論文審査結果の要旨 本論文は、今日の北朝鮮経済の低迷・破綻に至るプロセスとメカニズムを、比較体制論と開発論の枠組みを中心に、また歴史、および旧ソ連・東欧諸国や中国との国際比較の中で、ミクロとマクロの両面から総合的に捉えようとしたものである。それにより、北朝鮮社会主義の特殊性と普遍性を浮かび上がらせ、今日の北朝鮮経済がなぜ低迷するに至ったのか、またその破綻は究極的に何によってもたらされたかを明らかにしようと試みた。 本論文は、単に北朝鮮経済低迷の構造を叙述したものではなく、関連する日本語、韓国(朝鮮)語、英語の文献を渉猟し、開発論的視点からの数量分析と、比較制度分折を組み合わせながら、多角的、立体的に北朝鮮経済の発展・停滞過程とそのメカニズムを分析したもので、従来データの壁にも阻まれて必ずしも進展してこなかった、我が国における北朝鮮経済研究に新たな一頁を開いた、きわめて学術的価値の高い論文であるといえる。 論文の構成 本論文は次のような構成からなっている。 序章 課題、方法、資料 第1章 既存研究の検討 第2章 経済実績、初期条件、開発戦略 第3章 工業化の構造 第4章 企業の行動様式 第5章 経済開発と対外経済関係 第6章 制限的な「改革」・開放政策 終章 結論 附録 参考文献 論文の概要 以下、各章の内容を要約、紹介する。 序章では、本論文の研究課題、それに対する接近方法、そして本論文で用いられる資料とその限界が指摘される。すなわち、本論文における主たる研究課題とは、1)今日の北朝鮮経済の破綻に至るプロセスを体系的に解明すること、2)他の社会主義経済と比較して北朝鮮社会主義経済のどのような共通性やあるいは特殊性があるのかを探ること、以上2点である。またこれらの課題に対して著者は比較経済体制論、経済開発論、歴史、それに国際比較という4つのアプローチから複眼的に接近しようと試みる。とりわけ開発論的アプローチが主たるものであるが、その中でも初期条件や開発戦略よりも開発メカニズムに考察と分析の重点が置かれ、また経済実績では分配よりも経済成長が、開発メカニズムにかんするミクロ的考察にかんしては農業よりも工業にどちらかといえば焦点が当てられる。 第1章では、社会主義経済衰退にかんする研究と理解にかんする整理を行った後、北朝鮮経済にかんする既存研究のサーベイが行われ、資料の制約から学問的な、分析的な研究が少ないことが指摘されている。とくにこれまでは制度の叙述が大半であって、分析的研究、とくに経済システムの構造と機能を明らかにしようとする研究がほとんどなかった。 第2章では、北朝鮮の経済発展にとっての過去の遺産と初期条件を整理した後、経済開発戦略の骨格を要約している。またこれまでの各種の統計と推計を用いて、経済成長と食糧生産を中心とする開発実績の検討が行われ、経済成長率が長期的に見れば低下してきたことが明らかにされる。そうした経済実績に大きく関係していたのが開発戦略であるが、北朝鮮は多くの社会主義国と同様に、基本的にはソ連型の中央集権的計画経済体制を導入し、重工業優先発展路線を推進してきた。 第3章では、北朝鮮の工業化を巡るいくつかの側面の観察と分析が行われる。まず、工業化に伴う産業・雇用構造の変化を整理した後、生産性の動きと工業化への貢献、重工業優先発展戦略の成果、工業化と農業成長との関連について定量的分析が試みられてる。さらに資本蓄積メカニズムをさまざまな側面から考察している。そして他の社会主義経済と同じく「外延的成長パターン」により北朝鮮工業は成長してきたが、これもご多分に洩れず次第に非効率性が高まり、高蓄積が高成長に結びつくことなく、ついには低迷の罠にはまることになった。 第4章では、マクロ的な低効率性をミクロ的に説明すべく、北朝鮮企業の行動様式を分析する。とくに、旧ソ連や東欧諸国における国有企業の行動様式と比較しながら、北朝鮮の場合との程度「バーゲニング・モデル」により説明できるのか、著者がソウルでインタビューした「亡命者」からの情報を基にして試そうとしている。その結果、政府との垂直的なバーゲニングとともに、他の企業や個人との水平的なバーゲニングによって北朝鮮企業の大部分の行動様式が説明できることを発見する。こうした企業の行動様式は集権的計画経済の欠陥の表れでもあるが、北朝鮮の場合、「速度戦」に見られる計画そのものの無視、あるいは「主席フォンド」に象徴される特殊な「計画」の存在などが、外貨不足などのマクロ的要因以上に経済の低迷・悪化に拍車を掛けることになった。 第5章の「経済開発と対外貿易」では、まず北朝鮮の対外貿易の特徴をRCA(顕示的比較優位)指数や貿易特化係数などにより押さえる。次に経済成長と貿易との関係を「エンジン説」と「侍女説」のいずれか妥当するか、また外債の経済成長に及ぼす影響についてシムズのテストを用いた因果分析により明らかにし、どちらかといえばエンジン説が否定される。その上で北朝鮮において深刻になった対外累積債務を考察し、それが慢性的貿易赤字とともに、建国以来の借款償還の失敗によること、しかし広い意味では貿易と経済成長が有機的に結びついていなかったことこそが問題であったと結論付ける。具体的には北朝鮮の弱点の一つであるエネルギーを取り上げ、エネルギー輸入を中心にした貿易とマクロ経済との関係を検討し、北朝鮮経済が外部衝撃に脆弱な構造を作り上げていたことを実証している。 第6章の「制限的な改革・開放政策」においては、北朝鮮の制限的な改革開放政策を後付け、北朝鮮がなぜ中国などのように本格的な改革開放政策に踏み切れなかったのか、その原因を探っている。一つには改革開放が政治体制の変化をもたらしかねないと指導部が思いこんでいたこと、もう一つはそのことに大きく絡むが、改革開放が「絶対的首領」観を否定してしまうからである。 終章では、上述した本論文の2つの課題に対する著者の答えを整理してから、今後の研究課題について言及している。 評価と課題 2000年1月21日に行われた面接審査の結果をも踏まえ、審査員一同、以下のような結論を得るに至った。 本研究は、北朝鮮経済の発展と停滞にかんする我が国で初めてなされた本格的研究である。従来、北朝鮮経済にかんするイデオロギー的な論説、制度にかんする叙述的説明や紹介はなされてきた。また部分的な定量的研究も決してなかったわけでではない。しかし、本論文のように包括的に北朝鮮の経済発展過程を捉え、かつ経済開発論という一定の理論的枠組みのもとで多角的に実証しようという研究は、国際的に見ても希有といえる。とくに本論文における、乏しいデータを駆使しての経済発展過程にかんする定量的研究と、(以下に指摘するようにな限界があるとはいえ)亡命者に対するインタビュー記録に基づいた北朝鮮工業企業の行動様式にかんする定性的研究とは、我が国における北朝鮮経済研究の水準を高めたばかりではなく、社会主義経済の研究に対しても大きな刺激を与えるものとしてきわめて高く評価できる。 本研究によってはじめて明らかにされた事実、あるいは提起されることになった重要な研究課題・テーマ(ないしは仮説)、そして著者の貢献として、以下のような点が挙げられよう。 第1に、北朝鮮の1990年代以降の経済不振・低迷は必ずしも社会主義圏の「崩壊」によるものではないことを実証した点である。確かにソ連邦の崩壊→貿易市場の喪失→国内経済の低迷というロジックは働かないではなかった。しかし、第5章で実証されたように、北朝鮮における貿易は経済発展のエンジンというよりはむしろ「侍女」であった。したがって、貿易を通じた崩壊の伝播というロジックは、主要なものではなかった。 第2に、北朝鮮の経済体制がソ連型の中央集権的なものであることはよく知られているが、企業における行動様式が、基本的には旧ソ連におけるそれにも通じる「バーゲニング」型のものであり、計画課題達成のために企業と計画当局との間で相互非協力の交渉ゲームが展開されていること、またそうした交渉ゲームは水平的にも広範囲になされており、非公式な横のつながりがなければ公式的な計画メカニズムは動かないことが明らかにされたことである。とりわけこうした構造が亡命者に対するインタビュー情報を利用しつつ解明されたことは、著者の大きな貢献といえるであろう。かつて情報がきわめて限られていた毛沢東時代の中国を分析するのに、香港に流出してきた難民の情報を主としてアメリカの研究者たちが積極的に活用し、そこから新しい知見を得ることができたが、それに相当する作業を著者が北朝鮮に対して初めて実施したのである。 第3に、北朝鮮の開発戦略の多くが多分に毛沢東時代の中国のそれを模したものであることは従来指摘されてきたが、たとえば「大衆路線」や「自力更生」路線の中国との比較を行うことによって初めて北朝鮮の特殊性を浮かび上がらせるのに成功したことである。 そして第4に、北朝鮮経済の低迷のメカニズムにはじめて本格的にメスを入れ、複雑なメカニズムを説き明かす、仮説的にせよ一つの糸口を切り開いたことである。 もちろん、本論文には今後改善すべき点がないわけではない。たとえば、 1)北朝鮮研究に付き物の資料・データ問題は本研究を大きく制約している。たとえば、第4章で用いられた亡命者とのインタビュー記録はきわめて貴重なものであるが、これらの情報が果たしてどこまで信頼できるか、十分考慮する必要があるだろう。こうした情報には往々にして亡命者の主観による判断が混じる場合があり、より慎重な扱いが求められる。インタビューした亡命者も高々20名に過ぎず、彼らは地域、職場や地位もさまざまであって、彼らの情報から北朝鮮における企業と国家との関係や企業運営の特徴などを描くには、どうしてもある種の「バイアス」を避けることはできない。こうした欠陥を避けるために、一つにはより多くの亡命者を調査し、できるだけ情報量を多くし、客観性の水準を高めることが考えられる。 2)同じく、定量分析に用いられている韓国政府などによる北朝鮮経済のマクロ推計データは、そのほとんどが大腔な推計に依拠していると思われるだけに、その信頼性を裏付ける何らかの情報があってもよい。出来るならば、各種推計の根拠について説明があってもよかった。この点については、たとえば西側において最も徹底的に調査された旧ソ連の国民所得推計データと、ゴルバチョフ以後ロシアの経済学者によって明らかにされた「現実の国民所得統計」との違いが参考になるかも知れない。 3)北朝鮮の体制は、かくも非効率な経済体制と失敗した経済政策のもとでなぜ現在維持されているのか、より政治、社会学的側面をも取り入れた、より幅広い視点からこの体制存立のメカニズムを論じても良かったかも知れない。 とはいえ、上記の問題点は多少無い物ねだりの部分もあり、また今後の著者の研究に対する期待を込めてのものでもあって、決してこの論文の評価を変えるものでなく、総合的に判断すれば本論文の著者梁文秀氏は十分博士(経済学)学位を得るに値するものと、審査員一同判定する。 |