学位論文要旨



No 117538
著者(漢字) 中川,恵
著者(英字)
著者(カナ) ナカガワ,ケイ
標題(和) 近代モロッコにおけるシャリーフ : 19世紀末から20世紀初頭におけるシャリーフ・マフザンとケッターニー教団の「交換」
標題(洋)
報告番号 117538
報告番号 甲17538
学位授与日 2002.07.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第385号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長澤,栄治
 恵泉女学園大学 教授 宮治,一雄
 東京大学 教授 山内,昌之
 東京大学 教授 鈴木,董
 東洋大学 教授 後藤,明
内容要旨 要旨を表示する

 アフリカ大陸の北西部、中東世界の最西端に位置するモロッコは、イドリース朝以来幾多の王朝の興亡を経て、現在に至るまで常に王国である。フランスとスペインによって保護領化された1912-1956年の44年間を除いて独立を保ってきた。本論文は、保護領化される以前の19世紀末から20世紀初頭の時期、そして独立後から現在に至るモロッ.コにおける君主権についての考察である。保護領化されていた時期、モロッコの君主は保護領政府に実権を奪われ、本来の機能を果たすことはできなかった。保護領期後半(1930-1956年)には、独立を目指すナショナリストたちによって保護領政府の正当性否定の象徴として「利用」された。そのため、本論文では保護領化されていた44年間については考察の対象外とした。

 イスラームにおいて、世界は「ダール・アル・イスラーム(Dar al-Islam:イスラームによる統治がおこなわれている地域)」、「ダール・アル・スィルム(Dar al-Silm:平和な地域)又はダール・アル・アフド(Dar al-Ahd:契約によって平和が保たれている地域)又はダール・アル・スルフ(Dar al-Sulh:平和な地域)」、そして「ダール・アル・ハルブ(Dar al-Harb:イスラームに敵対している、あるいは戦争が行われている地域」の三種類の地域で構成される。

 イスラームによって統治される地域であるモロッコの内部も同様に、三種類の地域、「ビラード・アル・マフザン(Bilad al-Makhzan:マフザンの土地)」「ビラード・アル・スィーバ(Bilad as-Siba:不服従の土地〉」「ビラード・アル・フィトナ(Bilad al-Fitna:紛争の土地)」から構成される。

 「ビラード・アル・マフザン」は、マフザンのコントロールが機能している地域である。ここではマフザンから派遣された、あるいはマフザンが任命した地方役人が行政を司っている。この地域では君主の権威を受容し、税金を払い、要請があれば兵士や軍への補給品を供出する。「ビラード・アル・スィーバ」では、君主と中央政府としてのマフザンを承認しているが、マフザンが任命・派遣する地方役人を認めず、税金を支払わない場合も多い。「ビラード・アル・フィトナ」の場合、君主の権威を承認せず、税の支払い拒否のみならず、君主に対抗し王位を詐称する者を擁立することさえあった。

 1860年のテトワン戦争敗北でスペインに多大な賠償金を支払う義務が生じたことが直接の契機となり、マフザン財政は悪化した。西欧列強がモロッコに進出し、「ビラード・アル・マフザン」から「ビラード・アル・スィーバ」に転じた多くの部族が税金の支払いを拒否した。「スィーバ」となった部族や王位を詐称する者に対する軍事行動への出費や、マフザンを支援する代償に様々な社会集団の税の免除などが、マフザン財政の悪化に拍車をかけた。

 1901年から1912年にかけて、ムーレイ・ハサンの死後の「ビラード・アル・マフザン」の再編と崩壊(諸改革と多くの部族の反乱)、「ビラード・アル・スィーバ」との闘い(反乱をおこした部族とのたたかい)、「ビラード・アル・フィトナ」への征伐(ジラーリー・ザルフー二一の処刑)に加え、外国、特にフランスとスペインの植民地主義という、国内外の双方からの脅威にモロッコはさらされた。この時期はまさに「マフザンの危機」の時代であった。

 第二章で詳説したが、モロッコの君主は、様々な集団に対し正当性を主張し、また承認を受けるために「マリク」、「アミール・アル・ムーミニーン」、「スルタン」、「シャリーフ」という複数の称号を、場に応じて使い分けた。ムーレイ・ハサンの死後、ムーレイ・アブドゥル・アズィーズが若くしてモロッコの君主となったとき、ハージブであったバー・アフマドが政治的に君主を「支えた」が、それが結果的に君主の正当性をおびやかし、君主権を弱体化させ、部族の「不服従(スィーバ)」が増加した。さらに西欧列強の侵略が本格化した。君主が「マリク」「スルタン」「外交官」「アミール・アル・ムーミニーン」というさまざまな正当性を、社会の諸構成集団と対裃する場面に応じて使い分けていたが、バー・アフマドが担うことのできない「アミール・アル・ムーミニーン」の側面に対する疑義が噴出したのは、当然の流れであったといえよう。宗教的な場からマフザンに代替できる「イデオロギー装置」として、ムハンマド・ケッターニーが率いるケッターニー教団が政治の場で重要な役割を果たすこととなった。

 本論文では、複数の権威の対立を方向付ける要素として、権威の特徴、リーダーシップ、バイアをとりあげた。さらに君主の権威の危機に際して、どのように宗教エリートが「協力」から「対立」へと移行するのかについて、ムハンマド・イブン・アブドゥルカビール・ケッターニーを例に論じた。モロッコの君主の正当性の基盤は、マリーン朝を境にアサビーヤからシャリーフィズムヘと移行したが、20世紀初頭においてもアサビーヤは君主の権力独占を維持するための一要素であり続けた。アサビーヤが権力維持の一要素であることは、君主の方針や政策に異を唱えるエリートたちの命運にも影響を与えた。アサビーヤを有することなく、「知識(ilm)」、「(富に由来する)力(jah)」、「宗教的価値(shar')」にのみ依拠して君主に進言あるいは反対意見を表明する場合、好意的な反応を得ることは非常に困難であった。

 モロッコが保護領化される直前の二人の君主、ムーレイ・アブドゥル・アズィーズ及びムーレイ・アブドゥル・ハフィードの権威の基盤と、彼らの政策を批判し助言と警告を与え続けたムハンマド・イブン・アブドゥルカビール・ケッターニーのそれを比較すると、強力なアサビーヤの有無を除いて、かなりの程度類似が認められる。

 君主の権威の正当性の基盤となっていたのは、(S-1)先代の君主の息子であること(歴史的正当性)、(S-2)ベルベル人の母と妻(アラブとベルベル双方の血統の融合)、(S-3)アラウィー朝の故郷であるモロッコ南東部タフィラルトの部族的繋がりの維持、(S-4)バイア(アーヤーンと諸エリートによる承認:社会・宗教的正当性)、(S-5)預言者ムハンマドの子孫(他のシャリーフとの繋がり)であった。対するケッターニーの場合は、(K-1)預言者ムハンマドの子孫(シャリーフ)、(K-2)カラウィーイーンのウラマー(宗教的正当性および知識人としての社会的正当性)、(K-3)スーフィー(バラカの保有者)、(K-4)商人(富に由来する力)であった。

 両者を比較すると、(S-1)は継続する王朝のスルタンに固有の事項であるが、(S-5)と(K-1)は双方に共通した事項である。ケッターニーは(K-2)という宗教社会的正当性によって、君主の(S-4)という同じく宗教社会的正当性に疑問を呈した。しかし、ケッターニーには古い名家ではあるが都市(ファース)基盤をもち、部族的繋がり(アサビーヤ)という条件が欠落していた。

 スンニー派にとってスーフィズムはイスラームの逸脱であることから、ムーレイ・アブドゥル・ハフィードはサラフィズムのイデオロギーにうったえて、ケッターニーからの批判に対抗した。つまり国家がバイア(S-4)の契約を遵守していない点を批判するケッターニーに対し、アブドゥル・ハフィードは同じくバイアを与えたウラマーたちを味方につけた。しかしケッター二一が「スーフィーであることに由来するバラカを保有する者(K-3)」であるという、モロッコの人々の見方に変化はなかった。

 君主の正当性基盤の一つは「シャリーフ」であるという点であった。ケッターニーはこの点について、「シャリーフ」であることに派生する責務を果たすことなく、また他のシャリーフたちに対して敬意を払うことなく、「シャリーフ」つまり「預言者ムハンマドの子孫」であることを権力の正当性基盤として利用することを批判した。同様に「信徒の指揮者」という称号を、人々を管理し、ウラマーたちの一番上に立つためにのみ利用していることについても、非難した。

 しかし、第三章でみたように、ケッターニーの言説を現実の政治の場宅支えるアサビーヤが彼には欠けていた。ケッターニー一族は都市部の名家であった。農村部には充分な部族的繋がりを有していなかったため、メクネス会議の際にも多くの部族を訪ね、同盟を結んだが、タフィラルトを中心に強大な部族的繋がりを背後にもつアラウィー朝のアサビーヤに対抗するには遠く及ばなかったのである。

 ムハンマド・イブン・アブドゥルカビール・ケッターニーを「反体制」と理解することは誤りであろう。体制を維持するために「不適当な」人物が君主の地位にある場合、その人物の「君主として不適当な側面」を批判したのである。ケッターニーは体制を維持するための「改革」を目指した人物であった。1904年のアルヘシラス会議以降特に脅威を増した外国からの諸々の攻撃に対する防衛を怠る君主から、王制の将来を守るべく改革にむけて、ケッターニー教団を中心とした彼のネットワークをすべて動員した。ムーレイ・アブドゥル・アズィーズのみならず続くムーレイ・アブドゥル・ハフィーズまでも改革に失敗した後、マフザン体制全体を激しく批判する勢力となったのである。

審査要旨 要旨を表示する

 別記5名の審査委員は、別掲の題目により提出された博士学位請求論文を審査した。論文審査の内容と論旨は以下の通りである。

 中川恵の論文は、モロッコにおける伝統的なイスラム的統治システムの構造的な特徴を私蔵の手稿を含む多くのアラビア語一次史料を用いながら明らかにしようとしたものである。論文は、1890-1912年のモロッコ危機を主な事例として取り上げ、マフザンと呼ばれる伝統的統治機構の長であるスルタンと、その治世を批判したスーフィー教団の指導者ムハンマド・ケッターニーとの間の確執を描くことを通じて、列強の進出という危機に直面する中で顕在化した統治システムの構造の把握を試みた。

 この論文を構成する各章の内容を以下に紹介する。まず、「序論」では第一節の研究史で保護領期から1990年代にいたる研究の方法論的な特徴の変化を整理し、第二節で論文が依拠する基本史料を例示し、第三節で使用する基本概念の解説を行なった。中川の研究史と史料に対する方法論態度は、民族主義史観では無視されがちだった研究者と史料(とくにケッターニー教団関係〉を再評価する一方、モロッコ史を継続した歴史として理解するために、モロッコ独自の歴史的概念を政治社会学的枠組みにもとづいて再構成・活用しようとしたところにある。

 第一章「アサビズムからシャラフィズム」は、モロッコの伝統的政治システムの基本的な性格を示すために、王朝の権力基盤がアサビーヤ(部族の血縁関係による連帯意識)からシャラフィズム(君主がシャリーフ〔預言者ムハンマドの子孫〕であること)に移行した過程(シャラフィザシオン)を次章以降の叙述の前史として描いている。シャラフィザシオンの結果、自らシャリーフである君主は、他のシャリーフ・エリートと競合する中で、シャリーフの系統の管理を行なうことによって政権を維持した。

 第二章「アラウィー朝マフザン組織と君主の役割・機能」は、シャリーフたる君主を頂点としたマフザン体制の構造的な把握を目指した本論文の理論的な骨子をなす部分である。マフザン体制において、君主は、政治の長である国王(マリク〉として官僚組織と地方行政官を統括し、またスルタンとして軍隊を指揮して徴税を行ない、さらにアミール・ムーミニーン(信徒の長)という称号の下にアリームやマラブーなどの宗教的権威者に対する優越した地位を持つという多面的な役割・機能を有していた。中川は、マフザンをたんなる暴力装置と見る通説を批判して、マフザンが部族や宗教的権威者など社会の多様な集団と様々な「象徴交換」を行ない、社会に潜在的な「権力」を管理するという特徴をもっていたことを主張する。

 第三章「ケッターニー教団の形成過程」は、20世紀初頭にマフザン体制の危機に際して政治・宗教改革を目指したムハンマド・ケッターニーをめぐって、その出身のケッターニー教団の形成過程と、彼を支えた社会的ネットワークを詳細に分析した部分である。中川の結論は、ムハンマド・ケッターニーは、その称号の分析から当時の君主に匹敵する宗教的権威を持っていたが、そのネットワークは都市中心であり、武力を持つ部族の基盤が弱く、君主に対抗できなかった、というものである。

 第四章「ケッターニー教団対マフザン:制度的対立か個人的対立か」は、モロッコの政治システムの危機をマフザン対ケッターニー教団の対立を軸に歴史的な分析を行なった、本論文の中心的な内容をなす部分である。モロッコの政治システみは、1844年のイスリー戦争でのフランスに対する敗北、1860年のテトワン戦争でのスペインに対する敗北の後、1880年のマドリッド会議、1906年のアルヘシラス会議によって、領土割譲や賠償金支払いによる財政危機、領事裁判権と「保護民」身分の増加によって危機に陥っていた。ムハンマド・ケッターニーは、列強に屈服しイスラムに反する施策をしいたスルタン・アブドル・アズィーズを廃位し、アブドル・ハフィードを新しいスルタンに条件付きのバイア(忠誠の誓い)によって推戴する運動の中心となった。しかし、新しいスルタンは、バイアで提示された列強支配に対する抵抗やイスラム的社会制度の保全などの条件に不満を覚え、ムハンマド・ケッターニーを暗殺する。彼が暗殺されたのは、第三章で見たようにアサビーヤ的な権力基盤を欠いていたからである。また、本章では、ケッターニー教団のヨーロッパ製品不買運動、印刷技術を利用した広報活動、そしてそのメンバーが関与した憲法草案の分析などを通じて、イスラム知識人によるマフザン体制の改革の可能性についても考察を進めている。

 第五章「独立後のモロッコ王制」は、1912年以降の保護領期を経て1956年に独立したモロッコの王制について述べた本論文の補論的な部分であり、国王が宗教的な権威を利用して対立する諸勢力の「調停役」となり、また保護領化以前と同様に、社会の諸集団との利益・象徴の「交換」関係を維持している点を指摘している。さらに、近年のイスラム運動による「挑戦」をめぐって、国王と運動指導者が持つ権力基盤の宗教性の要因を比較分析している。

 本論文の最終部分である「結論」は、以上で考察の対象とした「16世紀以来モロッコに特殊な政治構造」を普遍的なイスラムの政治観の中に位置づけることを試みている。ここでの主要な論点は、イスラム世界の最西端に属し、中心部のイスラム帝国秩序からは距離を持ち、自律的な独特のイスラム的政治秩序が形成されてきたモロッコにおいて、宗教的権威者と信徒の指揮者(カリフ)との関係が普遍的な政治秩序のモデルに準拠した形で再現されたことである。条件付きのバイアの解釈をめぐって争われたムハンマド・ケッターニーとスルタンとの確執は、イスラム共同体における政治支配の正当性をめぐる議論を導く問題であり、まさに現代中東政治で最重要の課題とされる政治=宗教関係を考える上で一つの重要な事例として扱うことができるのである。

 本論文に対して審査委員会では、モロッコ危機に関する従来の研究は諸列強の動向に注意が向いていたが、モロッコ内部、とくに支配者スルタンとこれを批判するイスラム知識人の関係という内側の視点から描いている、マフザン、アサビーヤをはじめとするモロッコ史独自の概念を現代的な政治社会学の枠組みの中で再構成しようとしている、手稿など多くの一次史料を用いた手堅い実証研究である、などの点を評価する意見が出された。一方、論文構成上の問題で1912-56年間の保護領期が扱われていない点、論文の中心概念である「交換」論によってアサビーや概念を再解釈する可能性、ハイルッディーン等同時期のイスラム世界の改革運動との比較の可能性、オスマン帝国のカーディー制度との比較、バイアの形式、そめ他いくつかの概念の使用法と定義をめぐって質問が出された。中川恵は、これらの質問に対し、訂正個所の理解を含めて、委員を満足させる相応の回答を行なった。

 中川恵の論文は、近代モロッコの統治システムの構造的特質を、モロッコ史固有の概念を政治社会学の理論枠組みの中で再構成し、また普遍的なイスラム政治モデルと比較することによって明らかにした、一次史料にもとづく実証的で斬新な研究として高く評価できる。また、審査に際し、前述の審査委員の質問において用語法や叙述の形式などいくつかの問題点や瑕疵の指摘があったが、審査委員会は、これらの点は上に述べた高い評価を大きく減ずるものではない、と判断した。したがって、審査委員会は、全員の一致した見解として博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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