学位論文要旨



No 116009
著者(漢字) 石井,敏
著者(英字)
著者(カナ) イシイ,サトシ
標題(和) 生活行動に影響を与える環境構成要素に関する研究 : グループホームにおける痴呆性高齢者の分析
標題(洋)
報告番号 116009
報告番号 甲16009
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4846号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 大野,秀敏
 東京大学 助教授 西出,和彦
 東京大学 助教授 岸田,省吾
 東京大学 助教授 曲渕,英邦
内容要旨 要旨を表示する

 急速な高齢化に伴う痴呆性高齢者の増加は、社会的に大きな問題となっており、そのためのケア環境の整備が、今後の高齢者福祉における中心的な課題でもある。現在のところ、治療法が確立していない痴呆症のケアの中心は、痴呆症に伴う随伴症状の緩和と、症状進行の遅延におかれている。現在、わが国では痴呆症を患う約2/3の人が自宅でケアされていて、残りは特別養護老人ホームを始めとする高齢者居住施設や精神病院等でケアされている。

 しかし、痴呆症はその特有の症状から、家族による家庭内でのケアには限界もあり、痴呆性高齢者と家族の双方にとってマイナス的な影響を与えてしまうことも少なくない。痴呆性高齢者には、客観的かつ専門的な第三者によるケアが望ましいとも言われており、今後ますます自宅外においてのケアが増加することが予測される。

 このような社会状況の中、痴呆性高齢者のための新しいケア・居住形態として注目され、発展してきているのがグループホームである。これは、従来の大規模施設の中での一括・集団ケアとは大きく異なり、より小規模で家庭的な雰囲気の環境の中で、個別性を重視してケアを行っていこうとするものである。そして、常時滞在する専門のスタッフや、他の入居者との生活行動、社会交流をとおして、残存能力を活かした中で痴呆症の進行を遅延させ、症状の安定と質の高い生活を保障していくことをめざす。

 わが国では、1997年度より高齢者福祉政策の中で制度化され、従来の大規模な施設形態に代わる痴呆性高齢者ケアの場として、中心的な役割を果たすことが期待されている。

 グループホームの登場に伴い、痴呆性高齢者に関する建築計画学の分野における研究視点も大規模施設から小規模な居住環境へ、そしてより個別性を重視した中でのケア環境、より痴呆性高齢者の側から立った生活空間のあり方の追究へとその流れは移行してきている。しかしながら、未だ物理・空間的な環境要素と生活行動との関わりは多く言及されていない。また、一施設での事例考察にとどまり、それぞれの環境要素も断片的にとらえられることが多く、グループホームや痴呆性高齢者の環境を、総合的にとらえるという点では不十分で、十分な計画的指針が得られたとは言い難い。

 痴呆性高齢者を取り巻く環境をとらえるには、痴呆性高齢者が持っている属性、物理・空間的な環境、痴呆性高齢者の生活を左右するであろうスタッフの活動や他者との関わりなどを切り離して分析・考察することは不可能であると考えられ、全ての生活行動を包み込む場として、また相互に関わり合う場として環境をとらえていくことが重要であると考えられる。

 以上のような背景のもと、本論文では、人間と環境との関わりをグループホームという痴呆性高齢者の生活空間の中での、具体的な生活行動をとおして明らかにし、痴呆性高齢者のための環境のあり方を建築計画的視点から提示していくことを目的とする。主な研究の課題として(1)痴呆性高齢者グループホームの実態把握、(2)グループホームにおける環境構成要素の様態の把握、(3)環境構成要素と痴呆性高齢者の生活行動との関わりの把握、(4)生活行動に影響を与える空間的要素の考察を設定した。

 上記の課題を明らかにすべく、本論文は二部によって構成されている。

 第1部では、研究遂行、調査・分析、そして考察のための背景となる、さまざまな要素に関して理論的な検証を行っている。

 また、痴呆性高齢者グループホームは、従来の施設とは異なるケアの理念や空間の形態を持つことから、そのケア・空間形態が登場してきた背景や、痴呆という病気に対する社会的認識や政策的な対応の変化を、客観的かつ詳細に分析している。

 第II部は行動観察調査を中心とした、調査結果の分析・考察をもとに、全5章で構成されている。

 第1章では、わが国における4つのグループホームでの調査をとおして、痴呆性高齢者の生活行動の実態を把握するとともに、生活行動に関わる環境構成要素を抽出し、生活行動に与える影響を考察している。この調査は、わが国で最初に痴呆性高齢者のグループホームの空間的な要素を研究の対象としたものであると位置付けられる。

 第2章では、先進的な空間形態を持つグループホームにおける事例調査から、環境構成要素の一つである空間的要素の生活行動への関わり、特に共用空間が果たす役割などを探り、グループホームにおける空間計画の手がかりを明らかにしている。

 第3章では、痴呆性高齢者の空間利用の特性と共用空間の果たす役割を、同一平面形態・構成を持つ痴呆・非痴呆の計8ホーム(フィンランド)における比較分析をとおして明らかにしている。

 第4章では、フィンランドの12ホームにおける調査をとおして、第1章から第3章までの調査で得ることができた、環境構成要素と生活行動との関わりを横断的に分析し、環境構成要素の様態を探っている。また、環境構成要素の質的な相違が入居者の生活行動やケアに与える影響も明らかにしている。

 第5章では各章を総括し、グループホームの計画・運営における建築計画的な指針を提示し、今後の痴呆性高齢者の環境構築のあり方について言及している。

 以下に本論文の主な結果を総括する。

1.生活行動に影響を与える環境構成要素

 グループホームにおける、痴呆性高齢者の生活行動に関わる環境構成要素としては、生活行動の前提となる一次的な要素(物理・空間的な要素、運営的な要素、個人・グループの要素)と一次的環境構成要素と入居者、グループ、スタッフとの関わりやその生活行動の中で発生する二次的環境要素(空間の利用や社会交流の発生など)がある。そして、一次的な要素は生活行動に直接的に影響を及ぼし、また生活行動をとおして表出される二次的な要素は再び入居者自身の生活行動に影響を及ぼす。さらに一つ一つの環境構成要素の質が、相互に影響を及ぼし合い入居者の生活行動に影響を与える(図1)。

 したがって、痴呆性高齢者の環境を計画する際には、包括的に環境をとらえる視点から、総合的に計画していかなくてはならない。

2.グループホームの規模と構成

 痴呆性高齢者の会話や居合わせの様態から、8〜9名程度の規模がグループホームでは適切であると結論づけられた。

 また、痴呆性高齢者のグループホームでは、特に痴呆が中程度の入居者が、社会交流の中心となり、グループ全体に適度な刺激を与え活性化する役割を果たしている。一方、痴呆度が重度の入居者同士では会話は発生しにくく、痴呆度が軽度や中度の入居者の働きかけによって会話が発生している。このような、入居者の痴呆や自立度からくるグループの特性が、それぞれの生活行動へ直接的な影響を及ぼす。

3.建築計画的な提案

(1)多様性のある空間

 グループホームにおける痴呆性高齢者の生活行動では、共用空間が重要な役割を果たしている。直接的な他者との交流のほか、視覚的なつながりを求めるような間接的な交流、また居室以外の空間で一人でたたずんだり、外を眺めたりといったような生活行動が見られる。したがって、多様な生活行動に対応できる場としての共用空間が求められる。

(2)「きっかけ」として作用する空間

 痴呆性高齢者は自分の思考の中で、空間や自らがいる状況を位置付けて利用するのではなく、一瞬一瞬直面する場の状況に応じて、より感覚的・直感的に対応し、空間を利用する。

 そのような生活環境の中で、痴呆性高齢者にとって重要となる要素が、生活行動において与えられる「きっかけ」である。環境の側からさまざまな生活行動を、自発的に誘発するような仕掛け<アフォーダンスを提供する空間づくり>が重要となる。

(3)「きっかけ」として作用する「ひと」と「もの」

 痴呆性高齢者の生活行動は特に「ひと」や「もの」に引きつけられるように発生する。空間同様に「ひと」や「もの」も「きっかけ」として生活行動を方向付け、また構成するために大きく機能することを認識して、環境をデザインする必要がある。

(4)入居者とスタッフの生活行動

 入居者の生活行動は、比較的、痴呆や移動の自立度の状況によって左右され、特徴づけられる。さらに個々が持つ個性や嗜好も生活行動を左右する大きな要因となる。

 その上で、スタッフの生活行動も痴呆性高齢者の生活行動を左右する二次的な要素として影響する。痴呆性高齢者はスタッフ<ひと>が滞在している場所の周辺に集まることを好み、生活を構成する。入居者の生活行動やその空間のあり方は、スタッフの生活行動もあわせて考えていく必要がある。

(5)空間とケアのトータルデザイン

 痴呆性高齢者のケア環境を考えた場合、質の高い空間だけで質の高い生活行動が実現されることはなく、また空間環境の質の如何に関わらず、質が高いケアさえ実現でれば、質の高い生活行動が実現されることもない。空間的な環境は、質の高い生活行動を実現するための初期値であり、質の高い空間環境のもとで、自立度や痴呆度に応じた柔軟性のある質の高いケアが行われることで、痴呆性高齢者にとっての適切なケア環境ができあがる。

 物理・空間的な環境要素も、入居者の痴呆症状そのものに関わるケア環境の一要素であるということ、そして空間とケアとは切り離すことが出来ない一体の関係にあることを認識したうえで、包括的に環境をデザインしていくことが痴呆性高齢者の生活環境には求められているし、またそれを可能にするのがグループホームという形態である。

図1 痴呆性高齢者グループホームにおける環境構成要素の様態

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、グループホームという痴呆性高齢者の生活空間の中での人間と環境との関わりを、具体的な生活行動調査を通して明らかにし、痴呆性高齢者のための環境のあり方を建築計画的視点から提示していくことを目的としている。

 本論文は二部によって構成されている。

 第一部では、研究の遂行や調査・分析・考察の背景となる、さまざまな要素について理論的な検証を行い、従来の施設とは異なるケア理念や空間形態を持つ痴呆性高齢者グループホームで、それらが登場した背景や、痴呆という症状に対する社会的認識・政策的対応の変化を、客観的に詳細な分析を行っている。

 第二部は全5章で構成され、行動観察を中心とした調査結果の分析・考察を扱っている。

 第1章では、わが国における4つのグループホームでの調査をとおして、痴呆性高齢者の生活行動の実態を把握するとともに、生活行動に関わる環境構成要素を抽出し、生活行動に与える影響を考察している。この調査はわが国で痴呆性高齢者のグループホームの空間的な要素を研究の対象とした最初のものとして位置づけられる。

 第2童では、先進的な空間形態を持つグループホームにおける事例調査から、環境構成要素の一つである空間的要素の生活行動への関わり、特に共用空間が果たす役割などを探り、グループホームにおける空間計画の手がかりを明らかにしている。

 第3章では、痴呆性高齢者の空間利用の特性と共用空間の果たす役割を、同一平面形態・構成を持つ痴呆・非痴呆のフィンランドにある計8施設での比較分析を通して明らかにしている。

 第4章では、フィンランドの12施設における調査を通して、第1章から第3章までで扱った調査によって判明した環境構成要素と生活行動との関わりを横断的に分析し、その様態を探っている。また、環境構成要素の質的な相違が入居者の生活行動やケアに与える影響も明らかにしている。

 第5章では各章を総括し、グループホームの計画・運営における建築計画的な指針を提示し、今後の痴呆性高齢者の環境構築のあり方について言及している。すなわち、まず、生活行動に影響を与える環境構成要素としては、生活行動の前提となる物理・空間的、運営的、個人・グループ的といった一次的な要素とその要素と入居者・グループ・スタッフとの関わり、そして生活行動の中で発生する空間の利用や社会交流の発生といった二次的環境要素が存在することを述べている。そして一次的な要素は生活行動に直接的影響を及ぼし、生活行動を通して表出される二次的な要素は再び入居者自身の生活行動に影響を及ぼす。さらに一つ一つの環境構成要素の質が相互に影響を及ぼし合い入居者の生活行動に影響を与えることから、計画に際しては、包括的に環境をとらえて総合的に遂行することを提案している。次に、痴呆性高齢者の会話や居合わせの様態の考察から、グループホームの規模としては8〜9名程度が適切であることを示している。また、中程度痴呆入居者が社会交流の中心となり、全体に適度な刺激を与え活性化する役割を果たしている一方、重度痴呆入居者同士では会話は発生しにくく軽度や中度痴呆入居者の働きかけによって会話が発生していることから、入居者の痴呆度や自立度に応じたグループ特性が、それぞれの生活行動へ直接的な影響を及ぼすことを指摘している。そして、建築計画的な提案として以下の5点を挙げている。 (1)多様性のある空間の考案:グループホームにおける痴呆性高齢者の生活行動では、共用空間が重要な役割を果たし、直接的な他者との交流のほか、視覚的なつながりを求めるような間接的な交流、また居室以外の空間で一人でたたずんだり、外を眺めたりといったような生活行動が見られため多様な生活行動に対応できる場としての共用空間が求められること。 (2) 「きっかけ」として作用する空間の工夫:痴呆性高齢者の思考の中では、空間や自己がいる状況を全体の中で位置づけて利用するのではなく、一瞬一瞬直面する場の状況に応じて感覚的・直感的に対応しながら空間利用をしていると考えられることから、環境の側からさまざまな生活行動を、自発的に誘発するような「きっかけ」となる仕掛けの工夫が重要となること。 (3) 「きっかけ」として作用する「ひと」と「もの」の重視:痴呆性高齢者の生活行動は特に「ひと」や「もの」に引きつけられるかのように発生することから空間だけでなく「ひと」や「もの」も「きっかけ」として生活行動を方向付けることを認識して、環境デザインをする必要があること。 (4)入居者とスタッフの生活行動の関係の考慮:入居者の生活行動は、比較的、痴呆や移動の自立度の状況によって左右され、また個々が持つ個性や嗜好も生活行動を左右する大きな要因となっており、さらに高齢者はスタッフが滞在している場所周辺に集まることを好むといったようにスタッフの生活行動も痴呆性高齢者の生活行動を左右する二次的な要素として影響するため、入居者の生活行動やその空間のあり方は、スタッフの生活行動もあわせて考えていく必要があること。 (5)空間とケアのトータルデザインの探究:痴呆性高齢者のケア環境を考えた場合、良質な空間の実現だけで質の高い生活行動が実現されることはなく空間の質が劣悪な状況でも質が高いケアさえ実現でれば質の高い生活行動が実現されることもない。空間的な環境の向上は質の高い生活行動を実現するためのいわば初期条件であり、質の高い空間環境のもとで、自立度や痴呆度に応じた柔軟性のある質の高いケアが行われることで、痴呆性高齢者にとっての適切なケア環境ができあがると考えられること。

 以上のように、本論文は、急速な高齢化に伴って社会的な大問題となっている痴呆性高齢者の増加と、そのケア環境の整備が逼迫した状況で、痴呆性高齢者のための新しいケア・居住形態として注目され、発展してきてきたグループホームの今後の在り方について、基本的な知見を明確に示し、建築計画学の発展に寄与したものである。

 よって本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる。

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