学位論文要旨



No 126511
著者(漢字) 伊藤,昌亮
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,マサアキ
標題(和) フラッシュ・モブズ儀礼と運動の交わるところ
標題(洋)
報告番号 126511
報告番号 甲26511
学位授与日 2010.12.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学際情報学)
学位記番号 博学情第38号
研究科 学際情報学府
専攻 学際情報学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 水越,伸
 東京大学 教授 吉見,俊哉
 東京大学 准教授 北田,暁大
 中京大学 教授 加藤,晴明
 東京芸術大学 准教授 毛利,嘉孝
内容要旨 要旨を表示する

「フラッシュモブ」とは以下のように定義される活動である。

インターネットや携帯電話を通じて呼びかけられた見ず知らずの人々が公共の場に集まり、わけのわからないことをしでかしてからすぐにまた散り散りになること(『コンサイス・オックスフォード英語辞典』第11版)。

21世紀の幕開けとともに世界各地の都市からほぼ同時発生的に立ち現れ、今や世界中のいたるところに浸透するまでになったこの活動は、一見する限りではひたすらバカバカしく、くだらなく、わけのわからないものである。しかし現代社会の文化状況、いわば「デモとテロの時代」の不安定な地勢の中にそれを置いてみれば、そこに込められているいわばその「無意味さの意味」「無目的さの目的」がまざまざと浮かび上がってくるのではなかろうか。

本論文の目的は、「フラッシュモブ」という独自の様式の集合行動に込められているその「無意味さの意味」「無目的さの目的」を探ることである。そうすることによってさらに現代社会の文化状況の布置をその深層の次元で探ることを、特にそこに埋め込まれているものとしての新たな文化の布置、すなわち新たな「デモの文化」と「テロの文化」との成り立ちと構成をその基層の次元で探ることを試みる。

まず第1章ではいわゆる「フラッシュモブ現象」の発生と形成、さらにその発展と普及の過程を綿密に記述・検証することを試みる。世界中の人々をまたたくまに熱狂の渦中に巻き込むこととなったその不可思議な魅力をできる限り生き生きと伝えるためにここではそうした経緯をいわば物語風に、つまり世界中の「プランクスター」(いたずら者)による奇想天外な発想と冒険の物語として、同時に一つの風変わりな社会現象の発生と発展の物語として書き記すことを試みる。

そのために特に取り上げてみたいのは「フラッシュモブ現象」のいわば「正史」に当たるもの、つまりワジクの活動の流れを汲むものとしてのいわば正統的な「フラッシュモブ」の歴史である。「世界初のフラッシュモブ」として公式に広く認められているニューヨークでのイベントを起点に「フラッシュモブ」なる語が生まれ、そこから「フラッシュモブ現象」が世界中に燃え広がっていくこととなる経緯をここではできる限り丹念かつ仔細に、当時の熱狂の風景を呼び起こしながら書き記してみたい。

「フラッシュモブ」という独自の様式の集合行動に込められているその「無意味さの意味」「無目的さの目的」を探るためには、ではどのような理論枠組みが必要とされるであろうか。いいかえればどのような理論枠組みの中で捉えれば、「フラッシュモブ」という独自の様式の集合行動を通じて人々が意味のないことをすることの意味、目的のないことをすることの目的を浮かび上がらせることが可能となるであろうか。次に第2章ではそのための理論枠組みを構成・構築することを試みる。

そのための出発点としてまず検討してみたいのは、人間の集合行動のあり方を多角的・総合的に考察することを目指して20世紀初頭のアメリカで構想された議論、「集合行動論」である。その特徴と限界を明らかにしたうえで次にそれを乗り越えるための方向性を、より複雑かつ深遠な見方からやはり同時期のヨーロッパで展開された議論、「集合的沸騰」をめぐるデュルケムの議論の中に探りつつ、さらにそこから展望されるべき新たな理論的展開に向けてその土台となろうものをここでは、「儀礼的パフォーマンス」をめぐる議論、および「新しい新しい社会運動」をめぐる議論として描き出してみたい。

その後、以下の章ではこれらの議論のアプローチに沿って、すなわち「儀礼的パフォーマンス」をめぐる議論、および「新しい新しい社会運動」をめぐる議論の理論枠組みの中で「フラッシュモブ」という集合行動のいくつかの事例を分析・考察することを試みる。

そのために特に取り上げてみたいのは「フラッシュモブ現象」のいわば「前史」に当たるもの、その多彩な歴史の中でも最も先行的かつ先鋭的な、最も野心的かつ実験的な活動として位置づけられようもの、「2ちゃんねるオフ」である。いわば「早すぎた、そして濃すぎたフラッシュモブ」としての「2ちゃんねるオフ」の中にはその後の「フラッシュモブ現象」に通底するものとしての独特な発想と志向、そして独自の問題意識が先行的かつ先鋭的なかたちで、しかも濃密に込められていたと考えられるからである。そこでその定番的なレパートリの中から二つの著名なものを取り上げ、それらをそれぞれ「儀礼的パフォーマンス」の、および「新しい新しい社会運動」の一つの事例として分析・考察することを試みる。

最初に取り上げるのは「2ちゃんねるオフ」のかつての定番的なレパートリの中でも最も広く知られている古典的なものの一つ、しかも特に集団儀礼としての性格を強く持つと考えられるもの、「吉野家祭り」である。第2章で提示した理論枠組みの中から第3章では特に「儀礼的パフォーマンス」をめぐる議論に基づき、「吉野家祭り」における「2ちゃんねらー」の集合行動を「儀礼的パフォーマンス」の一つの事例として分析・考察することを試みる。

次に取り上げるのは「2ちゃんねるオフ」のかつての定番的なレパートリの中でも最も長く続けられてきた継続的なものの一つ、しかも特に社会運動としての性格を強く持つと考えられるもの、「24時間マラソン監視オフ」である。第2章で提示した理論枠組みの中から第4章では特に「新しい新しい社会運動」をめぐる議論に基づき、「24時間マラソン監視オフ」における「2ちゃんねらー」の集合行為を「新しい新しい社会運動」の一つの事例として分析・考察することを試みる。

このように本論文ではさまざまな角度から「フラッシュモブ現象」にアプローチする。いわば「物語記述編」として位置づけられる第1章ではまずその「正史」部分を対象に、「フラッシュモブ現象」そのものの発生と発展の経緯をマクロな視角から、いわばパノラマ的に記述・検証することを試みる。一方で「理論構築編」として位置づけられる第2章では「集合行動論」を出発点に、「フラッシュモブ現象」を捉えるための理論枠組みを統合的・整合的に構成・構築することを試みる。そして「事例分析編」として位置づけられる第3章・第4章では次にその「前史」部分を対象に、「フラッシュモブ現象」を構成するいくつかの事例をミクロな視角から、第2章で提示した理論枠組みの中でいわば顕微鏡的に分析・考察することを試みる。

さらにそれぞれの章の中でもやはりさまざまな角度から「フラッシュモブ現象」にアプローチする。たとえば第2章では理論枠組みを構成・構築するにあたり、人類学・社会学・文芸学などの広範な研究領域からさまざまな理論を幅広く取り上げ、それぞれの流派に捉われることなくそれらを接合することを目指す。あるいは第3章・第4章ではいくつかの事例を分析・考察するにあたり、必要に応じていわゆる量的調査の方法と質的調査の方法とを組み合わせ、それぞれの流儀に捉われることなくそれらを接合することを目指す。

以上のように本論文では特に第2章で提示する議論の理論枠組みに沿って、すなわち「儀礼的パフォーマンス」をめぐる議論、および「新しい新しい社会運動」をめぐる議論の理論枠組みの中でいくつかの事例を分析・考察することによって「フラッシュモブ現象」にアプローチする。いいかえれば本論文の目指すところはこれら二つの議論の理論的射程が重ね合わせられる領域、いわば「儀礼と運動の交わるところ」に、「フラッシュモブ」という集合行動に込められた「無意味さの意味」「無目的さの目的」を探ることである。

審査要旨 要旨を表示する

この論文が扱う研究対象は「フラッシュモブ」と呼ばれる集合行動の一種である。「フラッシュモブ」とは「インターネットや携帯電話を通じて呼びかけられた、見ず知らずの人々が公共の場に集まり、わけのわからないことをしでかしてからすぐにまた散り散りになること」を意味する。21 世紀の幕開けとともに世界各地の都市でほぼ同時多発的に現れ、今や世界中に浸透するまでになったこの活動は、一見する限りひたすらバカバカしく、くだらなく、わけのわからないものである。しかし論文提出者である伊藤昌亮は、それが反グローバリゼーション運動に代表される「デモの文化」とアメリカ同時多発テロ事件に代表される「テロの文化」に通底する、独自の様式を持つ新たな集合行動の一形態であるととらえ、その「無目的さの意味」「無目的さの目的」の探求に取り組んでいる。

第 1 章では世界各地の「フラッシュモブ現象」の発生と形成、その普及過程を綿密に記述・検証している。

第 2 章では「フラッシュモブ現象」を多角的で総合的にとらえるための理論枠組みの構築を試みている。まず、20 世紀初頭のアメリカ・シカゴ学派のあいだで構想された「集合行動論」が跡付けられ、その特徴と限界が明らかにされている。次にそれらの限界を乗り超えるために、20 世紀初頭にデュルケムが取り組んだ「集合的沸騰」の議論にさかのぼる。そしてそこから転回された二つの理論的系譜、すなわち人類学を中心とする「儀礼的パフォーマンス」の議論と社会学を中心とする「新しい新しい社会運動」の議論を描き出している。そして両社を組みあわせた理論枠組み(儀礼と運動の交わるところ)を生みだしている。

第 3 章、4 章ではこれらの枠組みに沿って、「フラッシュモブ現象」の前史として位置づけられる「2 ちゃんねるオフ」の事例分析を進めている。本論では「2 ちゃんねるオフ」がその後の「フラッシュモブ現象」を先取りする問題意識や発想、志向性が濃密に込められたものとして位置づけられている。

第 3 章では「2 ちゃんねるオフ」のなかでも古典的であり、とくに集団儀礼としての性格を強く持つと考えられている「吉野家祭り」を取り上げ、掲示板における発言の定量的・定性的分析とエスノグラフィックな参与観察を組みあわせつつ、その「儀礼的パフォーマンス」としての意味合いを明らかにしている。第4 章では、やはり「2 ちゃんねるオフ」の定番レパートリとして継続されている「24 時間マラソン監視オフ」を取り上げ、テキスト・マイニングを用いた内容分析によって、その「新しい新しい社会運動」としての意味合いを考察している。

以上の二つの章で明らかにされた知見をもとに、終章では序章に対する答えと、今後の展望が語られている。

このような論文とその概要の発表を受け、審査の質疑応答ではおもに次のような議論がなされた。箇条書きにしておく。

(1)フラッシュモブ現象に関する、おそらく世界でももっとも詳細な記述と分析に取り組む研究である。しかもその記述に終始するのではなく、一見インターネットや携帯電話などの発達によって生じた、とるに足らないおかしな現象と思われがちなことがらから、あらゆるもののデジタル化、グローバル化が信仰する21 世紀社会の深層構造の変化を読み取ろうとする着眼点、パースペクティブは秀逸である。

(2)デュルケムにまでさかのぼって人類学的、社会学的な理論的、思想的知見を渉猟し、集合行動の持つ両義的、あるいは多義的な意味合いをバランスよくとらえ、安直な単一要因論になることを回避している。基本的に人間がなぜ集まり、なぜ運動を転回するかについて、真正面から取り組んで真摯に答える姿勢が高く評価できる。また従来のComputer MediatedCommunication(CMC)研究がかかえてきたいわゆる「二世界問題」を克服する道筋を明確に示している。

(3)一方、儀礼と運動についての理論枠組みを構成する諸概念(たとえば社会秩序の創造と破壊、実態的行動と儀礼的行動など)を子細に検討すると、それらが生みだされる思想的文化的背景が十分に検討されているとはいえないところがある。また儀礼論には近代社会を分析するための限界が大きいのではないかという指摘もあった。

(4)そのことと連関し、理論や概念と個別事例の結びつき方がスムーズではない部分がある。すなわち第3 章において個別事例をやや理論枠組みに引きつけすぎているのではないか。それと連関して、個別の現象をたんに匿名の対象として扱うのではなく、特定の人々の集合行動を継続的にとらえていく視点も必要ではないかといった問題である。

以上のような指摘があったが、総じてこれまでのCMC の限界を乗り超え、近代社会学や人類学の古典的な問題意識をくみ取りつつ、21 世紀社会の新たな諸現象をとらえようとする姿勢はスリリングであり、集合行動論、CMC、社会学、メディア論といった領域を横断する新たな領野を開拓できる地力を秘めている。

そのため本審査委員会は、本論文が博士(学際情報学)の学位に相当するものと判断する。(2000字程度)

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