学位論文要旨



No 118344
著者(漢字) 広瀬,宏之
著者(英字)
著者(カナ) ヒロセ,ヒロユキ
標題(和) 絶対音感保持者の聴覚誘発脳磁場および事象関連電位の研究
標題(洋) Study on auditory evoked neuromagnetic fields and event related potentials in absolute pitch possessors.
報告番号 118344
報告番号 甲18344
学位授与日 2003.03.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2151号
研究科 医学系研究科
専攻 生殖・発達・加齢医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 助教授 岩田,力
 東京大学 助教授 上妻,志郎
 東京大学 講師 宇川,義一
 東京大学 講師 百瀬,敏光
内容要旨 要旨を表示する

<はじめに>

 絶対音感absolute pitch(AP)とは、外的な基準音を参考にせず任意の音の高さを判断する(labeling)、或いは自らの声や楽器で任意の高さの音を作り出せる能力のことである。

 疫学的な研究よりAPには家族集積性が認められ、不完全な浸透率の常染色体優性遺伝が想定されている。また、環境・教育的要因よりも遺伝的要因の方がAPの獲得に関係していることや、母国語の特性などがAPの獲得に関係していることが報告されている。

 一方、APの神経生理学的な研究では、KleinらのP300についての研究、SchlaugらのMRIを用いた研究、PantevらやHirataらの脳磁図を用いた研究、ZatorreらのPETを用いた研究がある。しかし、APの中でも本質的なlabelingについての研究は少なく、その神経生理学的な機構は不明である。

 今回、我々は成人および小児のAP保持者、成人および小児の非AP保持者に対して、labeling時の聴覚誘発脳磁場を測定した。さらに、成人のAP保持者および非保持者に事象関連電位P300を測定したので併せて報告する。

<方法>

1,聴覚誘発脳磁場の測定

 被験者は成人AP保持者10名(平均27.4歳)、小児のAP保持者12名(平均10.3歳)、成人非AP保持者7名(平均33.9歳)、小児非AP保持者12名(平均11.2歳)。計測前に5オクターブ、60個の純音の音名を当てるテストで、成人95%以上、小児80%以上の正答でAPを保持していると判断した。

 聴覚課題は(1)Single tone課題: 1000Hzの純音を音に注意を払わずに聞く。(2)Ignoring課題:8種類の純音C4-C5(中央のドから上のドまで)をランダムに提示するが、音には注意を払わないようにする。(3)Labeling課題:8種類の純音C4-C5をランダムに提示し音名を判断してもらう。刺激は磁気遮蔽室外のコンピューターで作成され、プラスチック製のイアーフォンで両耳に与えた。刺激強度は90dB SPL、刺激間隔は1.0±0.1sec、刺激時間は200ms、加算時間は-50-600msで、総加算回数は150-200回に設定した。

 脳磁図記録は全頭型脳磁気測定装置Neuromag 204(Neuromag Inc, Finland)を用い磁気遮蔽室にて行われた。電流源解析はlow-pass filter 40Hz、high-pass filter 2Hzの条件で行った。単一双極子モデルを採用し、GOF80-90%以上の等価電流双極子を採用した。また、結果を頭部MRIに載せ機能解剖学的な検討を加えた。

2,事象関連電位P300の測定

 被験者は成人AP保持者9名(平均27.4歳)、成人非AP保持者7名(平均33.9歳)。聴覚課題は(1)A4(ラ=440Hz, 20%, target)と白色雑音(80%, non-target)から成るオドボール課題、(2)A4(20%, target)とC4(ド=262Hz, 80%, non-target)から成るオドボール課題。刺激条件は上記と同じで、脳波を10-20法のFz, Cz, Pzで計測、解析はPzの加算平均脳波を用いた。

<結果>

1,聴覚誘発脳磁場の結果

 成人被検者全員でN100mは計測され、両側上側頭回の聴覚中枢近傍にダイポールが同定された。成人AP保持者では、Single tone課題に比べ、Ignoring課題(P<0.05)、Labeling課題(P<0.01)で有意に右側のN100mダイポールモーメントが増大した。

 小児被検者では全員にはN100mは計測されなかった。年齢とNl00mの出現率には小児AP保持者および非保持者両方で正の相関が認められた。課題の難易度とNl00mの出現率の間には、小児AP非保持者でのみ正の相関が認められた。AP保持の有無とN100mの出現率には正の相関は認められなかった。

 成人AP保持者において、100ms以降のPl00m, N250m, P350mのダイポールは主に両側の上側頭回に認められ、その他右側角回、右側縁上回、左側の前頭葉背外側部、ウェルニッケ領野等にダイポールが認められた。

2,事象関連電位P300の結果

 成人AP保持者ではP300の潜時及び振幅に非保持者と有意な差はなく、非保持者と同様にP300が誘発された。

<考察>

1,成人のN100mについて

 我々の最大の発見は成人AP保持者のN100mがLabeling時に右側で有意に増大することである。即ち、成人のAP保持者では音高判断時に100msの時点で右の聴覚中枢が有意に活性化されていると考えられる。これまで音の高さを判断するのは主に右側の聴覚中枢であると考えられており、我々の結果もそれに合致するもので、しかも、僅か100msという早い時期から左右差が出現していることは注目に値する結果である。

 一方、AP非保持者でもLabeling課題時には何らかの形での音高判断を行っていると考えられるがN100mダイポールモーメントの有意な増大は見られなかった。これは、AP保持者には右側聴覚中枢を含む音高判断のための固有の神経回路が存在しており、Labeling課題時にその回路が活性化され、その活性化の影響がN100mを惹起させる神経回路にも及んだと考えられた。一方、非保持者にはその回路が存在していないため、音高判断時にもN100mを増加させるようには右側の聴覚中枢が活性化されなかったと考えられる。更に、非保持者ではlabeling課題時に、N100mに寄与しないような聴覚情報処理が行われており、それについては今回の脳磁図では検出できなかったことも考えられた。

 更に、AP保持者では音高判断を行わないIgnoring課題においても右側のN100mダイポールモーメントが有意に増大していた。これはAP保持者は複数の音列を聞いた場合に、音に注意を払わない場合でも100ms近辺で無意識的にN100mを惹起させる神経回路が活性化されていることを示唆している。

2,小児のNl00mについて

 小児ではAPの保持に関わらず年齢が上がるにつれてN100mの検出率が増加した。年齢依存性の聴覚系の発達を示した結果である。

 課題が難しくなるにつれてN100mの検出率が増加することは小児のAP非保持者のみに見られた。これは、小児のAP非保持者では課題が難しくなるにつれて聴覚刺激に対して喚起される注意がより大きくなり、N100mの検出率が増大したものと考えられた。一方、小児のAP保持者では課題に関わらず、聴覚刺激に対して一定の注意が喚起されているため、課題の難易度によらずN100mの検出率に差はなかったものと考えられた。

 一方、小児では、AP保持者の方がN100mの出現率が高い傾向があったが、AP保持の有無とN100mの出現率の間に統計学的な関係は認めなかった。

 成人と異なり、小児被検者では全員にはN100mは計測されなかった。脳磁図が成人向けに作られており、機器の大きさが小児の頭蓋に合致しないこと、小児では中枢神経で聴覚系が発達過程にある等の理由から、成人と同様にはN100mは検出されなかったと考えられた。

3,N100m以降の長潜時聴覚誘発磁場について

 成人AP非保持者の先行研究では、刺激後150、250、350msecでは両側の聴覚中枢付近にダイポールが認められている。我々の成人AP保持者でも大多数は両側の聴覚中枢にダイポールが認めらた。しかし、一部の被検者では、さまざまな感覚入力を連合する角回や縁上回、前頭葉背外側部といったところにダイポールを認めた。これは、音を聞いてそれに音の名前を当てはめるlabelingの過程でそれらの部位が活性化されることを示しており、labelingの神経生理学的な機構の一部を解明する興味深い結果である。

4,AP保持者のP300について

 AP保持者は、自分の内面に音のtemplateをもっており、それと外来の音を照合することで音の高さを「絶対的」に判断していると考えられている。一方、P300はオドボール課題で誘発される事象関連電位で、オドボール課題とは、高頻度の音刺激と低頻度の音刺激をランダムに呈示し、被検者には低頻度刺激の数を数えて貰う課題である。低頻度刺激を認識したときに、頭の中でそれまでの音の流れ(文脈)が更新されてP300が誘発されると考えられている。

 AP保持者では、外来の音刺激を文脈で判断せずに一個一個を「絶対的」に判断するためP300が誘発されにくいと考えられてきた。しかし、今回の実験では成人AP保持者でもP300が同様に誘発された。これは、AP保持者でも場合によっては外来の音を「絶対的」に判断せず、文脈の流れから「相対的」に判断することがあることを示している。AP保持者が常に「絶対的」に音を聞いているのではないことを示した興味深い結果である。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は絶対音感の神経生理学的な機構を解明するために行われた。成人および小児の絶対音感保持者に対して音の高さを判断している(labeling)時の聴覚誘発脳磁場を計測し、さらに成人の絶対音感保持者に対して聴覚誘発事象関連電位も計測した。これらの計測より、以下のような結果を得ている。

1,成人被検者全員で聴覚誘発脳磁場N100mは計測され、両側上側頭回の聴覚中枢近傍にダイポールが同定された。成人絶対音感保持者では、Single tone課題に比べ、Ignoring課題(P<0.05)、Labeling課題(P<0.01)で有意に右側のNl00mダイポールモーメントが増大した。この結果より、成人絶対音感保持者では音高判断(labeling)時に100msの時点で右の聴覚中枢が有意に活性化されていると考えられる。絶対音感保持者には右側聴覚中枢を含むlabelingのための固有の神経回路が存在しており、labeling課題時にその回路が活性化されこの活性化の影響がN100mを惹起させる神経回路にも及んだと考えられた。さらに、絶対音感保持者では音高判断を行わないIgnoring課題においても右側のN100mダイポールモーメントが有意に増大していた。これは、絶対音感保持者は複数の音列を聞いた場合に、音に注意を払わない場合でも100ms近辺で無意識的にN100mを惹起させる神経回路が活性化されていることを示唆している。

2,小児では絶対音感の保持に関わらず年齢が上がるにつれてNl00mの検出率が増加した。年齢依存性の聴覚系の発達と関係した結果といえる。課題が難しくなるにつれてNl00mの検出率が増加することは小児の絶対音感非保持者のみに見られた。これは、小児の絶対音感非保持者では課題が難しくなるにつれて聴覚刺激に対して喚起される注意がより大きくなり、N100mの検出率が増大したものと考えられた。一方、小児の絶対音感保持者では課題に関わらず、聴覚刺激に対して一定の注意が喚起されているため、課題の難易度によらずNl00mの検出率に差はなかったものと考えられた。一方、小児では、絶対音感保持者の方がNl00mの出現率が高い傾向があったが、絶対音感保持の有無とN100mの出現率にの間には統計学的に正の相関は認められなかった。さらに、成人と異なり、小児被検者では全員にはN100mは計測されなかった。脳磁図測定機器自体が成人向けに作られており、機器の大きさが小児の頭蓋に合致しないこと、小児では中枢神経で聴覚系が発達過程にある等の理由から、成人と同様にはNl00mは検出されなかったと考えられた。

3,成人絶対音感保持者において、labeling時の100ms以降の聴覚誘発脳磁場P100m, N250m, P350mのダイポールは主に両側の上側頭回に認められ、その他右側角回、右側縁上回、左側の前頭葉背外側部、ウェルニッケ領野等にダイポールが認められた。これは、labelingの過程でそれらの部位が活性化されることを示しており、labelingの神経生理学的な機構の一部を解明する興味深い結果である。

4,成人絶対音感保持者では事象関連電位P300の潜時及び振幅に非保持者と有意な差はなく、非保持者と同様にP300が誘発された。絶対音感保持者では、外来の音刺激を文脈で判断せずに個々の音を「絶対的」に判断するためP300が誘発されにくいと考えられてきた。しかし本研究より、絶対音感保持者でも外来の音を「絶対的」に判断せず、文脈の流れから「相対的」に判断することがあることが示された。絶対音感保持者が常に「絶対的」に音を聞いているのではないことを示唆した興味深い結果である。

 以上、本論文は成人と小児の絶対音感保持者の脳磁場・脳電位解析から、絶対音感の神経生理学的な機構の一端を明らかにした。特に、本研究はこれまで皆無であった音高判断(labeling)時の計測を行っており、絶対音感保持者の脳内機構の解明に向けて重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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