学位論文要旨



No 126288
著者(漢字) 村,夏輝
著者(英字)
著者(カナ) タカムラ,ナツキ
標題(和) ラッセルのセンスデータ論再考
標題(洋)
報告番号 126288
報告番号 甲26288
学位授与日 2010.05.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第1002号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野矢,茂樹
 東京大学 准教授 石原,孝二
 東京大学 教授 信原,幸弘
 東京大学 教授 村田,純一
 東京大学   今井,知正
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、ラッセルの論理的形而上学と認識論について、従来の解釈とはまったく異なる正しい理解を得、それにより、ラッセルの「センスデータ論」を現在でも支持可能な立場として再構成し、現代哲学の観点から再評価する試みである。第一部でラッセルの論理学と形而上学について、第二部で認識論および哲学的方法論について正しい解釈を与え、それらを利用して第三部でセンスデータ論について論じる。

第一部は三つの章からなる。第一章では、『数学の諸原理』の存在論とその困難について概観する。ラッセルはその書において、「項」という実体を包括的なカテゴリーとして持つ存在論をもとに、数学を論理学に還元するという論理主義のプログラムを推進した。だがその存在論は、論理の普遍性や実在論的論理観、そして直接知覚説というラッセルの基本的見解を原因として、命題、命題関数、変項、クラスといった論理体系に根本的な概念に関して困難を抱えていた。

第二章では、以上の諸問題を、「不完全記号」の学説により解決することを試みた。ラッセル自身が発案した記述理論と無クラス理論、そして多項関係理論は多くの問題を解決する。しかし、変項と命題関数について、そして命題の統一性について未解決の問題が残され、さらに論理形式という対象がそれを深刻化した。そこで我々は、「普遍は述語的本性を持つ」というラッセルの示唆に従い、個物や普遍が事実という脈略から独立ではなく、変項記号があらわしているのは判断形成の際に発揮される能力であるとした。これにより、残された問題を解決することができる。

従来、ラッセルの論理体系は、記号・表現の秩序と、それが意味する実在する諸対象からなる秩序の二層の関係を論じるものだと考えられてきた。そして記述理論や無クラス理論は、記述句や量化表現の分析を与えることによって、誤って単純な事物として実在すると考えられている対象を、センスデータなどの真に単純な対象へと還元するものであると解釈されてきた。本章ではこうした解釈に換え、不完全記号の学説を、実在する単純な対象から判断依存的な対象である「ないもの」を構成する役割を果たすものとして解釈した。そして、ラッセルの論理学は、記号・表現でもなければ実在そのものでもない、それらの間に介在する「ないもの」の秩序を扱うとした。つまりラッセルの論理体系は、「記号‐ないもの‐実在」の三層構造の関係を論じるものであり、命題や命題関数は記号でも実在物でもない「ないもの」なのである。

第三章では、第二章で確認された実在の秩序と「ないもの」の秩序の一般的構造を与えた。実在の一般的構造としては、単純な対象(「論理的原子」)として個物と普遍を、複合的な対象として原子的事実と一般的事実、そして総体的事実を存在論に受け入れた上で、諸事実の持つ構造を論じた。次に「ないもの」の秩序、すなわち「分岐タイプ理論」の論理体系がどのように構成されるかを明らかにした。分岐タイプ理論は命題や命題関数の階層を扱うが、それらは判断から記号・表現を通じて抽象される対象である。そこで、分岐タイプの階層が、多項関係理論に従って、原子的な判断から複合的な判断が形成されることにより成立する、判断の階層秩序に裏付けられていることを示した。ここまでが第一部である。

第二部もまた三つの章からなる。第四章では、ラッセルの認識論的立場を経験主義的基礎づけ主義とする従来の解釈を批判した。ラッセルのテキストには、基礎づけ主義、あるいは認識論的・意味論的還元主義として理解可能な主張が確かに見られるが、一方で懐疑論への応対の仕方や、アプリオリな一般的知識を認めていることなど、それに反する主張も多く、多数の疑問点を指摘できる。また、基礎づけ主義的解釈に従う限り、ラッセルのセンスデータ論は「所与の神話」や「私的言語批判」など、克服しがたい批判を受けざるを得ず、他の解釈の可能性を追求するべきである。

第五章では、ラッセル自身が哲学的方法論として提示している「分析の方法」を取り上げ、その内容と発展過程を詳述した。「分析の方法」は、我々の信念の総体を受け入れることから始め、内在的批判を通じてそれを斉合的体系にすることにより、それらが知識として受け入れ可能であることを示すものであり、斉合説的な性格を持つ。また知識の正当化に関するラッセルの見解も、『哲学入門』における斉合説と基礎づけ主義の折衷案的な立場から、『外界の知識』などでの一貫して斉合説的な立場へと変化していることから、ラッセルの認識論は基礎づけ主義ではなく、斉合説として解釈されるべきである。このように解釈を改めることにより、ラッセルのセンスデータ論に対して出されてきた認識論的批判に応答することができる。

「分析の方法」に即した解釈にとっての問題は、それが面識の原理および多項関係理論と両立するかどうかである。第六章では、ラッセルの「面識」が無意識的でありうること、そして多項関係理論が描出する判断形成がサブパーソナル・レベルの過程であるとすることにより、それらが両立可能であることを明らかにした。この論点と、第二章での「「ないもの」の構成主義としての不完全記号の学説」という理解から、「日常言語の文法の欺きにより、「ないもの」を実在であると誤解し、それに気づかない」というラッセルの見解を適切に理解できることになる。

また、センスデータを要素とする原子的事実との面識に基づく「感覚」から出発し、物体についての記述を内容とする知覚、そして概念的思考が形成されるとする理論を作ることで、ラッセルが思考や言語的コミュニケーションについて採りうる立場を具体化した。この理論により、ラッセルは言語的コミュニケーションの可能性を認めることができ、「私的言語批判」に答えることができる。ここまでが第二部である。

第三部は二つの章からなる。第七章では、『哲学入門』で展開されている、代表象的センスデータ論の立場を検討した。代表象的センスデータ論は、「相反する現れ」の問題を、現象的特徴の担い手であるセンスデータと、その原因である物体を区別することで解決する。しかしラッセル自身が批判するように、『哲学入門』の知識観を前提するなら、代表象説ではセンスデータに関する知識と物体に関する知識の間に十分に緊密な関係が成立せず、斉合説的認識論の知識基準からしても懐疑論が成立してしまう。ラッセルが解決しようとしたもう一つの外界問題、すなわち「世界観の斉合性」の問題がこうして生じる。

物体を直接意識可能とする「新しい代表象説」の見解に、判断形成過程に関する第六章での見解を組み合わせることにより、代表象説は以上の難点を解消することができる。しかしこのとき、現象的空間に定位されるセンスデータがいかにして意識されるのかが説明できなくなるという、根本的な問題が生じてしまう。それゆえ、「相反する現れ」や「世界観の斉合性」の問題の解決としては、代表象説に代わる別の立場を採用しなければならない。

第八章では、『外界の知識』などでの構成的センスデータ論を検討する。この立場は、七次元世界像を採用してセンスデータを異なる客観的な空間的位置に置くことにより、「相反する現れ」の問題を解決する。そして物理的対象をセンスデータの系列とすることにより、「世界観の斉合性」の問題を解決する。構成的センスデータ論は、代表象説的センスデータ論に比べ、実在論と直接知覚説というラッセルの根本的見解により忠実な立場であり、また現象的特徴が外界の事物が担う例化した性質であるという、現象学的観点からの直観にも寄り添ったものとなる。さらには、面識されていないセンスデータ、すなわちセンシビリアを、パースペクティブという客観的な奥行き構造を持つ空間領域に定位することにより、知覚者がセンスデータや現象的特徴に注意できると認めることができる。

構成的センスデータ論の困難は、知覚経験の成立に関する生理学的描写との整合性と、七次元世界像の反直観性にある。まず前者の困難については、ラッセル自身の因果観に基づき、直接知覚説としてのセンスデータ論と、知覚の生理学的描写を整合的にする。ラッセルの因果観によれば、因果関係の主張は出来事間の相関関係を主張しているに過ぎず、感覚器官や脳だけがセンスデータの原因であるとする必要はなくなり、整合化がたっせルされるのである。

次に、第二章と第六章での解釈を経た不完全記号の学説を用いて、七次元世界像の反直観性を解消する。我々が物的世界について持つ知識は、センシビリアが例化する現象的特徴間の法則的相関関係に関する正しい知識と、センシビリアの同一性に関する誤った信念を含んでいる。前者の正しい知識のために、常識的世界像に基づく行為が破綻せず、その誤りが明らかになることはないが、後者の誤った信念のため、日常的事物や三次元の客観的空間が存在するとされることになる。第二章で述べたように、記述理論は、問題が生じない文脈では記述句を固有名と同様に扱えるとしていたこと、そして事物の知覚がまさにそのような状況でなされること、さらに第六章で論じたように記述の形成がサブパーソナル・レベルでなされること、これらにより、実は記述的である物体や三次元の空間についての信念が単称的であると誤解され、物体についての記述が物体そのものであると思われるようになるとすることができる。最後に、以上の構成的センスデータ論に基づき、日常言語を用いた我々のコミュニケーションのあり方を、「虚構依存的コミュニケーション」として説明した。

審査要旨 要旨を表示する

高村夏輝氏の提出論文「ラッセルのセンスデータ論再考」の内容はおおまかに三つに区分することができる。(1) バートランド・ラッセルの認識論は従来「基礎づけ主義」と呼ばれる立場の典型とされ、批判されてきたが、その従来の定説に異を唱え、ラッセルの認識論が「分析の方法」と呼ばれる斉合説的な方法論に従っていることを明らかにする。(2) 分析の方法に従って、ラッセルがどのようにセンスデータ論を導いたかをテキストに即して読み解き、そのセンスデータ論の姿を明らかにする。(3) ラッセルから読みとったセンスデータ論に対し、その不備を自らの議論によって補完した上で現代においても有力な立場として提示し、それを擁護する議論を展開する。

まず(1)と(2)に関しては、きわめて重要な議論が綿密なテキストの読解に基づき説得力をもって展開されており、非常に高く評価された。ラッセルは、色や形の現われのような、物の性質ともあるいは認識主体の意識への現われとも、どちらとも捉えられるようなものに対して、物でも意識でもなくセンスデータという対象を導入し、センスデータが色や形といった性質を担うとする。この議論は、従来、知識の確実な基礎としてセンスデータを考え、そこから確実な知識の体系を構築する試みとして解されてきた。そしてそのような基礎づけ主義的なセンスデータ論は多くの批判に晒され、現代ではほとんど顧みられなくなっている。ところが、それに対して高村氏は、ラッセルの方法論が基礎づけ主義ではなく、われわれの信念全体に潜む不斉合を解消しようという試みであったと捉えなおす。すなわち、われわれの信念の全体をデータとして、それを導くような諸前提を分析によって析出し、その諸前提を斉合的なものに改訂していくという作業が、ラッセルの方法論だったというのである。そしてセンスデータはまさにそのような方法によって要請されたものであったと論じる。このようなラッセルの解釈は、高村氏が世界で初めてというわけではないが、本論文ほど徹底的に論じたものは類を見ないと言えるだろう。本論文によって、ラッセルの認識論における新しいラッセル像が描き出されたと言える。

(3)では、こうして新たに描き直されたラッセルのセンスデータ論を、現代哲学の土俵に上げ、現代の代表的な議論と戦わせた上で、センスデータ論の優位を確立することが試みられる。さすがに、現代でも論争状況にある中で、センスデータ論に勝利宣言をさせるには至っておらず、ここの議論に関してはさまざまな疑問や反論が寄せられた。しかし、上で述べたように現代では顧みられることのなかったセンスデータ論を、現代の論争の土俵にのせて戦わせるまでに刷新したことは、高く評価される。

全体として、質・量ともにこれだけの重みのある力作を仕上げた力量は、全審査委員の一致して評価するところであった。以上から、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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