No | 125213 | |
著者(漢字) | 平倉,圭 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ヒラクラ,ケイ | |
標題(和) | ジャン=リュック・ゴダール論 : 編集/ミキシングによる思考 | |
標題(洋) | ||
報告番号 | 125213 | |
報告番号 | 甲25213 | |
学位授与日 | 2009.07.17 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学際情報学) | |
学位記番号 | 博学情第29号 | |
研究科 | 学際情報学府 | |
専攻 | 学際情報学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本論文は、フランス/スイスの映画監督ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard, 1930-)の最初期から2008年までの作品群を分析することを目的とする。分析の焦点は、ゴダールが音‐映像の編集ないしミキシングによっておこなう「思考」の論理を明らかにすることにある。 分析の方法論は、ゴダールが1974年以降のヴィデオ作品およびモントリオールにおける映画史講義(1978)で採用し、『映画史』(1998)期以降の作品群で爆発的に展開した方法をゴダール自身の映画に再帰的に適用することで与えられる。すなわちゴダールの方法でゴダールを分析すること。形式的には以下の三つのことを意味する。(1)映画を(擬似的に構成された)「編集テーブル」で分析すること。(2)映画を「思考」の問題として捉えること。(3)その思考を「実例」として示すこと、またそこから由来する「不定性」を分析の内部に回帰させること。 三つは相互に関連している。ゴダールの「思考」は、「編集テーブル」で操作される音‐映像の「実例」提示が孕む、「不定性」そのものをみずからの構成要素として展開されている。本論文はその不確定な「思考」の形式をゴダールの映画から取り出し、それを剽窃することで分析をおこなう。 だがそこでなされる剽窃は、分析を客観的たらしめるだけの距離を確保しない。(1)剽窃的におこなわれる分析は、その分析単位の取り出しを、剽窃行為の実行そのものに再帰的に依存しており、かつ(2)そこで取り出される分析単位はそれじたい、映画を見る‐聴く身体の認知限界上の暗さによって内的に汚染されているからだ。剽窃という本論文の方法的態度は、この根拠なき再帰性と汚染の場において、映画と映画の分析者の距離消失そのものを問題にする。なぜか。ゴダールの思考は、その距離消失そのものの場で組み立てられているからだ。そこで展開されるのは、「証言なき証拠の内在性」の論理である。 その距離消失の場所に、ゴダールは一つの名前を与えている。「似たもの(semblable)」というのがそれだ。ゴダールの全時代の作品群を貫く鍵概念でもあるその言葉が本論文全体の方法論を指す。すなわち、映画に「似る」ことの外的不可能性と内的不可避性において同時に分析を遂行すること。「似る」ことが不可避なのは、分析者が映画に見た‐聴いたと信じる分析の単位と、映画それ自体の現実的な構成単位とを区別する基準が、分析者の内側では決して与えられないからだ。分析は、根拠なき再帰性と私の身体の認知限界によってあらかじめ損なわれている。しかしゴダールの「思考」が姿を現すのは、映画を見る‐聴く者の身体が避けることができないこの受動的損傷への内在を通してである。この受動的損傷に内在して構築される映画の理論を、本論文は、「理論theoria」という語が元々「観ること」を指したことを借りて、「失認的非理論a-theorism」と呼ぶ。 本論文は次のように構成される。 第1章、「実例教育」。 ゴダールの「思考」は映画の音‐映像諸要素の「結合」の仕方のなかにある。その「結合」の仕方をゴダールは、ピエール・ルヴェルディの言葉を借りて、「かけ離れていて、かつ正しい」と呼ぶ。結合が「かけ離れて」いることは映画メディアの物質性に由来する。では結合が「正しい」とはいったいどういうことなのか? 本章はまずジル・ドゥルーズが『シネマ2*時間イメージ』(1985)で展開したゴダール論を批判的に読解し、結合の「正しさ」が言語で同定できない領域にあることを示す。その上で、『ゴダールのリア王』(1987)における「プラギー教授」=ゴダールが、いくつかの音‐映像アレンジメントを「実例」として提示することによってその「正しさ」を感覚可能なものとする「実例教育」の方法を発明していることを明らかにする。最後にその「正しさ」は、固定した結合ではなく、不確定に揺れ動く確率的な結合を指していることを示す。 第2章、「問いと非応答」。 ゴダールがおこなう「結合」は、音‐映像の形式的な結合にはとどまらない。そこでは映画に登場する男と女、人間と動物、人間と機械といった諸々の存在者の結合がおこなわれる。本章はまず、ゴダールがおこなう音‐映像編集からいくつかの例を分析し、擬似的に構成された編集テーブルでそれを分解することで、その結合の論理を明らかにする。次にその結合が、男と女の関係に向けられるときには様相を変えていることを指摘する。それは『勝手にしやがれ』(1960)以降1960年代前半の作品群において、男たちの「問い」に対する女(ファム・ファタール)たちの「非応答」という構図で描かれていたものである。手掛かりにされるのは、ゴダールがある手紙に書きつけた「非応答」という言葉である。しかし1966年以降その構図は、男たちの「拷問」に対する「応答不可能」な女たちの「受苦」へと変化する。その男たちの「拷問」は、映画という装置が観客に与える「拷問」とパラレルなものであることを最後に論ずる。 第3章、「見逃し/聴き逃し」。 映画の与える「拷問」は、1968年以降の「政治映画」において、来たるべき固有言語を担う新しい視‐聴覚の産出に向けられている。本章はジガ・ヴェルトフ集団最後の作品『ジェーンへの手紙』(1972)におけるジェーン・フォンダへの「拷問」の分析によってそれを示す。だが分析をすすめるときに明らかとなるのは、ゴダールとジャン=ピエール・ゴランがそこで展開する思考=結合の錯乱性と、奇妙な「見逃し/聴き逃し」の存在である。本章はここでゴランの『ポトとカベンゴ』(1977)を参照しつつ、固有言語を創造しようとするジガ・ヴェルトフ集団の実践が実際には「代弁」の論理に乗っ取られており、かつ視‐聴覚の確率的な「不定性」に晒されて内側から潜在的に挫折していることを論ずる。その挫折は1974年、『ヒア&ゼア・こことよそ』において、パレスチナ解放闘争の兵士たちの、命がけの身振りと声を見逃す/聴き逃すというかたちで、ゴダール自身に破壊的に回帰している。 第4章、「類似」。 『ヒア&ゼア・こことよそ』以降、ゴダールは見ることの解像度を更新する。そこで獲得されるのは「類似」という結合の方法である。しかしドゥルーズは同じ映画について、「類似」の存在を否定している。そこで本章は再び『シネマ2*時間イメージ』の批判的読解をおこない、ドゥルーズが「類似」を否定したのはなぜかを分析する。さらにそこから、ゴダールの70年代後半以降の作品に「ディソルヴ」・「ダイアグラム」という「類似」を介した裂け目なき結合を見出していく。「似ていること」と「同じであること」の境界を溶解させるこの編集を本章は、ゴダールの映画の「思考」を構成する「形態的証明」の論理として位置づける。またその「証明」が、言語の論理を逸脱した錯乱性と不定性を孕むことを示す。最後にこの「形態的証明」が、90年代の作品において、「分身」を介した「復活」の実践に向けられていることを明らかにする。 第5章、「受苦と復活」。 ゴダールは『パッション』(1980)において、「受苦」する女たちののけぞりを構成する。それは『こんにちは、マリア』において「受苦」する女のヒステリー的のけぞりに、さらに『映画史』において、ヒステリー的にのけぞる女たちの身体の「類似」が演ずる、忘却された過去の「想起」=「復活」という問題へと展開される。本章はこの「受苦」・「類似」・「想起」・「復活」の問題が、『映画史』とそれ以降の作品群において、「回教徒」と呼ばれる強制収容所の身体を「復活」させることに賭けられていることを示す。次いでこの「復活」が、「拷問」に対する「叫び」の見逃し/聴き逃しのなかで「予告」されていることを論ずる。最後にこの「復活」の論理が「不定性」を孕むことを指摘し、しかしその「不定性」こそが「復活」の論理そのものを構成していることを『アワーミュージック』(2004)における「ディソルヴ」の見逃し/聴き逃しを分析することによって明らかにする。 | |
審査要旨 | 本論文は、映画監督ゴダールの最初期から2008年にいたる作品群をほぼ網羅的に対象として、ゴダールが音および映像の編集ないしミキシングによって実現している思考の論理を明らかにしたものである。 全体は序と結論に挟まれた4章からなる。序における目標設定と方法論の提示を受け、第1章では、ジル・ドゥルーズのゴダール論を批判的に参照したうえで、作品の細部における音-映像の連結原理がきわめて緻密に検討され、ゴダールが「正しい」と呼ぶ結合が、音と映像の変動周期が示す時間的レイアウトの類似に基づいていることが見出される。しかしながら、著者が注目するのは、この結合が固定化したものではなく、同期と非同期の間を揺れ動く不確定性を特徴としているという点である。 第2章は、外在的な根拠をもたないという条件下で音-映像の諸要素を「正しく」結合しようとするゴダールの映画が、「問い」と「応答」をテーマとするにいたる経緯を明らかにする。ゴダールの映画において、この「応答」は不確定で擬似的なものにとどまる。だからこそ、初期には男による「拷問」としての「問い」と女たちの「非応答」が、1966年以降は「応答不可能」な女たちの「受苦」が重要なモチーフとなる。 第3章は、1968年以降にジガ・ヴェルトフ集団などでゴダールが手がけた政治映画を取り上げ、革命的な固有言語を創造しようとするその実践が、みずからの映画それ自体の孕む、一義的に確定できない「不定性」によって裏切られている点を指摘する。その矛盾は、1974年の『ヒア&ゼア・こことよそ』において、そこに記録されたパレスチナ解放闘争の兵士たちの身振りと声を、ゴダール自身が「見逃す/聴き逃す」という出来事となって顕在化する。のちの『映画史』で全面的に展開される「類似」による結合方法へと向かうゴダールの転回点が、これによって明確に位置づけられる。 第4章では、1970年代後半以降の作品でこうした「類似」による結合を実現する具体的手法として、「ディソルヴ」と「ダイアグラム」が数多くの実例を通して分析される。これらの手法に著者は、「似ていること」と「同じであること」を同一視する、錯乱的なゴダール映画の論理を認め、それを「形態的証明」と名づける。そして、この論理こそが、1990年代の作品群で特徴的な、類似した「分身」によって果たされる「復活」というモチーフに通じていることが明らかにされる。 このモチーフが有する射程を詳しく考察したのが第5章である。ゴダール作品に登場する受苦する女たちは、1980年の『パッション』以降、ヒステリーの症状に似たのけぞる身振りを繰り返す。そこにはヒステリーという病に結びつく、忘却された過去の想起=復活という主題が関係している、と著者はとらえる。そして、受苦・想起・復活をめぐるこうした問題系の中心には、ナチスの強制収容所で「回教徒」と呼ばれた生ける屍の身体を映画の中で「復活」させるという思考があった、と論じられる。さらに著者は映像の解像度を高める操作を通じ、そのような復活の実例として、『アワーミュージック』(2004年)において、ゴダール自身が自分の顔を強制収容所のユダヤ人や「回教徒」の映像に類似させているシーンをあらたに発見している。そして結論では、ゴダールが駆使するダイアグラムに特に注目し、本論文で浮き彫りにされた映画的思考の論理を、より広い展望のもとで探究する可能性が提示されている。 以上のように本論文は、徹底して内在的に構成される映像がどのように「正しい」結合を作り出すことが可能か、という問いの追究としてゴダールの映画をとらえ、その編集ないしミキシングの方法や作品中で反復されるモチーフの意味、およびそれら相互の関係性を、つねに映像の細部に即し、具体的な手続きによって詳細に明らかにしている。それは、先行するゴダール論を批判的に踏まえつつ、情報技術を活用して視聴覚情報の分析解像度を上げることにより、従来の研究とはもはや別次元で精緻な議論を展開している点で劃期的であり、明晰な文体や稠密な論理構成とも相俟って、きわめて高く評価できる内容を備えている。 審査の過程では、映像を分解して断片化する分析手法の妥当性が問われたが、映画のナラティヴをあえて解体するこのアプローチは、ゴダール自身が『映画史』などで行なった、映画的時間の反省方法にのっとったものであり、限界を自覚した十分な吟味のもとに適用されていることが確認された。論文題目にある「編集」と「ミキシング」のうち、後期の作品で特徴的な「ミキシング」による結合が本論文では強調され、それと比較して「編集」に含まれる切断性が十分論じられていないという指摘も受けたが、ゴダール作品の膨大なアーカイヴを貫く「結合」の論理を説得的に提示し得たことは、その欠落を補ってあまりあると言うべきであろう。 もとより、映像の「類似」は、ゴダール作品のみならず、他の多くの映画に通底する現象であり、より大きなプロブレマティックに置き換えて分析することが可能である。しかしながら、本論文はまさしくこの巨大なプロブレマティックを扱う方法それ自体を厳密な手続きによって開拓したのであり、ゴダール論のみならず映画論一般を更新しうる先駆的な研究として、国際的に見ても多大な学術的貢献を果たすものと評価できる。よって、本審査委員会は、本論文が博士(学際情報学)の学位に相当するものと判断する。 | |
UTokyo Repositoryリンク |