学位論文要旨



No 114894
著者(漢字) 神林,龍
著者(英字)
著者(カナ) カンバヤシ,リョウ
標題(和) 工女登録制度と等級賃金制度 : 製糸工女労働市場の形成
標題(洋)
報告番号 114894
報告番号 甲14894
学位授与日 2000.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第138号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩井,克人
 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 教授 佐藤,博樹
 法政大学 教授 尾高,煌之助
 学習院大学 助教授 玄田,有史
内容要旨

 19世紀末の日本では、製糸紡績を中心に産業革命が進展することにより製造業における労働需要が顕著な増大を示した。中村(1993)によると農林業従事者が1870年代以降停滞もしくは微減を示す一方、非農林業従事者は大きく成長を遂げた(p.35)。どのセクターでどの程度労働需要圧力が高まったのかという各論では論者によって力点の置き方に相違があるものの、全般的な傾向については共通の見解が形成されているといえよう。

 しかしながらこの急激に増大した労働需要は、立地や労働条件などの点で旧来農村に滞留していた労働力とすぐに結びついたわけではなかった。このことは隅谷(1963)や石井(1991)なぞをはじめとして古くから多くの研究者によって繰り返し指摘されてきた。あるいは、たとえば斎藤(1998)がまとめるように、明らかな労働需要圧力の存在にも関わらず、両大戦間期に至るまでマクロレベルでの実質賃金の上昇がそれほど顕著ではなかった点、そしてそれと同時にしばしばミクロレベルで労働者の争奪や頻繁な移動が並存した点にも反映されている(pp.19-20)。当時の労働市場は製造業を中心とした旺盛な労働需要に直ちに答える術をもたず、労働供給が短期的に固定される状況が生まれたと考えられよう。

 そのなかにあって需要の主体たる製造業者あるいは供給の主体たる世帯や労働者は手をこまねいているばかりではなかった。様々な制度や約束事を積極的に考案し、安定的な操業・就業を確保することに大きな努力を払ったのである。

 本稿の目的は、当時輸出産業の中であった長野県諏訪郡の器械製糸業を例にとり、人々がこの労働市場の「混乱」という課題をどのように解決し、そして19世紀末から20世紀初頭にかけて当地の労働市場がどのように安定したのかを考察することにある。具体的にはまず、19世紀末における状況を農村における労働供給に必要な固定費用の負担問題として捉え、これを解決し労働需要の安定に寄与したものとして工女登録制度と等級賃金制度というふたつの制度に着目する。さらに一次資料の吟味や統計的分析、理論モデルの構築などを通じて、このふたつの制度が相互に関係をもつことによって労働市場の安定が達成されたことを論証する。

 19世紀末の労働市場の混乱は、当時日本の製糸業の中心地であった諏訪地方も例外としなかった。彼の地では『職工事情』にも記された工女の頻繁な移動や引き抜きあいが経営に大きな影響を与えており、その対策は重大な問題になった。この引き抜きあいは、労働者を諏訪地方へ連れてくるための費用や工場労働へ馴致させるための費用などの先行投資が、労働者と事業者との二者間契約では法的に保護されえなかったことから生じたと考えられる。安定的な操業を確保するためには、、この先行投資を直接事業者相互で尊重しあう必要があった。そこで1903年、工場間に引き抜きを防止するためのカルテルがつくられたのである。これが製糸同盟の工女登録制度である。

 この工女登録制度を代表とする市場参加者の様々な努力の結果、20世紀初頭の諏訪地方において労働市場の安定が達成されたことは、いくつかの先行研究でも部分的にとり上げられている。本稿第1章では雇用創出・喪失分析(job creation and destruction analysis)を20世紀初頭約四半世紀について諏訪郡に限定して適用し、当時の労働市場の挙動を確認する。この手法の利点はマイクロデータを用いることで市場全体の雇用変動のあり方を特徴づけるところにあり、近年とみに利用されるようになった。第1章の分析では、輸出糸において世界的地位を確立したといわれる日露戦後期に、諏肪地方ではすでに安定的な労働市場が現出していたことが観察される。とくに労働移動の激しさと密接な関係をもつ雇用再配分率は、日露戦後一貫して、現代日本の製造業と比較しても遜色のないほど低位に安定しており,その意味で労働移動が穏やかになっていたことを示している。

 本稿は第1章で観察された労働市場の安定を、当時導入された諸制度、具体的には工女登録制度と等級賃金制度に帰着させて解釈するものである。

 そのために、第2章では『交渉録』や『取調筆記』を中心に工女登録制度の運用実態を整理する。その結果、この制度の実態は次の三点の特徴にまとめられる。(1)工女の帰属は原則として現在就業工場に決定され、「権利重複」に代表される手続き上の係争については実質的なサンクションはなかった、(2)[無権使用」に代表される違約行為については、明らかな隠蔽工作や偽装行為がない限りある程度のサンクションが課された、(3)さらに悪意の違約行為が明確な場合には適宜ペナルティーを調整していた。ゲーム理論の枠組みでこの特徴を解釈すると、工女登録制度は確かに、当時の労働市場の欠陥を補完するために労働需要側が起こした積極的なリアクションとして考えることができる。ただしこの種の協定は無条件で十全に機能するわけではない。情報が協定構成員のなかである程度流通すること、違反に対する処罰が現実的な大きさであること、などいくつかの条件が協定の成立には必要である。そのひとつに、労働者の自発的な移動を完全ではないにせよある程度抑制する必要がある、という条件がある。工女登録制度が有効に機能していたことを示す第1章や他の傍証も併せて考慮すると、何らかの他の制度をうまく利用し労働者の自発的な離職を抑制することで、製糸同盟はこの条件を満足できたのではないかという仮説が導かれる。

 この仮説を踏まえ、次の第3章では工女登録制度を機能させるもののひとつとして等級賃金制度に注目する。等級賃金制度とは明治期から大正期にかけての日本の製糸業に広くみられた賃金制度であり、一定期間内の全工女の平均作業成績に対する各工女の作業成績の相対的な優劣によって事後的に賃金を定める方法である。先行研究では(a)賃金総額を固定したままで工女間の競争を煽りたてて作業能率を引き上げた、(b)工女間の連帯意識の成長を妨げた、(c)「百円工女」といわれるような高額賃金二女をつくりだし募集の宣伝に利用した、(d)この賃金体系はマニュファクチュア独特のものであり、より品質が重要になる優等糸生産には不向きである、とまとめられている。このような先行研究の評価に対し、第3章では従来等閑視されていた、等級賃金制度が工女の離職行動に対して一定の影響をもったという重要な特性を考察する。具体的には、相対評価を用いる賃金体系が離職行動に及ぼす影響を考慮したモデルを構築し、等級賃金制度は能力の高い労働者にあえて有利な条件を提示することによって全体として離職を抑制する効果をもつことを論証する。さらにこの機能が20世紀初頭の諏訪において現実に確保されていたことを、笠原組『製糸計算簿』を用いて検証する。

 終章は本稿の結論で、それまでの3つの章を約して、供給側の離職を抑制する等級賃金制度と需要側の引き抜きを防止する工女登録制度によって、20世紀初頭の諏訪地方の製糸工女労働市場が形作られたとまとめる。

 概していえば、近代製造業の勃興に応じて急激に労働需要が生起するという状況のもとでは、労働供給は短期的に制約されざるをえなかった。その背後には農村に労働力を供給させるのに某かの固定費用を拠出しなければならない事情があり、その負担を巡って生じる争いを解決することが、労働市場の正常な運用に欠かせなかったのである。

 この近代産業部門への就業者の確保という問題はいくつかの側面を有している。

 ひとつは労働力の部門間移動という側面である。本稿でまとめた20世紀初頭における日本の経験は、労働者の産業間ないし地域間移動を考えるにあたって市場を補完する制度の役割を示した例であるといえよう。その意味で、現在の民間職業紹介の研究などに結びつく。

 いまひとつは就業者を確保する際に拠出された費用の保護という側面である。人的資本への投資という観点から考えると、20世紀末の現代では先行投資を保護する必要性は以前にも増して高まっている。しかしながら、現在は有効な方策がないがゆえに、熟練を企業内に封鎖することで対応しているといってよい。その結果、すでに蓄積されている熟練が有効に利用されない例や、熟練の蓄積そのものが進まないという例も散見される。約一世紀前の諏訪地方の工女登録制度は、民間労働需要者の取り決めによって問題を解決しようとした試みであった。その試みがどのように機能したのかをまとめたのが本稿である。本稿ではその成り立ちにおいていくつかの成立条件が必要であったこと、その条件が満たされるかは自明ではなかったことを明らかにした。20世紀初頭の諏訪地方では他の制度がうまく機能することによって、この自明ならざる条件を満足することができた。しかしその後現在に至るまで、工女登録制度のような労働者を直接取引する制度が一般にみられないことは、このような条件を満足する環境に欠けていることを示唆している。その最たるものは労働者保護法規の整備であろう。残念ながら本稿ではその関連に触れることができなかったが、その意味で、本稿の研究テーマは1920年代以降のいわゆる社会政策的介入と斯くの如き取引制度との関わり、すなわち現在の労働保護法制と労働力取引制度との関わりを研究する糸口と位置づけることができる。

審査要旨

 本論文は、日本戦前期の労働市場に関する理論的、歴史的、制度的な研究である。

 19世紀末の日本では、製糸紡績を中心に産業革命が進展することによって製造業における労働需要が顕著な増大を示した。だが、このような需要増大は、労働市場におけるさまざまな非効率性によって、旧来の農村に滞留していた余剰労働力を迅速に吸収したわけではなかった。たとえば当時の輸出産業の中心であった長野県諏訪地方の器械製糸業においては、工女の頻繁な移動や雇用主同士の引き抜き合戦などがおこり、労働市場を「混乱」させていたといわれている。本論文では、この「混乱」を、非熟練労働の供給に必要な移動費用や馴致費用などの負担に関する外部性の存在がもたらした非効率性ととらえ、その解決のための制度として諏訪地方の製糸業において成立した工女登録制度と等級賃金制度に着目する。そして、この二つの制度が相互に補完しあって、労働市場の安定性にどのように寄与したのかが、第一次資料の吟味や統計的分析、理論モデルの構築などを通じて、総合的に論証されている。

 本論文の構成は以下の通りである。

 序章 問題の設定

 第1章 戦前期日本の雇用創出

 第2章 工女登録制度

 第3章 賃金制度と離職行動

 終章 現代との繋がり...問題の地平

 以下では、各章の内容について、もう少し詳しい説明を試みる。

 序章において、この博士論文で解決すべき問題が設定されている。そのために、まず19世紀後半の諏訪器械製糸業における労働市場の「混乱」に関する当時の報告が紹介され、次にそれに対する従来の解釈が概説される。それは、基本的にアーサー・ルイス流の無制限労働供給状態における局所的な労働力不足問題として解釈するものである。これに対して、本論文では、両大戦間期にいたるまで労働需要はマクロ的には過小であったことを指摘し、この「混乱」は労働供給における固定費用をだれが負担すべきかについての争いであり、労働市場全体としての非効率性が存在したのだという主張を行うことが述べられている。それは同時に、この研究が、企業外で熟練形成する労働者の移動の活発化という問題に直面している現代の日本経済に対しても、一定の射程を持ちうることが示唆されている。

 第1章では、工女登録制度と等級賃金制度が労働市場の効率性をもたらしたという事実を確認するための基礎的な実証分析が行われる。そのために、著者はまず、『製絲工場調査表』と『全國器械製絲工場調』という一次資料に直接あたり、名寄せなどの作業を行って、長野県諏訪郡の器械製糸工場のパネルデータを独自に作成した。次に、そのパネルデータを使って、近年労働経済学の分野で多用されるようになった雇用創出喪失分析(job creation and destruction analysis)を行った。それによって見いだされた結果は、輸出糸において世界的地位を確立した日露戦後期に、すでに諏訪地方では安定的な労働市場が現出していたということである。とくに、労働移動の激しさの一つの指標である雇用再配分率は、日露戦後一貫して、現代日本の製造業と比較しても遜色ないほど低位に安定していたという興味深い事実が報告される。

 諏訪地方における製糸同盟は1903年に工場間での工女の引き抜きを防止するためのカルテルを形成した。それが工女登録制度である。第2章では、『交渉録』や『取調筆記』といった資料を使って、この工女登録制度の運用実態を整理し、その特徴を三つにまとめている。(1)「権利重複」に代表される手続き上の係争には工女1名と借権1名とを交換するかたちで解決され、実質的なサンクションはない、(2)「無権使用」に代表される違約行為については、工女1名と借権2名の交換というかたちのサンクションがあった、(3)悪意の違約行為が明確な場合には実質的なサンクションがあり、その程度に応じて懲罰の大きさを調整していた。この章では、非協力ゲーム理論の枠組みを使って、このような特徴を持つ工女登録制度が、不完全公的観測下の無限繰り返し囚人のジレンマの均衡戦略として解釈できることを示唆する。この場合、重要なのは、このような均衡が存在するためにはいくつかの条件が満たされていなければならないことであり、その一つに、工女の自発的な離職行動を一定程度抑制しなければならないという条件がある。この理論的な観察に基づき、本論文では、工女登録制度を非協力ゲームの均衡として成立させる補完的な制度として、等級賃金制度が機能したという視点をを提示する。

 第3章では、まさにこの等級賃金制度についての分析を行っている。等級賃金制度とは、明治期から大正期にかけての日本の製糸業に広く見られた制度であり、一定期間内の全工女の平均作業成績に対する各工女の作業成績の相対的な優劣によって事後的に賃金を定める方法である。従来の研究によるこの制度の評価は、(1)工女間の競争を煽り立てた、(2)工女間の連帯意識の成長を妨げた、(3)「百円工女」といわれるような高額賃金工女を作り出し募集の宣伝に利用した、(4)マニュファクチャ独特のものであり、高品質糸生産には不向きである、といったものであった。だが、本論文はこのような先行研究に対して、等級賃金制度は工女の離職行動を抑制する役割を果たしたという独自の仮説を提出する。そして、この仮説を論証するために、まずトーナメント理論とマッチング理論を組み合わせた二期間モデルを構築し、賃金の相対評価が労働者の離職行動にどのような影響を及ぼすかが分析される。分析の結果、等級賃金制度の下では、離職者の平均的な能力が低いと予想される場合には、労働者の自発的な離職が抑制され、実際に離職者の平均能力は全体の平均能力よりも低くなることが示される。さらに、岡谷市蚕糸博物館の『笠原組資料』を用いて、二〇世紀初頭の諏訪製糸業における工女の離職行動が、この理論的結果と整合的であることを計量経済学的に実証している。

 終章では、それまでの三つの章の結果を振り返り、供輸側の離職を抑制する等級賃金制度と需要側の引き抜きを防止する工女登録制度という二つの補完する制度の存在によって、二〇世紀初頭の諏訪地方の製糸工女労働市場が形成されたと結論づけている。そして最後に、この論文の分析結果が現代の労働市場の問題に対して持つインプリケーションが論じられ、今後の研究における展望が与えられている。

 以上で、この博士論文の内容の概説を試みた。第一章のもととなった研究は、雇用創出喪失分析に関する日本の研究のなかですでに評価を確立している研究である。自ら諏訪に行って一次資料にあたり、名寄せなどの作業を丹念に行って、統計的分析に耐えるパネルデータを作り上げ、さらにそのデータを使って統計的検証を行った著者の手腕と力量とは称賛に値するものであろう。また、工女登録制度を分析した第2章は、歴史的な資料の検討から出発して、理論的な分析と実証的な分析とを巧みに組み合わせており、著者が経済史の研究者としての資質も備えていることを示している。さらに、第3章においては、従来から数多くの研究の対象となってきた等級賃金制度にかんして著者独自の仮説を提示するだけでなく、その仮説を理論モデルを使って定式化し、計量分析的に論証していく手際も優れている。

 さらに全体を通じて、戦前期の諏訪地方の製糸工場群における雇用創出喪失の過程が、1990年代の日本全体における雇用創出喪過程とその性格を共有しているという発見は、重要であると思われる。現代日本の雇用機会の変動は、他の先進諸国に比べて少なく、従来の議論の多くは、その理由を日本企業の相対的に高密度な熟練形成に見出そうとしてきた。しかし、筆者の主張はそれと異なる。必ずしも企業内での熟練形成を要しない戦前諏訪地方の製糸業で同様な雇用変動の特徴が見出させることは、企業内熟練形成とは違う観点からの解釈および理論化の必要性を説いている。筆者の主張をより強固なものとするためには、諸外国の制度との比較を含んださらなる統計的吟味が必要であるだろうが、今後、雇用変動のあり方を議論する上での重要な争点となる可能性を含むものである。さらに、雇用創出における工場自体の開廃業の影響が重大であるという指摘もすぐれて現代的な意義を持つ。これまでの雇用研究は、暗黙のうちに既存企業における連続的な関数上での雇用調整が前提とされることが多かった。それに対して、実際の雇用変動は、企業自身の存廃による非連続的な調整が主であるとすれば、その解釈にも根本的な変更を強いることになるだろう。この点についても一層の研究進展を筆者に期待したい。

 しかしながら、この論文にも幾つかの問題点が残されている。大きな問題を適切に選び、それを歴史資料に照らして吟味しようとする接近法は意欲的であるが、仮説検定を厳密に実行しその結果を叙述することに専念した結果、いささか幅が狭いスタイルの論文になっている。労働経済学の仕事ではあっても、経済史の舞台を対象に選んだからには、仮説検証だけではなく当時の労慟市場の実態の経済史的理解の促進をも念頭にいれ、舞台背景の説明や臨場感の付与などの側面にもつとスペースが割かれてもよかったのではないか。また、労働経済学の分野に限っても、本論文で著者は従来のように企業の内部組織や技術条件を考えるだけでなく、労働者が市場にアクセスする装置を分析対象とする必要性を主張している。もちろん、ここでは非熟練労働を扱ってはいるが、工女登録制度や等級賃金制度などの市場アクセス装置が技能形成に関する制度に影響を与えたという面はないか、この点の議論が望まれた。さらに、製糸労働者は本当に非熟練労働者として扱ってよいのか、製糸労働の技術的な側面からの検討も望まれた。

 以上のような問題点があるが、本論文が博士論文に相応しい貢献をしていることは疑いがない。

 以上の評価を踏まえ、審査委員会は全員一致で、本提出論文について、博士(経済学)の授与に値するものであると判断した。

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