学位論文要旨



No 120815
著者(漢字) 鈴木,貴之
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,タカユキ
標題(和) 表象理論にもとづく現象的意識の自然化
標題(洋)
報告番号 120815
報告番号 甲20815
学位授与日 2005.12.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第605号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 信原,幸弘
 東京大学 教授 今井,知正
 東京大学 教授 村田,純一
 東京大学 教授 野矢,茂樹
 東京大学 教授 門脇,俊介
内容要旨 要旨を表示する

科学革命以降急速に発展した近代自然科学は、われわれが住む世界にかんして数多くのことを明らかにしてきた。今日では、自然科学の発展によって、われわれ人間とわれわれを取り巻く世界にかんして、かつてないほどの豊かな知識がもたらされている。しかし、このような自然科学の発展にもかかわらず、人間存在の根幹をなす一つの現象は、今なお十分に理解されないままに残されている。それは意識経験(conscious experience)である。

自然科学的世界観が教えるところによれば、われわれ人間はさまざまな種類の素粒子や原子から構成された存在に過ぎず、われわれの脳において生じているのは、さまざまな化学的変化や神経細胞の電気的な興奮などでしかない。これらの事柄は、いかにしてわれわれの豊かな意識経験を可能にするのだろうか。自然科学的世界観のなかで人間について語りうることと、われわれの意識経験とは、どのような関係にあるのだろうか。これが、本論文の主題となる意識の謎である。

本論文の目的は、自然科学的世界観のもとで意識の謎に対する解答を試みること、すなわち、意識の自然化(naturalization)を試みることにある。本論文の内容は以下の通りである。

第一章では、意識の謎に取り組むための準備作業として、この謎の内実を明確化することを試みた。まず、第一節では、意識の謎において問題になっているのは現象的意識(phenomenal consciousness)と呼ばれる現象であるということを明らかにした。現象的意識は、知覚、感覚、感情、意識的思考などを要素とし、それぞれの意識経験には独特の感じであるクオリア(qualia)が伴う。意識の謎とは、自然科学的世界観のもとでクオリアを伴う意識経験を理解できるかという問題なのである。第二節では、自然科学的世界観は世界に存在するすべての存在者はミクロ物理的な存在者によって構成または実現されているものとして理解できると考える立場、すなわち物理主義(physicalism)として定式化可能であるということを明らかにした。第三節では、意識の自然化は不可能であると論じる議論として、思考可能性論法(conceivability argument)、知識論法(knowledge argument)、錯覚論法(argument from illusion)という三つの議論が存在することを明らかにした。これらの議論によれば、意識経験と人間にかんする自然科学的な記述のあいだには埋めがたいギャップ、すなわち説明ギャップ(explanatory gap)が存在し、このことが意識の謎を単なる未解決の問題以上のもの、すなわちハードプロブレムとしているのである。

第二章では、意識のハードプロブレムをめぐるさまざまな立場について検討し、われわれが物理主義をとるのであれば、現象的意識に実質的な説明を与える必要があるということを明らかにした。第一節では、現象的意識という現象自体の実在性を否定する消去主義(eliminativism)について検討し、物理主義者は、意識のハードプロブレムの存在自体を否定することも、それは説明を必要としない一種の疑似問題であると考えることもできないということを明らかにした。第二節では、認識論と存在論の区別に依拠して、物理主義者はハードプロブレムに実質的な解答を与える必要はないと主張するタイプB物理主義について検討した。しかし、物理主義としての実質を保ったままこのような立場をとることはできないということが明らかになった。第三節では、物理主義に対する最も強力な批判である思考可能性論法について検討した。この議論によれば、人間と物理的なあり方が同一でありながら現象的意識を持たない存在者、すなわちゾンビが思考可能であり、このことは、意識の自然化は不可能であることを示しているというのである。しかし、ゾンビを思考可能にする意識概念は内的不整合を含む混乱したものであり、そのような概念のもとでの思考可能性は存在論にかんする信頼できる帰結をもたらさないため、思考可能性論法は物理主義の可能性を決定的に否定しうるものではないということが明らかになった。

第三章では、現象的意識の自然化に向けての第一歩として、われわれの意識経験そのもののあり方をくわいしく分析した。第一節では、現象的意識に伴うクオリアとは、意識経験そのものの性質ではなく、意識経験の志向的対象が持つ性質であることを明らかにした。第二節では、このような見方、すなわちクオリアにかんする志向説(intentionalism)によって、知覚経験だけでなく、感覚、感情、雰囲気などの意識経験も分析可能であるということを明らかにした。第三節では、志向説に対する反例として挙げられる見かけの大きさなどの事例も、志向説のもとで理解可能であるということを明らかにした。第四節では、感覚様相、注意、内観といった意識経験の一般的特徴も、志向説によって説明できるということを明らかにした。これらの考察の結果、クオリアにかんする志向説にもとづいて、意識経験はすべて、自らの身体を含めた外界の対象にかんする知覚として理解できるということが明らかになったのである。

さらに、われわれはすでに物理主義的な志向性理論を有しているので、志向性概念を用いて現象的意識を分析できれば、志向性を介して現象的意識そのものを物理主義的に理解できるように思われる。このように、クオリアにかんする志向説を手がかりとして意識の自然化を試みる理論は、意識の表象理論(representational theory of consciousness)と呼ばれる。自然主義的な意識理論として最も有望であるのは、この表象理論である。しかし、第五節では、意識の表象理論にはいくつかの根本的な問題があることが明らかになった。意識経験における表象の特殊性を説明できないこと、すべての表象状態が意識経験であるとは考えられないこと、経験される性質と物理的性質の関係が明らかでないこと、意識経験の実在性を説明できないこと、という四つの問題である。表象理論によって意識を自然化するためには、これら四つの問題を解決しなければならないのである。

第四章では、表象理論の中核をなす志向性概念の再検討を手がかりとして、これらの問題の解決を試みた。第一節では、物理主義的な志向性理論について考察し、従来有力であった共変理論や目的論的理論ではなく、消費理論(consumption theory)が有望であるということを明らかにした。消費理論によれば、生物のある内的状態が表象であるということや、その表象状態が何を表しているのかということは、それが何によって引き起こされたかではなく、それがどのように利用されるのかによって決定されるのである。第二節では、消費理論にもとづく志向性理解を手がかりとして、表象理論の問題点の解決を試みた。第一に、消費理論においては、他の表象を介することなく利用されうる表象すなわち本来的志向性(intrinsic intentionality)を持った表象と、他の表象を介してのみ利用されうる表象すなわち派生的志向性(derived intentionality)を持った表象が区別されるということが明らかになった。脳状態は前者であるのに対して文や絵は後者であり、両者を区別することによって、意識経験における表象の特殊性が説明できるのである。第二に、二種類の表象を区別することによって、ある主体が本来的な志向性を持つ表象を持つということは、その主体が外界にかんする意識経験を持つということにほかない、と考えられることが明らかになった。これがミニマルな表象理論(minimal representationalism)である。第三に、消費理論による表象理解によれば、本来的志向性を持った表象は、対象の物理的性質を表すのではなく、世界を独自の仕方で分節化するものである。したがって、消費理論にもとづくミニマルな表象理論によれば、対象の経験される性質は、物理的性質には還元不可能な、知覚システムに相対的な性質であるということになる。しかし、経験される性質はなおも対象の客観的性質であるといいうるものであり、また、われわれは、思考において経験される性質を越えて物理的性質のあり方を知ることもできるのである。第四に、物理的性質と経験される性質を区別し、経験に現れる性質が後者であるということを理解することによって、誤った経験の可能性も説明できるようになる。このように、消費理論にもとづくミニマルな表象理論をとることで、従来の表象理論の諸問題が解決され、意識経験とそれを実現する物理的状態の必然的な関係が明らかになるのである。

第五章では、消費理論にもとづくミニマルな表象理論の内実と射程を明らかにするために、この理論からの帰結について検討した。第一節では、動物やロボットなどの意識経験に関しても、この理論によって一貫した説明を与えることができることを明らかにした。われわれは、ある存在者の表象システムがどのような構造を持ち、そこで表象される性質がどのような質空間(quality space)を構成するかを明らかにすることによって、人間以外の存在者の意識経験にかんしても知ることができるのである。第二節では、意識の自然化に反対する議論として最後に残された知識論法について検討した。この議論によれば、ある意識経験にかんする物理的な事実や機能的な事実をすべて知ったとしても、その意識経験がどのようであるかを知ることはできず、このことは、意識経験にかんする非物理的な事実が存在し、意識経験が非物理的であるということを示しているというのである。しかし、ミニマルな表象理論によれば、知識論法が示唆するギャップとは、世界にかんする非命題的な知識である意識経験と命題的な知識である思考の間のギャップであり、これは物理主義的に説明可能なギャップなのである。

以上のような議論によって、われわれの意識経験のさまざまな本質的特徴が明らかになり、表象概念を手がかりとして意識経験を自然化する可能性が示されたのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、現象的意識を物理的世界にいかにして位置づけうるかという「意識の自然化」の問題に包括的かつ詳細に取り組み、きわめて独自な解決をはかった意欲的かつ秀逸な論文である。意識的な知覚・感覚経験に現れる感覚的な質はとくに専門的には「クオリア」と呼ばれるが、それを物理主義的な観点から説明することはきわめて困難である。それゆえ、クオリアないしそれをはらむ現象的意識を自然化する問題は、ときに「意識のハードプロブレム」と呼ばれる。本論文はこの問題に対して、既存の諸説を網羅的かつ徹底的に吟味してその成果と問題点を明快に整理し、それを踏まえて「意識の表象理論」という独自の内容をはらんだ見方を提示し、既存の諸説を乗り越えた一つの有力な立場を確立したといえる。

各章ごとの内容に即して言うならば、第一章では、本論文で取り組む「意識のハードプロブレム」がどのような問題であり、なぜ深刻かつ重要な問題であるのかを、現象的意識の自然化を妨げるようにみえる三つの議論、すなわち「思考可能性論法」、「知識論法」、「錯覚論法」の検討を通して、明快に提示している。

第二章では、意識の自然化をはかる物理主義の諸立場のうち、意識の実在性を否定する「消去主義」と、意識の物理主義的な説明を不可能としつつもその不可能性は物理主義的に理解可能だとする「タイプB物理主義」をいずれも受け入れがたい立場として拒否し、意識を物理的なものに還元する還元的物理主義が意識を自然化しうる唯一の道であることを説得的に論証している。また、思考可能性論法に対して、思考可能性が必ずしも形而上学的な可能性を帰結しないことを説得的に論証して、この論法が意識の自然化の脅威にならないことを示し、意識の自然化を妨げるようにみえる議論の一つが巧みに克服されている。

第三章では、意識の自然化をはかるうえでもっとも有望なのは、クオリアを意識経験の内在的な性質ではなく、それによって表象される(=志向される)性質だとする説、すなわち「志向説」であることを、既存の志向説に重要な洗練を施しながら、明快に論じている。そしてこの志向説と志向性の自然主義的理論を組み合わせることによって意識を最終的に自然化しようとする理論を「意識の表象理論」と名づけ、その具体化と擁護を行うために、まずその理論が直面する根本的な問題を鋭く抉りだして、列挙している。

第四章では、前章で列挙した諸問題に対して、意識の表象理論による解決が与えられる。まず自然主義的な志向性理論として、既存の因果理論や目的論的理論を排して、表象の志向的内容がもっぱらその表象の利用のされ方によって決定されるとする「消費理論」を提唱する。そして表象を他の表象を介さずに行動へと利用される本来的表象とそうでない派生的表象に区別し、本来的表象がそれ以上の何か(メタ表象や言語化など)を必要とせずにそのまま意識経験にほかならないというきわめて独自な主張を展開する。さらにこのような意識経験は世界を主体の関心に即して分節化するものであり、従って経験される性質は主体の関心から独立な物理的性質には還元できず、それゆえにこそ錯覚が可能であることが論証される(こうして錯覚論法も克服される)。本章は本論文の中核となる章であり、意識の自然化についての著者独自の「ミニマルな表象理論」が非常に刺激的に展開されている。

最後の第五章では、ミニマルな表象理論によって人間以外の動物やロボットなどに関する意識の問題にも解決が与えられうることが論じられるとともに、残された知識論法への応答が意識経験の表象内容の「非概念性」を論拠にして巧みになされる。

本論文の独創的な点をまとめれば、第一に、自然主義的な志向性理論として純粋な消費理論を提唱したこと、第二に、経験される性質は物理的性質に還元されず、もっぱら意識経験によって表象されるだけの非因果的な性質だとしたこと、第三に、それにも関わらず意識経験のほうは物理的ものに還元することができ、それゆえ意識経験とともに経験される性質(つまりクオリア)も自然化されること、以上の三点にまとめることができる。

本論文は、意識の自然化をめぐる諸説の徹底的な吟味およびその解決のための独自の有力な立場の提唱という点で、きわめて高い評価に値するものである。本論文は、鈴木氏が意識の自然化という科学哲学上の重要な問題において第一線の力量を有することを十分示したといえる。よって、審査委員は全員、本論文をもって学位取得のために十分であると判断した。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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