学位論文要旨



No 125259
著者(漢字) 大橋,完太郎
著者(英字)
著者(カナ) オオハシ,カンタロウ
標題(和) 群れと変容の哲学 : ドニ・ディドロの唯物論的一元論とその展開
標題(洋)
報告番号 125259
報告番号 甲25259
学位授与日 2009.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第931号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,康夫
 東京大学 教授 高橋,哲哉
 東京大学 教授 田,康成
 東京大学 准教授 中島,隆博
 中部大学 教授 鷲見,洋一
内容要旨 要旨を表示する

本論文は18世紀フランスの啓蒙思想家ドニ・ディドロの著作を対象にとりあげ,その多岐に渡る著作に通底しているディドロの思考の基本的図式を明らかにすることを第一の目的としている.ディドロの思想的立場を示すものとしては唯物論的一元論という表現が従来までよく用いられてきた.本論は,この唯物論的一元論という視座が哲学的著作以外のジャンルの作品にどのような仕方で適用され展開されているのか,あるいは,哲学以外の場においてなされた思考がどのようにして唯物論的一元論に関連づけられ逆にその唯物論を基礎付けていたのかを検証する.それによって,『百科全書』の編纂といった知識人としての実践的活動や,絵画批評や演劇論といった芸術論や文学作品の制作にまで及ぶディドロの営為を,単なる思弁的な「哲学」の枠にとどまらない一貫した原理的な実践として読解することを目指す.言いかえればこの論文は,思考という行為が持つ可能性を「哲学」という枠にとどまらずに解釈していくことを目的としている.「文学」あるいは「身体」と言われる位相の重要性がそこでは明らかとなる.分析を通じて,題目にあげられた「群れ」と「変容」という二つの概念が,ディドロの実践の独自性を特徴付ける概念であることが証明される.

本論文は,対象とする著作や問題領域に従って分けられた五つの部から構成されている.第一部では,ディドロの代表作『ラモーの甥』の意義を近代において決定づけたヘーゲルの『精神現象学』を分析対象にし,ヘーゲルによるディドロ理解の内実を把握するとともに,へーゲルの理解の枠内にとどまらないディドロの思想的内実が検討される.第一章においては, ディドロの対話編『ラモーの甥』が,どのような形でヘーゲルの『精神現象学』において受容され,ヘーゲルの思考を形成する要因となっていったのかという点について分析がなされる.財富と言語,意識の分裂をめぐる解釈がそこでは問題とされる.第二章においては,ヘーゲルが参照した『ラモーの甥』中の一場面,寄食者たちが集まる「ベルタン邸の食卓」と言われる場面を分析する.『ラモーの甥』における寄食者の位相が,貧者から富者への媚びへつらいの言語,および富者から貧者への財産の分与という二つの要素によって構成されるエコノミーの中に成立していることを指摘し,媚びることをやめた甥ラモーが追放されるというエピソードにそうしたエコノミーからの排除の仕組みを見る.第三章では,ヘーゲルによる解釈では言及されることがなかった甥ラモーのパントマイムと身体性に注目することを通じて,社会システムの抑圧に抗する痙攣的身体とそれに基づく身振り芸術の意義が明らかになる.こうした手続きを経て,第一部では,ヘーゲルの基本的な図式を構成する目的論的合理性には収まらない身体的・物体的な諸相の重要性が明らかとなる.

第二部では,『盲人書簡』と『聾唖者書簡』という二つの著作を対象に,ディドロの感覚論と唯物論との関係が分析される.第一章では『盲人書簡』を対象に,怪物的存在者である盲人の触覚的世界と五官を備えた人間が知覚する視覚的世界との差異において,唯物論的世界像が導出される経緯を分析する.そこでは触覚をその理論的基盤におくディドロの感覚論と,触覚性を成立させている唯物論的世界との関連が明らかとなる.第二章では『盲人書簡』に続く『聾唖者書簡』中の議論を手がかりにして,魂における感覚同士の協働と翻訳,および魂の位相の唯物論的基礎付けが問われる.魂を成立させる原感覚としての運動が設定されることで,物質的世界と魂との類比関係が明らかになる.第三章では『聾唖者書簡』で提示されたヒエログリフとエンブレムという概念に注目する.異なる感覚の同時的共存を示すヒエログリフ概念はディドロにとっての感覚同士の協働原理となっている.このヒエログリフをめぐる議論においては,「微細さ」と「同時性」という概念が「関係性の知覚」という概念と結びつき,ディドロ独自の美的感性論を形成している.

第三部は,「タブロー」および「表象」という概念を手がかりにしてディドロにおける記述と実在との関係を考察し,ディドロが考えた「啓蒙」のダイナミズムを捉えることを目的としている.第一章においては『百科全書』編集に際して知を組織化する原理となった「百科全書」という理念の内実を問う.分析を通じて,ディドロが考えた「百科全書」とは,M・フーコーが考えた古典主義時代のスタティックな辞書理念から逸脱したものであり,むしろ力動的な世界を運動体として提示する試みであったことが証明される.第二章においては,ディドロによって執筆された『百科全書』項目「中国人(の哲学)」を分析する.同時代の文書を原資料とした上でそれらに固有の思想を散りばめていったディドロの具体的な手続きを明らかにすることで,当時の東洋的な表象との対比においてディドロが提起した西洋的思考の可能性と,そこから導き出される「進歩」「科学」「道徳」といった啓蒙的諸概念の特徴が明らかになる.第三章ではディドロの絵画批評における絵画表象と記述との関係が考察される.絵画の記述と思考の触発とが緊密に結びついた『1767年のサロン』における絵画内風景の逍遥をめぐる記述を分析することを通じて,ディドロにおける現実とその模倣との関係が問われる.ディドロの模倣理論における「観念的モデル」という概念に注目し,それが模倣において現実と表象との様々な関係性を内包しつつ形象化されるということ,そしてタブロー内を歩く評者ディドロの視線として形象化された批評的言語もまた現実と表象を媒介し,さらにはタブローの内側を外部へと開くことにより表象を現実化する役割を果たしていることが明らかとなる.

第四部においては,化学的思考の受容と展開を分析することを通じて,ディドロにおける物質および物質世界の概念の特徴が提示される.ここでは,純粋に化学史的な意義においてではなく,唯物論あるいは認識論との関わりからディドロの化学的物質観を考察することが主要な目的となる.第一章では,ディドロの自然理論・物質理論の初期の作品である『自然の解釈に関する思索』に見られる化学的思考の萌芽状態が分析される.ベーコンによる実験哲学の原理を「解釈」という独自の概念へと変容させることで物質相互の関係性と力の内在論理を化学的なものとして導出し,最終的には「生きた物質」「死んだ物質」という物質のみによる世界理解を見出した,いわば唯物論的一元論が確立されるまでのディドロの手続きが明らかとなる.第二章では,ディドロによって起草された同時代の代表的化学者ルエルの講義録に見られる物質論が,『百科全書』項目「化学」などに見られる同時代の理論との関係において検討される.ラヴォアジェ以前の萌芽的な化学思想における物質と歴史との特徴的な関係がそこから導出される.第三章では,化学的な物質観がディドロの思考の発展に寄与していく経緯が,ディドロによる『百科全書』項目「カオス」と「神智学者」,および著作『物質と運動に関する哲学的原理』の具体的な読解を通じて明らかになる.最終的にディドロが物質相互に働く力として独自に提示したrnisus」という概念が指摘され,これによって,物質結合の力は物質相互の関係性によって規定されるという考えにいたったことが明らかになる.ディドロの唯物論的思考を支える関係性の概念が化学的観点から基礎付けられていく過程が明らかになる.

第五部では,ディドロの唯物論的一元論の原理とそこから帰結する怪物的世界像を抽出することを試みる.第一章においては,博物学者ビュフォンの思想との関係において,『ダランベールの夢』において提示された存在者の秩序がいかなるものであったかが検討される.事物の形態は,先天的にあるいは超越的に与えられた形相によるものではなく,内在する力が結合した結果事後的に偶発的に形成されるものである.このような考えを明らかにすることで,唯物論的一元論の体系内ではあらゆる存在者が異質なものの集合からなる「怪物」であるというディドロ独自の考えを説明する.第二章は怪物と道徳の問題が分析の対象とされる.怪物的なものと狂気との近傍性,および『ダランベールの夢』後半部のテーマである雑種の問題が提示する道徳の問題を考察し,さらにその後の『生理学要綱』の「生理学」的観点から演繹される道徳概念を分析することで,異質なものの連関と協働による「怪物的な」世界像の道徳的意義が問われる.存在を怪物的なものと見なすディドロの思考は,単に諸存在を相対性へと帰着させるものではない.怪物の存在論とは,人間を力の表出と見なすものであって,自らを方向付ける道徳を仮構する人間の権利をむしろ保証するものであったことが判明する.

上記の分析を通じて,人間や物質,絵画表象の細部や『百科全書』の項目といったすべての領域に関して,個々の微細な諸要素を「群れ」として取りまとめ,タブローや形象といった一つの力へと「変容」させようというディドロ特有の思考が見いだされる.そこには単純な目的論には陥らない理性の可能性がある.また,本論文に収められた論考を通じて言えることだが,合理性の持つ目的連関が強固になりすぎたように思える現代の状況において,自らの身体から思考を始めたディドロの批判的な営為を浮き彫りにすることは,現代における個々の生の様態を活性化させるための理論的な基礎を提供する一助になったのではないかと考えている.

審査要旨 要旨を表示する

大橋完太郎氏の博士論文『群れと変容の哲学―ドニ・ディドロの唯物論的一元論とその展開―』は、18世紀フランスの啓蒙思想家ドニ・ディドロの哲学の展開を実践という独自の観点から統一的に読み解いた論文である。序文に続く本論は5部構成で、第5部以外はすべて3章と結論からなるので全体では14章、それに加えて結論と20頁に及ぶ補論が付されている。文献目録まで含めて228頁の大作である。

第1部は「弁証法の手前側」と題されているが、ディドロの『ラモーの甥』を採り上げて、その意義を近代において決定づけたとも言うべきヘーゲルの『精神現象学』の記述を批判的に再検討しながら、ヘーゲルが読み落としたディドロの問題系を、身体性のうちに見出す議論が展開されている。これは、大橋氏の本論文執筆の基本的な構えが、ヘーゲル的近代によるディドロの位置づけに対抗し、その歴史的な通説から、現代にも通じうるディドロ哲学の可能性を〈救い出す〉ことにあること、そしてその可能性が物質的な身体性のうちに探求されることを明確に示している。

第2部「抽象と形象」では、『盲人書簡』と『聾唖者書簡』という二つのテクストを対象にして、ディドロの感覚論が分析される。ここでは、盲人・聾唖者といったひとつの感覚を欠如させた存在の分析を通して、世界の連続的な生成の運動というディドロの唯物論的一元論の根幹をなす思想の成立が緻密に跡づけられている。また、そこから出発して、異なった感覚の協働や共存という困難な問題がヒエログリフやエンブレームという特異な概念によって乗り越えられることも、これらの概念の歴史的な時代背景も含めて、詳細に論じられている。

第3部「表象と実在」では、一元的で連続的な現実とその記述との関係を『百科全書』、さらには『1767年のサロン』における絵画の記述などを通して論究するものである。そこではディドロが考えた「百科全書」が、ミシェル・フーコーが古典主義時代の辞書理念として見出したスタティックなタブロー(分類・表)理念からは逸脱したダイナミックな運動体であったことが証される。また、かれの絵画評においても、そこでの問題が、絵画表象のなかに「歩く」という運動を持ちこみ、それを現実として生成させるものであることが論じられ、記述や表象の根源的な媒介性が浮かびあがらせられている。なお、この第3部においては、ディドロの啓蒙思想の実践的な手続きを解明するために、ディドロが執筆した『百科全書』の「中国人(の哲学)」の項目を比較哲学的見地から分析検討する一章が組み込まれている。

第4部「化学的思考と物質論」は、初期の『自然の解釈に関する思索』から『物質と運動に関する哲学的原理』にいたるディドロの物質的世界観の展開を、同時代の化学的思考の布置のなかに位置づけつつ、その独自性を論述したものである。これによってディドロがいかに同時代の化学から影響を受けてみずからの唯物論的一元論を構築していったのかがはっきりと展望できる。しかもディドロが物質相互に働く力として独自に提示した「傾向性 nisus」という概念の重要性が指摘されている。

第5部「一般性と怪物性」は、これまでの論述を受けて、『ダランベールの夢』を分析しつつ、ディドロの唯物論的一元論から帰結する怪物的な存在論の世界とそこにおける道徳の問題が論じられる。ディドロの思想においては、最終的には、すべての存在者、またその形態は、超越的に与えられた形相によるのではなく、異質なものの偶発的な集合、つまり「群れ」となることが示される。これは、通説となっている啓蒙思想の哲学にはもはや還元できない過激な哲学である。論文提出者は、これまでの論述を通してついにディドロ哲学の新しい解釈へと辿り着く。だが、もしそうだとすれば、この唯物論的一元論はいかなる実践的な道徳を提起するのか――この最後の問いに、大橋氏はディドロの『生理学要綱』における道徳の問題の記述を手がかりにそれを「変容の道徳」として解明しようとするのである。

以上、ディドロ哲学の読み直しという壮大な意図のもとに、一方では18世紀同時代の時代背景の細部にまで及ぶ調査、他方では、ディドロのテクストそのものの随所に独自性が発揮された綿密な読解、その二つの柱をもとに新しいディドロ像を打ち立てた力作である。構想の大きさだけではなく、第1部のパントマイム、第2部のヒエログリフとエンブレーム、第3部のタブロー、第4部の「傾向性 nisus」、第5部の怪物などそれぞれの問題設定が結晶した特異点を打ち出すことで、論述に鮮やかなエコノミーを与えていることは強調しておくべきだろう。

審査委員からは、たとえば第3部の「中国人(の哲学)」の分析など、かならずしも全体の論述の進行には必要ではない過剰な記述の箇所があるのではないか、あるいは哲学的思考の読み取りが先行してディドロの個々の作品の文学性への考慮が足りないのではないか、また道徳を論じた最後の部分をもっと膨らませるべきではないか、などの指摘もあったが、どれも本論文に対するきわめて高い評価の上でのコメントであった。ディドロ研究の国際的な状況に通じている審査員のひとりは「世界的にもここ2、30年これほど総合的なスケールのディドロ研究はない」と述べて、仏語での出版を強く求めたことを付記しておきたい。

以上により、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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