学位論文要旨



No 115234
著者(漢字) 奈良,高明
著者(英字)
著者(カナ) ナラ,タカアキ
標題(和) 触覚情報処理の理論およびその触覚ディスプレイへの応用
標題(洋)
報告番号 115234
報告番号 甲15234
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4729号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 舘,すすむ
 東京大学 教授 安藤,繁
 東京大学 教授 満渕,邦彦
 東京大学 教授 石川,正俊
 東京大学 講師 前田,太郎
内容要旨

 生体にとって触覚は,自己が外界と接触する際に生じる力学的作用を受容する基本的な感覚である.また触覚の工学的応用を考えた場合,遠隔地にあたかも存在しているかのような感覚を生成するバーチャルリアリティ技術において,触覚を提示すれば臨場感が著しく増加することが期待される.ところが,現在までに,触覚に関する生理学実験により末梢器官の特性は明らかにされているものの,触覚生成機序には未解明の点が多く,このため触覚を人工的に提示する手法に関しても確固たる原理は得られていなかった.本論文は,第一に生体における触覚情報処理メカニズムを理論的に解明すること,第二にその解析に基づき,触覚ディスプレイを開発することを目的とする.

 はじめに,生体の触覚情報処理末梢系の特性解析として,電気生理学で実験的に求められていたマイスナー小体のTalbot同調曲線,パチニ小体のBolanowski同調曲線,およびマイスナー小体,パチニ小体,メルケル細胞のJohansson受容野曲線の理論的導出を通して,触覚末梢系における情報処理メカニズムの解明を行った.

 まずマイスナー小体のTalbot同調曲線を導出した.マイスナー小体のコイル状軸索に注目し,その強制せん断振動を解析することで,マイスナー小体の特徴周波数をせん断振動の共振周波数として求めた.さらに振幅の共振特性を用い,またイオンチャンネルの開閉確率はHelmholtzの自由エネルギーに依存することから軸索における消費パワーを発火のための検出量と仮定することで,実験曲線とよく一致するTalbot同調曲線の理論曲線を導出した(図1a)).更に構造のパラメータに対する理論曲線のロバスト性,および縦振動とせん断振動の共振周波数比較から妥当性を検証し,軸索の弾性定数推定値を提出した.

 次に,パチニ小体のBolanowski同調曲線を導出した.円環領域での液体の粘性作用,およびラメラの円筒シェルモデルから構成されるパチニ小体の連成共振系モデルから内棍の周方向ひずみが求まる.ここで内棍・微小突起部における自由エネルギーを検出量とすることで,実験曲線とよく一致する理論同調曲線を導出した(図1b)).

 続いてJohanssonの受容野曲線を導出した.まず,コイル状軸索と数層のシュワン細胞の積み重ねという構造をとるマイスナー小体,および内部に液体を含むという構造をとるパチニ小体の主要振動モードが等容積性の単純せん断変形であることに着目する.このとき,両受容器位置での皮膚弾性場の応力の不変量は,1次不変量J1,3次不変量J3がゼロになる.応力の不変量とは,弾性体の各点において,座標軸の向きによらずに決まる点固有の弾性変形量である.従って,弾性変形量を(J1,J2,J3)基底で張ったとき,速順応型受容器はJ2成分の検出を担うことが推論される.実際両受容器におけるJ2は,受容器に対する強制力の自乗,すなわちマイスナー小体ではJ2=r2(rは最大せん断応力),パチニ小体ではJ22(は主応力)となり,これはイオンチャンネルの開閉確率を決めるHelmholtzの自由エネルギーに比例する量であることがわかる.そこで,この仮説の検証として,両小体が弾性場のJ2を検出していると仮定すれば,マイスナー小体のJohansson受容野曲線(図2b)),およびパチニ小体のJohansson受容野曲線(図2c))が導出できることを示した.また体積ひずみに比例する応力の1次不変量J1を検出するのがメルケル細胞であると仮定することで,メルケル細胞のJohansson受容野曲線も導出できることを示した(図2a)).

図表図1:a)マイスナー小体のTalbot同調曲線,b)パチニ小体のBolanowski同調曲線 :実験 -:理論 / 図2:Johansson受容野曲線 a)メルケル細胞b)マイスナー小体c)パチニ小体 :実験 -:理論

 以上での生体のハードウェア特性の解析に加え,次に,皮膚を物体と接触させ,なぞり動作を行ったとき,物体の特徴量を表すパラメタが受容器の変形状態に如何にコーディングされるかを解析した.

 まず皮膚と物体との接触の問題を考察した.接触状態における真実接触面積から,軟らかい,あるいは滑らかな物体をなぞる場合と,硬い,あるいは粗い物体をなぞる場合とで接触形態が大別されることを示した.前者の場合は,皮膚の接触面積が大きく,垂直圧力および摩擦力が面内に一様に分布すると考えることができるため,皮膚接触面を一体と捉える集中系モデル,後者の場合は皮膚面内で微小突起が分布し,その結果着力点が離散的に発生する分布モデルとして扱うことができる.

 そこでまず集中質量をもつ指のなぞり動作を解析した.このとき物体の特徴量次第でStick-Slip振動が発生し,皮膚面上一様な垂直応力,および時間的に振動するせん断応力が発生することを示した.これらは物体の特徴量によって決まる皮膚表面の応力境界条件であり,集中Stick-Slip震源と呼べる震源である.続いて,着力点が空間的に分布する場合のなぞり動作を解析した.分布モデルではStick期,Slip期に加え,皮膚が表面と接触しないThrough期が存在するのが特徴である.このときStick-Slip周波数は主にThrough期の長さによって決まり,なぞり速度Uと単位面積あたり突起数の積Uに支配されることを示した.

 次に,分布モデルにおいて皮膚表面の応力状態が境界値として与えられたときの,皮膚弾性場の境界値問題を解析した.Slip部の寄与は応力の定常的移動の問題として,Stick部の寄与は応力の時間的なStep移動に伴う弾性波発生の問題として大別して考える必要がある.まずSlip部に関して,皮膚表面における垂直応力は皮膚内部に常に体積ひずみをもたらすのに対し(図3a)),せん断応力による体積ひずみは鉛直軸に対し振幅の極性が反転する(図3b)).この結果,分布したSlip部からの寄与は,せん断応力による効果は相殺され(図4b)),結果的に皮膚表面における垂直応力の効果が体積ひずみに対する主要項であることが示される(図4a)).次にStick部での寄与として,皮膚表面にStep状震源を与えたときの皮膚内部の変位振幅を,波動到着時近傍の解という意味での近似解として求めた.これによる結論(図5,6)から得られる知見は以下の二点である:第一に,皮膚内ではP波速度(約1500[m/s])がS波速度(約1.6[m/s])より圧倒的に大きいため,振幅はS波が優位になる.第二に,垂直震源では鉛直軸に対しS波振幅の極性が反転するため,空間的に分布したStick部からの寄与としては,垂直震源による効果は相殺され(図7a)),せん断震源からの寄与が主要項となる(図7b)).

図表図3:メルケル小体位置でのJ1 a)皮膚表面に定常垂直移動力を与えた場合b)皮膚表面にせん断移動力を与えた場合 / 図4:Slip部の寄与:メルケル小体位置でのJ1 a)皮膚表面に定常垂直移動力列を与えた場合b)皮膚表面に定常せん断移動力を与えた場合 / 図5:垂直Step震源のP,S波放射パターン

 以上の解析を基に,物体表面の特徴パラメタ,および接触・なぞり動作のパラメタが,機械受容器の如何なる変形量に変換されていくか,すなわち触覚情報の流れをまとめると図8のようになる.複合弾性定数E,粗さパラメタ,単位面積あたりの突起数の3次元パラメタで表される表面に対し,押し付け力N,なぞり速度Uの2次元パラメタで表される触動作を行うと,皮膚表面に空間的に分布したStick-Slip震源が発生する.このうち,定常的応力の移動となるSlip部では,垂直応力の大きさ,およびその間隔によって,皮膚内部の体積ひずみ量が決まり,メルケル細胞が刺激される.一方,応力の非定常移動が発生するStick部では,せん断応力の大きさ,およびStick-Slip周波数により皮膚内部のせん断変形波の振幅,および発生頻度が決まる.このS波により,マイスナー小体,パチニ小体の等容積性振動が生じ,Stick-Slip周波数に近い特徴周波数をもつ受容器の関与が強まることになる.

図表図6:せん断Step震源のP,S波放射パターン / 図7:Stick部の寄与 a)分布垂直Step震源からのS波 b)分布せん断Step震源からのS波 / 図8:触覚情報の流れ

 以上の結果は触覚ディスプレイの設計指針そのものともなる.すなわち,触覚ディスプレイが皮膚表面に与えるべき応力とは,体積ひずみをメルケル細胞に与えることのできる定常的な垂直応力源,およびStick-Slip周波数の等容積振動をマイスナー小体,パチニ小体に与えることのできる,空間的に分布した時間変調可能なせん断応力源である,ということである.そこで,以上の設計指針に基づき,弾性表面波を用いた触覚ディスプレイ(図9)を開発した.LiNbO3圧電基板上に,櫛形電極により10[MHz]のレイリー波を発生させ,直径800[m]の鋼球を100個程度両面テープに貼り付けたスライダ(図10)越しに指で基板上のレイリー波を触る.レイリー波をバースト駆動するとき,波動が存在するときは,接触時間の減少,レイリー波の波頭の運動による駆動力,およびスクイーズ効果により摩擦が低減し,波動が存在しないときは基板の元来の摩擦となる(図11).このレイリー波により,スライダの各鋼球が,皮膚面内において,バースト発振する多数の離散的せん断震源を提供することになる.この分布せん断震源により,速順応型受容器の等容積振動が効果的に発生させることができると考えられる.更に,物体表面の突起数密度となぞり速度Uの積から決まるStick-Slip周波数でレイリー波をバースト駆動することにより実物体をなぞったときと同様の表面粗さ感が提示できることになる.バースト周波数を変えることで,微小突起列をなぞるコポコポ感から,ザラザラ感,ツルツル感まで粗さ感を制御できることを確かめ,Scheffeの一対比較法により評価実験を行った.また更に以上の手法に加え,テーパー構造基板を用いることで駆動周波数による弾性振動の空間制御が可能なことを理論的,実験的に示し,異なる粗さ面のエッジの移動,皮膚接触面より微細な突起生成などの提示に応用可能であることも示した.

図表図9:SAWを用いた触覚ディスプレイ / 図10:接触スライダを指に付着し,LiNbO3基板をなぞる / 図11:分布変調せん断震源発生の原理

 以上の議論により,生体の触覚情報処理メカニズムが機械受容器の特性を中心に解明され,実際に人間が物体をなぞったときの皮膚表面,あるいは皮膚内部で生じる物理現象の解析から,触覚とは何か,如何に発生するかが理論的に示され,これにより触覚提示法の原理が明らかになり,弾性表面波を用いた触覚ディスプレイが実現された.

審査要旨

 本論文は「触覚情報処理の理論およびその触覚ディスプレイへの応用」と題し、7章からなる。人工現実感あるいはバーチャルリアリティという概念が生まれて以来、バーチャル環境やバーチャル物体の提示あるいは数値情報の可視化を目的とした視覚提示システムが広く提案され研究されている。これに対して、触覚のバーチャルリアリティの研究は相対的に立ち後れている。触覚は、固有受容感覚と皮膚感覚に大別されるが、前者のディスプレイについては製品も既に販売されたり新しい方式の研究も見受けられ進展しつつあるのに対して、後者においての触覚ディスプレイは甚だしく遅れている。その理由の一つに人間における皮膚感覚のメカニズムが明らかになっていないため、アドホックな触覚提示装置しか現在までに構成されてこなかった点が挙げられる。本論文では、生体における皮膚感覚のうちでもさらに機械的な受容に限定して、その触覚情報処理メカニズムを理論的に解明し、工学的応用としての触覚ディスプレイの構成法を明確にして、実際にその概念に基づいてディスプレイを構成しその有効性を示すことにより応用への道を拓いている。

 第1章「序論」は緒言で、触覚のバーチャルリアリティを生じさせるためには、必ずしも現実と同一の外界状態を提示する必要はなく、人間の触覚センサに同一の状態を生じさせれば良い、従って人間の触覚情報処理のメカニズムを解明しモデル化することにより、適切な触覚提示法が見出しうるという本研究の目的と立場と意義を明らかにしている。

 第2章は、「触覚情報処理の理論」と題し、機械的受容としての触覚情報処理に関わる生体器官のハードウェア構造とその機能の解析を行っている。はじめに、マイスナー小体に関するTalbotの同調曲線をコイル状の神経軸索のせん断共振曲線として導出し、次にパチニ小体に関するBolanowskiの同調曲線を円筒シェル形状のラメラの連なりとした連成共振系モデルを用い導出している。これらの解析の過程から、マイスナー小体、パチニ小体の主要変形モードが等容積性変形であることを明らかにし、「皮膚弾性場の変形状態が、応力の不変量を基底として機械受容器により表現される」という仮説を導出している。続いて、マイスナー小体、パチニ小体、メルケル細胞に関するJohanssonの受容野曲線を皮膚弾性場フィルタの空間特性から導出して、この仮説を検証している。最後に、マイスナー小体、パチニ小体を振動させるための皮膚表面における有効な応力がせん断応力であることを示し、触覚ディスプレイ設計のための予備的考察としている。

 第3章は「触動作のモデル化」と題し、接触、およびなぞりという触動作、すなわち、第2章で明らかにした特性をもつ触覚情報処理ハードウェアが外界と相互作用したときに生じる現象を解析している。まず皮膚と物体表面との接触の問題をHertz接触として解析し、この解析から、軟らかい、もしくは滑らかな表面をなぞる場合と、硬い、もしくは粗い表面をなぞる場合を大別してモデル化できることを示している。そこでそのそれぞれの場合につき、皮膚表面に与えられる応力状態を、表面状態の特徴量を表すパラメータで記述し、本質的に重要なものはStick-Slip現象であることを明らかにしている。次に、以上より求められた皮膚表面の応力状態を境界条件とする皮膚弾性場の変形を境界値問題として解析し、受容器位置における機械的変形量を求め、この結果、Slip部の寄与としてはメルケル細胞に対する体積ひずみを与えるという意味で「皮膚表面における垂直応力」が、またStick部の寄与としてはマイスナー小体、パチニ小体に等容積性のS波を与えるという意味で「皮膚表面におけるせん断応力」が主要項となることを導いている。こうして、「体積ひずみを与えるべく定常的な垂直応力と、動特性をもつ受容器を効果的に等容積振動させるべく、時間変調可能なせん断応力を皮膚表面に提示する」という本論文で提案している触覚ディスプレイの設計指針を明確にしている。

 第4章は「弾性表面波(SAW)を用いた触覚ディスプレイ」と題し、第3章で述べた,触覚情報処理理論に基づく触覚ディスプレイの設計方針に従って、弾性表面波(SAW)を用いた触覚ディスプレイを設計し製作している。すなわち、せん断震源発生法として超音波振動が利用可能であることを示し、それにより軟らかい/滑らかな表面のみならず粗い表面をも提示可能であることを示た後,実際のSAWを用いたディスプレイを設計し製作している。また、この手法が、先に求めた触覚提示原理、すなわち、定常的垂直応力の提示と、時間変調可能でかつ空間的に分布したせん断震源の提示とを行えるデバイスであることを示している。さらに、このデバイスにより単位面積あたりの微小突起数による表面粗さなどが提示できることを実験的に示している。

 第5章は「テーパー形状を用いた弾性波動の空間制御」と題し、弾性波の空間的制御法について論じている。前章で用いたSAWは平面上で空間的に一様であるため、皮膚の接触面内での空間分布、たとえば、単一の微小突起や、粗さの異なる複数の領域のエッジなどをなぞった感覚は提示できない。そこでこれらを提示すべく、弾性振動を実時間に空間的に制御する方法について論じている。その本質は、テーパー構造を用いれば、振動の空間分布が駆動周波数で制御できるということであり、本論文では膜上の波動で詳しく論じた後、膜状の波動で実験しているが、これがSAWに対しても拡張できることも示している。

 第6章は「VRの数理」と題し、波動場の多対一VRに関する一般論を写像を用いて論じている。また皮膚の層状弾性体モデルを考察し、生体の皮膚では硬い表皮が軟らかい真皮の上にのっているという構造により、皮膚表面から皮膚内部への写像が一対一となること、しかし、硬い層の上に軟らかい層がのる層状弾性体の場合は多対一となりうることを示している。

 第7章「結論」は結語で、本論文の結果をまとめ、今後を展望している。

 以上これを要するに、バーチャルリアリティに於いて従来理論的に検討されることの少なかった機械受容による皮膚感覚のメカニズムを、物体の特徴が機械受容器の応力状態にどのようにコーディングされるかの観点から理論的に解析し明らかにして、その結果、皮膚内部に体積歪みを生じさせるための皮膚表面垂直方向への定常的な応力および空間的に分布し時間変調可能な皮膚せん断方向への応力の提示が機械受容性の皮膚感覚ディスプレイには必須であるとの結論を導き、その理論の有効性を実験的に明らかにするとともに設計法を明確に示して、それに基づいて実際に利用可能なディスプレイを試作することでその有効性を示して応用への道を拓いたものであって、計測工学及び人工現実感工学に貢献するところが大である。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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