学位論文要旨



No 115115
著者(漢字) 竹内,昌治
著者(英字)
著者(カナ) タケウチ,ショウジ
標題(和) 微小電極を用いた昆虫の神経電位計測システム
標題(洋)
報告番号 115115
報告番号 甲15115
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4610号
研究科 工学系研究科
専攻 機械情報工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下山,勲
 東京大学 教授 井上,博允
 東京大学 教授 佐藤,知正
 東京大学 教授 河内,啓二
 東京大学 教授 藤田,博之
内容要旨

 本研究の目的は,自由行動下の昆虫から神経電位を計測できるシステムを実現することである.提案する計測システムは,神経とのインタフェースとなる微小電極,行動を妨げないための無線送受信機,および電極と計測器を一体化するための柔軟な連結部で構成される.本論文では,特に微小電極について材質,機能,機構を検討し,MEMS(micro electro mechanical systems)技術を用いて製作する.次いで,他の要素と一体化したシステムを昆虫に搭載し,行動下での神経電位を無線で計測する実験をおこなう.その結果,製作した微小電極が,行動下での昆虫の神経電位計測に有効であることを示す.

 昆虫の行動は,外界から味,匂い,光,風,音など多種多様な刺激を同時に受けて発現している.このような複数の刺激が混在する実環境で発現する行動を神経レベルで解明するためには,実環境での神経電位計測,すなわち自由行動下での昆虫の神経電位計測が必要である.行動下での電気生理実験では,昆虫の動きに対して神経とのインターフェースとなる電極が神経を傷つけたり,神経から外れてはならない.そのために必要な電極の機能として次の4つが挙げられる.1.神経に固定可能である.2.神経に対して低侵襲である.3.体内への埋め込みが可能である.4.神経への取付けが容易である.本研究では,電極に神経を包囲(クリップ)する機構を組み込むことで,上の1〜3の機能を実現する.すなわち,神経を切ったり,刺したりせず,包囲し固定することで,神経に対し低侵襲で埋め込み可能な構造を得る.さらに4の機能を実現するために,電極にマイクロアクチュエータを組み込む.これによって微小径の神経にも外部から電気的にクリップ動作を制御できるため,取り付けが容易になる.そのためのアクチュエータとして本研究では,低電圧で大変形可能であり,材質自体が柔軟で生体組織を傷つけず,金属電極にもなる形状記憶合金薄膜(shape memory alloy(SMA);チタン・ニッケル(TiNi)合金)を採用した.

 形状記憶合金薄膜(膜厚5m,変態点45℃(Mf),49℃(As))を用いた神経包囲機構(クリップ機構)をFigure 1(a)に示す.薄膜の成膜には,スパッタ法を用いた.TiNi薄膜のパターニングに用いるフッ硝酸は,殆どの金属膜を腐食させるため,電極の構造は1枚膜で構成できるものが適当である.本研究では,Figure 1(a1)のような梁の連結構造を考案し,これを駆動させることによって,神経を包囲することにした.このとき梁の駆動は一方向に限定した.あらかじめ梁の連結構造をFigure1(a2)のように変形させ神経が挿入できるように開口部を形成させる.その後,神経を挿入し,通電加熱によって形状回復させると,間に挟まった神経が固定される(Figure 1(a3)).このような一方向性の駆動でも,クリップ動作のような,結合を目的とする機構には十分である.従来から形状記憶合金アクチュエータとして考案されてきた拮抗機構やバイアス機構などに比べ,構造が単純化される利点がある.また,熱による駆動の場合,応答性の悪さが危惧されるが,発熱や冷却に関する時定数はサイズの2乗に比例するため,サイズが半分になれば,応答速度は4分の1になる.このクリップ機構に,神経電位抽出のための電極部としてFigure 1(b)のような2本の曲梁構造を,梁の連結構造の間に組み入れた.神経電位は,この2つの金属部の電位差を計測することによって得られる.電極部を真直梁にせず曲梁構造にしたのは,同じ長さの梁に同じ力が加わったとき,曲梁の方が撓まないからである.この構造によって,神経の拘束力を向上させることができる(Figure 1(c)).

Figure 1(a)梁の連結構造を用いた神経包囲機構.(b)曲梁を用いた電極構造.(c)真直梁と曲梁による神経クリップの相違.

 実際に製作した電極の電子顕微鏡写真をFigure 2(a)に示す.梁の連結構造として4本の梁を用いた.構造は成膜後にマイクロマニピュレータを用いてFigure 2(a)のような開口部を持つように変形させる.その後,電極を開口部から神経に挿入し,梁の連結構造を通電加熱してクリップする.Figure 2(b)は径100mの金属線を電極を用いてクリップした時の電子顕微鏡写真である.このとき供給した電流は約20mAであった.電極がしっかりとワイヤを固定している様子が観察できる.また,この微小電極を昆虫の神経に固定し(Figure 2(c)),神経電位が計測できることを確認した.

 製作した電極の神経に対する拘束性を調べるために,次のような実験をおこなった.まず,予備実験によってたわみと力の関係が明らかになっているガラス管(径100m)を神経の代わりに電極でクリップする.次に,ガラス管をFigure 2(d)中のA,B,Cの各方向へ平行移動したときのたわみから拘束力を算出しプロットした.図の点線は,傾向を見やすくするために,各3回試行の平均値を結んだものである.比較のためFigure 2(d)に示すtype 1〜4の構造で実験をおこなった.結果type 4がすべての方向に関して拘束力が最大で,その値はA方向に約800Nで,B,C方向には共に約600Nであった.type 1とtype 2を比較してみると,確かに曲梁を用いた構造(type 2)の方が,真直梁を用いた構造(type 1)よりもC方向に関する、拘束力が増している.またtype 3のように,曲梁構造がなくても上部の梁連結構造の働きによって,C方向に関する拘束力が向上した.このように,一枚膜からの構造を用いた場合,梁の連結構造と曲梁構造の組み合わせによって拘束性を高めることができる.

 製作したSMA微小電極は,通電加熱によって温度が約50℃に達するので,熱による神経へのダメージが懸念される.このダメージを電気生理学的な手法を用いて検討した.

 実験は以下のようにおこなった.Figure 2(e)のように仰向けにした昆虫の腹部を切開し,腹髄神経束をフック電極で吊り上げる.この状態で尾部にある感覚毛(尾毛)に風刺激を与えると,腹髄神経束の活動電位がフック電極から計測される.次に,フック電極が記録している神経の尾毛側(脳から見て下流側)を微小電極でクリップする.クリップに必要な加熱時間は約1sとした.仮に,このクリップ動作によって神経細胞が死滅するなどのダメージがあるとすると尾毛-フック電極間の神経に障害が起こり,尾毛へ風刺激を与えたときにフック電極では活動電位を記録することができない.実際にSMA電極を用いてクリップ前後の波形を記録した結果をFigure 2(e)に示す.クリップ前と後で同様の風刺激を100ms与える.得られた波形を比較してみると,発火タイミング,時間,振幅,持続性とも変化はなく同様の活動電位が記録されているといえる.したがって,電気生理学的には神経クリップによる熱的なダメージはないと判断できる.

Figure 2(a)製作したSMA電極.(b)電極によるワイヤクリップ.(c)電極による神経クリップ.(d)各クリップ構造の拘束力の測定結果.(e)加熱によるダメージの検討.

 製作した微小電極が,自由行動下の昆虫の神経電位計測に適当であるが評価する実験をおこなった.行動下での昆虫の行動を妨げないために,無線機を背部に搭載し,神経電位を無線で記録した.このとき,電極と無線機とをつなぐケーブルは柔軟性に富んだものが必要であるため,ポリイミドのリボンケーブルを製作した.ポリイミドは,柔軟性,電気絶縁性,耐熱性,生体適合性などに優れ,破断することなく塑性変形が可能である.あらかじめ用意した銅箔(膜厚10m)にTiを真空蒸着し,その上にポリイミドをスピンコーティングし熱硬化させる.その後,銅をエッチングし配線などのパターニングをした.このケーブル(厚さ15m)に電極を接着しアンプ,送信機とともに同一面上に製作した.このとき使用した電気回路図をFigure 3(a)に示す.前段に用いた計装アンプは,回路の入力インピーダンスを増加させ,減衰なく神経電位を記録するためである.無線機にはFM送信機を用いた.搬送周波数は約80MHzであり市販のFM受信機によって神経電位波形が受信可能である.また,回路の駆動に必要な電圧は約3Vであった.この一体化した神経電位計測システム(重さ約0.1g)の写真をFigure 3(b)に示す.これを昆虫の背部に取り付け,行動下での神経電位無線計測をおこなった.

 実験にはワモンゴキブリを用いた.背部に計測システムを取り付け,腹部を切開して,電極を腹髄神経束に取り付けた.用いたゴキブリは中脚がなかったが,計測システムを搭載した状態で自由に歩行することができた(Figure 3(c)).結果,行動中の神経電位を無線で送信し計測することができた.この間,電極は神経から外れることなく固定されていた.得られた神経電位波形をFigure 3(e)に示す.静止時に比べ,歩行時は電位の振幅が大きくなる様子が観察された.以上の実験によって,本研究で製作した微小電極が,自由行動下の昆虫の神経電位計測に有効であることが示された.

Figure 3(a)神経電位計測用無線機の回路図.(b)電極と一体化した神経電位計測システム.(c)計測システムを搭載したワモンゴキブリ.(d)システムによって計測された自由行動下のゴキブリからの神経活動電位波形.

 本研究の結論を以下に記す.微小径の神経に低侵襲で電極を取り付けるには,神経を包囲する機構が適当である.この機構を一枚膜構造から製作する場合,梁の連結構造,曲梁構造を組み合わせたクリップ構造によって,神経への拘束性を向上できる.材質として用いた形状記憶合金薄膜は約20mAで動作可能で,形状回復温度が50℃であったがクリップ動作によって神経に熱的な侵襲を与えることはなかった.また,動的な微小デバイスである電極を既存のディスクリート部品と一体化するには,ポリイミドで製作した薄膜リボンケーブルによって連結する方法が有効であった.本研究を通して,神経電位計測システムを用いて自由行動中の昆虫から無線計測することで,製作した微小電極が行動下での神経電位計測に有効であることを示した.

審査要旨

 本論文は「微小電極を用いた昆虫の神経電位計測システム」と題し、4章からなっている。論文の目的は、昆虫の行動発現メカニズムを神経レベルで理解するために、自由行動下の昆虫から神経電位を計測できるシステムを実現することである。ここで提案する計測システムは、神経とのインタフェースとなる微小電極、行動を妨げないための無線送受信機、および電極と送信機を一体化するための柔軟な連結部で構成されている。このうち後者2つの要素に関しては、既存のデバイスを採用することができるため、本論文では特に微小電極について材質、機能、機構を検討し、MEMS(microelectromechanical systems)技術を用いて製作した。また、他の要素と一体化したシステムを昆虫に搭載し、行動下での神経電位を無線で計測する実験をおこなうことで、製作した微小電極を持つシステムが、行動下での昆虫の神経電位計測に有効であることを示している。

 第1章「序論」では、研究の目的、背景を述べた後、行動下での実験に必要な微小電極の機能として次の4つの項目を挙げている。1.神経に固定可能である。2.神経への取付けが容易である。3.神経に対して低侵襲である。4.体内への埋め込みが可能である。本研究では、これらの4つの機能を満たすために、微小電極に神経を包囲する構造およびマイクロアクチュエータを用いて神経に取り付ける機構を組み入れることにした。このときアクチュエータとしては、大変形及び低電圧駆動が可能で、材質自身が金属電極となり得る形状記憶合金薄膜を用いている。

 第2章「形状記憶合金薄膜を用いた微小電極の設計および製作」では、まず形状記憶合金薄膜(膜厚5ミクロン、変態点45℃(Mf)、49℃(As))を用いた神経包囲機構(クリップ機構)を製作している。薄膜の成膜には、スパッタ法を用いた。TiNi薄膜のパターニングに用いるフッ硝酸は、殆どの金属膜を腐食させるため、電極の構造は1枚膜から構成することにした。具体的には、梁の連結構造を考案し、これを駆動させることによって、神経を包囲することにした。このとき梁の駆動は次のように一方向に限定した。あらかじめ梁の連結構造を変形させ神経が挿入できるように開口部を形成させる。その後、神経を挿入し、通電加熱によって形状を回復させると、間に挟まった神経が固定される。このような一方向性の駆動でも、クリップ動作のような、結合を目的とする機構には十分である。また、従来から形状記憶合金アクチュエータとして考案されてきた拮抗機構やバイアス機構などに比べ、構造が単純化される利点がある。このクリップ機構に、神経電位抽出のための電極部として2本の曲梁構造を梁の連結構造の間に組み入れた。電極部を真直梁にせず曲梁構造にしたのは、同じ長さの梁に同じ力が加わったとき、曲梁の方が撓まないからである。この構造によって、神経の拘束力を向上させることができるとした。

 第3章「神経電位計測システムの構築および評価」では、まず製作した電極の神経に対する拘束性を調べている。その結果、一枚膜からの構造を用いた場合、梁の連結構造と曲粱構造の組み合わせによって拘束性を高めることができることを示している。また、通電加熱によるクリップ動作で神経への熱的な侵襲を電気生理学的な手法を用いて検討した結果、クリップ前後で問題なく電位が計測されたことから電気生理学的には熱的侵襲はないことを示している。次に、製作した微小電極が、自由行動下の昆虫の神経電位計測に適当であるか評価する実験をおこなっている。行動下での昆虫の行動を妨げないために、無線機を背部に搭載し、神経電位を無線で記録した。このとき、電極と無線機とを連結するケーブルは柔軟性に冨む必要があるため、ポリイミドのリボンケーブルを製作した。このケーブル(厚さ15ミクロン)に電極を接着しアンプ、送信機とともに同一面上に製作した。無線機にはFM送信機を用いた。市販のFM受信機によって神経電位波形を受信するために、搬送周波数は約80MHzに設定した。この一体化した神経電位計測システム(重さ約0.1g)を昆虫の背部に取り付け、行動下での神経電位無線計測をおこなった。結果、行動中の神経電位を無線で送信し計測することに成功している。この間、電極は神経から外れることなく固定されていた。またゴキブリが静止から歩行に移行するときに活動電位のインパルス頻度の増加が計測された。

 第4章「結論」では、以上で得られた結果をまとめ、本研究で構築した微小電極を持つシステムが、行動下での昆虫の神経電位計測に有効であることを示している。

 以上を要するに、本論文では、まず行動中に神経電位が計測可能な微小電極として4つの条件を提示し、それらの条件を満たす微小電極を設計・製作し、評価した。その結果、製作した微小電極を持つ神経電位計測システムが自由行動下での昆虫の神経電位計測に適用できることを示した。過去に自由行動下での無線神経電位計測が可能なシステムを実現した例はない。本研究では、そのために必要な微小電極の製作及び機構について明らかにしたという点で独創的なものといえる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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