学位論文要旨



No 125516
著者(漢字) 肥後,心平
著者(英字)
著者(カナ) ヒゴ,シンペイ
標題(和) 海馬における新規ステロイドホルモン合成系の研究
標題(洋)
報告番号 125516
報告番号 甲25516
学位授与日 2010.03.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第965号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 教授 和田,元
 東京大学 准教授 奥野,誠
 東京大学 准教授 村越,隆之
 東京大学 准教授 若杉,桂輔
内容要旨 要旨を表示する

神経内分泌学では精巣・卵巣や副腎で合成されたステロイドホルモンが血流を通じて脳に運ばれて作用するものであると考えられていた.しかし最近になり,成獣オスラットをもちいた川戸研究室の研究結果により,これらのステロイドが末梢の内分泌器官だけでなく,記憶中枢の海馬でも独自に合成されていることが明らかになってきている.特に成獣オスラット脳内での性ステロイド合成系に関しては,その存在と重要性が疑いのないものとなりつつある.

成獣オスラットにおける脳内性ステロイド合成系の存在が明らかになった現在,

(1)ストレス応答や糖の新生などの作用を持つとされる,副腎皮質系ステロイド(コルチコステロン)の脳内合成系は存在するか.その活性,合成酵素群の発現,産物の脳内濃度はどうなっているのか.

(2)脳発達段階の脳内性ステロイド合成系はどうなっているのか.発達期の脳内ステロイド合成活性は成獣の活性と比べどの程度であるか.

という上記の2点が重要かつ未解決な問題として存在している.

(1)副腎皮質ステロイドの海馬内合成系

コルチコステロン(CORT)はステロイドホルモンの一つであり,末梢の合成器官である副腎から放出され,血流を通じて脳を含む標的器官に達し作用する.またCORTはストレス応答時に血中濃度が急激に上昇することが知られており,そのストレスとの密接な関係からストレスステロイドとも呼ばれる.CORTは神経系においても生理作用を持ち,記憶・学習の中枢である海馬において神経伝達効率の変化などを引き起こすことが報告されている.過去のストレスに関連する病理学的な研究から,海馬は脳で最もストレスに対し脆弱な部位であること,またストレスが海馬の機能に与える障害がCORTにより仲介されていることが分かっている.これらの理由より,CORTが海馬に与える生理作用や,CORTが記憶・学習の効率に与える影響などが盛んに研究されている.

海馬に対するCORTの作用も,上述のように末梢の合成器官である副腎から放出されたCORTが血流を介して海馬に達し効果を及ぼすものであるという考え芳が常識であった.しかしCORT以外の性ステロイドが脳において合成されている事実が明らかになり,CORTも性ステロイドと同様に脳で新規合成されているという可能性も検討されるようになってきた.そこで本研究では,過去の実験報告がほとんどない,海馬におけるCORT合成系の存在とその特徴を明らかにすることを目標とした.

CORTの合成は,シトクロムP450(c21),P450(2D4),P450(11β),11β-HSDの酵素群によって触媒される.P450(c21)はプロゲステロン(PROG)→デオキシコルチコステロン(DOC)の反応を触媒する酵素であるが,脳内では発現していないと思われている.P450(11β)はDOC→CORTの反応を触媒する酵素であるが,脳内の発現に関するしっかりとした報告は乏しい.CORTは11β-HSDにより不活性なステロイドである11・dehydro・CORTに変換される.また,最近になり薬物代謝を担うP450(2D4)がP450(c21)と同様のPROGを基質としたDOC合成能を持つことが報告されている.これらの酵素の海馬における発現と活性を知ることが,脳におけるCORT合成系の存在の証明には必須である.

目標を達成するため,RT-PCRを用いてCORTの合成酵素群のmRNA発現を調べた.その結果,P450(c21),P450(2D4),P450(11β1),P450(11β2),11β-HSDI,11β-HSD2のmRNAは全てラットの海馬をはじめとする脳各部位で発現していることが明らかになった.

ラット脳海馬でのP450(c21)mRNAの発現は本研究によりはじめて発見されたものである.この発見は,プライマーをGibbs自由エネルギーの計算により熱力学的に最適化し,検出感度を大幅に改善したため可能となった.P450(c21)は活性型とスプライスバリアントの不活性型があるが,脳では活性型がほとんどであった.また海馬をはじめとする脳各部位では,11-dehydro-CORTをCORTに変換する11β-HSD1が,逆反応を触媒する11β-HSD2よりも高発現していて,一旦合成したCORTは不活性化されないようなっていた.

また,CORT合成酵素群が神経細胞に存在しているかグリア細胞に存在しているかなど,組織学的な特徴を明らかにするためin situ hybridizationを用いた局在解析を行った.局在解析はP450(2D4),P450(11β1)および5α-reductaseについて行った.5α-reductaseはPROGからジヒドロプロゲステロン(DH-PROG),DOCからジヒドロデオキシコルチコステロン(DH-DOC)を合成する酵素である.染色の結果,P450(2D4),P450(11β1),5α-reductaseはすべて海馬のグルタミン酸神経細胞に発現しており,グリア細胞における発現は神経細胞に比べわずかであることが明らかになった.

合成酵素タンパク質の神経細胞における発現・細胞内局在を調べるため,P450(c21),P450(2D4),P450(11β1)を対象に金抗体免疫染色法による解析をおこなった.その結果,神経細胞においても末梢と同様にP450(c21)とP450(2D4)が小胞体膜上,P450(11β1)ミトコンドリア内膜上に局在していること,加えてこれらの酵素が神経の接合部であるシナプス上にも存在しているということを初めて発見した.

合成酵素の活性も調べるため,海馬を試料として3H標識ステロイドを基質とした代謝実験を行った.3H標識PROGを基質とした代謝実験ではDOCのピークが観察され,海馬にDOCの合成能があることが明らかになった.また,3H標識DOCを基質とした代謝実験でもCORTのピークが観察された.これは海馬にCORTの合成能が確かに存在していることを示唆している.CORTを基質とした代謝実験では,代謝産物のピークは観察されず,CORTは分解・不活性化されないことが明らかになった.

また,副腎による合成の寄与を除外して海馬のみのCORT合成能を調べるため,副腎切除ラットの血漿中および海馬内CORT濃度およびDOC濃度を,LC-MS/MS質量分析により測定した.その結果CORT,DOCともに血漿中濃度に比べ海馬内濃度が有意に高く,海馬で独自に合成されていることが証明された.副腎切除ラットの海馬におけるCORT濃度は7nM程度であった.

以上の実験結果より,ラットの海馬においてCORTの合成系が確かに存在し,PROGからDOC,さらにDOCからCORTの合成活性が存在することが明らかになった.脳で合成されたCORTは7nM程度であった.CORTはこの濃度では神経成長・保護作用を示すと思われる.

(2)生後10日齢の発達期の海馬内性ステロイド合成系と成獣における合成系との比較

従来より脳内ステロイド合成系の研究は,脳の性分化の面から発達期で盛んに行われてきた.一方で成獣の脳での性ステロイド合成はまったくないか無視できるほど減衰していると考えられてきたが,近年の川戸研究室の研究から成獣にも脳内性ステロイド合成系があることが判明し,従来から知られていた発達期の合成系との比較研究をおこなう必要が生じてきたといえる.

そこで本研究では,比較的報告も多く性分化の臨界期にもあたる生後10日齢(P10)を発達期の代表として選び,それらの脳内性ステロイド合成系と12週齢における合成系を比較した.

発達期と成獣期の性ステロイド合成系を比較するため,海馬内性ステロイド合成酵素群のmRNA発現解析をおこなった.性ステロイド合成にかかわる酵素は主にP450(17α),17β-HSD,3β-HSD,P450arom,5α-reductase,および3α-HSDが存在する.これらの酵素によってコレステロール→pregnenolone→DHEA→andorostenedione→testosterone(男性ホルモン〉→estradiol(女性ホルモン)あるいはtestosterone→dihydrotestosterone(強い男性ホルモン)→androstanediolと合成が進む.

これらの酵素の発現解析をおこなった結果,一部の酵素を除くほぼ全ての酵素において,P10におけるmRNA発現量は12週齢に比べて,1.3-1.5倍程度であることが明らかになった.

実際の酵素活性を調べるため,各種の3H・標識ステロイドを基質とした代謝実験をおこなったところ,各ステップにおいて,P10における合成活性は12週齢と比べておよそ約2・7倍程度であることが明らかになった.

この結果は,発達期から成獣にかけてステロイド合成系の活性が激減する(1/100位になる)のではないかという,従来の予想より減少が少ないということを明らかにした.すなわち,成獣になっても脳内性ステロイド合成系は消失するわけではなく,活発な性ホルモン合成がおこなわれているということである.

審査要旨 要旨を表示する

本研究の目的は2点あり、一つは成獣ラット海馬におけるコルチコステロイド合成系の存在と活性を明らかにすることであり、一つは生後発達期・成獣期における海馬内性ステロイドの合成系を比較し、その差異を明らかにすることである。本研究で、従来の研究では存在しないと考えられていたコルチコステロイド合成系がラット海馬に存在し、神経に対し強力な作用をもつコルチコステロンが実際に合成されていることが証明された。また、従来から海馬内性ステロイド合成系は発達期でのみ存在し成獣では消失すると考えられてきたが、本研究の比較実験で、確かに発達期で合成系はよく働くが、成獣になっても消失せずに一定以上の合成活性を維持しているという新しい事実が明らかになった。

コルチコステロンはストレス応答を担うステロイドホルモンであり、ストレス時に副腎から放出され血中濃度が急激に増加し、血液を経由して脳に流入して神経活動を抑制すると考えられている。一方、コルチコステロイドの脳内合成系の研究は報告が少なく、合成系の一部分のみを研究したものが少数あるのみで、合成系の全容を知るには程遠い状況であった。とくにコルチコステロン合成の最初の段階であるプロゲステロン→デオキシコルチコステロンの反応を行う酵素シトクロムP450(c21)は脳に存在しないと考えられてきた。本研究では、RT-PCRにおいてプライマーを熱力学的なGibbs自由エネルギーの計算により最適化し、いままで存在しないとされてきたP450(c21) mRNAの検出に成功している。また、金抗体免疫電顕法により、P450(c21)のタンパクが海馬神経細胞の小胞体膜状、および神経の接合部であるシナプスに存在していることを明らかにした。P450(c21)以外にも、コルチコステロイド合成系に必要である酵素群P450(2D4)、P450(11β)、11β-HSDが海馬に発現していることを明らかにしている。P450(2D4)、P45011βはP450(c21)と同様にシナプスにも存在していることが明らかになった。これはシナプスで合成されたステロイドがその場で働きシナプスの伝達効率をモジュレーションしているという、新しい機構の研究(synaptocrinology)を支持する重要な事実であるといえる。また、3H標識ステロイドを基質とした代謝実験で、これらの酵素が実際に働き、プロゲステロン→デオキシコルチコステロン→コルチコステロンという一連の合成反応が行われていることを証明した。本実験ではまた、海馬自身のコルチコステロン合成量を正確に知るため、副腎を切除したラットの海馬内コルチコステロン濃度をLC-MS/MS質量分析器を用いて定量している。この結果、海馬自身で合成されたコルチコステロンは約7nM程度であることが明らかになった。これはストレス下の濃度に比べ低い。コルチコステロンは低濃度では神経の活性化・神経保護など良い影響を脳に与え、ストレス下の高濃度では神経細胞死など悪影響を及ぼすことが知られているため、脳内で合成されたコルチコステロンが神経の活性化・神経保護などに用いられていることを示唆している。

性ステロイドの脳内合成は発達期において一過的に活性をもち、成獣では消失すると考えられてきた。一方、川戸研究室の研究から成獣にも脳内性ステロイド合成系があることが判明し、発達期の合成系との比較研究をおこなう必要が生じている。本研究では、発達期(生後10日齢)と成獣(12週齢)の性ステロイド合成系の酵素mRNA 発現、実際の合成活性の比較を網羅的に行なっている。性ステロイドの合成に関わる酵素はシトクロムP450arom、P450(17α)、3β-HSD、3α-HSD、5α-reductase があり、本実験ではそれらの酵素をサブタイプごとに区別しRT-PCR による発現解析をおこなっている。結果として、一部の酵素サブタイプを除いて発達期に発現量が多いが、その量は成獣と比較して約1.3~1.5 倍が中心であり、数十倍から数百倍などの大きな差は見られないことが明らかになった。また、実際の性ステロイド合成活性を比較するために、3H標識ステロイドを基質とした代謝実験も行われている。代謝実験では、おおむね発達期における合成活性が成獣における活性を上回る傾向が見られ、その差は2~7 倍が中心であった。RT-PCR による発現解析とステロイド代謝実験は、発達期に比べればやや少ないものの、成獣でも活発な海馬内性ステロイド合成活性が行われていることを示した。これは、しっかりとした比較実験もないまま信じられてきた、成獣で海馬内性ステロイド合成が消失するという従来の定説を覆すものである。

上記の結果は神経内分泌研究に重要な影響を与える研究結果であり、脳神経科学において、非常に有意義な貢献をしたものと認められる。

よって、審査員一同、論文提出者肥後 心平は東京大学博士(学術)の学位を受けるに十分な資格があるものと認めた。なお、本論文の内容の一部は、2009 年にBiochemical and Biophysical Research Communications 誌に公表済みである。これは共著論文であるが、論文提出者は研究の主要部分に寄与したものであることを確認した。

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