止」という概念に対応することが示され、ハイデガー哲学のなかに一つの生物学の哲学の契機が潜んでいることを示すことができる。第二には、こうした生命に関する概念を用いることによって、ハイデガー哲学の中心的課題である基礎存在論とメタ存在論の関係に関しても生命概念を基軸にして一定の見通しをつけることが可能となる。さらに串田氏は、こうした生命論の延長にハイデガーの言語論を位置づけようとする大変意欲的な展望をも示している。以下では章ごとに簡単な内容を概観する。

まず序章では、ハイデガーの生命論、動物論が現代哲学・現代思想のなかで占めている位置が示される。とりわけデリダによる『精神について』という論考がひとつの参照項とされる。この論考では、ハイデガーは「動物は世界が貧しい」という仕方であくまで人間における世界理解をもとに動物を位置づけており、その点で人間中心主義を脱しきれていない点が批判されねばならないとされる。それに対して串田氏によれば、ハイデガーの生命論は必ずしも通常の意味での人間中心主義には収まらない点が示されうるのであり、この点を示すことが本論文の課題となるのである。

第一章では、ハイデガーにおける形而上学的存在論の根本問題が示される。ハイデガーによるとヨーロッパの形而上学は一貫して、存在の意味を問う「存在論」とそうした存在の根拠を問う「神学」という二つの契機からなっており、形而上学の歴史はこの二つの契機が多様な姿をとって展開する歴史と解釈される。そのなかにはカントにおける超越論的観点と経験的観点との二重性や、さらには、ハイデガーにおける「基礎存在論」と、基礎存在論の基盤となる存在者である人間を含めた存在を問題にする「メタ存在論」との二重性も含まれることになる。こうしてハイデガーの形而上学における根本問題として基礎存在論とメタ存在論の関係をどのように解釈するかという問題が取り出され、その問題への解答を示すものとして生命概念の位置が考えられることになる。ハイデガーにおける生命論はこの意味で、形而上学の根本問題への回答の位置を占めうるものなのである。

第二章では、ハイデガーの生命論における基本テーゼ「動物は世界が貧しい」が集中的に論じられる。串田氏はこのテーゼを動物それ自体に関する存在論のテーゼとみなすのではなく、人間の側からの生物理解のあり方を示すものとして解釈することが目指される。つまり、このテーゼをたんに動物とは何かを規定したものとしてではなく、あくまで動物を理解する人間の側のもつ理解の仕方を示すものとして、この意味で「超越論的観点」を示すものとして解釈すべきであるという議論が展開される。そしてこの理解の仕方を特徴づける概念として、あらゆる段階の生命現象に見てとられる「脱抑止」という概念が取り出される。串田氏によると、(現代の)生物学は、一方ではそれぞれの生物が一定の環境世界のなかに生きていることを前提として出発しながら、その生命現象を解明するためにはそうした世界との連関を断ち切るような実験的介入を行うことによって、実際には生物が一定の方向性をはらんだ全体連関のなかに「とらわれて」おり、そのなかで「脱抑止」の連関が生み出す動きに従っていることを示しているのである。以上のような意味で、「動物は世界が貧しい」というテーゼが解釈されることになり、串田氏はこのような解釈のもとにある生命論を「超越論的な<生命の哲学>」と呼んでいる。この解釈は、串田氏独自のものであり、さまざまな異論の可能性は排除できないが、一定の説得力をもって示されていることは間違いないだろう。

続いて第3章では、人間による生物の理解の仕方自身が、世界のなかで生じる生命活動と見なしうることが取り上げられる。この点を示すために、串田氏はハイデガーのほかのテキストを参照しながら、ハイデガーによるシェラー批判、ライプニッツのモナド論解釈、そしてとりわけアリストテレスの可能態(デュナミス)概念の解釈を取り上げて、人間の存在のあり方自体を世界に潜在する可能的なあり方に応答しながら、その可能性を現実化へと「脱抑止」する生命活動とみなしうることを論じる。加えて、世界が全体として問題にされる可能性として情動の位置が必須の役割を演じることが示される。こうして串田氏によると、ハイデガーにおける基礎存在論とメタ存在論の関係が生命概念を基軸にして統一的理解にもたらされるというわけである。

以上の二つの章が本論文の中心であるが、最後の第4章では、こうした議論がハイデガーの言語論にどのようにつながるかを、おもにリルケの詩論を通して示すことが目指される。人間の言語活動もまた世界の可能性のあり方に応答する人間の生命活動のひとつとして解釈されうるのである。

以上のように、串田氏の議論はハイデガーにおける形而上学の根本問題を生命概念を軸にして一貫して解釈しようとする試みとしてこれまでの研究には見られない独自の視点と議論の幅広さを持っている。この点が大いに評価された。

他方で、それぞれの論点に対しては、「脱抑止」概念には不明確さが残るのではないか、ハイデガーにおける「超越論的」という概念の解釈には更なる議論が必要ではないか、あるいは、現代生物学への考慮が不十分ではないか、最後の言語論の位置づけは適切か、など、さまざまな異論がさしはさみうる点が審査委員から指摘された。しかし同時に、そうした異論の可能性は本論文の意義を必ずしも損なうものではないと考えられるというのが審査委員の一致した意見である。

したがって、本審査委員会は、本論文は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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