学位論文要旨



No 119591
著者(漢字) 近藤,光博
著者(英字)
著者(カナ) コンドウ,ミツヒロ
標題(和) 宗教・ナショナリズム・暴力 : ヒンドゥー・ナショナリスト運動のイデオロギーに関する研究
標題(洋)
報告番号 119591
報告番号 甲19591
学位授与日 2004.07.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第444号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 教授 水島,司
 東京大学 教授 中里,成章
 京都大学 教授 田中,雅一
 国立民族学博物館 教授 杉本,良男
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、現代インドのヒンドゥー・ナショナリスト運動が有する一群のイデオロギー言説の歴史的、構造的な分析を試みるものである。ここでヒンドゥー・ナショナリスト運動とは、日本で一般に「ヒンドゥー至上主義」「ヒンドゥー原理主義」などと呼び習わされるもののことで、その中心的な組織としては民族奉仕団Rashtriya Swayamsevak Sangh、インド人民党Bharatiya Janata Party、世界ヒンドゥー協会Vishwa Hindu Parishadなどをあげることができる。また現代というのは、1980年代から90年代までの20年間のことを指す。これはヒンドゥー・ナショナリスト運動の台頭が一貫して継続し、世界中の耳目を集めたアヨーディヤーAyodhya運動をはさんで、現在のインド人民党連立政権を生みだした期間であり、独立インド史においてとくに重要である。

 一次資料としては、それら諸団体のトップ・イデオローグたちが書いたものや、語ったものの記録を用いた。言語はほとんど英語である。ごく限定的に、ヒンディー語資料と、私自身が現地調査で聞き取った言葉なども用いている。ただし、諸々のキー概念については適宜、それに対応するヒンディー語(私が通じている唯一の現地語)の意味を明らかにし、英語の語りに重ねられる独自の観念世界が浮かび上がるよう工夫した。

 第1章「序章」では、用語法の説明にかなりの紙幅を割いている点は特徴的である。これは、先行研究との効果的な接合をねらったものであるのと同時に、用語の選択と使用方法は論者の理解そのものであるとの考えによるものでもある。したがって、ここでの用語法の説明は本研究の結論の大きな部分を先どりしている。

 そのことは、本研究本論の最初の章(第2章)でおこなわれる、ヒンドゥー・ナショナリズム史の概観にも当てはまる。この作業は、本研究それ以降の箇所に登場する諸団体、諸個人の背景とともに、1980年代と90年代という時期が独立インドの歴史とヒンドゥー・ナショナリズムの歴史において有する意味を明らかにする。これらの点の解明は、ヒンドゥー・ナショナリスト・イデオロギーの解析という本研究の主題をあつかう第3章以降の部分のための導入の役割を果たす。しかしそれだけではない。ヒンドゥー・ナショナリズムの歴史を語ることにより、用語法の説明のときと同じく、本研究の結論が大きく先どりされているのである。これもまた歴史記述とは一つの理解の表明であるとの考えによる。

 第3章からはいよいよ一次資料の分析にとりかかる。最初の章(第3章)では、ヒンドゥー・ナショナリスト・イデオロギーの中核的概念「ヒンドゥー・ネイションHindu nation;Hindu rashtra」の意味内容の解明が試みられる。そこで明らかにされるように、彼らが言う「ヒンドゥー・ネイション」もしくは単に「ヒンドゥー」とはいわゆるヒンドゥー教徒のことではない。それは仏教徒、ジャイナ教徒、シク教徒、アニミスト、非アーリヤ人などを含み、なおかつカーストやジェンダーによって一切分断されることのないものとして観念されるような、非常に独自の集団概念である。

 第4章は、「ヒンドゥー・ネイション」もしくは「ヒンドゥー」の共通の基盤とされる「ヒンドゥー文化」「ヒンドゥー的価値観」「ヒンドゥー的生のあり方」「ダルマ」「ヒンドゥーイズム」等々がどのようなものとして観念されているのかを論じる。そこで明らかになるのは、ヒンドゥー・ナショナリスト・イデオローグの語りにおいては、宗教に限られないが宗教を中核に据えるような人間的生の特定次元、たとえば<宗教=文化>とでも表わしうるよう次元が観念され、上記のような多様な言葉で呼ばれていることである。またこの章では、彼らのイデオロギーのキー概念の一つである「霊性spirituality」についても、その用法と意味内容が明らかにされる。

 第5章では、ヒンドゥー・ナショナリスト・イデオローグが近代的な観念=制度であるところの一宗教としの「ヒンドゥー教」を一つの全体としてどのように構想しているのかを論ずる。ここでの議論が明らかにするのは、現代のヒンドゥー・ナショナリスト・イデオローグが「ヒンドゥー教の標準化」を推進するということである。ここで標準化とは、第一に、古代からの歴史的一貫性の主張、第二に、多様性に対して統一性を優先させることで「ヒンドゥー教」の単位性を固定すること、第三に、キリスト教モデルにしたがった「ヒンドゥー教」の教義整備、そして第四に、西洋近代的な価値観を大幅に受け入れることを意味する。なおこの章は、「マハトマ」ガンディーの非暴力とヒンドゥー・ナショナリスト・イデオロギーを比較検討するパートを含む。ヒンドゥー・ナショナリスト運動の破壊性に鑑み、この点を論じることの意味は大きい。

 ヒンドゥー・ナショナリスト・イデオローグは、以上三つの章で明らかにされた「ヒンドゥー」と「ヒンドゥーイズム」と「ヒンドゥー教」を<没落と再興>という歴史物語のなかに位置づけ、理解し、自らと自らの同志(と目される人々)からコミットメントを引き出そうとする。この点について論じるのが第6章である。そこで示されるのは、<ヒンドゥーとヒンドゥーイズムは古代黄金期の栄光を失い、歴史のなかで次第に没落していった。それが現代のインドの諸問題の根本原因である。今こそヒンドゥーは立ち上がらねばならない>という物語が人々の神話的想像力を刺激し、動員をより容易にするということである。

 第7章では、「ヒンドゥー・ネイション」の外部/敵として想定される「一神教」に対するヒンドゥー・ナショナリストのイデオロギー上の攻撃を分析する。そこでは、「一神教」の脅威の源泉が、「ヒンドゥー・ネイション」の低層/被抑圧者層に対する「改宗」攻勢とその不可避の結果として理解される分離主義であることが指摘される。キリスト教は巧みな戦術によって、イスラームは粗暴な手法によって、ヒンドゥー人口を縮減させインドの領土を縮小させようと目論んでいる、と真剣に信じられている。それは「ヒンドゥー・ネイション」に対する攻撃に他ならないから、物理暴力を伴なう反撃がなされたとしても大義にかなったことだ、と言われる。これはコミュナリズムに対するイデオロギー上の裁可、正当化である。

 「改宗」の問題は単に宗教的帰属の変更や人口統計の推移を意味するのではなく、インドの<文明化=近代化=開発>をめぐる問題でもある。すなわち、インド社会の低層/被抑圧者層の「向上」とは何で、それを誰がどのようになすのかという問題が、改宗の企てには不可分に付随するということである。第8章は、このことについての確認を導入として、ヒンドゥー・ナショナリスト・イデオロギーにおける<文明化=近代化=開発>観を分析していく。そこから明らかになるのは、彼らの<文明化=近代化=開発>観が近代の文化ナショナリストのものとしてはきわめて標準的なものだということである。「西洋化なき近代化」という観念が彼らの関心をとくによく表現するものであることが確認される。

 結論部は大きく二つのパートに分かれる。最初のパートでは、本研究本文(第2章から第8章まで)で行われた諸々の分析を総合して、現代のヒンドゥー・ナショナリスト・イデオロギーの包括的で構造的な解析が目ざされる。その結果、現代のヒンドゥー・ナショナリスト・イデオロギーの比較的安定した構造として、一つの大目標、二つの行動計画、二つの行動指針が抽出される。大目標とは「現代世界においてヒンドゥー・ネイションとインド国民国家の偉大さと強さを実現すること」である。行動計画の第一のものは「ヒンドゥー・サンガタン――ヒンドゥー・ネイションを強化もしくは組織化する」、同じく第二のものは「インド国民国家の栄光化――文化、宗教、経済、政治、軍事などあらゆる分野でインド国民国家を格上げさせる」である。行動規範の第一のものは、「非・非暴力――自己防衛と尊厳という大義によって裁可を与えられたとき、暴力を行使することにためらってはならない」であり、第二のものは「統一と秩序と規律――あらゆる場合において統一性を多様性に優先させよ。インド国内における構造的暴力については、これに沈黙せよ」である。

 結論部第二のパートでは、現代宗教論、とくに「宗教復興」論のなかにヒンドゥー・ナショナリズムという運動/現象を位置づけるという作業をおこなう。最初に指摘されるのは、反世俗・反近代・反西洋などの契機をあまり強く読み込むべきではないという点である。それは単にヒンドゥー・ナショナリズム理解を妨げるということではなく、他の「宗教復興」の諸事例との比較を地政学的な固定性に閉じ込めてしまうと論ぜられる。

 次に指摘されるのは、現代宗教論における宗教分類学の留意点についてである。ヒンドゥー・ナショナリズムを「宗教復興」との関わりで主題化しようとする場合、「ヒンドゥー教」という概念を所与のものとして扱ってはならないと論ぜられる。それは、「ヒンドゥー教」とナショナリズムの宿命的な連動のためでもあり、またヒンドゥー・ナショナリズムによる「ヒンドゥー教」の標準化と専有の企てに取り込まれないためでもある。ここでも先と同様、宗教分類学の地政学的な固定化について批判が向けられる。特定領域と特定宗教を特権的に結びつけてしまう視座を廃し、通地域的な比較の視座をもつべきことが推奨される。

審査要旨 要旨を表示する

 近藤光博氏の学位請求論文「宗教・ナショナリズム・暴力――ヒンドゥー・ナショナリスト運動のイデオロギーに関する研究」は、現代インドのヒンドゥー・ナショナリスト運動のイデオロギーを詳細に分析したものである。インド人民党(BJP)の母体となった民族奉仕団(RSS)など、連携する諸組織(サンガ・パリワールと総称される)が研究対象とされ、その全体像を描きながら、イデオロギーに焦点をしぼっていく。研究の主題は、現代宗教論の観点、現代インド宗教=政治研究の観点、そして、インド思想研究の観点に整理される。

 まず、先行研究の綿密な検討を踏まえ、この運動を現代宗教論という観点からどのように位置づけるかという問題が、用語法の検討を踏まえて追究されている(以上、第1章)。続いて、民族奉仕団の前史からサンガ・パリワールの諸団体の活動に及ぶ、ヒンドゥー・ナショナリズムの歴史が述べられ、以後の論述の中心となる80年代、90年代の意義が示される(第2章)。続いて6章にわたって、民族奉仕団のイデオロギーを示すと思われる典型的な文書(書物等)を主要な素材とし、インタビュー資料もまじえながら、この運動のイデオロギーが紹介され、その特徴を包括的、構造的に示すことが目指され、その妥当性が批判的に検証されていく(第3-8章)。

 民族奉仕団を中心とするサンガ・パリワールでは、「ヒンドゥー・ネイション」が一体のものとして提示され、マイノリティや女性は従属的な位置に置かれる。そしてその一体性の内実は、共有されている「ヒンドゥー的価値観」、「ヒンドゥー的生のあり方」、「ダルマ」、「ヒンドゥー教」であるとされる。このような用語を用いて、ヒンドゥー・ナショナリスト・イデオローグたちは、「ヒンドゥー教」の像を描き出していくが、その際、実は西洋近代的な価値観が大幅に取りいれられている。にもかかわらず、ヒンドゥー教は歴史的に一貫して存在し、堅固な統一性をもったものであるかのように論じられていることを、近藤氏は「標準化」という語を用いて示している。続いて、イデオローグたちが説く、ヒンドゥー教の没落と復興の歴史物語、「一神教」を敵として論じるやり方、文明化や近代化や開発についての見方について論じていく。

 全体として、ヒンドゥー・ナショナリスト・イデオローグたちは、ヒンドゥー・ネイションとインド国民国家の偉大性を示し、その組織性を強化し、文化、宗教、経済、政治、軍事などあらゆる分野で格上げさせることを目標としているとされる。また、その行動規範として、自己防衛の意義を説いて非暴力主義を否定し、あらゆる領域で多様性に対して統一性を優先させるという特徴が見られるという。そして近藤氏は、こうしたイデオロギーが外部の「敵」と見なされた人々との間の暴力を動機づけたり、差別や同化や抑圧などの構造的暴力を強化する機能をもつことを強調し、批判する(第9章)。

 ヒンドゥー・ナショナリズムのイデオロギーを包括的に描き出す試みは前例がなく、丁寧にその作業をなしとげたことは本書の独自の達成である。現代宗教研究としては、厳密な概念規定を基礎に、従来有力だった「宗教復興」論の立場を的確に批判し、新しい複眼的な視座を提示した功績は大きい。資料内在的な分析に重きを置きすぎ、取り上げた資料の外部の言説や実践との関係の分析がややおろそかになるとともに、「イデオロギー」等の理論枠組みの洗練が不十分であるなど、なお今後に課題を残していることは否定できない。しかし、フィールドワークの成果を背景としつつ文献資料を綿密に読み込み、暴力との関係を重んじながらその徹底的な批判を行おうとする試みは、十分に将来の豊かな研究の発展の基礎と成り得ている。よって本論文は博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績であると判断する。

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