学位論文要旨



No 121675
著者(漢字) 森村,久美子
著者(英字)
著者(カナ) モリムラ,クミコ
標題(和) 音量バランスに着目した合唱歌唱の評価と指導法への展開 : 合唱情報学へ向けて
標題(洋)
報告番号 121675
報告番号 甲21675
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学際情報学)
学位記番号 博学情第100号
研究科 学際情報学府
専攻 学際情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 原島,博
 東京大学 教授 佐々木,正人
 東京大学 教授 荒川,忠一
 東京大学 助教授 苗村,健
 東京大学 助教授 峯松,信明
 宮城大学 助教授 茅原,拓朗
内容要旨 要旨を表示する

本研究は,情報学をツールにして合唱を学際的に捉え,分析することによって,合唱情報の定量化を計り,それを新しい合唱指導法へと結び付けようとするものである.

合唱の歌い手として,また指導者として長年合唱にかかわってきた筆者の体験を通してわきあがってきた疑問に応える形で本研究は動機付けられた.本研究ではこの動機に基づき,合唱をいかに定量的に評価するか,また,その成果をいかに新しい指導法へつなげていくかについて,情報学の手法を用いて検討した.

具体的には,情報学的手法を用いて合唱内の個々の歌声をマルチチャンネルで同時に録音・採取し,音量バランスの観点から解析,定量化することによって,合唱を科学的に論じた.また,その中で得られた知見を実装した新システムを通して提示し,その評価を経て,新しい合唱指導法を提案した.上述の一連の手法を用いて合唱を改善する,いわゆる合唱情報学という新しい学の体系の基礎を構築し,提案した.

以下,本研究での成果を簡潔にまとめる.

まず,第1章では,本研究の背景と目的を述べた.

第2章では「合唱音楽の概観」と題して,合唱の起源,合唱と人間とのかかわり等について歴史的な経緯をたどった.さらには合唱の現状にも言及した.

第3章では「合唱研究の系譜」と題して,合唱の関連研究を体系的にまとめ,概観した.また,その中から,本研究で音量バランスを取り上げるに至った経緯を述べた.

第4章では,「歌い手における合唱のパート間音量バランスの検討」と題し,合唱の歌い手が合唱を指示された歌い方で歌うときに音量バランスがいかなる変化をするかについての検討を行なった.

具体的には,合唱団員に個別マイクを装着し,合唱を歌わせながら,同時録音装置を通して個別の歌唱音をマルチチャンネルで録音した.Unison(同一パートの2名ずつが同じ音を斉唱で歌う), chord(6名全員が合唱で和音を歌うが,各パートは指定された音を他を意識せず自由に発声する), harmony(6名全員が合唱で和音を歌う.ただし,各パートは指定された音をよくハーモニーするように意識して歌う) の3通りの歌い方で歌わせた結果,harmonyのときには全体の音量が下がる,harmonyのときには音量は周波数と相関を持って収束する傾向を見せた.また,その変化量はメゾソプラノが最大であった.

実験を通して,歌い手はハーモニーを合わせるように合唱を歌うときには,音量バランスを考慮して音量を調整することがわかった.これが歌い手における音量バランスである.その際に,音量が周波数と単に線形の比例を見せるのではなく,メゾソプラノが少し他パートより音量を大きく落とすのは,いわゆる合唱効果(Chorus Effect)と呼ばれるものであろう.

第5章では,「聴き手における音量バランスの検討」と題して,合唱を聴く者が何らかの音量バランスを期待しているのか.期待しているならばいかなる音量バランスを期待しているのかについての聴取実験と考察を行なった.

マルチチャンネルで採取した合唱内個別音を,同じ6チャンネルの出力でミキサーからヘッドフォンを通して被験者(聴き手)に提示した.被験者は各チャンネルに対応したミキサーのレバーを上下に動かし,自分の好みの音量バランスへと合唱音量を調整する.実験を素人とプロの指揮者を被験者として聴取実験をおこなったが,音量バランスには各人の嗜好が強く影響することが分かった.プロの指揮者2名の間でも嗜好や調整方法も異なるが,多数の試行の平均値はほぼ同じ傾向を示した.すなわち,両者ともメゾソプラノの音量を他パートに比べて少なくした.ただし,これが合唱に普遍的な音量バランスであるのか,この和音の構造によるものかを明示するには,今後のさらなる実験を必要とする.

第6章では,「音量バランス概念の合唱指導法への導入」と題し,第 4 章 および第5章から得られた知見に基づき,合唱を行なう中で音量バランスの概念を合唱指導法へ導入することを試み,そのためのシステムを考案した.第 4 章 および第 5 章で,歌い手にとっても聴き手にとっても,合唱を行なう中で音量のバランスを取ろうとする観念があることが証明された.よい合唱を行うためには,歌い手は自分たちが良いと感じる音量バランスから発展して,聴き手が望む音量バランスに近づけることが必要である.著名な指揮者の持つ音量バランス感覚は,一般聴衆をおのずから納得させるものであり,そのバランスに合うように歌うことは,とりも直さず合唱の上達を意味する.プロの指揮者の理想とする音量バランスを実現するためには,音量のコントロールを可能にする技術が要求される.この技術を習得するために,再び情報学の手を借りる.ある周波数でのある音量のコントロール力を身につけさせるために,周波数と音量を同時にリアルタイムにビジュアライズして表示するシステムが必要になる.このシステムの実装を行い,実際に合唱の歌唱者に使用させて評価実験を行い,システム効果によって指揮者の理想とする音量バランスが実現されることを確認した.

本研究では,実装したシステムを実際に合唱の場面で使用し,周波数に対応する音量を表示して歌わせることにより,歌唱者の反応や効果,有用性などを確かめた.このシステムは,指導法への適用を目指すものであるから,システムを実際の合唱練習に導入し,歌い手の感想をこれからの改良にフィードバックしていくことにより,より効果的なシステムへと進化させていく必要がある.

以上をまとめると,本研究においては音量バランスについて,いくつかの実験を通して,その概念の確認と定量化を行い,その結果に基づいて新しい音量表示システムを実装した.新システムを用いた実験からは期待された結果が得られた.そこで,それをもとに新しい合唱指導法を提案・開発していくことが次の課題としてあげられる.

本研究では,合唱を構成する多数のパラメータの中で,特に音量バランスに着目しての合唱歌唱の改善について考察を進めてきた.しかし,合唱の改善に影響を与える要因は音量のみに限らない.音程やリズムなど一義的に定義される要因のみではなく,倍音構造が複合的に絡み合って変動する音色も考慮に入れなくてはなるまい.音色を定義するのは困難であるが,合唱が単純な音楽ではなく,様々な要素が複雑に絡み合って生成されている芸術であるからには,音色の解明を試みずして核心に迫ることはできないし,また,情報学の手を借りてこそ,それが可能になると考えられる.

本研究は,従来,芸術の領域に属するものとしてあまり科学の手を入れてこなかった合唱を,科学的に捉え,定量的に分析して,それに基づいて合唱を改善する新たな方法を探ろうとしたものである.実験から,分析,新手法の提案にいたるまで,新しい可能性を示唆する.合唱の技巧は今後ともますます進歩し,人間にしかできないものとして,これからも存続していくであろうが,本研究で掲げた成果は合唱の本質に迫るものであり,提案手法は合唱技術の新たな可能性を示し,情報化時代に即した新しい指導法を提言するものである.

しかしながら,情報学を用いた合唱学は,情報技術のみで実現されるものではない.あくまで芸術としての合唱が対象であり,情報学の導入によってその芸術性が損なわれてはならない.これまでの他分野での現状を見ても,情報学は時として研究対象を飲み込んでしまうこともある.合唱の本質を見失うことなく,合唱をより深く探求し,発展させるためにこそ合唱情報学の研究,開発は進められなければならない.今世紀に入ってからの情報学の急速な発達は,従来の学問分野を横断的につなぐ一方で,既存の学問分野との間に軋轢をもたらし,新たな問題も引き起こしている.合唱が人の心を揺り動かす力を持ち続けるためには,個人個人が毅然とした合唱観を持って合唱の改善に取り組んでいかなくてはならない.芸術としての合唱と科学としての合唱情報学,両者の交点に立つ著者は,その道しるべとならなくてはならないだろう.本研究が,芸術と情報学を結びつけ,その橋渡しをし,合唱芸術をより豊かなものにする一助となることを切に願う.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,「音量バランスに着目した合唱歌唱の評価と指導法への展開―合唱情報学へ向けて―」と題し,従来の合唱指導法の欠点を補う新しい試みとして,音量バランスに着目して合唱歌唱を評価し,その中から得た知見を情報学的なアプローチによる新しい指導法へと展開する方法を体系的に論じたものであって,全体で7章からなる.

第1章は「序論」であり,従来の合唱研究及び合唱指導法の現状と限界,即ち,合唱の種々のパラメータを定量的に記述することの困難さと,それに起因する合唱指導の徒弟制に依存する問題点を指摘するとともに,本研究の対象領域として音量バランスを取り上げる意義を明確化することにより,本論文の背景と目的を明らかにしている.

第2章は「合唱音楽の概観」と題し,本論文の主題である合唱について,その起源をたどり,「コーラス」の語源である「コロス」がギリシャ悲劇において群衆の声を意味するという事実,それに由来する大衆の声としてのコーラス(合唱)の在り方,人間の発達段階と合唱の発達の関わりについて論じ,さらに,「第7回世界合唱シンポジウム」に見る世界の合唱の現状を同シンポジウム参加報告の形で記述している.

第3章は「合唱研究の系譜」と題し,まずは,歌唱法の雄であるベルカント唱法の隆盛と衰退の原因を探ることにより,歌唱を科学的に解明することの困難さを論じている.次いで,スウェーデンの王立工科大学(KTH)におけるSundberg, Ternstromらを中心とするグループによる研究,即ち合唱における音程,音色,リズム・テンポ,発声,アーティキュレーション等を周波数,音圧,倍音構造,時間分割,声源,フォルマント,F0等の物理的パラメータとして捉えることにより,合唱を定量的に記述した一連の研究を俯瞰している.それらの知見を踏まえて,人が集合することにより独唱が合唱に転ずることによって初めて成立する要素として音量バランスを挙げ,音量バランスを合唱研究の対象として捉えることの重要性を論じている.

第4章は「歌い手における音量バランスの検討」と題し,歌い手が合唱を歌唱する中で,協調により自ずから収束する音量バランスを解明している.本章では,合唱を3通りの歌い方(unison, chord, harmony)で歌うことによる音量バランスの変化を,マルチチャンネル同時録音装置を用いて合唱中の個々の歌唱音を録音し,解析している.この実験で用いられた手法は,合唱研究として新規性に富み,これまで解明し得なかった合唱中の個々の歌唱音の挙動を明らかにする手段として有意義である.また,分析の結果,歌い方がharmonyの際にはchordに比べ全体の音量が下がること,また,音量は周波数と相関を持って収束傾向を見せるが,その変化量はメゾソプラノが最大であることなどの知見を得ている.

第5章は「聴き手における音量バランスの検討」と題し,第4章での歌い手の立場から論じた音量バランスと対照的に,合唱の聴き手の立場からの音量バランスを,2種類の聴取実験により検討している.まず第1の実験では,学生被験者を音楽習熟度に応じて熟練者,中熟練者,非熟練者の3段階に分け,音量バランスを変化させた一対の和音を聴き比べて嗜好を判断させている.その結果,音量バランスの聞き分け能力は音楽習熟度に依存することが示されている.また第2の実験では,我が国の合唱界を代表する指揮者2名を被験者に迎え,デジタルミキサーによるマルチチャンネル音量調節実験をおこなっている.これは,第1の実験から素人には音量の微細な差は判定できないという知見を得たことと,一般聴衆の支持を得ているプロの指揮者の判断は個人的ではあっても客観性を保つであろうとの仮説によるものである.被験者2名の音量調整手順は異なり,それぞれに特徴を見せたが,全試行の平均値はいずれもメゾソプラノの音量を下げ,次いでソプラノ,アルトを最も大きくするという同様の傾向を示した.また,第4章の結果と参照させつつ,聴き手による音量バランスの実験結果と歌い手による音量バランスの実験結果との整合性についても論じている.

第6章は「音量バランスの指導法への導入」と題し,第4章と第5章において歌い手と聴き手による音量バランスの実験結果から得た知見を,合唱の指導法へ導入する試みを提案し,その効果を検証している.具体的には,合唱の指導法に情報技術を中心とする情報学的アプローチを導入することの意義を論じ,聴覚情報を視覚化するシステムを用いて合唱の練習を支援する指導法を考案し,実装している.合唱団によるシステムの評価実験をおこない,定量的な理想の音量バランスの習得可能性を評価し,システムの有効性を示している.また,指揮者による検証実験でも,この装置による練習効果が確認された.

第7章は「結論」であり,本論文の主たる成果をまとめるとともに今後の課題と展望について述べている.

以上を要するに,本論文は,科学的なアプローチによって新たな合唱指導方法を探ることを目的として,合唱の様々なパラメータの中から特に音量バランスに着目して,そのデータ取得・分析・合成・提示手法を提案し,歌い手および聴き手の立場からの音量バランスのありかたを心理学的な聴取実験によって論じ,あわせてこれを情報学的なアプローチ即ち情報技術を用いた新たな合唱指導法へと結びつけたものであって,今後の学際的な合唱情報学の進展に寄与するところが少なくない.

よって本論文は博士(学際情報学)の学位請求論文として合格と認められる.

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