学位論文要旨



No 126268
著者(漢字) 佐藤,公紀
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,キミノリ
標題(和) ヴァイマル共和国における監獄改革・犯罪生物学・釈放者扶助
標題(洋)
報告番号 126268
報告番号 甲26268
学位授与日 2010.04.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第995号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石田,勇治
 東京大学 教授 相澤,隆
 東京大学 特任准教授 川喜田,敦子
 東京大学 客員教授 Foljanty
 東京大学 教授 市野川,容孝
 東京大学 教授 姫岡,とし子
内容要旨 要旨を表示する

本論は、19世紀後半のドイツにおいて現れた「犯罪の医療化」という過程を、ヴァイマル共和国における監獄改革、犯罪生物学、釈放者扶助という犯罪と刑罰に関わる領域のなかに跡づけることを課題とするものである。本論は、「犯罪の医療化」を、社会防衛を目的として、医療的な介入によって犯罪の予防と撲滅を目指す思想と実践の複合的な過程と定義し、それによって引き起こされた監獄、犯罪学、釈放者扶助の領域における現象をそれぞれ「刑罰の教育化」、「犯罪原因の病理学化」、「扶助の刑罰化」(後述)と名付けている。方法論的には、ドイツ史家デートレフ・ポイカートの「社会的規律化」論を参照し、それを「上から下への、合理的科学に基づいた、近代的思考の貫徹」として定式化した上で、次のような問いを立てた。すなわち、第一に「刑罰の教育化」は「上から下へ」の統制という過程で捉えることができるのだろうか。第二に「犯罪原因の病理学化」は「合理性に基づいた」犯罪学を生み出し、監獄のなかで用いられたのだろうか。第三に「扶助の刑罰化」はそれが実践に移される際に「近代的思考の貫徹」という形で特徴づけることができるだろうか、という問いである。そしてこの問いに答えるために、専門知識を有し政策決定に直接関与する「専門家」と、現場でクライアントと直接相対し、現場での強い裁量権をもつ「専門的職業従事者」とを分け、後者の視点に立脚して「犯罪の医療化」の具体的な検討を目指す。

(1)まず第一章第一節では、帝政期における犯罪状況や監獄制度を概観し、クレペリンやリストによって論じられた刑法改革の含意を検討する。リストやクレペリンによって主導された刑法改革運動によって、主体による「悪行」としての犯罪から、素質や環境といった非主体的要因によって決定された行為としての犯罪へと犯罪概念が変容し、これにともなって刑罰の内実も変化していくことになった。刑罰は、もはや害悪に対する応報・「懲らしめ」ではなく、社会防衛のための一手段として理解され、犯罪者を社会にとって「有益な人間」へと教育することを課題とするようになった。本論では、このような応報刑から教育刑への刑罰の意味変容を「刑罰の教育化」と特徴づけている。

次に第二節では、ロンブローゾの「生来性犯罪者」の議論が、ドイツ精神医学のなかで受容されていく過程を検討する。精神科医たちは、「生来性犯罪者」は(遺伝のために)それ自体として存在するのか、環境が犯罪者を生み出すのかという問題を議論し、そのなかでクレペリンは精神医学の観点から「生来性犯罪者」概念を解釈し、アシャッフェンブルクは環境に対する素質の相互反応の結果としての犯罪者という解釈を提示した。このようにして精神科医たちは「生来性犯罪者」の概念を精緻化し、犯罪の原因を生物学的・病理学的観点から究明しようとしていった。このような展開を本論では「犯罪原因の病理学化」を呼んでいる。

最後に第三節では、「神の恩寵」という理念に立脚するキリスト教慈善団体による釈放者扶助が、帝政期に入り、同時代に進行中の「刑罰の教育化」と「犯罪原因の病理学化」に直面して、新しい扶助モデルを構築していく過程を論じる。同時代の犯罪学・刑法学の影響から、釈放者扶助は、犯罪の予防のための一つの手段として解され、共同体に「有用な人間」へと教育する刑罰の延長と理解されることになった。しかしその際、釈放者扶助団体は、犯罪が自由意志に基づく行為という伝統的な犯罪理解を保持したために、当時の刑法学や犯罪学のなかで問題化されていた「職業犯罪者」、「常習犯罪者」、「精神劣等者」の扶助からの排除を主張しながらも、犯罪者の自由意志による「過ち」を「赦す」行為という従来の扶助の理念も手放さなかった。扶助を犯罪予防の手段とする扶助モデルの構築を「扶助の刑罰化」として捉えるなら、帝政期の釈放者扶助は、刑法学や犯罪学で論じられていたモデルを完全に受容したのではなく、従来の扶助理念との折り合いをつけながら新しい理念を受容するという、独特の過程を示したといえるだろう。

(2)第二章では、教育刑の理念、1923年原則やプロイセン州業務執行規則(DVO)による教育刑の制度化、そしてベルリン・シュパンダウ監獄における実際の受刑者処遇の検討をとおして、ヴァイマル期における監獄改革の現実の一端を照射する。そして、ポイカートの「社会的規律化」論での「上から下への規律化」の方向性の問題を、ヴァイマル期の監獄改革という具体的な事例に即して検討する。19世紀後半から台頭した教育刑の理念は、1923年原則の成立をもって全国レベルで制度化された。この点において、ヴァイマル期の監獄制度改革は、制度のレベルでは「刑罰の教育化」を確立したといえる。しかしそれを実際に各州に導入する際には不十分な改革しか行われなかった。各州、とりわけプロイセン州のDVOには応報刑罰的要素の残存が確認でき、段階行刑も体系的な形で導入されなかったのである。また、こうした不十分な改革は、実際の受刑者処遇の場での刑務官の意識のなかにも反映されていた。

「専門的職業従事者」の観点から見るならば、現場の刑務官たちは旧来的な応報的懲罰観をもって、受刑者の教育的処遇に従事しつつ、所内の規律の維持に腐心したといえる。刑務官たちは、教育刑という新しい処遇の思想に対して抵抗感を示す一方、旧来の応報的刑罰観を信奉し、それに基づいて処遇を実践していった。こうした点を見た場合、ヴァイマル期における「刑罰の教育化」の過程は、理念、制度、実践という各層における「上から下への浸透」という一方的な過程で把握することはできない。むしろそれは、教育刑という理念が制度へ反映される場面、そして、教育刑に基づいて実際に受刑者処遇が行われる場面において、浸透の度合いに差があったことを示している。

(3)第三章で問題としたのは、ヴァイマル期における犯罪生物学の発展と、犯罪生物学の学問としての合理性・科学的整合性である。そして、「教育可能者」と「教育不可能者」を区分する「学」を自認するバイエルン州の犯罪生物学に対して、当時においても批判や異論が存在していた点を指摘する。プロイセン州における犯罪生物学鑑定では、「極度教育困難者」の認定に際して、受刑者の犯罪生物学鑑定にあたった監獄医の実践は、矛盾や曖昧さに満ちているものであった。彼らの鑑定記録からは、医師の恣意によって「教育可能性」の評価がなされていることが読み取れる。これは、犯罪生物学の科学的な「合理性」の限界を示すものであったといえる。「専門的職業従事者」たる監獄医の実践において、こうした科学的整合性の限界が存在したことが意味するのは、19世紀後半以来持続してきた「犯罪原因の病理学化」の過程がヴァイマル期において科学的な「合理性」を確立することはできなかった、ということである。

したがって、世界恐慌期に「合理的な科学」を基盤とした「『価値の低い者』を犠牲にした『価値ある者』の選別というパラダイム」が支配的となったというポイカートの見立てに対し、そのなかにおいても様々な矛盾や内在的困難を抱え込んでおり多様な議論を内包していた、という論点を対置することができる。確かに「教育可能者への配慮」と「教育不可能者の排除」は近代行刑制度の表裏をなしており、ヴァイマル末期に後者の傾向が強まっていくこととなるが、そこではあらゆる言説が「『浄化』の言説」へと収斂したわけではなく、むしろ答えを求めて批判や異論が噴出し、多様な言説が生み出されていったのである。

(4)第四章で分析されるのは、ヴァイマル期における釈放者扶助の構造と扶助対象者をめぐる言説である。ヴァイマル期の釈放者扶助では、扶助は刑罰の一種であり、教育行刑の一部として理解されるに至る。さらには強制収容をも扶助の延長にあるものとして把握されることになる。こうしたプロセスは、扶助を犯罪予防の一手段とする「扶助の刑罰化」の過程として解釈することができる。また、扶助対象者は学問的議論の対象となり、「職業犯罪者」、「精神劣等者」、「自助可能な釈放者」といったカテゴリーに分類されることになる。その際、「職業犯罪者」と「精神劣等者」は扶助に値しないという論理によって、扶助から排除されることになる。世界恐慌に入ると「自助」が扶助の条件として浮上してくる。そこで扶助は「自助への援助」でしかなく、その自助は「改善の意志のある者」のみが実行可能であるため、自助可能な「改善の意志のある者」が扶助にふさわしいとされたのであった。しかしまたその際に検討されたのは、「自助への意志」がキリスト教の理念に由来する「自由意志」に基づくものであるとする、伝統的扶助組織に属する論者の議論であった。伝統的な扶助団体は、「自助への意志」をそのように位置づけることで、「近代的扶助」と折り合いをつけ、その活動が拠って立ってきた理念を保持することができたのである。ここから導かれるのは、「扶助の刑罰化」は、従来の伝統的な扶助理念を放逐・解体したということはできない、ということである。「職業犯罪者」や「精神劣等者」といった「改善不能者」の排除と、「自助可能な釈放者」などの「改善可能者」の改善といった当時の犯罪学の議論を援用しながらも、「自助可能な釈放者」の根底に見出される「意志」がキリスト教に由来するものとみなすことで、自らの宗教的正当性をも保持するという、独特の受容過程を見ることができるのである。

「専門的職業従事者」という観点からは、「専門家」としての刑法学者と「専門的職業従事者」である扶助従事者の間の意見の相違は、少なくとも扶助対象者をめぐる議論のなかでは見られなかった。彼らはともに「近代的扶助」の重要性を認識し、扶助対象者の定義の確度を高めるための知的切磋琢磨を行っていったのである。ただし、ライン・ヴェストファーレン監獄協会などの伝統的扶助団体に属する扶助従事者たちは、「近代的扶助」の理念を受容しながらも、従来の伝統的な扶助理念との折り合いをつけていく努力を必要としたといえる。

こうした過程は、ポイカートが見た、世界恐慌下の青少年扶助における「浄化」「選別」の言説の支配という「近代的思考の貫徹」というテーゼに対して、一つの反証を提供することになろう。すなわち、釈放者扶助においては、「近代的扶助」の言説の全面化・貫徹によって危機が出来したというよりも、「近代的扶助」と伝統的扶助の言説が相互補完的に機能し、それらがともに世界恐慌下における「排除」の論理を構成したといえるのである。

以上の行論から導かれた監獄改革、犯罪生物学、釈放者扶助における前近代的要素の残存、合理性の矛盾、近代的要素と前近代的要素の共存という事実が示すのは、「犯罪の医療化」の複合的な過程であり、それは「上から下への、合理的科学に基づいた、近代的思考の貫徹」という単純な近代化モデルでは説明できない。こうした複合的な過程は、「上から」の近代化の圧力と、現場での刑務官、監獄医、扶助従事者ら「専門的職業従事者」というアクターらの独自の行動との相互作用によって形作られていったのである。

審査要旨 要旨を表示する

佐藤公紀氏の学位請求論文「ヴァイマル共和国における監獄改革・犯罪生物学・釈放者扶助」は、ヴァイマル共和国期のドイツで進行した「犯罪の医療化」と称される複合プロセスの特質を、犯罪と刑罰にまつわる上記三つの分野に注目して明らかにしようとするものである。

本論文の主題をなす「犯罪の医療化」とは何か。佐藤氏によると、19世紀半ば以降のヨーロッパとりわけドイツでは、犯罪が増大しているとの認識から社会が危険に晒されているとの不安が募り、それを背景に、犯罪を個人の意志の所産ではなく「病」と見なし、犯罪の原因を近代諸科学なかでも生物学・医学・精神医学などの観点から追究する動きが進展した。それは、犯罪と刑罰を等価とみなす旧来の応報的な刑罰に代わる、教育的な刑罰の導入を求める論議(刑罰の教育化)を惹起し、あわせて釈放者への扶助を教育的な刑罰の延長上に捉えようとする傾向(扶助の刑罰化)を生んだ。これらの動きの根底には、犯罪から社会を防衛するという明確な目的があった。このように、犯罪の予防と撲滅のために近代諸科学の積極的な介入を求める思想運動とその実践が引き起こしたプロセスが、「犯罪の医療化」である。

本論文が前提とする多くの先行研究のなかで、とくに重きをなすものは、ミシェル・フーコーの「規律権力」の議論をドイツ現代史の文脈に置き換え、ヴァイマル共和国期の青少年扶助を題材に「社会的規律化」の問題を論じた、ドイツの歴史家デトレフ・ポイカートの一連の著作である。ポイカートは、19世紀以来の合理的な「近代思考の貫徹」、つまり理性に「全能の夢」を読み込む思考原理が、前述の「犯罪の医療化」過程を貫徹したとしている。これに対して、佐藤氏は、「近代の両義性」の含意を念頭におきつつも、ポイカート以降の歴史家たちが分析の光を当てることのなかった監獄の中、とくに受刑者と刑務官や医務官とのやりとり、さらには釈放された元犯罪者と福祉・扶助団体職員とのやりとりを分析し、ポイカートの掲げる「近代思考の貫徹」テーゼの妥当性を厳しく批判しようとしている。

本論文は、問題設定、先行研究の整理、概念定義に当てられた序章と、結論とナチ時代への展望を記す終章を除いて、四つの章で構成されている。

第一章「帝政期における監獄制度・犯罪学・釈放者扶助」では、19世紀後半から帝政期にかけての刑法改革・監獄改革の進展、犯罪学の発展、釈放者扶助の起源について体系的に変述される。ここではクレペリンやリストに主導された刑法改革運動によって犯罪概念が変容し、刑罰の内実にも変化が生まれた経緯が描かれ、あわせてロンブローゾの「生来性犯罪者」の議論がドイツ精神医学に受容される過程が、犯罪原因を生物学・医学・病理学など科学的観点から究明しようとする犯罪学の発展と関連づけて論じられる。

第二章「ヴァルマル共和国における監獄改革と『刑罰の教育化』」では、ヴァイマル期の刑法・監獄改革の実態が追跡される。最初に、著名な刑法学者で、当時司法相を務めたラートブルフの下で帝国参議院にて成立した「自由刑の執行に関する諸原則」(通称、1923年原則)の制定過程と、そこで掲げられた教育刑の内容(社会復帰原則、段階的行刑、刑務官育成など)が詳論される。そして、この原則が各州とりわけプロイセン州に導入されるさい様々な抵抗に遭って十分に制度化を達成できなかったこと、そして監獄の現場に旧来の応報刑に執着する刑務官が多数存在したことについて一次史料を通して明らかにしている。

第三章「ヴァイマル期における犯罪生物学と『犯罪原因の病理学化』」では、犯罪原因の科学的追究に取り組む犯罪学がいかに、またどのような実態を伴って制度化されていったかが検討される。ここではバイエルン州とザクセン州を事例に、犯罪生物学が監獄に受容される過程を、犯罪学者・精神科医の指導的言説を紹介しつつ、あわせて、現場で受刑者に向き合う監獄医らの恣意的な解釈と適用の実態を解明しながら、浮き彫りにしている。

第四章「ヴァイマル期における釈放者扶助と『扶助の刑罰化』」では、釈放者扶助の分野で見られた「扶助の刑罰化」(教育化)の傾向が、ヴァイマル共和国の社会変動のなかでいかに展開したかが論じられる。ここでは、とくに釈放者扶助の活動で大きな役割を果たしたキリスト教扶助団体が掲げた扶助の理念と扶助対象者をめぐる区分について、世界恐慌前後の変化を含めて詳細に論じている。そこでは、自助を重んじる伝統的な扶助概念と、教育刑の一貫としての扶助を位置づける新たな扶助概念が折衷的に、また相互補完的に作用していたことが明らかにされる。

本論文の結論として佐藤氏は、「犯罪の医療化」を構成する監獄改革、犯罪生物学、釈放者扶助の三分野のいずれにおいても応報的刑罰理念の残存、合理性の名の下に放置された矛盾、近代的要素と前近代的要素の共存が看取されることを強調する。すなわち、「犯罪の医療化」はポイカートのいうような「上から下への、合理的科学に基づいた、近代的思考の貫徹」という単純なモデルでは説明できず、むしろ「上から」の近代化の圧力と、現場での刑務官、監獄医、扶助団体従事者ら多様なアクターの独自の行動と、その相互作用によって形作られていったと結論づけている。

本論文の意義は、次の三点にまとめられる。

第一に、監獄改革、生物犯罪学、釈放者扶助という、これまで個々の文脈で論じられてきた三つの分野を、「犯罪の医療化」の観点からひとつの意味連関に位置づけたことである。この三分野のうち、とくに釈放者扶助というドイツ史研究上未開拓な分野に初めて分析のメスを入れ、そこに見られた「扶助の刑罰化」という現象を、同時的に進行した教育刑の導入・実践と結びつけて論じたことである。「犯罪の医療化」は広い意味で、フーコーのいう19世紀の「医学と司法の連続体」の発現形態に属するものだが、本論文はその論点に、ヴァイマル期の福祉国家の観点を盛り込んだといえる。

第二に、犯罪と刑罰にまつわる従来の研究が、専門的知識を有し政策立案にも関わるような「専門家」の理論分析に傾く中、本論文は、むしろ現場すなわち受刑者と直接向き合う刑務官や監獄医、また釈放者扶助の現場でクライアント(元犯罪者)の扶助に携わる団体職員・ソーシャルワーカーなど、現場で強い裁量権をもつ「専門的職業従事者」に注目し、この分野で等閑にされてきた理論と実際の間の溝に光をあてた実証研究を完遂したことである。

第三に、本論文では、現場の様々なアクターが遺した多様な記録・文書(とくに不服申したて書などの監獄内報告)を、ドイツの各種文書館にあたって広く渉猟し、丹念に分析していることである。著者が立論に用いた監獄関連史料の大半は今回初めて日の目をみるものであり、その価値は高い。その意味で、本論文は、豊かな史料基盤に基づく第一級の社会史的実証研究といえよう。

むろん本論文にも欠点がないわけではない。全体を通じてポイカートの所論が強く意識され、それへの論駁を急ぐあまり、ポイカートのテーゼを修正することに成功しても、それに代わる大きな歴史像を提示したといえない点である。また、犯罪生物学鑑定の総数や、「教育不能者」とされた者の割合など、「犯罪の医療化」を示す量的規模の変化についても詳しく論究できていない。しかし、後者は、本論文の大きな成果に照らして瑕瑾という他なく、本論文全体の価値を損なうものではない。また、前者はあまりにも大きな課題であり、今後の佐藤氏の研鑽によってその欠が補われるものと期待できる。

したがって、本審査委員会は、全員一致で、本論文が博士(学術)の学位に相応しいものと認定する。

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