学位論文要旨



No 125476
著者(漢字) 湊,照宏
著者(英字)
著者(カナ) ミナト,テルヒロ
標題(和) 20世紀前半における台湾電力業の発展と重化学工業
標題(洋)
報告番号 125476
報告番号 甲25476
学位授与日 2010.03.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第274号
研究科 経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 加納,啓良
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 教授 田嶋,俊雄
 一橋大学 教授 橘川,武郎
内容要旨 要旨を表示する

本論文は戦間期・戦時・戦後復興期を通じて台湾の電力業と重化学工業に対する実証的な経済史分析を行い、なぜ台湾経済が1950年代から輸入代替工業化を開始することができたのかという問題について明らかにしようとした。

まず、戦間期・戦時台湾における電源開発先行型の重化学工業勃興過程であるが、その過程は、電力業への投資が電力多消費型産業への投資を誘発し、そのことがまた電力業への投資を誘発するという「不均整成長」であった。

その過程における第一の難関は、電源開発のための資金を資本市場から調達することであった。従来の研究では、電力業や重化学工業に対する投資は、植民地統治のためや台湾を南進基地とするための「国策性」によって説明されてきた。しかし、本論文で明らかにされたように、資本市場からの資金調達の可否は、電源開発を担う台湾電力会社(以下、台電会社と略記)の収益性や資金償還計画に対する資本市場の評価が規定していた。1919年に台湾総督府によって半官半民の台電会社が設立されたが、その目的は日月潭発電所(出力10万kW)の建設であった。この既存の電力需要と乖離した大容量水力闘発計画には、低廉豊富な電力供給を誘因として化学肥料産業などの電力多消費型産業を勃興させて輸移入代替を図ろうとする産業政策が含まれていた。この台湾総督府によって立案された不均整成長戦略ともいえる日月潭事業はリスクの高いものであり、その資金調達に関しては大戦景気を前提とした計画が立案された。第一次大戦期における日本資本市場の活況が、不確実性の高い電力消費計画にもかかわらず、台湾総督府をして株式・社債発行を通じた日本資本市場からの資金調達に対して楽観視させたのである。資金供給者に対して明確な電力消費計画が示されることなく台電会社は設立されたが、設立当初は戦後ブーム期であったこともあり、資本市場からの資金調達は比較的順調であった。しかし、1920年の戦後恐慌によって資本市場が急速に流動性を失うと、たちまち台電会社の資金調達は困難となり、1926年に日月潭事業は中止を余儀なくされた。電力需要は着実に増加していたが、資本市場は発電所完成後における電力消費に対して懐疑的であり、このことが資本市場からの資金調達を困難化せしめたのである。

1920年代後半になると、甘庶作地施肥用の硫安の輸入量が急増し、化学肥料産業の振興による電力消費計画が現実性を帯びるようになる。金融恐慌後の金利低下を受けて、台湾総督府は公債・内債発行計画を含む日月潭事業再興案を決定するが、その際には資金供給側を納得させるべく、確実性の高い電力消費計画に基づいた綿密な資金償還計画を作成した。電力需要の着実な増加が、自然増加分のみでの資金償還・電力消費計画の作成を可能にしたのである。ただし、化学肥料産業の確立によって輸移入代替を図ろうとする産業政策は放棄されておらず、自然増加分のみでの資金償還・電力消費計画の作成は、あくまで資本市場からの評価を得るためであった。この事業再興資金の調達計画は、金解禁を目論む大蔵省の意向によって外債発行案に変更される。大蔵省も事業再興計画は確実性が高いと判断したのであろう。しかし、台湾冠力外債の引受けを期待されていたモルガン商会は、日月潭事業を経済合理性が欠如した計画と判断し、引受けを拒否した。鷹力需要と乖離した大規模電源開発に要する資金の調達は米国資本市場においても困難であり、元利払いに日本政府保証が付されていても、投資誘因不足の問題は解決されなかったのである。それにもかかわらず台湾電力外債発行が可能となった理由は、事業再興計画は確実性が高いと判断していた井上蔵相によるラモントに対する引受け要求と、モルガン商会による日本政府の金本位制維持に対する支持といった政治的要因に求められる。この政治的要因によって台電会社は外債を発行して資金を調達し、電力市場の均衡を崩す大容量水力開発が可能となった。

第二の難関は、供給過剰化する電力市場を均衡化し得る電力多消費型産業への投資であった。1931年12月の金本位制離脱によって円為替相場が急落したことは、台電会社に多額の為替差損を発生させ、その困難の度合いを増加させた。為替差損問題の未解決は、台電会社をして低廉電力の供給を不可能とし、電力多消費型産業の勃興をもたらす誘発投賀を妨げる可能性が高かったからである。台電会社はこの問題を自社外債買入れ・内債低利借換え・工事費節約によって克服し、同時に過剰電力の大量廉価販売による即時的な収入増加を試みた。さらには、日本政府が管理通貨制に移行するとともに為替低位安定化政策をとったことは、台湾に対する重化学工業投資を誘発し、ハーシュマンのいう「投資の補完性効果(Complementarity Effect of Investment)」を最大限に発揮する結果を招いた。電源開発資金の調達時期は井上蔵相の緊縮財政期であったものの、運用時期は高橋蔵相の積極財政期であったことは、電力市場の均衡化期間を計画よりも速めることとなったのである。1934年に日月潭発電所が完成するまでに、日本・朝鮮・「満洲」において硫安産業の設備投資が進展したため、同産業の勃興は実現しなかった。しかし、低為替による輸入防遏効果と軍需拡大は重化学工業への投資リスクを緩和し、航空機資材となるアルミニウム・インゴットを製造する日本アルミが高雄工場を設立した。構想とは異なり、輸移入代替型ではなく、移出志向型の重化学工業が勃興したのである。このほかにも、財閥や新興コンツェルンの対台湾投資が活発化し、台湾電化会社基隆工場や台湾鉱業会社金瓜石鉱山といった電力大口ユーザーが相次ぎ出現した。こうした「投資の補完性効果」は、供給過剰となる電力市場を均衡化する速度を速めただけでなく、そのまま需要超過へと導いて再び不均衡化する事態を招いた。台電会社は予定よりも早く新電源の開発を余儀なくされ、そのための資金は増資によって調達された。この増資は、日本アルミの設立以後に台電会社の株価が上昇していたことによって可能となった。以上のように、電力業と電力多消費型産業との補完性が確立されるまでに2つの難関が克服され、不均衡状態の電力市場が均衡化する見通しがたっと、さらなる電源開発に要する資金を資本市場から調達することが、政治的要因に頼ることなく可能となったのである。

上記の1930年代後半における電力市場の需要超過は、台湾電力業に新たな局面を導いた。電力多消費型企業による自家発電参入である。設立当初の日本アルミへの電力供給料金は極めて廉価に設定されていたが、同社の利益率上昇とともに電力料金は上昇傾向にあった。それ故、電力需給の逼迫に対して日本アルミは自家発電を試みるようになった。日本アルミを中心とする電力多消費型企業は共同自家発電会社である東台湾電力興業会社を設立して、東部で電源開発を推進した。この結果、これまで台電会社が主に担ってきた電源開発は、電力多消費型企業の自家発電参入によって補強されることになり、戦時台湾の発電容量は急増していった。電力需要超過という不均衡から均衡へ回復しようとする動きもまた急であったといえよう。

対英米開戦前には台湾の電源開発が海軍の軍事戦略にとって重要となった。これにともない、巨額の電源開発資金が必要となったが、この資金は国庫支出と資本市場に求められた。巨額の資金を資本市場から調達し得た理由は、アルミニウム精錬業に続いてマグネシウム精錬業と苛性ソーダ産業が勃興したことにより、電力業と電力多消費型産業との補完性が強固に確立されたからであった。マグネシウムは日本に供給されて航空機資材となり、苛性ソーダは台湾島内の日本アルミに供給された。こうして戦時台湾の電力多消費型産業は、島内において産業連関を形成しつつも、日本帝国経済圏内における航空機関連産業の分業関係に組み込まれて発展した。このような軍需に偏った各産業の発展形態は、農業を中心とする台湾の産業構造に適合的とはいえないものであった。

以上のように戦間期・戦時台湾において「不均整成長」によって振興・発展した移出志向の電力多消費型産業と電力業との関係は、終戦後に編成替えを余儀なくされる。発電容量の回復は順調で、電力多消費型産業の復興に大きな支障は生じなかった、台湾経済は中華民国経済に編入され、アルミニウム精錬業は日本からの需要を喪失したかわりに、上海からの需要を獲得した。アルミニウムの生産量は戦時水準に回復することはなかったが、石灰窒素産業の拡大が起こった。その背景には、日本帝国経済圏に依存していた化学肥料の輸移入途絶があった。終戦の混乱によって食糧需給が逼迫する状況にあった台湾では、米穀増産政策のもとで化学肥料の増投が不可欠であり、省内における化学肥料の増産が図られたのである。その他の産業では、上海への移出を含みながら省内に製品を供給する苛性ソーダ産業が順調な回復を遂げた。こうして1948年まで中華民国経済内での分業関係を築きつつあった台湾の重化学工業は、1949年の中国大陸「失陥」によって再編成され、アルミニウム・石灰窒素・苛性ソーダの各産業は全て省内需要を基盤とするようになった。この過程で石灰窒素産業が最大の電力消費産業となり、1950年代初頭には、農業中心の産業構造に有機的な連関を有し、省内需要を基盤とする電力立地型重化学工業が確立した。日本帝国経済圏の崩壊と中国大陸「失陥」という二度のインパクトを受けながらも、電力需給構造を急激に変化させ、電力業と電力多消費型産業との補完性は維持されたのである。1940年代後半台湾における重化学工業の再編成は、当時の最大輸入品目であった化学肥料の輸入代替を準備して外貨節約効果を有しただけでなく、外貨獲得産業である製糖業の復興を可能にしたのであり、一般的に後発国・地域が直面する外貨制約の度合いを緩和させる効果をもたらした。以上の過程を経てこそ、台湾経済は1950年代に入ってから輸入代替工業化への軌道に乗ることができたのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、戦間期・戦時・戦後復興期を通じて台湾の電力業と重化学工業に対する実証的な経済史分析を行い、なぜ台湾経済が1950年代から輸入代替工業化を開始することができたのかという問題について明らかにすることを課題としている。

あらかじめ構成を示すと、以下の通り。

序 章 課題と視角

第1章 第一次大戦期台湾における電力市場と大容量水力開発

第2章 1920年代後半台湾における大容量水力開発計画と資金調達

第3章 1930年代前半台湾における電力多消費型産業の勃興

第4章 1930年代後半における台湾電力業の展開

第5章 1940年代前半における台湾電力業の展開

第6章 戦後復興期台湾における電力市場の再編成

終 章

まず本論文の構成に従って主要な論点とこれについての著者の貢献を明らかにし、その上で審査委員会の評価を記すこととしたい。

序章では、上記の課題を設定したあと、その研究史上の意義を明確にするために、研究史のサーベイが行われ、第一に台湾電力業史を素材にして政府主導仮説を批判した北波道子の研究に対して、(1)戦後の「公営企業」に対する否定的な捉え方、(2)「下からの発展」を強調する捉え方の2つの面で問題があると指摘する。このような北波説は、戦後の混乱期に公営企業が迅速に対応して産業間の補完性を維持することに努めたことや、植民地時代から継続的に外国からの資本導入(戦前は日本の植民地投資、戦後は米国の援助など)によって工業化が推進されたことなどを軽視していると批判される。さらに著者は、台湾植民地期の研究を再検討し、その「帝国主義論」的な枠組みには同意しないものの、日本の経済発展に規定され、日本の資本市場での資金調達によって、後発国が陥る「資本不足」を補いつつ、台湾で重工業が発展の緒につく過程を、「電源開発先行型の重化学工業勃興過程であるが、それは、電力業への投資が電力多消費型産業への投資を誘発し、そのことがまた電力業への投資を誘発するという「不均整成長」であった」ととらえ、その不均整な成長過程を実証的に論じることが示される。このような捉え方は、従来の研究が、電力業や重化学工業に対する投資を植民地統治のためや台湾を南進基地とするための「国策性」によって説明してきたことに対する批判を意図するものである。

第1章では、1919年に台湾総督府によって半官半民の台湾電力株式会社(以下、単に台電と略することがある)が設立され、日月潭発電所(出力10万kW)の建設推進に当たることになったものの、その計画が頓挫する1920年代前半期までを対象とする。台電の発電所建設は、低廉豊富な電力供給を誘因として化学肥料産業などの電力多消費型産業を勃興させて輸移入代替を図ろうとする産業政策を含むものであったが、きわめてリスクの高い計画であった。それにもかからず、総督府はその資金調達に際して、大戦景気を背景に株式市場の活況に依存した楽観的な見通しのもとで事業を推進しようとしたが、結果的には、1920年恐慌後に同社の資金計画に重大な齟齬を来たし、発電所建設計画は一時中断することになった。

第2章は、この中断された計画が再開される過程を明らかにする。1920年代後半になると、甘蔗作地施肥用の硫安の輸入量が急増し、化学肥料産業の振興による電力消費計画が現実性を帯びるようになったこと、金融恐慌後に金利が低下したことなどを条件として、台湾総督府は公債・内債発行計画を含む日月潭事業再興案を決定した。その際に、総督府は資金供給側を納得させるべく、需要の自然増加分のみでの資金償還が可能というような、確実性の高い電力消費計画に基づいた綿密な資金償還計画を作成した。この調達計画は、大蔵省の意向によって外債発行案に変更されるが、それに関して外債引受けを期待されていたモルガン商会は、当初は日月潭事業を経済合理性が欠如した計画と判断し引受けを拒否した。投資誘因不足の問題が顕在化したが、これに対して最終的には井上蔵相からラモントへの引受け要請と、モルガン商会による日本政府の金本位制維持に対する支持といった政治的要因によって調達が実現することになった。

第3章では、再開された計画が、1931年12月の金本位制離脱による多額の為替差損の発生という問題に直面するとともに、電力多消費型産業への投資をどのように促すかという問題が発生し、これを解決していく過程が検討される。台電は為替差損問題を自社外債買入れ・内債低利借換え・工事費節約によって克服し、同時に過剰電力の大量廉価販売による即時的な収入増加を試みた。また、高橋財政のもとで、低為替による輸入防遏効果と軍需拡大が進展したことが重化学工業への投資リスクを緩和し、航空機資材となるアルミニウム・インゴットを製造する日本アルミが高雄工場を設立するなど、硫安工業を主軸とした輸移入代替型の構想ではなく、移出志向型の重化学工業が勃興することになった。

このような電力需要産業の出現は、電力市場を早期に逼迫させる要因となり、台電は、予定よりも早くに新電源の開発を余儀なくされ、そのための資金は増資によって調達された。この過程が第4章の主題となる。資金調達のための増資は、台電株価の上昇によって可能となったが、それは電力業と電力多消費型産業との補完性が確立して資本市場で十分な評価を得られるようになったことを意味した。しかし、30年代後半に発生した電力市場の需要超過は、電力多消費型企業による自家発電参入という新たな局面を生むことにもなった

第5章では、このような条件の下で1940年代前半の戦時体制期に、台湾の電源開発が海軍の軍事戦略にとって重要となったことから、巨額の電源開発資金が国庫支出と資本市場に求められることになった。こうしてアルミニウム精錬業に続いてマグネシウム精錬業と苛性ソーダ産業が勃興し、電力業と電力多消費型産業との補完性が強固に確立されるとともに、マグネシウムが日本の航空機資材であったことに示されるように、戦時台湾の電力多消費型産業は、島内において産業連関を形成しつつも、日本帝国経済圏内における航空機関連産業の分業関係に組み込まれて発展した。

このような軍需に偏った各産業の発展形態は、農業を中心とする台湾の産業構造に適合的とはいえないものであったから、日本の敗戦とともに編成替えを余儀なくされたことが第6章で論じられる。戦後の発電容量の回復は順調で、電力多消費型産業の復興に大きな支障は生じなかったために、当初、台湾経済は中華民国経済に編入され、アルミニウム精錬業は日本からの需要を喪失したかわりに、上海からの需要を獲得した。また、石灰窒素産業の拡大が、日本に依存していた化学肥料の輸移入が途絶したことから、食糧需給逼迫の解決をめざす米穀増産政策のもとで実現した。こうして1948年まで中華民国経済内での分業関係を築きつつあった台湾の重化学工業は、1949年の中国大陸「失陥」によって再編成され、アルミニウム・石灰窒素・苛性ソーダの各産業は全て省内需要を基盤とするようになった。この過程で石灰窒素産業が最大の電力消費産業となり、1950年代初頭には、農業中心の産業構造に有機的な連関を有し、省内需要を基盤とする電力立地型重化学工業が確立した。日本帝国経済圏の崩壊と中国大陸「失陥」という二度のインパクトを受けながらも、電力需給構造を急激に変化させ、電力業と電力多消費型産業との補完性は維持されたのである。

1940年代後半台湾における重化学工業の再編成は、当時の最大輸入品目であった化学肥料の輸入代替を準備して外貨節約効果を有しただけでなく、外貨獲得産業である製糖業の復興を可能にしたのであり、一般的に後発国・地域が直面する外貨制約の度合いを緩和させる効果をもたらした。以上の過程を経てこそ、台湾経済は1950年代に入ってから輸入代替工業化への軌道に乗ることができたのであるというのが、本論文の著者の結論である。

本論文は、これまで十分な検討が行われてきたとは言い難い台湾電力業の発展について、徹底した資料の収集によって実証的な分析を行うとともに、第二次世界大戦後の経済発展を見通しつつ、それらを貫く台湾経済の発展の論理を追及しようという視点から、その研究の総括を試みたところに特徴がある。

まず、実証的な面では、日本の資本市場における台湾電力の資金調達に注目することで、電力業の発展を制約する条件としての資金調達問題と、これを解決するために台湾総督府・台湾電力が企図した電力需要産業の育成計画とを対比し、その時期的な変化を明らかにした点にある。この過程で、(1)大規模水力開発がいったんは挫折を余儀なくされた事情、(2)再開に際して必要となった外債発行にかかわる日米間の交渉経緯、(3)需要産業として想定された化学肥料生産からアルミニウム精製への転換過程、(4)為替差損問題の処理、(5)戦時の海軍との関係など多様な事実が明らかにされている。また、需要面に着目することによって、(6)第二次大戦後に中国本土との関係で台湾域内の産業が再編され、電力需要産業として早期に復興を始めたこと、(7)そのような展開が中華民国の中国大陸「失陥」によって再度の編成替えを求められたことなども明らかにされ、ここから第二次大戦後の経済発展の起点が明らかにされる。

この(6)(7)に関連して、経済発展論に関連する論点としては、域内の農業生産用の肥料生産という、「輸入代替型工業化」という当初の構想が、日本の軍需生産と結合した「輸出指向型工業化」へと転化を余儀なくされるなかで、台湾の重工業化が進展したことと、第二次大戦後には輸出先が中国本土に転換するとはいえ連続性をもつ展開であることが強調されている。さらに、電力業と電力多消費型産業との補完性が維持されるなかで、電力多消費型の化学肥料工業が輸入代替効果を持つとともに、外貨獲得産業として製糖業の発展に貢献したことなどが示されたことが重要であろう。

もちろん、本論文にも残された課題があることは認めなければならない。具体的には、電力消費産業の投資の実態については十分な言及がないこと、外債発行にかかわる日米間の交渉の経緯から知られる水力発電計画に対するモルガン商会側の評価に関する著者の解釈に疑問が残ること、先行研究である北波道子氏の研究に対する批判として提示されている公営企業体制の有効性についての追究が十分ではないこと、そのような所有関係ではなく電力事業の運営形態として発送配電の一貫体制が維持されたという電力事業展開の特徴が軽視されていること、などの問題がある。

しかしながら、このような問題点があるとはいえ、本論文に示された先行研究に対する批判的な検討と、実証的な研究の卓越した成果は、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を持っていることを明らかにしている。従って審査委員会は全員一致で、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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