学位論文要旨



No 126550
著者(漢字) 福岡,万里子
著者(英字)
著者(カナ) フクオカ,マリコ
標題(和) プロイセン東アジア遠征と幕末外交
標題(洋)
報告番号 126550
報告番号 甲26550
学位授与日 2011.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1036号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鍛治,哲郎
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 教授 中澤,英雄
 東京大学 准教授 松方,冬子
 帝京大学 教授 臼井,隆一郎
内容要旨 要旨を表示する

1860年、プロイセン王国政府は、ドイツ関税同盟諸国、及び関税同盟に属していなかったハンザ諸都市とメクレンブルク両大公国の名において、中国・日本・シャムと修好通商条約を締結するべく、東アジアへ使節団を派遣した。この「プロイセン東アジア遠征(PreuBische Expedition nach Ostasien)」の結果として、1861年1月には日本=プロイセン(日孛)修好通商条約が、同年9月には中独修好通商条約、62年2月にはシャム独修好通商条約が締結された。日孛条約は安政の五ヶ国条約以降、幕末日本で7番目の通商条約となり、中独条約は、アロー戦争の結果、結ばれた英・仏・露・米の天津・北京条約に次ぐ通商条約となった。またシャム独条約は、シャムと英・米・仏・デンマーク・ハンザ諸都市との各条約に次ぐ通商条約となった。本博士学位論文(以下、本博論とする)はこのうち、プロイセン東アジア遠征(以下、PEOとする)の派遣をめぐる国際的背景と日孛修好通商条約の成立過程を、幕末、すなわち近世・近代転換期の日本を取り巻き、また舞台とした外交史・国際関係史の文脈の中に位置づけつつ、詳細に明らかにするものである。その際には、ドイツ・日本の外交史料を基軸として、英・米・蘭などの史料を並行利用するマルチ・アーカイヴァル・アプローチを採用した。

序章では、本博論のテーマに関わる研究史を、(1)幕末国際関係史、(2)幕末外交史、(3)PEOに関する研究、の3分野に分け、それぞれの中における本博論の位置及び意義を措定した。本論は六章からなる。各章の題目は以下の通りである。

第一章 1840~50年代の東アジア情勢とドイツ諸国

-プロイセン東アジア遠征の実施背景について

第二章 プロイセン使節団訪日の一背景-日本開国情報の国際的伝播の過程

第三章 五ヶ国条約後における幕府条約外交の形成

第四章 対プロイセン条約交渉と開港延期問題の結合

第五章 プロイセンか北ドイツか?-ドイツ諸国の条約参加をめぐる攻防

第六章 日本開国と非条約締結国民-ドイツ系商人の事例

各章の概要は以下の通りである。

第一章では、PEO実施の背景を、19世紀中葉期に至る東アジア及び世界情勢の変遷のコンテクストの中に位置づけつつ、考察した。1840年代初頭のアヘン戦争後に結ばれた英中講和条約は、二国間の条約でありながら、載録された一条項(虎門寨追加条約第8条)の故に、条約の恩典を諸外国民に平等に付与する性格を有した。また1850年代初頭、イギリス・オランダというアジアの植民地大国は、相次いで、自国の航海法を原則廃止または大幅緩和した。その結果、19世紀中葉期、ドイツ系商人とりわけハンザ諸都市商人は、アジア貿易に積極参入するようになり、その規模を急成長させていった。しかし1854年以降になると、日米和親条約を皮切りに、東アジアの条約は、厳密な二国間条約へと例外なく再編されていった。それとともに、他国の条約の恩恵に便乗しつつ貿易を展開していたドイツ系商人の、東アジアにおける貿易遂行上の法的基盤は失われていった。PEOは、以上の趨勢変化に即応する形で、東アジア諸国とドイツ諸国の間に個別条約を締結するべく派遣された。一方で、これを実施したプロイセン政府にとって、同遠征は、オーストリアを含め、ヨーロッパ諸列強との対抗関係ないし対等化志向を背景とし、第一義的に、ドイツ関税同盟上の通商政策としての意味を持った。

第二章では、PEOで日本との通商条約が一課題とされた背景を、日蘭追加条約(1857)にまつわる誤伝の成立とその国際的な流通過程を再構成することを通じて検討した。日蘭追加条約は、アメリカやイギリスの新たな東アジア政策の動きに触発されたオランダ当局が、日本を世界的な自由貿易に開く役割を担う条約として、本来、構想したものであった。それ故、同条約のオランダ側草案には、幕府が諸外国一般との条約締結用意を宣言する条項、言わば〈開国宣言〉が盛り込まれていた。しかしこの宣言は、最終的な日蘭追加条約には採録されず、また条約の内容も、日蘭間の自由貿易というよりは、新たな制限的貿易を規定するものとなった。とはいえ〈開国宣言〉について、オランダ政府は、同条約の付属文書に、これが載録されたとの解釈をとった。そしてこれに基づき、追加条約と〈開国宣言〉を含む付属文書を、世界貿易への日本開国にオランダが成功したとの公式見解とともに、政府官報などによって公表し、積極的に喧伝した。その情報は、オランダ政府官報や外交ルートを通じて国際的に伝播し、スイス、ハンザ諸都市、プロイセンなど諸外国の、日本開国過程参与へ向けた動きを誘発していった。

以上二章では、PEOを素材として、幕末日本を取り巻いた国際的環境を検討したのに対し、第三章以降では、幕末日本を舞台とする国際関係史・外交史を、PEO来日前後の時期(1857~61)について、通時的に考察した。具体的には、安政の五ヶ国条約(1858)後に幕府の外交懸案として浮上した、五ヶ国以外の諸外国との新規条約締結問題について、幕府、既締約国の駐日外交団、及び訪日したプロイセン使節団の間で繰り広げられた多国間交渉を、中心的な考察対象に据えた。

まず第三章は、1857~58年に、諸外国一般との通商関係樹立を念頭に置いた積極開国路線を、幕府が外交の基本政策として採用した後、幕政主導者の交代を経てそれが変更され、五ヶ国条約後の幕府が、開国対象国の限定とその可及的維持という方針を、新たな基本路線として実行していった経過を扱った。具体的には、(1)同方針に基づくスイス・ベルギーとの条約をめぐる交渉(1859~60)、(2)日蘭追加条約時の付属文書の関係で同方針が例外的に採用されず、迅速な締結に至ったポルトガルとの条約交渉(1860)、そして(3)同方針が再び採用され、その結果、膠着状態に陥った対プロイセン条約交渉の経過(1860)を考察した。

次に第四章では、対プロイセン条約交渉が、多国間の駆け引きの中で、同じ時期に懸案化していた大坂・兵庫等の開港延期問題と次第に絡み合いながら、妥協点を見出していった過程を検討した。それを通じ、同国との条約締結に応じることで、幕府(久世・安藤政権)が、それ以上の新規締約を停止し、上述の外交方針を中長期的に維持していくための国際的環境を整えた事実経過を明らかにした。

第五章では、こうして確立されるかに見えた部分開国維持の対外政策が、ドイツ諸国の条約参加問題が急浮上したことにより、一旦は瓦解の危機に陥ったが、交渉を通じて、日本・プロイセン間に限定した形で条約を締結する合意へと至った経過を扱った。またそれにより、この期間中に勃発した、条約交渉の日本側全権堀利煕の自刃事件について、その背景を考察した。

第六章では、ドイツ諸国の条約参加を峻拒し、もって開国対象国の限定とその可及的維持という外交政策を固持することに成功した幕府が、既開港地では既に〈全面開国〉が現状となっていた事態を認識した際、どのように対応したのかという問題に焦点を当てた。〈全面開国〉とは次のような意味である。開港後の横浜や長崎には、諸外国民が個別条約の有無に関わらず貿易に自由参入していた近隣海域の状況が波及する形で、条約締結国民のみならず、ドイツ系商人や中国人を含む非条約締結国民もまた居留し、貿易活動を行っていた。この問題への幕府の対応を、ドイツ系商人の居留許可をめぐる折衝を中心的素材として検討した。さらにそれを、同時代における清朝中国の状況と対照させつつ、幕末の開国過程の性質について考察した。

最後に終章では、以上の検討結果を総括した上で、(1)1860年前後の幕末国際関係史における米国弁理公使ハリスの役割、(2)久世・安藤政権期の幕府対外政策、及び(3)近世・近代転換期における東アジア国際秩序の変容と日本、という3つの論点に即して、最終考察と展望を提示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は1860年に日本を訪れたプロイセン使節オイレンブルグと徳川幕府との条約締結交渉に焦点を当てながら、幕末日本の外交政策に新たな光を投げかけ、さらに東アジアの対西洋関係の変化全体についても斬新な展望を提示した研究である。ドイツ語と日本語で書かれた一次史料だけでなく、オランダ語や英語の史料も合わせ使用するという空前の難行に挑んだ仕事であるが、諸史料を手堅く精緻に分析しながら、19世紀中葉における日本と中国の外交政策の変容を多角的な国際政治の展開の中で描出すことに成功している。

全体は序章と終章のほか6章に分かれている。第一章ではプロイセンとハンザ諸都市による使節団の組織とその背景が描かれる。なぜシャム・中国・日本に大規模な使節団を送ったのか、1850年代の東アジアにおける条約秩序の変化と各国の内情、および英仏露やオーストリアなどの大国との対抗関係の分析を通じてこれを説明している。第二章はこの遠征を誘発したオランダ発の訛伝とその役割の分析である。オランダ政府は世界に対し、幕末最初の通商条約、日蘭追加条約の締結に成功した際、日本は諸外国一般との条約締結を約束したと宣伝した。条約当事者における解釈の齟齬、そして遠距離通信におけるタイムラグの役割は外交史の世界ではよく知られる現象であるが、これほど経緯が具体的に説明されることは珍しい。

第三章以下は舞台を日本に移した本論である。まず第三章では、西洋との国交・通商に踏み切った後の日本の外交政策の変化が述べられる。従来の研究では日本の「開国」はいわゆる安政の五ヶ国条約によりほぼ解決されたと理解されてきた。しかし、著者はそれら締結と同時に発生した大政変の後、幕府は締約国を増さない方針に転じたと指摘する。オイレンブルグが到着したのは、先約のあったポルトガルを除き、スイスやベルギーの締結要求を峻拒していたときであった。第四章はオイレンブルグと幕府の交渉過程の前半を扱う。両者は、在日外交団とくに先任公使ハリス(アメリカ)の仲介によって交渉に入り、幕府が国内の攘夷論緩和に必要と考え始めていた五ヶ国条約の内容縮減、すなわち二市二港の開放延期を既締約国全体が受け入れるという交換条件の下に、幕府は条約調印を決意した。ところが、その直後、オイレンブルグがプロイセンに加えてドイツ関税同盟を初めとする30余の諸国との条約締結も要求したため、幕府は窮地に追い込まれた。朝廷に対しいずれ五ヶ国条約を破棄するという密約を結び、それを条件に将軍への皇女降嫁を進めていた最中だったからである。五章はこの紛糾を扱ったものであり、プロイセンとの条約のみが結ばれた経緯、およびその途中に生じた外国奉行の自刃事件が語られる。

第六章は開港地における非条約国民の地位を取り上げ、それを通じて東アジア大の国際秩序の変化について論ずる。アヘン戦争後、清朝はイギリスと結んだ条約で、他の外国人にも開港地への来住と貿易を認めていたが、日本の結んだ条約は非条約国民に一切権利を与えないものであった。この原則はその後、アロー戦争後の清朝の条約にも採用され、これによって東アジアでは条約を結ばない限り開港地で無権利状態になるという体制が成立していった。ドイツ諸国が東アジアに大使節団を派遣したのもこのような事情を背景としていたのである。ただし、実際には、非条約国民は条約国の領事に国籍登録をしてもらったので実害は蒙むらなかったという。

以上を内容とする本論は研究史の大きな空白を埋め、19世紀半ば過ぎの東アジア条約秩序像を大幅に書き換えた。1)日本の外交政策史としては、研究の乏しかった安政五ヶ国条約以後、条約勅許以前について、その性格を既定条約の可及的維持を図った時代として明確に描き出した。2)従来の日本外交史は日本側の外交政策を内政との絡みで描き出すことにもっぱら集中していて、相手側や第三者の政策を軽視してきた。本論は外国側の事情を入念に分析した画期的なものである。3)国際関係を扱った先行研究はほとんどが2国間関係史であり、しかも日英関係のみに焦点を当てたものだった。本研究はドイツだけでなく、オランダ、アメリカ、イギリスの動きも視野に入れ、多角的な競合・対立・協調関係を具体的に描き出すことに成功している。4)日本だけでなく、中国での条約秩序の変遷を参照し、それによって日本の「開国」過程のみでなく、東アジア全体の構造変動に新たな巨視的展望を提示した。5)日本におけるドイツ諸国の認識-統一国家か主権国家の連合体か-や人々の特定国籍への囲い込みの分析は、同時代のヨーロッパや近代世界一般における国家アイデンティティの揺れという興味深い問題について、その一断面を鮮やかに照らし出している。

本論文は当時の日本外交が背負っていた過酷な内政状況への理解がやや不足している。しかし、そうした瑕疵は史学史上における本論の画期性を考えると取るに足りないものに過ぎない。よって本審査委員会は本論を博士(学術)の学位授与にふさわしい達成と認定する。

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